【密宗道次第廣論科目】 【卷】 【頁】 ᅟ(甲一)明唯佛教是求解脫之道 ᅟ一 ᅟ二 ᅟ(二)明入佛教次第不同諸門(分二) ᅟ一 ᅟ五 ᅟᅟ(乙一)總分諸乘(分四) ᅟ一 ᅟ五 ᅟᅟ (丙一)如何分別 ᅟ一 ᅟ五 ᅟᅟ (二)依何分別 ᅟ一 ᅟ六 ᅟᅟ (三)乘體不同(分二) ᅟ一 ᅟ六 ᅟᅟ  (丁一)小乘建立 ᅟ一 ᅟ六 ᅟᅟ  (二)大乘建立 ᅟ一 ᅟ一〇 ᅟᅟ (四)顯示一切皆是成佛支分 ᅟ一 ᅟ一一 ᅟᅟ(乙[A1]二)別釋大乘(分二) ᅟ一 ᅟ一三 ᅟᅟ (丙一)總分二種大乘(分三) ᅟ一 ᅟ一三 ᅟᅟ  (丁一)分數類 ᅟ一 ᅟ一三 ᅟᅟ  (二)釋名義 ᅟ一 ᅟ一三 ᅟᅟ  (三)明所以(分二) ᅟ一 ᅟ一六 ᅟᅟ   (戊一)敘他疑竇 ᅟ一 ᅟ一六 ᅟᅟ   (二)答釋彼疑(分二) ᅟ一 ᅟ一六 ᅟᅟ    (己一)破他計執 ᅟ一 ᅟ一六 ᅟᅟ    (二)安立善說(分二) ᅟ一 ᅟ一八 ᅟᅟ     (庚一)正明分別二乘之理(分三) ᅟ一 ᅟ一八 ᅟᅟ      (辛一)明正義 ᅟ一 ᅟ一八 ᅟᅟ      (二)出教證(分二) ᅟ一 ᅟ一九 ᅟᅟ       (壬一)無上瑜伽教中所說(分二) ᅟ一 ᅟ一九 ᅟᅟ        (癸一)續中所說 ᅟ一 ᅟ一九 ᅟᅟ        (二)釋論所說(分二) ᅟ一 ᅟ二二 ᅟᅟ         (子一)智足論中所說 ᅟ一 ᅟ二二 ᅟᅟ         (二)餘師論中所說 ᅟ二 ᅟ一 ᅟᅟ       (二)下三續部教中所說 ᅟ二 ᅟ三 ᅟᅟ      (三)斷諍論 ᅟ二 ᅟ五 ᅟᅟ     (庚二)明道有別果無勝劣(分二) ᅟ二 ᅟ七 ᅟᅟ      (辛一)解釋正義 ᅟ二 ᅟ七 ᅟᅟ      (二)釋道差別(分二) ᅟ二 ᅟ九 ᅟᅟ       (壬一)自宗所說之差別 ᅟ二 ᅟ九 ᅟᅟ       (二)餘師所說之差別(分二) ᅟ二 ᅟ九 ᅟᅟ        (癸一)律生釋中所說 ᅟ二 ᅟ九 ᅟᅟ        (二)三理炬中所說 ᅟ二 ᅟ一〇 ᅟᅟ (丙二)別說入金剛乘差別(分三) ᅟ二 ᅟ一四 ᅟᅟ  (丁一)明入密咒之異門 ᅟ二 ᅟ一四 ᅟᅟ  (二)明立異門之差別(分二) ᅟ二 ᅟ一四 ᅟᅟ   (戊一)問 ᅟ二 ᅟ一四 ᅟᅟ   (二)答(分二) ᅟ二 ᅟ一五 ᅟᅟ    (己一)明餘倒說 ᅟ二 ᅟ一五 ᅟᅟ    (二)出自正答 ᅟ二 ᅟ一七 ᅟᅟ  (三)明具差別之諸道(分二) ᅟ二 ᅟ二二 ᅟᅟ   (戊一)二種大乘共道次第 ᅟ二 ᅟ二二 ᅟᅟ   (戊二)金剛乘不共道次第(分三) ᅟ三 ᅟ一 ᅟᅟ    (己一)事行部道次第(分二) ᅟ三 ᅟ一 ᅟᅟ     (庚一)觀察二部有無自起及入智尊(分二) ᅟ三 ᅟ一 ᅟᅟ      (辛一)標列諸師所說 ᅟ三 ᅟ一 ᅟᅟ      (二)釋其應理之宗 ᅟ三 ᅟ四 ᅟᅟ    (二)別釋事行部道次第(分二) ᅟ三 ᅟ八 ᅟᅟ      (辛一)解釋攝道總頌 ᅟ三 ᅟ八 ᅟᅟ      (二)正釋道之次第(分二) ᅟ三 ᅟ一〇 ᅟᅟ       (壬一)事部道次第(分四) ᅟ三 ᅟ一〇 ᅟᅟ        (癸一)為成修道之器而行灌頂 ᅟ三 ᅟ一〇 ᅟᅟ        (二)成器已淨律儀及三昧耶 ᅟ三 ᅟ一〇 ᅟᅟ        (三)住三昧耶先應如何承事(分二) ᅟ三 ᅟ一三 ᅟᅟ         (子一)須承事之理 ᅟ三 ᅟ一三 ᅟᅟ         (二)承事之次第(分二) ᅟ三 ᅟ一四 ᅟᅟ          (丑一)有念誦靜慮(分三) ᅟ三 ᅟ一四 ᅟᅟ           (寅一)四支念誦靜慮之前行(分四) ᅟ三 ᅟ一五 ᅟᅟ            (卯一)先於房中所修 ᅟ三 ᅟ一五 ᅟᅟ            (二)出外沐浴入佛堂法 ᅟ三 ᅟ一六 ᅟᅟ            (三)著衣入座加持供物 ᅟ三 ᅟ一九 ᅟᅟ            (四)守護自身及其處所 ᅟ三 ᅟ二一 ᅟᅟ           (二)四支念誦靜慮之正修(分二) ᅟ三 ᅟ二三 ᅟᅟ            (卯一)四支念誦靜慮(分二) ᅟ三 ᅟ二三 ᅟᅟ             (辰一)自起為天 ᅟ三 ᅟ二四 ᅟᅟ             (二)前請智尊修供養等(分六) ᅟ四 ᅟ一 ᅟᅟ              ([A2]巳一)起所依處 ᅟ四 ᅟ一 ᅟᅟ              (二)請能依天 ᅟ四 ᅟ二 ᅟᅟ              (三)示印 ᅟ四 ᅟ四 ᅟᅟ              (四)供讚(分二) ᅟ四 ᅟ四 ᅟᅟ               (午一)供養 ᅟ四 ᅟ四 ᅟᅟ               (二)稱讚 ᅟ四 ᅟ六 ᅟᅟ              (五)行懺悔等 ᅟ四 ᅟ七 ᅟᅟ              (六)修四無量 ᅟ四 ᅟ八 ᅟᅟ            (卯二)依彼如何念誦(分三) ᅟ四 ᅟ九 ᅟᅟ             (辰一)預備數珠數念之法 ᅟ四 ᅟ九 ᅟᅟ             (二)緣何所緣念誦之法(分二) ᅟ四 ᅟ一〇 ᅟᅟ              (巳一)緣字形念誦(分二) ᅟ四 ᅟ一〇 ᅟᅟ               (午一)緣前尊心間字形 ᅟ四 ᅟ一〇 ᅟᅟ               (二)緣自心間字形 ᅟ四 ᅟ一一 ᅟᅟ              (二)緣字聲念誦 ᅟ四 ᅟ一二 ᅟᅟ              (三)遇障重修念誦之法 ᅟ四 ᅟ一四 ᅟᅟ           (寅三)四支念誦靜慮之後行 ᅟ四 ᅟ一五 ᅟᅟ          (丑二)不待念誦靜慮(分二) ᅟ四 ᅟ一七 ᅟᅟ           (寅一)釋住火及聲靜慮 ᅟ四 ᅟ一七 ᅟᅟ           (二)釋聲後靜慮(分二) ᅟ四 ᅟ一九 ᅟᅟ            (卯一)放捨住聲次第 ᅟ四 ᅟ一九 ᅟᅟ            (二)正釋聲後靜慮 ᅟ四 ᅟ二三 ᅟᅟ        (癸四)得堪能[A3]已如何修習成就 ᅟ四 ᅟ二五 ᅟᅟ       (壬二)行部道次第(分四) ᅟ五 ᅟ一 ᅟᅟ        (癸一)為成修道之器而行灌頂 ᅟ五 ᅟ一 ᅟᅟ        (二)成道器已淨三昧耶及律儀 ᅟ五 ᅟ一 ᅟᅟ        (三)住三昧耶先應如何承事(分二) ᅟ五 ᅟ二 ᅟᅟ         (子一)分別瑜伽 ᅟ五 ᅟ二 ᅟᅟ         (二)別釋其義(分二) ᅟ五 ᅟ三 ᅟᅟ          (丑一)釋有相瑜伽(分二) ᅟ五 ᅟ三 ᅟᅟ           (寅一)外四支念誦 ᅟ五 ᅟ三 ᅟᅟ           (二)內四支念誦 ᅟ五 ᅟ六 ᅟᅟ          (二)釋無相瑜伽 ᅟ五 ᅟ六 ᅟᅟ        (四)善承事[A4]已應如何修成就 ᅟ五 ᅟ九 ᅟᅟ    (己二)瑜伽部道次第(分二) ᅟ五 ᅟ一〇 ᅟᅟ     (庚一)經中所說 ᅟ五 ᅟ一〇 ᅟᅟ     (庚二)修彼次第(分四) ᅟ五 ᅟ一四 ᅟᅟ      (辛一)為成修道之器而行灌頂 ᅟ五 ᅟ一四 ᅟᅟ      (二)成器[A5]已淨三昧耶及律儀 ᅟ五 ᅟ一四 ᅟᅟ      (三)住三昧耶應先如何承事(分二) ᅟ五 ᅟ一五 ᅟᅟ       (壬一)有相瑜伽(分二) ᅟ五 ᅟ一五 ᅟᅟ        (癸一)緣粗天身四座瑜伽(分二) ᅟ五 ᅟ一五 ᅟᅟ         (子一)四座修法(分二) ᅟ五 ᅟ一五 ᅟᅟ          (丑一)唯得弟子灌頂之四座瑜伽 ᅟ五 ᅟ一六 ᅟᅟ          (二)得阿闍黎灌頂之四座瑜伽 ᅟ五 ᅟ一八 ᅟᅟ         (子二)不能時如何修 ᅟ五 ᅟ二〇 ᅟᅟ        (癸二)緣細標幟四座瑜伽(分三) ᅟ五 ᅟ二一 ᅟᅟ         (子一)修習細相之所為事 ᅟ五 ᅟ二一 ᅟᅟ         (二)由緣細相令心堅固 ᅟ五 ᅟ二一 ᅟᅟ         (三)得堅固[A6]已修收放等 ᅟ五 ᅟ二三 ᅟᅟ       (壬二)無相瑜伽(分三) ᅟ五 ᅟ二四 ᅟᅟ        (癸一)攝真實所說 ᅟ五 ᅟ二四 ᅟᅟ        (二)釋續中所說(分四) ᅟ五 ᅟ二五 ᅟᅟ         (子一)佛部修法 ᅟ五 ᅟ二六 ᅟᅟ         (二)金剛部修法 ᅟ五 ᅟ二六 ᅟᅟ         (三)寶部修法 ᅟ五 ᅟ二七 ᅟᅟ         (四)蓮華部修法 ᅟ五 ᅟ二七 ᅟᅟ        (三)略說修法 ᅟ五 ᅟ二八 ᅟᅟ      (辛四)善承事已應如何修悉地(分三) ᅟ六 ᅟ一 ᅟᅟ       (壬一)由靜慮修悉地法 ᅟ六 ᅟ一 ᅟᅟ       (二)由念誦修悉地法 ᅟ六 ᅟ四 ᅟᅟ       (三)由護摩修悉地法 ᅟ六 ᅟ六 ᅟᅟ    (己三)無上瑜伽部道次第(分三) ᅟ六 ᅟ七 ᅟᅟ     (庚一)攝道之總聚 ᅟ六 ᅟ七 ᅟᅟ     (二)釋道之次第 ᅟ六 ᅟ一〇 ᅟᅟ     (三)釋次第之道(分四) ᅟ六 ᅟ一二 ᅟᅟ      (辛一)成就修道法器(分四) ᅟ六 ᅟ一二 ᅟᅟ       (壬一)聞修咒道定須灌頂 ᅟ六 ᅟ一二 ᅟᅟ       (二)灌頂師資須互相察(分二) ᅟ六 ᅟ一六 ᅟᅟ        (癸一)不觀察之過失 ᅟ六 ᅟ一六 ᅟᅟ        (二)善觀察之方便 ᅟ六 ᅟ一七 ᅟᅟ       (三)觀知其可勸請承事(分三) ᅟ六 ᅟ二〇 ᅟᅟ        (癸一)弟子勸請 ᅟ六 ᅟ二〇 ᅟᅟ        (二)師長守護 ᅟ六 ᅟ二〇 ᅟᅟ        (三)先修承事 ᅟ六 ᅟ二三 ᅟᅟ       (四)承事[A7]已灌頂之次第(分二) ᅟ七 ᅟ一 ᅟᅟ        (癸一)明作法之時 ᅟ七 ᅟ一 ᅟᅟ        (二)作法之次第(分二) ᅟ七 ᅟ二 ᅟᅟ         (子一)正作灌頂儀軌次第(分三) ᅟ七 ᅟ二 ᅟᅟ          (丑一)地儀軌(分六) ᅟ七 ᅟ三 ᅟᅟ           (寅一)觀地 ᅟ七 ᅟ三 ᅟᅟ           (二)乞地 ᅟ七 ᅟ五 ᅟᅟ           (三)淨地(分三) ᅟ七 ᅟ六 ᅟᅟ            (卯一)由掘淨地(分二) ᅟ七 ᅟ六 ᅟᅟ             (辰一)為淨地刺而掘 ᅟ七 ᅟ六 ᅟᅟ             (二)為觀蟒神而掘(分三) ᅟ七 ᅟ八 ᅟᅟ              (巳一)觀蟒神行住之理 ᅟ七 ᅟ八 ᅟᅟ              (二)知己應如何掘法 ᅟ七 ᅟ一〇 ᅟᅟ              (三)掘地好惡之德失 ᅟ七 ᅟ一一 ᅟᅟ            (二)由物咒定三法淨地 ᅟ七 ᅟ一二 ᅟᅟ            (三)由無上清淨淨地 ᅟ七 ᅟ一四 ᅟᅟ           (寅四)攝地(分三) ᅟ七 ᅟ一五 ᅟᅟ            (卯一)修天瑜伽啟白舉壇 ᅟ七 ᅟ一五 ᅟᅟ            (二)起持天慢誡刺魔碍 ᅟ七 ᅟ一六 ᅟᅟ            (三)作天步法及例外事 ᅟ七 ᅟ一九 ᅟᅟ           (寅五)守護加持(分二) ᅟ七 ᅟ二二 ᅟᅟ            (卯一)先起為天鈎召魔碍 ᅟ七 ᅟ二二 ᅟᅟ            (二)以金剛橛釘所召魔(分二) ᅟ七 ᅟ二三 ᅟᅟ             (辰一)橛及生起儀軌 ᅟ七 ᅟ二三 ᅟᅟ             (二)釘橛法及其他 ᅟ七 ᅟ二五 ᅟᅟ           (寅六)餘處餘壇須否儀軌 ᅟ七 ᅟ二六 ᅟᅟ          (丑二)預備儀軌(分三) ᅟ八 ᅟ一 ᅟᅟ           (寅一)預備總建立 ᅟ八 ᅟ一 ᅟᅟ           (寅二)各別預備儀軌(分五) ᅟ八 ᅟ三 ᅟᅟ            (卯一)地神預備 ᅟ八 ᅟ三 ᅟᅟ            (二)諸尊預備(分二) ᅟ八 ᅟ五 ᅟᅟ             (辰一)為定天處故彈線(分四) ᅟ八 ᅟ六 ᅟᅟ              (巳一)彈線曼陀羅之量 ᅟ八 ᅟ六 ᅟᅟ              (二)彈線次第與時間 ᅟ八 ᅟ六 ᅟᅟ              (三)彈羯摩線之次第(分二) ᅟ八 ᅟ一一 ᅟᅟ               (午一)預備繩線 ᅟ八 ᅟ一一 ᅟᅟ               (二)彈線之法(分二) ᅟ八 ᅟ一二 ᅟᅟ                (未一)彈曼陀羅外線法(分二) ᅟ八 ᅟ一二 ᅟᅟ                 (申一)彈二派共同線法 ᅟ八 ᅟ一二 ᅟᅟ                 (二)彈二派各別線法 ᅟ八 ᅟ一八 ᅟᅟ                (未二)彈曼陀羅內線法 ᅟ八 ᅟ二四 ᅟᅟ              (巳四)釋所彈諸線之義(分二) ᅟ九 ᅟ一 ᅟᅟ               (午一)釋曼陀羅外線義(分二) ᅟ九 ᅟ一 ᅟᅟ                (未一)釋圓線及牌樓線義(分二) ᅟ九 ᅟ一 ᅟᅟ                 (申一)釋圓線及杵股線義 ᅟ九 ᅟ一 ᅟᅟ                 (二)釋牌樓線義 ᅟ九 ᅟ五 ᅟᅟ                (未二)釋垛線至墻線義(分二) ᅟ九 ᅟ九 ᅟᅟ                 (申一)釋墻線義 ᅟ九 ᅟ九 ᅟᅟ                 (二)釋磚線至垛線義 ᅟ九 ᅟ一三 ᅟᅟ               (午二)釋曼陀羅內線義 ᅟ九 ᅟ一六 ᅟᅟ             (辰二)應如何修天預備 ᅟ九 ᅟ一九 ᅟᅟ            (卯三)瓶預備(分四) ᅟ九 ᅟ二一 ᅟᅟ             (辰一)明瓶之因量數 ᅟ九 ᅟ二一 ᅟᅟ             (二)瓶物及畫相法 ᅟ九 ᅟ二二 ᅟᅟ             (三)如何陳設諸瓶 ᅟ九 ᅟ二六 ᅟᅟ             (四)修瓶法及支分 ᅟ九 ᅟ二七 ᅟᅟ            (卯四)啟白諸尊 ᅟ一〇 ᅟ一 ᅟᅟ            (五)弟子預備(分四) ᅟ一〇 ᅟ二 ᅟᅟ             (辰一)四門阿闍黎與業金剛預備 ᅟ一〇 ᅟ二 ᅟᅟ             (二)弟子預備數及次第 ᅟ一〇 ᅟ三 ᅟᅟ             (三)正弟子預備儀軌(分五) ᅟ一〇 ᅟ四 ᅟᅟ              (巳一)教正法起傳內灌頂 ᅟ一〇 ᅟ四 ᅟᅟ              (二)請白令持 ᅟ一〇 ᅟ六 ᅟᅟ              (三)受戒加持 ᅟ一〇 ᅟ八 ᅟᅟ              (四)令投齒木及三水等 ᅟ一〇 ᅟ一四 ᅟᅟ              (五)慰勵守護觀察夢相 ᅟ一〇 ᅟ一七 ᅟᅟ             (辰四)舉昇曼陀羅夢相吉凶應如何行 ᅟ一〇 ᅟ一八 ᅟᅟ           (寅三)餘曼陀羅預備 ᅟ一〇 ᅟ一九 ᅟᅟ          (丑三)正行儀軌(分三) ᅟ一〇 ᅟ二〇 ᅟᅟ           (寅一)彈智線分彩法(分三) ᅟ一〇 ᅟ二〇 ᅟᅟ            (卯一)彈智線(分二) ᅟ一〇 ᅟ二〇 ᅟᅟ             (辰一)預備智線 ᅟ一〇 ᅟ二〇 ᅟᅟ             (二)正彈次第及送往法 ᅟ一〇 ᅟ二二 ᅟᅟ            (卯二)分彩儀軌(分四) ᅟ一一 ᅟ一 ᅟᅟ             (辰一)預備彩色拔所釘橛 ᅟ一一 ᅟ一 ᅟᅟ             (二)師資分彩法 ᅟ一一 ᅟ二 ᅟᅟ             (三)明曼陀羅分繪彩處(分二) ᅟ一一 ᅟ七 ᅟᅟ              (巳一)曼陀羅外分繪彩處 ᅟ一一 ᅟ七 ᅟᅟ              (二)曼陀羅內分繪彩處 ᅟ一一 ᅟ九 ᅟᅟ              (四)於曼陀羅安立標幟送往智色 ᅟ一一 ᅟ一〇 ᅟᅟ            (卯三)繪壇辟魔 ᅟ一一 ᅟ一二 ᅟᅟ           (寅二)安諸瓶飾壇場(分二) ᅟ一一 ᅟ一二 ᅟᅟ            (卯一)安布諸瓶 ᅟ一一 ᅟ一二 ᅟᅟ            (二)嚴飾壇場 ᅟ一一 ᅟ一三 ᅟᅟ           (寅三)修行供養灌頂(分二) ᅟ一一 ᅟ一五 ᅟᅟ            (卯一)修行供養(分二) ᅟ一一 ᅟ一五 ᅟᅟ             (辰一)修曼陀羅(分二) ᅟ一一 ᅟ一五 ᅟᅟ              (巳一)修彩土曼陀羅法 ᅟ一一 ᅟ一五 ᅟᅟ              (二)修其餘曼陀羅法 ᅟ一一 ᅟ一九 ᅟᅟ             (辰二)供曼陀羅(分二) ᅟ一一 ᅟ二四 ᅟᅟ              (巳一)正作供養(分二) ᅟ一一 ᅟ二四 ᅟᅟ               (午一)內供養諸尊(分二) ᅟ一一 ᅟ二四 ᅟᅟ                (未一)總供養次第 ᅟ一一 ᅟ二四 ᅟᅟ                (二)別釋供閼伽法 ᅟ一一 ᅟ二五 ᅟᅟ               (二)外施諸食 ᅟ一一 ᅟ二七 ᅟᅟ              (巳二)息增滅過旋繞開門 ᅟ一一 ᅟ二九 ᅟᅟ            (卯二)灌頂儀軌(分二) ᅟ一二 ᅟ一 ᅟᅟ             (辰一)自入壇請悉地諦語加持(分二) ᅟ一二 ᅟ一 ᅟᅟ              (巳一)入壇灌頂請其聽許 ᅟ一二 ᅟ一 ᅟᅟ              (二)請求悉地諦語加持 ᅟ一二 ᅟ四 ᅟᅟ             (二)為他灌頂儀軌(分二) ᅟ一二 ᅟ七 ᅟᅟ              (巳一)為弟子灌頂成法器儀軌(分三) ᅟ一二 ᅟ七 ᅟᅟ               (午一)灌頂儀軌(分二) ᅟ一二 ᅟ七 ᅟᅟ                (未一)依彩繪曼陀羅灌頂儀軌(分五) ᅟ一二 ᅟ七 ᅟᅟ                 (申一)入曼陀羅(分二) ᅟ一二 ᅟ七 ᅟᅟ                  (酉一)遮面入壇(分二) ᅟ一二 ᅟ八 ᅟᅟ                   (戌一)入幔帳外 ᅟ一二 ᅟ八 ᅟᅟ                   (二)入幔帳內(分三) ᅟ一二 ᅟ一二 ᅟᅟ                    (亥一)入壇繞禮 ᅟ一二 ᅟ一二 ᅟᅟ                    (二)立三昧耶 ᅟ一二 ᅟ一六 ᅟᅟ                    (三)降智諦語 ᅟ一二 ᅟ一九 ᅟᅟ                  (酉二)見壇而入 ᅟ一二 ᅟ二三 ᅟᅟ                 (申二)入後灌頂(分四) ᅟ一三 ᅟ一 ᅟᅟ                  (酉一)瓶灌頂(分二) ᅟ一三 ᅟ一 ᅟᅟ                   (戌一)金剛弟子共灌頂(分二) ᅟ一三 ᅟ一 ᅟᅟ                    (亥一)五種灌頂共同建立 ᅟ一三 ᅟ一 ᅟᅟ                    (二)各別建立(分二) ᅟ一三 ᅟ六 ᅟᅟ                     (乾一)水灌頂儀軌(分二) ᅟ一三 ᅟ六 ᅟᅟ                      (坎一)祈請清淨 ᅟ一三 ᅟ六 ᅟᅟ                      (二)傳水灌頂 ᅟ一三 ᅟ八 ᅟᅟ                     (二)餘灌頂儀軌 ᅟ一三 ᅟ一一 ᅟᅟ                   (戌二)金剛阿闍黎不共灌 ᅟᅟ                    頂(分二) ᅟ一三 ᅟ一五 ᅟᅟ                    (亥一)阿闍黎灌頂建立 ᅟ一三 ᅟ一五 ᅟᅟ                    (二)阿闍黎灌頂儀 ᅟᅟ                     軌(分二) ᅟ一三 ᅟ一〇 ᅟᅟ                      (乾一)阿闍黎灌 ᅟᅟ                       頂(正儀軌分二) ᅟ一三 ᅟ一九 ᅟᅟ                       (坎一)授三三昧耶 ᅟ一三 ᅟ一九 ᅟᅟ                       (二)受三昧耶開 ᅟᅟ                        示真實 ᅟ一三 ᅟ二二 ᅟᅟ                      (二)彼後依儀軌 ᅟ一三 ᅟ二四 ᅟᅟ                  (酉二)密灌頂 ᅟ一三 ᅟ二八 ᅟᅟ                  (三)慧智灌頂(分二) ᅟ一四 ᅟ一 ᅟᅟ                   (戌一)明慧智灌頂 ᅟ一四 ᅟ一 ᅟᅟ                   (二)明第三灌頂之智(分二) ᅟ一四 ᅟ三 ᅟᅟ                    (亥一)正義 ᅟ一四 ᅟ三 ᅟᅟ                    (二)斷諍 ᅟ一四 ᅟ九 ᅟᅟ                  (酉四)第四灌頂(分二) ᅟ一四 ᅟ一一 ᅟᅟ                   (戌一)餘經規(分二) ᅟ一四 ᅟ一一 ᅟᅟ                    (亥一)明第四灌頂 ᅟ一四 ᅟ一一 ᅟᅟ                    (二)第四灌 ᅟᅟ                     頂(之語六何表示) ᅟ一四 ᅟ一四 ᅟᅟ                   (戌二)時論規 ᅟ一四 ᅟ一九 ᅟᅟ                 (申三)灌頂後法(分二) ᅟ一四 ᅟ二三 ᅟᅟ                  (酉一)禁行授記 ᅟ一四 ᅟ二三 ᅟᅟ                  (二)隨喜慶慰 ᅟ一四 ᅟ二七 ᅟᅟ                 (申四)釋灌頂義(分二) ᅟ一五 ᅟ一 ᅟᅟ                  (酉一)解釋灌頂及後依義(分二) ᅟ一五 ᅟ一 ᅟᅟ                   (戌一)釋初瓶灌頂及後依義 ᅟ一五 ᅟ一 ᅟᅟ                   (二)釋上三灌頂及後依義 ᅟ一五 ᅟ四 ᅟᅟ                    (二)以灌頂義配道次 ᅟ一五 ᅟ八 ᅟᅟ                 (申五)釋後法理灌頂開合 ᅟ一五 ᅟ一二 ᅟᅟ                (未二)依止餘曼陀羅灌頂斷疑 ᅟ一五 ᅟ一五 ᅟᅟ               (午二)犯三昧耶還淨法 ᅟ一五 ᅟ一七 ᅟᅟ               (午三)曼陀羅後法 ᅟ一五 ᅟ二〇 ᅟᅟ              (巳二)為天灌頂善住儀軌 ᅟ一五 ᅟ二四 ᅟᅟ         (子二)灌頂支分儀軌次第 ᅟ一五 ᅟ二四 ᅟᅟ      (辛二)淨三昧耶律儀 ᅟ一五 ᅟ二五 ᅟᅟ      (辛三)住彼如何修道(分二) ᅟ一五 ᅟ二七 ᅟᅟ       (壬一)聞思了知其道 ᅟ一五 ᅟ二七 ᅟᅟ       (壬二)修習所知之義(分四) ᅟ一六 ᅟ一 ᅟᅟ        (癸一)破離二次第之妄說(分二) ᅟ一六 ᅟ一 ᅟᅟ         (子一)破離圓滿次第唯說生起次第成佛(分二) ᅟ一六 ᅟ一 ᅟᅟ          (丑一)述宗 ᅟ一六 ᅟ一 ᅟᅟ          (二)破執 ᅟ一六 ᅟ二 ᅟᅟ         (子二)破離生起次第說唯圓滿次第成佛(分二) ᅟ一六 ᅟ四 ᅟᅟ          (丑一)述宗 ᅟ一六 ᅟ四 ᅟᅟ          (二)破執(分二) ᅟ一六 ᅟ五 ᅟᅟ           (寅一)正破 ᅟ一六 ᅟ五 ᅟᅟ           (二)斷諍 ᅟ一六 ᅟ一〇 ᅟᅟ        (癸二)不離二次第之修法(分四) ᅟ一六 ᅟ一六 ᅟᅟ         (子一)二次第之名義 ᅟ一六 ᅟ一六 ᅟᅟ         (子二)次第之數量 ᅟ一六 ᅟ二〇 ᅟᅟ         (子三)二次第之次第 ᅟ一六 ᅟ二一 ᅟᅟ         (子四)二次第之修學(分二) ᅟ一七 ᅟ一 ᅟᅟ          (丑一)學生起次第(分二) ᅟ一七 ᅟ一 ᅟᅟ           (寅一)總立生起次第(分三) ᅟ一七 ᅟ一 ᅟᅟ            (卯一)生起次第之對治(分二) ᅟ一七 ᅟ一 ᅟᅟ             (辰一)明所斷事顯破彼理 ᅟ一七 ᅟ一 ᅟᅟ             (一)明修顯事及安住規(分三) ᅟ一七 ᅟ三 ᅟᅟ              (巳一)修幾現觀 ᅟ一七 ᅟ三 ᅟᅟ              (二)修顯了法 ᅟ一七 ᅟ八 ᅟᅟ              (三)修安住法(分二) ᅟ一七 ᅟ一一 ᅟᅟ               (午一)於初二位修微細點 ᅟ一七 ᅟ一一 ᅟᅟ               (二)於第三位修微細點 ᅟ一七 ᅟ一六 ᅟᅟ            (卯二)生起次第之差別(分二) ᅟ一七 ᅟ一八 ᅟᅟ             (辰一)明四支與四種瑜伽之總頌 ᅟ一七 ᅟ一八 ᅟᅟ             (二)明三支與三三摩地之總頌 ᅟ一七 ᅟ二二 ᅟᅟ            (卯三)爾時云何修空性 ᅟ一八 ᅟ一 ᅟᅟ           (寅二)別釋現觀次第(分三) ᅟ一八 ᅟ五 ᅟᅟ            (卯一)修時之瑜伽(分三) ᅟ一八 ᅟ五 ᅟᅟ             (辰一)瑜伽加行(分二) ᅟ一八 ᅟ五 ᅟᅟ              (巳一)成順緣集積資糧 ᅟ一八 ᅟ五 ᅟᅟ              (巳二)除違緣修守護輪 ᅟ一八 ᅟ一一 ᅟᅟ             (辰二)瑜伽正行及其支分(分三) ᅟ一八 ᅟ一三 ᅟᅟ              (巳一)生所依宮殿 ᅟ一八 ᅟ一三 ᅟᅟ              (二)生能依諸尊(分三) ᅟ一八 ᅟ一六 ᅟᅟ               (午一)正生天法(分三) ᅟ一八 ᅟ一六 ᅟᅟ                (未一)依止五相生起法 ᅟ一八 ᅟ一六 ᅟᅟ                (二)化後歌勸生起法 ᅟ一八 ᅟ一九 ᅟᅟ               (二)以所淨事配能淨道 ᅟ一八 ᅟ一九 ᅟᅟ               (三)攝諸要義 ᅟ一八 ᅟ二五 ᅟᅟ              (三)圓滿之支分(分二) ᅟ一九 ᅟ一 ᅟᅟ               (午一)召入智尊證供讚 ᅟ一九 ᅟ一 ᅟᅟ               (二)賞甘露味修念誦法 ᅟ一九 ᅟ五 ᅟᅟ             (辰三)結行(分二) ᅟ一九 ᅟ一〇 ᅟᅟ              (巳一)養身修食法 ᅟ一九 ᅟ一〇 ᅟᅟ              (二)修天供養法 ᅟ一九 ᅟ一五 ᅟᅟ            (卯二)中間之瑜伽 ᅟ一九 ᅟ一九 ᅟᅟ            (三)安立彼瑜伽為廣大之理 ᅟ一九 ᅟ二一 ᅟᅟ          (丑二)學圓滿次第(分二) ᅟ二〇 ᅟ一 ᅟᅟ           (寅一)圓滿次第總相建立(分二) ᅟ二〇 ᅟ一 ᅟᅟ            (卯一)父續圓滿次第之建立(分二) ᅟ二〇 ᅟ一 ᅟᅟ             (辰一)龍猛派圓滿次第之建立(分三) ᅟ二〇 ᅟ一 ᅟᅟ              (巳一)明二諦別之圓滿次第 ᅟ二〇 ᅟ一 ᅟᅟ              (二)明三遠離之圓滿次第 ᅟ二〇 ᅟ六 ᅟᅟ             (辰二)智足派圓滿次第之建立 ᅟ二〇 ᅟ九 ᅟᅟ            (卯二)母續圓滿次第之建立 ᅟ二〇 ᅟ一三 ᅟᅟ             (辰一)時輪派之圓滿次第(分三) ᅟ二〇 ᅟ一三 ᅟᅟ              (巳一)明所得之樂空無別 ᅟ二〇 ᅟ一三 ᅟᅟ              (二)决定修彼道之數量次第 ᅟ二〇 ᅟ一八 ᅟᅟ              (三)別釋不變之樂(分二) ᅟ二〇 ᅟ二一 ᅟᅟ               (午一)明由不變妙樂證無我理 ᅟ二〇 ᅟ二一 ᅟᅟ               (二)破以全無思取為時輪軌 ᅟ二〇 ᅟ二三 ᅟᅟ             (辰二)諸餘派之圓滿次第(分二) ᅟ二一 ᅟ一 ᅟᅟ              (巳一)勝樂金剛之圓滿次第 ᅟ二一 ᅟ一 ᅟᅟ              (巳二)歡喜金剛之圓滿次第 ᅟ二一 ᅟ九 ᅟᅟ           (寅二)圓滿次第最初所修(分三) ᅟ二一 ᅟ一二 ᅟᅟ            (卯一)明修行所依之脈風(分二) ᅟ二一 ᅟ一二 ᅟᅟ             (辰一)釋脈 ᅟ二一 ᅟ一二 ᅟᅟ             (二)釋風 ᅟ二一 ᅟ一九 ᅟᅟ            (二)如何專住(分二) ᅟ二一 ᅟ二四 ᅟᅟ             (辰一)風瑜伽 ᅟ二一 ᅟ二四 ᅟᅟ             (辰二)火瑜伽 ᅟ二二 ᅟ一 ᅟᅟ            (卯三)依此修空性法 ᅟ二二 ᅟ五 ᅟᅟ        (癸三)增進二次第之方便 ᅟ二二 ᅟ一二 ᅟᅟ        (四)彼第為三士道之理 ᅟ二二 ᅟ一三 ᅟᅟ      (辛四)現證所修之果 ᅟ二二 ᅟ一七 ᅟᅟ==[A1] 二【CB】,一【補編】== ᅟᅟ==[A2] 巳【CB】,己【補編】== ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,己【補編】== ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,己【補編】== 密宗道次第廣論卷一(原名 勝徧主大金剛持道次第開顯一切密要論) 宗喀巴大師造 法尊法師譯 總明入聖教次第不同諸門品第一之一 一切生中,以大恭敬稽首歸依諸善尊長及至尊妙音足蓮。 恭敬頂戴師足蓮  哀愍正授無垢道  著有滯滅衰能斷  誠禮諸善知識足 如淨空中現彩霞  滅諸戲論而不動  現諸天眾無央身  願壇輪主恒攝持 盡佛所說諸密處  無餘結集持明主  我今敬禮威力尊  諸魔眷屬應斂攝 聞說佛父妙音尊  欣然舉目微顧視  皆能授與最勝慧  通達甚深佛密意 久遠恒依為本尊  終不棄捨更依餘  惟願慈悲妙智藏  令我妙果得成就 有欲如續義所釋  依之如理修行者  譯師智達無盡教  亦曾為此久勸請 福賢威嚴眾生欽  荷負吉祥金剛乘  意欲咸令徧十方  眾亦數數而勸請 得少便足迷經意  不以淨理觀教義  或有多聞不勤行  彼等不能令佛喜 諸如正理善學教  先覺妙行感我意  我今為明先覺規  故於此事而策勵 剎生俱生及咒生  空行視我如母子  哀愍恩施諸成就  消滅一切諸障礙 若有殊勝大乘種性,為善知識之所攝受,於諸共道[A8]已善修習,由大悲心最極發動,急欲救度漂流生死諸有恩者,則當趣入甚深捷徑、金剛大乘,速疾施與一切有情,唯一依處:佛世尊果。故此當說大金剛持道之次第。 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== 此中分二:(甲一)明唯佛教是求解脫之道,(甲二)明入佛教次第不同諸門。今初 若[A9]已觀察自他廣大利益,則知非可僅為一生求樂遮苦而依世間耆老所啟法則。為求後世所有勝道,非諸有情所能隨喜,是由違諸世間言說所依,愛他勝自大菩提心。要當起修菩薩大行,依行證得希有勝果,下至一呼一吸亦成利生廣大方便,是能資育一切眾生根本。妙名普聞三地,謂佛世尊所說聖教。如《雜讚》云:「安住無邊際,生死大海中,貪等極暴惡,大鯨噬其身,今當皈依誰?若誰畢竟無,一切諸過失,若是一切種,諸功德依處,則諸含識者,應即皈依此,讚此恭敬此,住其聖教中。」理雖如是,然毘刼囉等自實不知真解脫道妄以為知。由彼我慢毒水所醉妄稱大師,離諸善逝善說法外,別說諸法真實,造諸異論立相似道,教誨諸欲求解脫者,故當了知唯正等覺及彼聖教,并於聖教如理行眾,是諸樂解脫者大師正道趣解脫伴。離此法外,諸餘大師教法學眾則非如是。於皈依處得决定解不被引轉,是則能知唯佛聖教是諸樂解脫者所行道階。又此定解,慧力強者,當求正量所引堅固定解。慧力劣者,唯是分別覺意,仰信而已。如《超勝天讚》云:「我非朋佛說,非瞋數論等,若所說如理,奉彼為大師。」謂於自他大師教法,應離朋黨及捨瞋恚,觀察彼二誰為善說誰為惡說,誰於成[A10]辦所化二利方便,有真能立即是應取,爾時二宗教典是否實義屬所觀察,非所諍事即為能立。是故唯以正理而分是否真實。觀察之理,若依補特伽羅生起次第,則於現時先得增上生已,後乃能得决定勝果。然若觀察某經所說成[A11]辦有情二種義利是否欺誑,則應先以正理成立决定勝果主要義利是不誑已,次乃比知庸常所得現事無欺。此是智者之所共許。《釋量論》云:「正義無欺故,亦比知所餘。」《四百論》中亦云:「若於佛所說,不現事生疑,當依於空性,令彼唯信此。」由我執故,結生相續生死苦蘊,由達無我證解脫果。能趣解脫諸次第等,須以正理而善成立。正理論中以理成立,有說彼等是諸異生極不現事,故能立者唯依教量。此說不啻自出皈依之過,「我捨餘大師,皈依佛世尊。」此唯隨自欲樂而說,全無真能立故。以於爾時教非能立,自許無有能立理故。若唯依教,自他大師所說有無前世後世,蘊常無常,有無我等教義不同,何者應理何者非理。自宗論師若與他宗論議,則亦不能成立自教清淨。諸說極不現事之教,非有事力正量之所能成,彼義須以三種無倒觀察,清淨正因而善成立。立彼相時,須以理成,不得自許教為能立。今唯略示門徑廣說如餘。他宗教典開示有情真義利者,前後相違。如說自性大自在等,體是常住作生死者,復許求解脫者,修道之後解脫生死。若因是常,則應終不可滅。若未能滅生死正因,决定不能滅生死故,如是若破無我正見,而說斷生死縛得於解脫,亦成相違。如前所說,若未了解自宗大師等三,是樂解脫真皈依處,與此相違餘大師等,非真皈依。則於自皈依處,不生堅固專一覺慧。生此覺慧要以正理觀見二宗諸德失故,至於有無外道非關緊要。諸廣慧者,欲生殊勝皈依覺慧,當如前學。以是應知七部論等諸正理論,是於自宗大師佛陀及佛教證二種正法。并於如理修正法者,引發真誠廣大恭敬最勝方便。 ᅟᅟ==[A9] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A10] 辦【CB】,辨【補編】== ᅟᅟ==[A11] 辦【CB】,辨【補編】== (甲二)明入佛教次第不同諸門分二:(乙一)總分諸乘,(乙二)別辨大乘。初又分四:(丙一)如何分別,(丙二)依何分別,(丙三)乘體不同,(丙四)顯示一切皆是成佛支分。今初 《攝行炬論》依於所化三種勝解,攝為三行而分三乘,於勝解下劣者說離欲行,於勝解廣大者說地及波羅蜜多行,於諸增上勝解甚深法者說具貪行。迦日毘達迦摩拉師攝為四諦瑜伽行等三行。如彼《三理炬論》亦作是說:「所說諦性義,波羅蜜多義,廣大密咒義,今總攝而說。」智稱論師《略釋一切經品》亦如是說。《莊嚴經論》云:「諸藏三或二。」謂大小乘所有二藏,彼等俱可引為經典差別及乘差別。 (丙二)依何分別 論分二門,今釋其義。有所為下劣,唯為自故,及所得下劣,唯欲解脫生死、眾苦求寂滅果故。有所為殊勝,普為一切諸有情故。及所得殊勝,欲求佛果故。如斯勝劣二所化機,彼由何乘各趣自果。即說彼二乘,名小乘大乘。依彼二增上,所說二種法,即名大小乘藏。於小乘中復有聲聞獨覺二種,能導彼等各趣自果之道,即分聲聞獨覺二乘,共為三乘。 (丙三)乘體不同分二:(丁一)小乘建立,(丁二)大乘建立。今初 《本地分》說聲聞獨覺根果雖有勝劣,其道建立大致相同。詳明差別誠恐文繁,今當略說彼二粗分,總共建立此二種性,於利他事厭背荷負,唯為自利解脫修行,能證解脫正因,是證無我義慧,良以繫縛生死正因即我執故,以是彼等為達是義而求彼慧,以戒定等餘道為伴而正修習,故能盡斷一切煩惱。經部師婆沙師唯識師及一分中觀師,說彼非達補特伽羅自性本空然如幻有,乃達無諸外道所計實我,是為通達補特伽羅無我之義。月稱論師意謂:「是則於補特伽羅,不能少遣實執,如是亦無通達補特伽羅無我之義。若於補特伽羅有實執時,亦不能遣補特伽羅我執。如達蘊等諸法皆無自性,立為通達法無我義,是則通達補特伽羅無自性者,亦須立為通達補特伽羅無我義故。以是乃至於蘊執實,則於補特伽羅亦起實執。乃至於彼實執起時,則亦不能盡滅煩惱。若爾,則應聲聞獨覺任何精勤,終於不能解脫生死。」然此非理。《入中論》云:「汝見無我瑜伽師,不能通達色等性,以未達彼自性故,緣色轉故生貪等。」《入中論疏》亦云:「由緣色等自性起顛倒故,亦不能達補特伽羅無我,以彼尚緣假安立我所依蘊故。」此即龍猛菩薩之義。如《寶鬘論》云:「乃至有蘊執,爾時有我執,有我執造業,由業復受生。」《中論》亦云:「業惑盡解脫,業惑從分別,分別依戲論,戲論以空滅。」此說於蘊執實繫縛生死,解脫生死必須遮遣生死根本實執戲論,此由通達自性空義而遣除故。《無分別讚》亦云:「諸佛及獨覺,諸聲聞所依,唯一解脫道,除汝更無餘。」此說通達法無自性唯一無分別母,乃是三乘真解脫道。《般若經》云:「欲學聲聞地者,當學般若波羅蜜多。」於獨覺及佛地亦如是說。又《攝頌》云:「欲成聲聞眾,獨覺及法王,若不依此忍,莫能得成就。」前讚即攝此義。聲聞藏中亦云:「色蘊同聚沫,受蘊猶水泡,想蘊如陽燄,諸行似芭蕉,識蘊如幻化,日親所宣說。」《中論》亦說彼義云:「佛知性無性,故於善教授,迦旃延那中,俱遮於有無。」故知小乘藏中亦非不說法無我義,然彼多說由無常等十六行見,乃至趣證阿羅漢果。於大乘中亦有二說,謂能通達法無自性,及以無常等道趣證。此如大乘經中,雖說以唯識見及中觀見二種趣證一切種智之理,然宣說中觀理諸經,不可引作餘釋。龍猛提婆以正理聚成立决定,故顯示唯識理諸經,如其所說須向餘引,當許此中理亦如是。諸續部中,亦多有說聲聞獨覺不達諸法真實,復有說若不達諸法真實即不能出生死,及由於法執實分別繫縛生死,故當了知會釋不違之理。若依無常等道不能解脫生死,然則為何而宣說耶?此如《六十正理論》云:「生起及滅道,為需要而說,知生故知滅,知滅故無常,由知無常性,亦能達正法。諸了知緣起,遠離於生滅,彼成就正見,能越三有海。」當知耽著諸有為者,不起出離生死之欲,為對治彼宣說無常苦道,由此便欲出離三有。若由生滅為因,能達緣起正法,全無自性生滅,則當解脫生死。真解脫道,即是通達人法無性。無常等道,惟是生彼方便,調治相續之道。諸餘論師雖許空無我道是能解脫,修無常等餘相之道,是為趣證無我,淨治相續。然於十六行相中之空及無我,亦唯定解無諸外道所執之我。非是俱生補特伽羅有自相執真能對治。故應了知無常苦等十六行相,一切皆非真解脫道,同是為淨相續之道。由是小乘人中,有是淨治相續道器而非解脫道器,及是器者,即鈍根與利根。小乘法藏正為後機宣說,前者唯是兼收之機。小乘人中雖亦通達法無自性,然大小乘非無差別。以大乘教非唯光顯法無我性,彼亦宣說諸地波羅蜜多,大悲願等;及說廻向二種資糧,無餘垢淨不思議法性故。《寶鬘論》云:「諸聲聞乘中,未說菩提願,大行及廻向,何能成菩薩,彼經未曾說,安住菩薩行,大乘中宣說,故智者受持。」故聖父子許大小乘不以見分,而以善巧方便行判。猶如母是諸子共因,父是彼等族姓別因。如是佛母般若波羅蜜多,即是四子共因,判別彼等為大小乘之因,是發心等諸方便故。 (丁二)大乘建立 為求利益一切有情,希欲證得無上菩提,由此而修六度行者,是為大乘總義。蜜咒乘人亦以彼道而行,諸續部中數宣說故。然於彼上多有異義,此諸補特伽羅之道,即是趣向一切種智之大乘也。波羅蜜多大乘,其道總體唯有爾許。此就見解分別有二,謂中觀師及唯識師。然彼二師非可說其乘有不同,故乘唯一。由於實義有盡未盡,故知前是利根,後是鈍根。此般若波羅蜜多乘,正為中觀師宣說。其唯識師為彼所兼攝庸常之機耳。波羅蜜多乘中,若就遲速而分,《入定不定印經》說有五種:謂如牛車,象車行走之二,如日月行之一,及如二乘與佛神通飛行之二。彼等進行遲速雖如上諸喻,有大差別,然乘無差別。故唯由根利鈍,行程大小,不能分判乘有別也。若所趣果乘,有勝與劣最大差別,或彼能趣因乘,有餘不同之道,乃能安立為各別乘。若道體上無大差別,唯於道中略有不同,及由修彼道之機略有勝劣,不能安立乘有次第。 (丙四)顯示一切皆是成佛支分 諸小乘人,雖非為得成佛而趣自道,然彼諸道,亦是導彼補特伽羅進趣佛地之方便。故不應執諸小乘道一向唯是成佛障礙。《正法白蓮經》云:「令解佛智故,佛設此方便,終不於彼等,說汝能成佛。」又云:「令解佛智故,一佛出世間,一乘無二乘,佛不用小乘。自覺所住道,謂佛力禪定,解脫及自在,於彼立有情。證淨菩提[A12]已,若我於小乘,安立一眾生,則慳過非善。實唯有一乘,無二亦無三,除佛於世間,方便說多乘。」此義謂佛出現世間,為令有情,證得自所得智。故佛所說諸道,唯是引導成佛方便,非以不能引導成佛之小乘法而導有情,故亦安立有情於自所住十力等位。得菩提已,若將隨一有情安立不能趣入佛地之小乘法,便是於法有慳悋過。以於究竟唯是一乘,小乘種姓,亦可引之入佛地故。雖復知彼方便,然於彼等隱而不說,即是引入佛地之法。《諦者品》亦顯了說云:「曼殊室利,如來若為一類有情宣說大乘,為他一類說獨覺乘,為餘一類說聲聞乘。是則如來心非清淨心,非平等心,有耽著法,大悲偏黨,異想過失。我亦於法而成慳悋。曼殊室利,我為有情宣說彼彼諸法,如是一切皆為令得一切種智,趣向菩提,臨入大乘,成辦一切種智,至於一極。故我非有異乘安立。」別說諸乘義如上釋。若爾《莊嚴經論》所說云何可通,彼云:「具慧墮於捺那迦,非畢竟障淨菩提,分別餘乘清淨利,雖安樂住亦成障。」此說發小乘心與生捺洛迦中,二於成佛如前者障,後者非爾。彼義是說,菩薩發小乘心成佛久遠。菩薩墮捺洛迦則不如是。故無過失。以小乘法於大乘人,是成佛障,於小乘種性是成佛方便,全無違故。又彼頌前,亦明彼義為菩薩說,故無可諍論處。《聖研經》云:「若於佛語分別善惡,應不應理,是為聲聞是為獨覺菩薩而說,皆是謗法。」義即執著一類佛語可是成佛方便,一類則是成佛障礙。彼經又說:「若由惡友增上,隨彼所說,犯謗法過,於七年中日悔三次,罪可清淨。然得忍位至速亦須十劫。」是故以彼邪見而趣命終當受最大非義利果,若能略得正解,便能不起如彼過失。如《諦者品》云:「譬如大海由諸異門眾水流注,如是三乘一切法水,亦皆流注如來大海。」故當了知佛所說法,一切皆是正對時機引入佛地所有方便。然因所化勝劣增上,方便亦有圓不圓滿,道遲速等差別應理。是故引入佛地支分之道,與大乘道二者不同。由見此義,故《真實名經》云:「三乘起出離,安住一乘果。」 ᅟᅟ==[A12] 已【CB】,巳【補編】== (乙二)別辨大乘分二:(丙一)總分二種大乘,(丙二)別說入金剛乘差別。初中分三:(丁一)分數類,(丁二)釋名義,(丁三)明所以。今初 《入無上瑜伽教義》云:「菩薩乘中亦有二種,謂地及波羅蜜多乘,密咒果金剛乘。」依霞達迦惹嚩摩說,密咒乘、果乘、金剛乘,皆是咒乘異名,或亦名方便乘。因果乘者,即二大乘異名。如智吉祥論師《除二邊論》所引《聖密授記》經云:「修因說因法,善轉法輪[A13]已,有果乘近道。」又金剛乘,亦稱持明藏及續部。 ᅟᅟ==[A13] 已【CB】,巳【補編】== (丁二)釋名義 以隱密修而得成就,非非器境不為彼說,故名曰密。咒於梵音為末那達惹耶。末那是意,達惹耶是救義,此如《集密後續釋》咒字云:「依彼彼根境,為緣所生意,是意名末那,達惹能救義。解脫世間行,謂三昧耶律,金剛徧防護,名之為咒行。」應知復有異門,如前末那及達惹耶,釋為了知真實,及將護眾生之悲心。乘者,運載義。運至此處即是果乘,以此運載即是因乘。果謂處所內身受用事業四種徧淨,即佛宮殿、佛身、佛財、佛事。若順彼相,現前修習宮殿天輪供養資具,淨情器等所有事業,即是果乘,修順果相而運行故。如《入無上續義論》云:「此由內身受用處所作事淨相而入,故名為果。」金剛者,《無垢光論》云:「言金剛者,最不可壞,及不可斷,此即大乘名金剛乘。咒與波羅蜜多,果性因性融合為一。」此謂咒理之果與波羅蜜多理之因。二不分離,是為金剛乘之名義。彼因果者,如《灌頂略標》云:「因持空性色,果持悲不變,空悲無分別,說名菩提心。」謂具一切種最勝空性與最勝不變之樂。於彼二不分離,以由此運往及運往於彼,便有因果二乘。然此金剛乘義在無上部。下續部中便無彼義,以不變樂,要得三摩地支方可安立,須用隨念以下諸支修成。諸下部中不具彼諸因支故。故此所明金剛乘義範圍狹小。彼理所立因果乘義,亦不能徧總建立義。當依《掌華論》說,如云:「金剛乘者,謂無餘挕一切大乘,為六波羅蜜多。總挕彼等謂慧方便,彼復挕成一味謂菩提心,亦是金剛薩埵三摩地故,即是金剛。彼是金剛亦即乘故,名金剛乘,是為咒乘之義。」方便智慧和合無別金剛薩埵瑜伽,即金剛乘。此有道果二位。善巧方便大於波羅蜜多乘故,名方便乘。《除二邊論》亦云:「由無分別,即果為道,廣大方便,最秘密故。名金剛乘、果乘、方便乘、秘密乘。」持明藏者,如《妙臂經釋》說:「開示諸持明咒者所有學處及所宗故。」《入無上續義論》說持明藏,有說非三藏挕為第四藏,及許是三藏兩派,然妙臂問經云:「說密咒經當諦聽。」又多續中,亦說為經及經部者。故當如寂靜論師說:「由彼總顯甚深義故,許為經部。」最為善哉。若就內容分別,則亦顯餘二藏之義,以故無畏論師許為通三藏挕,亦應正理。續者,謂相續義。集密後續說有三種,謂修道作用所依止之根本續,能淨彼之道續,及淨果之果續。斯皆所詮義續。即以能詮彼義聖言,說為能詮教續。部者,謂彼續之聚或種類。波羅蜜多乘者,謂若由行所依大菩提心及六度行而正運往,除此更無二次第等所餘勝道而可安立。若但就有發心及六度行而安立者,則金剛乘應成彼乘。言因乘者,謂不修習如前所說隨順四種果相之道,唯修彼因而安立之。 (丁三)明所以分二:(戊一)敘他疑竇,(戊二)答釋彼疑。今初 若於大乘分為二乘,此由何門而分?且非由於發心之門,以諸菩薩由咒及波羅蜜多門而修行者,俱為一切有情義利求得正覺,修行等故。以是所求菩提亦無勝劣。由彼分二不應道理。亦復非由有無通達諸法真實正見之門,以般若波羅蜜多等了義經意,除聖龍猛《中觀論》中所抉擇者,更無過上之正見故。縱或有之,彼亦不能安立乘別,例如波羅蜜多大乘,雖有中觀唯識二宗,然彼二者非有別乘。行六度行彼亦俱有,故修二身(法身色身)道要方便智慧不見有別。波羅密乘所無之道,雖有少許,然非主要差別,唯此不能安立乘為各別。唯由補特伽羅根有利鈍,行道遲速,亦不能立。例如波羅蜜多乘中,雖有彼等眾多差別,然無別乘。若不爾者,即咒乘中,亦應安立眾多乘也。 (戊二)答釋彼疑分二:([A14]己一)破他計執,([A15]己二)安立善說。今初 ᅟᅟ==[A14] 己【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A15] 己【CB】,巳【補編】== 有說咒為調伏有貪所化,波羅蜜多為調離貪所化而說,故於欲塵有不斷貪與斷貪欲而修道者。即是分為二乘之理。此應分別,若謂由彼所化,有於欲塵不斷貪欲而修與修斷貪之道而分二者,然彼二乘俱有二分,故彼差別不能分辨乘有差別。修波羅蜜多乘道者,多有未斷非梵行之在家菩薩。如於善巧方便星宿婆羅門子,見有廣大饒益他時,開非梵行,此等非一。咒乘所化亦有眾多於諸欲塵斷貪愛故。若不爾者,則至成佛應終不能解脫欲貪,或成佛後亦不能斷,便成過失。設謂非就二機總說,是依自乘不共之機初行者說。此復非說不斷欲塵貪即可修習彼乘之道,是說能否即用彼貪為道助伴,而作解脫之因。然如下說「笑視及握手」等,於諸欲塵依四類貪所生歡喜為道助緣,雖許有此四續之機。就此根機,但可用為最初入彼二乘補特伽羅差別,非能分於乘別。如是說道有無安樂莊嚴,及以注擊身心要隘為差別者,亦不能分二乘之別。若以由修彼道身生勝樂,心發妙喜,即以彼力心於所緣堅穩而住,為安樂莊嚴者。《瑜伽論》說:「一切初得奢摩他者,皆先發生身息堪能,由彼引生身輕安時,其身便起廣大安樂。次由彼力心發妙喜,由依此故,心於所緣寂靜而住。」此於內外奢摩他上皆所共有,豈能據彼判別密咒與波羅蜜多道。此於共道次第[A16]已廣宣說,故不贅述。若謂安樂莊嚴之義,是依修習收放赤白二菩提心勝要教授,藉溶化樂通達真實義者。以是安立總金剛乘與波羅密多乘差別則不應理,以彼唯是無上密咒特殊法故。准此當知注擊身心要隘,以判二乘不同差別,亦不應理。 ᅟᅟ==[A16] 已【CB】,巳【補編】== ([A17]己二)安立善說分二:(庚一)正明分別二乘之理,(庚二)明道有別果無勝劣。初中分三:(辛一)明正義,(辛二)出教證,(辛三)斷諍論。今初 ᅟᅟ==[A17] 己【CB】,巳【補編】== 約運載至此之果乘,咒與波羅密多全無勝劣之別。二道所得同是盡一切過失圓一切功德之佛果故。故是由此運載因乘之別。其中智德正見,發心意樂,學六度行,亦無差別。故由彼等亦難分別。若爾由何分耶?二種大乘所求要義,是為利他,非自證之菩提。以見佛果是利他之方便,而欲求為利他支故。《現觀莊嚴論》云:「發心為利他,欲正等菩提。」發心同故。正於所化示現利他之佛,非是法身,而是二種色身。要由通達甚深空慧成辦法身,廣大方便成辦色身。但離方便之慧,及離慧之方便,皆悉不能成辦二身。是故方便智慧不得分離,乃大乘之總宗。若未通達實義,則不能盡一切煩惱出生死海。故達甚深空慧,亦是下乘二聖所共。故大乘道主要差別,謂於具足善根之機現示色身,乃至生死未空作諸有情依怙之勝方便。波羅密多乘人,所修諸法真實離諸戲論,即修隨順法身行相之道,然無修習隨順色身相好莊嚴行相之道,咒則有之。由是成辦利他色身方便,道體上有最大不同,故分二乘。總大小乘非空慧分,用方便分。分二大乘,非就通達甚深空慧須以方便分別。方便之主是就成辦色身而言。成辦色身方便,即修隨順色身行相天瑜伽法,此即勝出餘乘之方便故。 (辛二)出教證分二:(壬一)無上瑜伽教中所說,(壬二)以下續部教中所說。初又分二:(癸一)續中所說,(癸二)釋論所說。今初 《金剛幕續初》品明顯說云:「若空即方便,則不能成佛,離因無餘果,故方便非空。諸見起顛倒,及追求我見,為遮我執故,諸佛宣說空。故曼陀羅輪,方便安樂律,由佛慢瑜伽,成佛非遙遠。佛具卅二相,八十隨好故,以彼方便修,方便謂佛形。」此破唯修空性便謂方便,及明宣說空性所為,并諸不共廣大方便,須彼方便成辦之理。如彼四頌次第應知。其初句義,是承《幕續》上文:「自分別垢染污內心,應徧勵力淨治其心。」而來。他作是念,淨治諸垢,應唯空性,以達真實之慧,正與我執行相相違,不違餘道。是故成佛方便唯應修空,何用所餘諸戲論?為答,爾時於彼方便任何勵力終不成佛,以除修空性外,無餘感果之方便故,離方便支因不具故。是故唯修空性,非圓滿方便也。此理非唯密咒,亦是波羅密多乘之軌則。此是天種慧師所說,極為善哉。若爾何為宣說空性?謂有於法無我起不正見,追求我見、着我執者,為欲遣彼二我執故,宣說無我空性。此亦顯示欲淨二我妄分別垢,定應尋求通達無我正見而修,此亦共波羅蜜多乘。釋《諸見起顛倒》等句,是依《幕續釋》中意也。若唯修空性,方便非圓滿,何者是為勝方便耶?勝方便謂是曼陀羅輪。《幕續釋》中作《方便謂樂律》此譯妥善。此中顯示方便勝波羅密多乘。由說唯修空性非能圓滿方便,及說於修空上所增方便,謂天瑜伽。故知修習曼陀羅輪,即是色身主要之因。此方便中具二差別一者安樂,謂不待諸苦行。二者律儀,《歡喜金剛》雖說多種。然今意說行相現為天輪之方便,與達空性之智慧,互不分離。由修如是毘盧遮那佛等慢念方便智慧瑜伽,故證佛果非如波羅密多乘之久遠,即明此道之殊勝也。此說修天瑜伽為速疾道,即破執天瑜伽於修大成就全無義利之邪分別。修佛色身,須持曼陀羅輪行相佛慢瑜伽,理由安在?說「佛具」等二句。意謂所成色身相好莊嚴為因,故須以佛果行相為方便而修。《幕續》餘二釋中,未明了說以除他疑。天種慧釋於初二句,破許唯修空性即方便時,說若唯修離方便空,當生空無邊等無暇難處,此非應理。次破他許空性修道位為方便,於成熟位為果。釋云因道熟果,二位空性無差別故,如許空性是果則非方便。因謂戲論有所緣性,果則反彼,成立因果有異,故說方便非唯空性。說空性之所為,同前。次說波羅蜜多乘中,以餘五度方便挕持慧度,經三無數大刼而修正行,即證菩提。修曼陀羅輪等方便復何為耶?為除彼疑說「故曼」等四句。安樂如前,律儀,謂受二根和合之樂。佛慢者,謂離庸常慢,非遙遠者謂即此生可得。次說若修佛身,當修法身相耶?為除彼疑說「佛具」等四句,方便,謂修三身行相之三種三摩地。西藏諸師多唯將此所說曼陀羅輪諸天瑜伽配初次第,是未能分諸天瑜伽與生起次第廣狹之過。當知俱通二種次第。修大成就棄捨天瑜伽之根本邪執,即在妄執唯修空性便能成辦二身。明斷彼疑,說色身因,决定須修天瑜伽者,《幕續》此說最為明顯,故今引之。以彼為例,亦當了知餘續所說,今恐文繁不復多錄。 (癸二)釋論所說分二:(子一)智足論中所說,(子二)餘師論中所說。今初 如前續中所,說智足大阿闍黎於《修我方便論》中顯了成立。先說波羅密多乘法,如云:「若修無我捨離方便,彼必不能盡離諸分別垢,發生饒益無餘有情一切種智,故於方便應極勵力。」能徧饒益諸眾生者,謂佛一切種智,利益亦從究竟廣大出生。其因亦唯修諸方便,以修無我唯斷分別為果性故。此如論云:「深故廣大故,無分別成熟,此明彼二故,是無上方便。」以是當知善修無倒施等,是為方便,將彼廻向一切種智,即成正等菩提之因。如契經云:「施戒安忍及精進,定慧廻向大菩提,對初發業應告誡,勿著菩提起見取。」此謂若離廣大方便唯修無我,决不能成饒益一切眾生之佛,故於方便必須勵力。能饒益一切有情之佛果,唯在修習廣大方便,以修無我之果,唯是盡垢之斷德故。此非是說捨離廣大方便修習空性,雖能盡斷一切垢染而不能利一切有情。亦非是說捨修空性唯修廣大方便,雖能獲得利益一切有情之色身,而不能證盡斷一切垢染之法身。以法身與色身,隨得其一必証餘一,以彼二身依一聚因决定係屬終不離故。此如由菩提心所引通達空性之慧,能淨一切我執垢故,雖是具二清淨法身之不共因,然亦是色身之助緣。如是廣大方便雖是色身之不共因,然亦是法身之助緣。若不勤修廣大方便,任何修習諸法真實,唯能超越生死,終不能得盡一切垢佛法身故。若不勤修通達空性之慧,唯修廣大方便,亦必不能得佛色身。事雖如是,然須了知佛位盡斷一切垢者,是修空性之跡,能饒益一切眾生者,乃是廣大方便之跡。如緣青色眼識生時,須具三緣是三緣果,然唯緣色不於聲等餘境轉者,是根之跡。生為領納性者,是等無間緣之跡。生為青行相者,是所緣緣之跡。《莊嚴經論》「深故」等文,是證要具方便智慧二品,乃是感果之無上方便。《般若挕頌》「施」等之教,是證施等,必須廻向菩提及為無所得慧之所攝持,方是成佛之方便。 次說咒乘不共方便,「非唯如是,以除修習不相似因,無餘隨順現證大菩提之修故。」此中義說,前說施等非即無過上之方便,以無修習行相隨順現證佛身之道。而唯修習行相與果不相似之道故。 若無修習隨順行相色身之道,成立非是成佛無上方便,即前論云:「由自自性所成甚深廣大體性之果,從自自體而修。」此謂所證之果,總有甚深法身體性,及以廣大相好莊嚴體性。心與諸法真實平等一味終不起動,即於爾時相好熾然莊嚴其身終不變改,二性無別,即是「由自自性」之義。如是修彼方便智慧,亦須與彼隨順。如修佛心法身,諸瑜伽師須從現在便住自心法真實義,修習行相隨順佛心之道。如是修色身時,亦須自身現為相好行相,修習隨順色身之道。以此二身修則俱修,置則俱置理相等故。依此密意《修我論》云:「以是當知,如修無我,廣大自性亦須無異而修。」此中廣大,即天瑜伽,廣大之理下當廣說。依此道理而修,即論所說「從自自體而修」之義。如果位中,相好莊嚴之所依身與依彼之無所得心,二性無別同時而住。如是於道位中,諸瑜伽師亦須現見自身為如來身相之方便,即於爾時與緣自心法真實義無自性慧,同一識體俱時和合,智慧方便不可分離。由修此二同時和合之瑜伽故,最後乃能成辦由無二智於諸所化現起色身之佛果也。如是現為天身之勝方便,若離無倒通達自心體性之慧,由缺支故不能成佛,故須二因和合,《修我論》云:「此謂能仁具足無量光明,為自他無邊圓滿之所依,以最勝正方便為相。若離智慧由無慧故,雖復現前修習,然終不得無餘圓滿,故於自性應起無顛倒心。」通達所取現為天相無性之慧,與廣大天瑜伽之心雖是一體,然可安立智慧方便為異。觀待所[A18]遣異故,由異名言增上而立。謂於真實遣心倒執之分,安立為慧,以知所知究竟勝義即勝知故(勝知即慧)。就於自果遣無成佛功能之分,立為方便,以成佛方便即是成佛功能故。此如《修我論》云:「此與無倒廣大之心雖是一相,然由異名當知為異,謂於真實遣心顛倒為性當知名慧,及於自果由遣無能說名方便。」此中安立方便智慧之理,雖如通常所說,然安立為方便智慧之事,則是咒中之勝方便智慧。如是由所取分,現為天輪而修色身,由通達自性空而修法身。方便智慧無二和合,當知即是咒中所說方便智慧,與諸瑜伽主要之義。 ᅟᅟ==[A18] 遣【CB】,遺【補編】== 密宗道次第廣論卷一終 密宗道次第廣論卷二 宗喀巴大師造 法尊法師譯 總明入聖教次第不同諸門品第一之二 (子二)餘師論中所說 寂靜論師《四百五十論釋》中云:「若有唯修天之體性,不能成佛,道不滿故。又若唯修諸天真實而非諸天,是則須經多無數刼乃得成佛,非速疾成。由是俱修最為愜意,加持勝故,速得無上正等菩提。」此說若唯修天瑜伽,决定不能成佛。若不修天而修空性及餘方便,須經多無數刼方得成佛。若能俱修天及空性為速疾道。故此論師亦許空性正見是二大乘所共。若無天瑜伽,則如波羅蜜多乘道其道稽遲。修天瑜伽及空性見,是速疾道。即隨前師之所許也。無畏論師《教授穗論》第十八穗,亦如寂靜論師所許而說。并引《金剛幕》〈第十四品〉云:「為摧庸常慢,正宣說修行。」又云:「又為淨治不淨身故,當修佛身。」無勝月論師於第二觀察初品釋中,亦引《金剛幕經》〈初品〉及〈十四品〉,證由不同之因不能感生不同之果。持祥論師《札拏釋俱生光明論》亦云:「又不應說,由布施等諸方便門及願力等而正出生。若於圓滿受用及變化身未能修習,心懷猶豫,如何能令彼心定解?若謂彼由願力出生,則應不修無我而得現證法身,彼復何須勤勞修習?若謂彼由修習出生,則於圓滿受用變化二身之因,何過而不須修?是故安住波羅密多乘者,須許具足三身之佛,彼由修得極為顯了。」此說若法身行相之無我而須修習,則色身行相之天身亦須修習。此若不修應許前亦不修,而證法身。是理相齊,無差別故。彼論引文證云:「如云,修習成佛因,謂修佛瑜伽,何不徧觀察,果由似因生。又《一切秘密經》亦云:『總之佛陀果,從定慧出生,除佛瑜伽外,行者不得佛。』」三昧耶金剛論師於《扎拏釋》中所說同上。勝授論師於《集密釋》亦如是說。調伏授論師云:「此義是師親宣說,雙修色身及法身,咄哉决定證菩提,法身由佛靜慮得,色身何故不修習?由福資糧得色身,須經長時餘下劣,果別應從因別生,現見三身為同時。」如大幻曼陀羅儀軌廣說。雖亦尚有餘論可據,此等明顯故略敘之。 (壬二)以下續部教中所說 《修我方便論》中說廣大天瑜伽方便,為波羅密多乘與密咒乘之別,引《攝真實》證菩提中,生天之教而善成立。并明顯說彼瑜伽中具金剛界諸尊之規。故非但與無上瑜伽,亦是與瑜伽續二者方便之差別也。諸餘論師所說於無上時已宣說訖。凡許自修為天相之續部一切皆然。以須如是而修理皆同故。瑜伽續中亦多宣說,如《攝真實經》〈初品〉云:「身語心金剛,自身諸微塵,若修為佛身,即當成正覺。」釋論憍薩羅莊嚴云:「修諸微塵為金剛等調伏作意之瑜伽師,應於每日四次修為佛身。由修佛身得何成就?當成正覺,義即當得相好莊嚴之佛身也。」《真實光明釋》云:「諸修密咒行者,當修念佛,當知須修隨念如來色身及法性故。」又云:「安住一切如來中央,於彼攝持。以法身理及色身體,與彼俱無異故,乃至自能現見,應當修習。」言法身者,謂由通達空慧修成。是義極顯,故不繁錄。 事行教中宣說此者,如佛密論師《大日經疏》云:「此中有相無相二種次第,由清淨非清淨二身差別門中,顯示二種天身自性。其清淨者,謂法身無相三摩地自性,是無相智體性。非清淨者,謂徧計色自性,諸正等覺圓滿受用變化身相。由於眾生顯現增上,立為顯色形色體性。」此顯隨順二身行相修習二種瑜伽,事行兩部相同。此中二種大乘見無勝劣,惟由廣大天瑜伽門而分。《三乘建立》中亦明了宣說,如云:「故勝義諦,除薄伽梵及龍猛等所安立者,更無第二殊勝真勝義諦。問云:唯由世俗如何廣大,答云:此由所緣淨,友伴及隨行,故諸有慧者,說為最上乘。」此說了解清淨天性,受持諸三昧耶而得諸佛加持,如佛菩薩饒益眾生清淨國土而修,由彼所緣友伴隨行三種廣大,勝出波羅密多中觀。以說具足彼三差別之乘,為事行等續部之別,故許總為密部顯乘之別。總之由達諸法都無自性之空性見,與生自身為天之天瑜伽,二種係屬成二身果,是金剛乘法一切正機共行之道。各續部中,除彼二外所說多種餘道,當知有是通達空性勝進方便,有是修天瑜伽支分。此應持為扼要之義。 (辛三)斷諍論 有作是言,若由波羅密多乘中,無似色身之因,密咒有之,而安立勝劣者,不應正理。以由似果之因而成諸果,不决定故。若成相好莊嚴之身,須修相好行相之道,則成輪王相好之身,其因亦須修習相好行相之道。如是善趣惡趣之身,造彼因時,一切皆應修彼二趣行相之因,是為大失。若謂彼果之因不須與自行相隨順,佛果則須如是修習,應說其理,然不可得。故說色身行相之道成辦色身,視為咒乘特法,亦唯信仰而已。 今當解釋,如諸波羅密多乘說,色身體性之因,謂諸最勝福德資糧。相好等之別因,謂迎送師長等。由無量生修集之力,至大地時,獲得隨順相好莊嚴之身,彼復漸漸轉令殊妙,至最後有,獲得有學究竟相好。即於彼身證法身時,即彼相好身之等流,成受用身。非許道時都無相好,得果無間頓然新生。如是諸金剛乘,說於一身修成佛者,若有學時都無隨順無學身之相好,亦不許彼究竟相好頓然新生。如是若有學位都無相好,則定不能成辦色身,是二大乘之所共許。趣入密咒一身成佛之初業者,咒中未說彼身初生便須相好莊嚴,實亦非有。故無凡身相好而可立為色身相好之因,須於彼生新修能感相好等流之因。此除修天瑜伽更無餘事。由是因緣,感發善趣惡趣之身於彼因位,不須修彼行相之因。而於成佛色身之前,則須修集彼身行相隨順之因,二如何等。我等非許受生色身諸異熟因,須修似彼行相之道。是許成佛相好之前,須彼隨順等流之因,故無諍論安足之處。 若爾,下三續部所修之天瑜伽,及無上部未能即生成佛須經生者,所修天身,如何能成色身等流之因?彼等亦由於現法中如是修習,後於餘生成色身時,即為爾時等流之因,非是受生色身之異熟因,如是善斷所說諸疑。次須定解修天瑜伽必不可少,如《金剛空行》初品云:「我是一切佛,及一切勇識,由自天加行,善修成自我。由此於現生,當成一切佛,及一切勇識,一切金剛持。此是和合諸空行,金剛空行最勝樂,金剛[A1]薩埵如是來,吉祥世尊所宣說。」又云:「由此印和合,當盡噉三地,餘加行不具,猶如燈息滅。」釋論中云:「言由此者,謂由上文所說空性之印,若誰能與手面等世俗印平等和合,即作是說。彼瑜伽師何所作為?謂當盡噉三地。義為遣除身等庸常之色,次顯唯修空性靜慮,終不能證大菩提故,說『餘』等文。餘謂唯修空性。加行不具,謂不顯現。息滅,謂無自利而般涅槃。如何而滅?曰如燈,如燈由油相續故,能照耀空際。若時油盡燈便盡滅,自尚不顯况能照他?唯空三摩地亦當如是觀。」此說密咒道中若不修天瑜伽,不論如何修習空性,果位不免墮寂滅邊。此即續部最勝意趣。若未於此善獲定解棄天瑜伽,僅修密咒一分之道,當知定非獲得道體。 ᅟᅟ==[A1] 薩【CB】,菩【補編】== (庚二)明道有別果無勝劣分二:(辛一)解釋正義,(辛二)釋道差別。今初 有作是言:若二大乘道有勝劣,所得佛果應有勝劣。以因有別果無差別成相違故。若不爾者,因之差別全無義故。當知第十一普光明地,劣於金剛持位。《結合》初章第四品云:「總之佛陀果,無數俱胝刼,乃獲得佛果,由最勝安樂,現法能證得,或得金剛持。」此說由無數俱胝刼所得佛果與金剛持二各別故。又前經云:「即於現身證得佛果或得金剛薩埵,若未證得不思議處,彼名善逝即名為佛。其所相事,正謂菩薩。」此不應理,彼教非說由無上道一生之中,或證波羅密多所說普光明地,或證咒中所說金剛持故。由無數刼所得之佛與第十一普光明地,波羅密多乘人亦復不許,無差別故。經無數刼所得果中分為二類,佛者,《現觀莊嚴論》云:「由超第九地,智名住佛地,當知彼即是,菩薩第十地。」於第十地說名為佛。金剛持者,即是第十一地。咒中雖尚說有十二十三十四地等,然依印度論師解釋,彼等與波羅密多乘所說諸地,僅是開合之異。至下果時再述。由是當知第十一普光明地與金剛持地義同,經中即說此地是經於三無數刼所得,續部說為即生成辦。不應以名金剛持故,便執非波羅密多乘之果。當如靜命論師所說,金剛持地即為二道共所得果。《成就真實論》云:「吉祥大樂金剛薩埵,若由餘道須經多無數刼乃能證得,諸具金剛乘方便者,即於現法無難而證。」又《結合續》釋《教授穗論》云:「佛者謂十地自在,種相覺者謂勝進道,金剛持者謂十一地自在。」《三理炬論》云:「義同然無愚。」汝自亦許此義,謂咒與波羅密多乘所得義同。又得波羅密多乘普光明地,亦說盡斷二障一切習氣,證得力無所畏不共法等一切諸佛功德。若更有佛勝彼所說,則汝應許雖[A2]已盡斷二障習氣,過尚未盡,雖已得十力等一百四十四種無漏功德,德猶未圓。若論如是果位,不待密咒之道,唯以波羅密多乘道,能否趣證。印度智者多有抉擇,理應觀察。若許唯用波羅密多乘道,即能趣證普光明地,而又說於彼上更有所趣,則非應理。二道趣證,有不待無數大刼能否成佛之勝劣,而非果有粗妙之因。然亦不能成立因之差別都為無義,以果雖無粗妙,而望得果遠近有差別故。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== (辛二)釋道差別分二:(壬一)自宗所說之差別,(壬二)餘師所說之差別。今初 下三續部與波羅密多乘遲速差別,是由依止諸天瑜伽念誦之力,獲得諸共悉地,及蒙諸佛菩薩攝受加持等多善權方便,速疾圓滿大菩提行。無上部之速疾差別,生起次第有多深處非下三部所有,圓滿次第更有眾多最勝深處,後當廣說。不待經歷無數大刼,速能成佛,唯是無上部之特法,下三部機如能證得,亦須趣入無上部之二種次第,非唯目道便能滿足。故密咒之速疾差別,不應唯執濁世一生成佛,及不待無數大刼而成佛。 ([A3]壬二)餘師所說之差別分二:(癸一)律生釋中所說,(癸二)三理炬中所說。今初 ᅟᅟ==[A3] 壬【CB】,任【補編】== 寶鎧論師於圓滿次第時,說修離諸戲論二乘相同。《父子相見會》說得一切法徧樂三摩地之菩薩,隨於一切所緣唯生樂受不生苦捨,乃至割截如迦喀跋那量,及被象踏亦唯樂想,並說修彼樂之方便,非彼安樂不順咒乘。又波羅密多乘說世出世間一切圓滿正因,謂菩提心,咒中亦如是說。又引「現境成金剛」等為據,成立大樂亦是共法。《現觀莊嚴論》云:「巧便受諸欲。」迦葉品中以農夫喻,說煩惱糞是生佛法之所必須,以故受用欲塵亦是共法,其果地等亦皆相等。故說生起次第為咒特法。《律生》第十三品釋云:「故若不修生起次第,則咒法中更無殊特。」意謂凡是修天瑜伽,一切攝為生起次第。脈息空點等是生安樂之瑜伽,安樂更無差別。 (癸二)三理炬中所說 「義同然無愚,多方便無難,依利根增上,說咒論超勝。」此說一切種智之果,咒與波羅密多二無差別。然由四種差別,故說四部密咒勝於波羅密多。 無愚差別,謂諸波羅密多行者修施等時,三輪無得雖非愚蒙,然捨頭腦行外施等則根非利,須經長時乃得菩提。諸咒行者則無彼愚。波羅密多,是能頓滿一切有情所求利益,捨頭腦等不能利益無邊有情。見彼乃是三摩地果,是故呵棄尋常方便,求勝方便。此由周徧無偏相續無間修習方便智慧無二妙三摩地,乃能滿足無邊有情利益,圓滿布施波羅密多。爾時諸餘波羅密多亦皆圓滿,布施身等無如是義故不立為波羅密多。 方便差別,謂波羅密多乘說諸難行戒律儀等為生天趣及解脫因。由依最寂靜行,不能攝受一切有情。咒為饒益一切有情,說四部續。此當先知自於何惑最為勝強,即修貪等成彌陀等,持誦咒為心曼陀羅,修諸韻字成諸尊等語曼陀羅,修宮殿等成身曼陀羅。說如是等諸門不同。 無難差別,難與非難皆待自心非定屬事。有於此難,於他易故。由是若能順自所欲而引導者,即由安樂而得安樂。故密咒中不說難行。對上上根,貪等過失不行,分別微薄,具足大悲,勤修無二真實法者,則說法無我智與大悲一味,又名方便智慧大印法門。上中根者,雖能厭行諸庸常境,然未斷除貪等分別,不能趣入勝義智海,故為彼說修行智印。此即修習五部如來及佛眼等諸明天女。由修彼等而得入真實者,謂於天身心堅穩住,天唯心現非有外境,故不應著修等三輪。如是知者即能安住遠離外境及能所取分別之身。又依師長教授,由觀彼身離一異故通達無事。次觀一切同彼,而達諸法皆無自性,依此密意說無邊種修天之法。此是智稱論師所說。上下根者,雖亦愛樂無二妙智,然未斷貪,由近貪境心便散亂不能入定。於彼聽許三昧耶印,此品須具如餘處說明妃德相。若上品貪而無廣大證真實慧,除此,非餘所能住心,為說業印。於彼亦須以隨順業而受用之。三理炬論於此未說以何等根用何業印,智稱論師,於上下根說三昧耶或羯摩印,意似雙指作不作業或明妃相具不具足。如是趣入咒乘上根之機,於明妃欲有貪不貪之二,於其後者說修大印。前者又分於外明妃有無貪欲之二,於其後者說修智印。前者聽許三昧耶印及羯摩印二種。故有持此論師意趣許為自宗,而說無上部之正機,須於外明妃欲具大貪者,成相違失。 利根差別,謂四諦瑜伽師不知實義故是鈍根,波羅密多諸瑜伽師方便錯亂故是中根;諸咒行者全無愚蒙故是上根;設以餘人行之必墮惡趣,然由巧方便行反得清淨。此是止毘達加摩羅論師所說。又智稱論師云:「若於智印等,不愛樂修習,慧力羸弱故,不堪修大印,佛為饒益彼,假以大印名,金剛薩埵等,色相名大印。」此說由慧力弱,不能修習大印,於餘三印不樂修習,便於天身立大印名而為宣說。此是瑜伽部之修法,事行兩部亦當例知。 方便大悲,與通達法無我真實之慧為道命根,波羅密多亦皆共許。又波羅密多乘,說若捨頭等身財,滿有情願乃名布施波羅密多,是則布施波羅密多終無圓滿,如是破[A4]已,說於一切財物,淨自慳悋及淨自利妄執之垢,增長捨心至最究竟,是名布施波羅密多。《入行論》云:「若眾生無貧,乃名為施度,現有貧眾生,昔佛云何度,一切財及果,悉捨諸眾生,說名布施度,如是彼唯心。」故難解說無愚差別。利根差別理亦難通,若謂是不愚方便者,與前重複。若謂以欲貪為道者,咒乘上機不見此事,以上首機無彼事故。又入密咒之機,上者於初次第圓滿,導入第二次第。圓滿次第堅穩之時,多於爾世便得成佛。故說於中根者聽許智印,於下根聽許三昧耶印等,亦難安立。故諸智者,於此等義,應當觀察。 ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,己【補編】== 西藏諸師,解多方便,謂多消災等事。解釋無難,謂以欲塵為道。於此論師及以智稱論師,論中皆無明據。 (丙二)別說入金剛乘差別分三:(丁一)明趣入密咒之異門,(丁二)明安立異門之差別,(丁三)明具彼差別之諸道。今初 《金剛幕》第十三品云:「於下說事續,彼上無事行,瑜伽上有情,再上無上行。」此下謂金剛乘下機,彼上中機,上即上機,再上即最上機,對彼四機說四續部,故四續部即四能入門。《入無上續義論》亦云:「密咒果金剛乘,總有四能入門,謂事行瑜伽無上瑜伽續,如世共說。」 (丁二)明安立異門之差別分二:(戊一)問,(戊二)答。今初 若由機有勝劣,而說續部次第不同,則此能入之門,非就所為勝劣而立。以凡趣入金剛乘者,一切皆為一切有情而求證得無上菩提,發大乘心無差別故。非就能得二身正因道體不同而立,以達無自性慧引發法身相同,修天瑜伽引發色身總相同故。是故一切名金剛乘,唯是一乘。若以天瑜伽等眾多道之差別,立為異乘或續部次第不同異門者,則於無上瑜伽一一續中亦應安立眾多不同諸乘。即如集密一部,亦應有多不同能入之門。以《集智金剛續》說有蓮花旃檀等勝劣五種補特伽羅故。以是當說,就機勝劣門中,分別續部不同四門,究由何理而為安立。 (戊二)答分二:(己一)明餘倒說,(己二)出自正答。今初 西藏諸師有云,為攝四類外道故說四續,謂具貪者隨自在行,有嗔恚者隨徧入行,有愚痴者隨梵天行,若不定者遇彼三隨一即受持彼宗。由有彼四,如其次第說無上瑜伽續,行續、事續、及瑜伽續。并說此是隨順《攝真實會》,慶喜藏及善現護等所許。 今當問彼,若謂彼等補特伽羅,由彼彼續能調伏者是則不能據彼以明由四續部趣入之別。以彼一一皆能調彼四補特伽羅故。若謂彼諸續部正所化機為彼等者,極不應理。咒乘正所化機,是以已入佛教之機為勝,此機不須先起邪見故。又先未入邪宗而直入正宗者,應犯非彼諸續正所化機之過。亦非慶喜藏論師之所許,彼師所造《集密》初品釋云:「由薄伽梵安住於彼故名薄伽,此明處所。」彼者謂佛眼、摩摩格、白衣、度母四尊天女,即此中妃。彼如此經十七品說。何故安住彼等密耶?為令諸樂徧入等續不捨境者,於此以貪斷貪生愛樂故。謂彼意許依止母邑及大香小香等而能成辦徧入等果,尋求彼中所說成就。彼等便趣明妃秘密。如云:「薄伽善徧入,住母邑密處,令諸人愛樂,故名那羅延。」此廣宣說於樂徧入續者說無上部諸貪行故。《攝真實會》全無建立無上瑜伽為何所化宣說之理,彼說四段是為有貪瞋等四種煩惱者說,必是例彼推比,實無確據。 西藏諸師又有說為隨順佛教四宗,由四不同起天之門,立四續部。并說此是隨順《集智金剛》龍猛父子智足師資所許。彼諸師是集密行者,《集密釋續集智金剛說》事部時無自想為天及智慧薩埵之樂。必係例此推說。然說為順四宗,則全無據。雖說獨覺配瑜伽部起天規式,然獨覺道非是四宗之一。又說事部無自起法,亦非集智金剛教義,後當廣說,故不應理。 又阿朗迦迦拉峽說,於婆羅門及剎帝利,宣說事部及瑜伽部。吠舍有二,於貪瞋薄愚痴增上,勝解徧入天者宣說行部。於愚痴薄貪瞋增上,說集密等勝瑜伽部。於彼上上貪瞋下下愚痴屬旃陀羅種者,說《勝樂略續》等母部。若以四部之機,似四種族而說,彼不能辨四部趣入之別。若謂四部之機須四種人,終難決定,亦不見有主不主別,故非應理。雖說金剛界中諸尊猶如國王俱諸眷屬然,然以此理不能成立彼所化機為剎帝利。總諸大乘正所化機須悲增上,尤以無上瑜伽正所化機,要由大悲激發其意,急於利他速欲成佛。若說彼等須具上品瞋恚,誠為非理之談。 (己二)出自正答 續部安立四種能入異門,非乘有異,非由天瑜伽等道之差別。然由入金剛乘主要四機極不相同,故立四門。其所化機有差別者略由二門,一謂欲貪為道之理,不同有四。二謂能如是者是由相續生真空見及天瑜伽功能勝劣,有四不同。初如《結合》第六章之第三品云:「笑視及執手,兩相抱為四,如蟲住四續。」第二《觀察》義同此說。《教授穗論》說此為道續,未說為教續。然第七章初品穗中亦說此為教續。勇金剛論師於《結合釋》中亦說為四續部。《金剛藏莊嚴續》〈第十一品〉先說方便續中貪續多種差別,次云:「此明互相抱,續部諸差別,如是由執手,笑視亦應知。」此說能詮教續,故是顯示四續部之差別。爾時續部之名亦曰笑續、視續、執手或抱持續、二相合續,共為四部。如前所說天瑜伽為色身不共之因,是說主要方便。若僅由諸方便增進通達空性之慧,則是二大乘之所共。此如《入行論》云:「此一切支分,佛為慧故說。」以是由天瑜伽增進慧道,是以殊勝方便智慧,現為欲天父母等住行相之天瑜伽。無上部中道之差別雖有多種,然名二合續即由彼立名,在諸續中亦多有說二合之相。即由此門以貪為道,依止二菩提心開合之要,增進通達空性之慧。由下三部無有如是以貪為道殊勝方便,故亦未說彼七支中和合之支。然有由笑顧視執手或抱所生喜樂為道,故亦總有以欲塵貪為道之義。此如《第二十五穗》云:「事行瑜伽及上瑜伽四續部者,以笑視抱持二合執手而表示之。如是事續等中有以諸尊顧視顯示智慧方便隨貪。有以歡笑,有以執手,有以抱持,有以二合。」又《後分別》〈第三品〉「由諸笑及視,抱與兩兩合,續亦有四種。」寂靜論師釋云:「言由四者,謂由事行瑜伽上瑜伽續,表示笑視抱持二合。如是事續等中有明方便智慧諸尊隨貪現笑,有現顧視,有現抱持,有現二合。」彼雖但言諸尊顧視,其歡笑等亦謂諸尊。由顧視等何所作為,謂顯智慧方便隨貪。即表諸尊互相愛也。毘盧遮那與佛眼等諸尊絕無貪愛。故此是謂持彼諸尊我慢之行者。以諸續部所化,將視等貪持以為道是正義故。事行部等宣說諸尊有顧視等,若不配當所化,則由顧視等門不能明所化之差別。 又非唯無上部說笑視等,即下三部亦說彼事,如《不空羂索儀軌》云:「佛薄伽梵面向忿怒。」又云:「右有度母天女含笑屈身目視施勝手印,左有蓮部妙女含笑隨順密咒理趣目視不空羂索。」《大日經》[A5]曰:「其右有天女名曰大佛眼,天女面微笑,光輪滿一尋,無等清淨身,釋迦牟尼妃。」又云:「畫勇觀自在,安住白蓮座,如螺拘陀月,頂戴無量光,面容含微笑。其右有天女,度母大名稱,善妙除怖畏。」又《金剛頂經》云:「天女金剛笑,抱持自天女,首向彼側轉,含笑徧顧現,執持世尊手。」《勝吉祥經》〈初品〉中云:「其側大金剛,持箭勤揮弄,手作偏抱勢,持摩羯魚幢。」此僅略錄,總謂行者生何尊時,即將彼此互視等門所生喜樂持以為道。下續部中無緣外印作是修法,上續部中亦未宣說如是修習故,是緣於所修佛眼等天女也。諸劣所化未堪上貪為道,故密意說下品貪欲漸令為道,此如後說,要天瑜伽已至堅穩,獲得空性妙三摩地,緣於自部天女大佛眼等而修。如勇金剛《結合釋》云:「言笑視及執手等,謂由笑聲,或由觀色、持手、二合妙觸,引生大樂無分別心。言如蟲者,是無漏大樂空句,謂如蟲從樹生即食其樹。如是從樂所生妙三摩地應修空性。」第二十三穗云:「笑續,如化樂天。」此是以彼諸天為喻,非說彼等是諸續部上首之機,信解金剛乘及修彼少分道者,雖不決定。然初趣入金剛乘之上首機宜,須欲界身。必須信解,由明妃欲塵貪為道門中,求菩提者,無上部中俱緣真實及自所修明妃,以笑等貪而為正道。下三續部,唯緣所修智妃欲塵喜樂為道。瑜伽續中既不可修二根交合,故除彼外緣餘執手或抱持觸喜樂為道,配瑜伽續。除觸塵外,依笑視緣所生喜樂為道,配事行續。此等是釋無上部中立四續部之名義,由此即明彼等機宜及道差別。 ᅟᅟ==[A5] 曰【CB】,日【補編】== 次當更釋四續部名,依諸續部共許名義,以明機宜差別。能以欲塵為道之方便者,為空性見及天瑜伽。欲證此二,若須觀待眾多外事,乃是事部之機。若待外事內定等分非待極多外事,即是行部之機。若於外事內定二者以定為主待少外事,是瑜伽部之機。若不觀待外事能生無上瑜伽,是無上瑜伽部之機。此依解釋名義而說,謂由外事增上故名事續,事定等行故名行續,重內瑜伽名瑜伽續,較此瑜伽更無過上,故名無上瑜伽續也。此就所攝正機入道增上而說,非謂定爾。《真實光明論》說《攝真實續後》會是為怖畏深修者說故。總諸所化,信解外事及內瑜伽,雖有徧重,然亦有信解不稱自根之道者,就彼信解不能明辨彼等主要之機。當知有說觀不觀待上品外事極為應理,如《三理炬論》云:「若由餘生修習習氣,獨於林藪無諸眾生及無沐浴繪壇供養護摩苦行念誦等事,則心不能得定,故說事續。若有心念愛樂真實,復由信力以佛所說諸事而得妙智,故亦待事。佛為彼等說根本續無多事支。」此根本續與共許之行續義同,雖有內定然多外事立為事續。如《大日經》註云:「諸事續中雖重外行非無內行。」《歡喜金剛略義》疏云:「若修真實堪能微劣,外行增上說為事續。」若內正定與諸外事等分開示立為行續。如《大日經》註云:「此續雖是方便智慧為主之瑜伽續,然為攝受信解外事諸眾生故,開示隨順外事諸行。故共稱為事續或二俱續。」又《金剛藏莊嚴續》云:「事二俱瑜伽。」亦說行續為二俱續。《三理炬》云:「餘者專信修習無二真實,於眾多事起散亂想,為利彼故宣說行續。瑜伽為主兼說少分事支。」此之行續即瑜伽續。 (丁三)明具彼差別之諸道分二:(戊一)二種大乘共道次第,(戊二)金剛乘不共道次第。今初 《金剛手灌頂續》云:「此大菩薩陀羅尼咒大曼陀羅,最極廣大,最勝甚深,最難測量,諸秘密中最為秘密,於惡有情不容開顯。金剛手,汝說此法最為希有。昔未聞者此法當於何等有情乃可宣說。金剛手曰,曼殊室利,謂諸修習菩提心者,若彼成就大菩提心,行菩薩行,修密咒門,爾乃令入大智灌頂陀羅尼咒大曼陀羅。若菩提心未能圓滿即不令[A6]入。亦不令彼見曼陀羅,亦不為彼開示契印及諸密咒。」此說於灌頂前須圓滿修大菩提心,故當先修願行二心次乃入密。 ᅟᅟ==[A6] 入【CB】,人【補編】== 此中次第,謂應先於一具德相大乘知識,意樂加行如理依止。彼當開示暇身難得令其修心。若於暇身,發起廣大取堅實欲。最勝堅實謂入大乘,入大乘之門即發菩提心。若於自身有真正菩提心,則成真實大乘學者。彼心若唯虛言,是則大乘亦但假名。如是諸具慧者,應當漸除此心障品,發生圓滿德相之心。復次若未先遣現法之心,俱障大乘小乘之道,故當念死,於現法中不能久住,及思沒後漂流惡趣之理。次當善思生死一切過患,遮遣愛著後世圓滿之心,務令心意趣向解脫。後為遣除獨樂寂靜之心,當於慈悲及以慈悲為本之菩提心,長時修習,引發真實大菩提心。次當了知諸菩薩行,發求學欲。若能荷負菩薩行擔,則當進受菩薩律儀學彼學處。若更能荷金剛乘三昧耶律儀重擔,則當聞《尊長五十論》,清淨修習依師長法而入密咒。《尊長五十論》云:「淨意樂弟子,當皈依三寶,此隨行師法,授與令誦習。次授與諸咒,令成正法器。」清淨意樂,是說於發菩提心及有不共皈依者,乃為說《尊長五十論》。由與尊長五十論故而成法器。《明顯雙運論》云:「此中次第者,擇宿曜吉日,弟子敬合掌,懺悔一切罪,先受三皈依,善發菩提心,亦受近事戒,及菩薩律儀,次更受長淨。此隨順次第,謂如法親近,金剛阿闍黎,因教文太繁,故今不廣錄。如是善作已,請師賜灌頂。」此說於灌頂前,先受別解脫戒發菩提心及受律儀,次乃請師求賜灌頂。此言近事及近住長淨,是依在家而說。入密咒之出家者,則當清淨沙彌戒等。《攝行論》〈第一品〉,先成應次第學非可頓學。次云:「其中次第,謂當先學佛乘意樂。若[A7]已善學佛乘意樂,乃於新乘學習一念妙三摩地。」謂先學佛乘已,再學新乘,即密咒也。佛乘意樂,即願行心。如是發起願行心已,必須具足六度行者,非摘波羅密多中事,用資補充,即密咒中亦數宣說須學彼道。故是金剛乘中共法。此於共乘道次第中[A8]已廣宣說,不復繁贅。 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== 若未能以無垢理  辨自他宗善惡說  復不善辨大小乘  顯密共不共差別 縱說如來諸聖教  大乘尤以金剛乘  為具善者最勝門  如是亦唯徒自信 是故具智善欲者  當以淨理治慧目  心於聖教求勝解  不為敵者所引轉 密宗道次第廣論卷二終 密宗道次第廣論卷三 宗喀巴大師造 法尊法師譯 事部道次第品第二之一 (戊二)金剛乘不共道次第分三:(己一)事行部道次第,(己二)瑜伽部道次第,(己三)無上瑜伽部道次第。初又分二:(庚一)觀察二部有無自起及入智尊,(庚二)別釋事行部道次第。初又分二:(辛一)標列諸師所許,(辛二)釋其應理之宗。今初 西藏諸師多作是說:事部僅有於前修天而無自起;行部唯有自起三昧耶尊於前生起智尊而無智尊入我。《集智金剛續》云:「緣諸恐怖,行最潔淨,無智薩埵殊勝妙樂,自無天慢,非希有境,唯以過患分別善修行者,安住事部。」此說事部無自起及入智尊故。《大日經》及《金剛手灌頂續》,雖說自起為天,未說入智尊故。 《札孥續釋俱生光明論》云:「事行部中,所修能修方便,非能長時隨轉,彼唯假想之所出生,謂由布繪等諸天之力,圓滿悉地故。瑜伽部中有別,自以天瑜伽,復緣布繪等諸天而修隨順悉地。」勝授論師《集密釋》中亦如是說,傳謂因陀羅溥帝所造。《勝樂釋》亦云:「安住密金剛乘事行部者,唯依明咒隨許法。觀察自與天異,周徧計度,緣慮有相,而修成就。」此許事行兩部俱無自起。 《後靜慮經》中云:「言密咒靜慮,最秘密而說。」《釋》云:「言秘密者,謂未開顯,此文意謂:密咒靜慮雖是一切成就支中所有心藏,然諸別續皆未明了分別說者,是為不能深修收攝命力等靜慮支眾生,令趣入故。一切經中亦多不顯了說,後當解釋。」佛密論師謂此所說密咒靜慮,即是後文所說天瑜伽等。雖是修諸成就支分之要,而餘事續多未顯了說者,是為不能以下所說內持息等方便,專修天瑜伽者,引令入續教故。前《釋》又云:「此是於密咒有念誦靜慮時修。」如攝一切事部儀軌總續《蘇悉地經》、《妙臂問經》、《攝觀察經》等,及諸別續《毘盧遮那現證菩提神變加持經》、《金剛手灌頂經》、《菩薩藏經》、《持名藏》等皆共宣說。有隱密說者,有顯了說者。如《蘇悉地經》云:「由誦故大誦,捨置明咒天,愛護最勝修,持念不更想。《毘盧遮那現證菩提經》中修念誦時,說由四支念誦加行,明了宣說密咒加行。《金剛手灌頂經》亦云:曼殊室利,若咒任運成就天慢,爾時一切密咒現前安住。持明藏亦云:於畫像等修天靜慮,想此釧環動,鼬囊亦漸動,如是動念時,漸觀足部等。《攝觀察經》亦說:修法無我及天瑜伽。多經[A1]已說此不繁述,故今當說彼等經中所有天色及密咒聲靜慮念誦。」此說修天色身及緣咒修靜慮,并修自真實等。諸續部中有顯不顯及具不具如應而說。又說《後靜慮經》及《大日經》,顯了宣說四支念誦。故此論師意許四支念誦天瑜伽等,事行兩部相同,即《大日經》因所化增上亦說為事續。是故事行兩部唯就所化增上而判,非就經續自體而分。《蘇悉地現觀》中亦云:「莫作是念,謂事續中未說修天次第,雖薄伽梵多未宣說,然於《金剛手灌頂經》及《十種真實》等專重而說。又諸成就皆仗咒天及修真實,此若失壞,則消災等皆不得成。故以師教,及觀經義便能了知。」此說事部有起天法,引《金剛手灌頂》為據,顯然是許事行部中之天瑜伽,與前說同。由欲成辦消災等法無量事業,須仗修天及空瑜伽。故說事部亦須修天,理由極善。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== (辛二)釋其應理之宗 如彼諸異宗當何所取耶?且計行部無自起天,不應道理。若不以《大日經金剛手灌頂經》為行部,則行部不可得。若為行部,彼中顯了說自起故。《攝行論》〈第三品〉亦云:「《毘盧遮那現證菩提行續》中云。」此說為行部故。若許緣想天子天女互相愛著修以為道,是《和合續》及第二觀察續之意,則定應許事續亦有自起天法。 然此自起天法,為以餘部補充,為是事部自有。有云:如說事部無自起法及入智尊,事實應爾。然佛密勝菩提二師,說事部有自起,而未說有入智尊法。龍猛菩薩於《千手陀羅尼》修法,說有自起、入智尊、及灌頂。蓮花論師所著《大悲修法》,吉祥苾芻尼所著《十一面修法》、傳謂月居士所著之《大白傘蓋修法》、寂靜勝怨所著《五分修法》(孔雀明王及大隨求等)、阿底峽所著《無垢頂修法》及《修法海》、《百五十法》、《百修法》等,依事部者亦說自起及入智尊。佛密等許《大日經》等亦為事部,是否意在事行和合尚須觀察。餘師所許,如《攝真實會》云:「心印咒諸明,如所欲道理,依此處所說,通一切修法。」意謂事部儀軌亦可配用瑜伽部理,或如事部所說大隨求法,光明天女,山林葉衣諸天及咒,《三補扎》等無上瑜伽中亦如是說,故是摘用無上瑜伽部之意趣,或可事部意趣亦得容有自起應更觀察。 此中佛密論師非於事部未得明顯說自起者而借《大日經》及《金剛手灌頂》等為據,以許為事部之《金剛髻》中,明說四支念誦故。釋《後靜慮》「住聲心及事」云:「以是當知,聲心事等諸念誦支之相,凡文中未宣說者,意謂此經已說聲心等故。聲等之相,聲謂咒字,心謂咒之所依月輪行相,事謂如來身性,第二事者謂自天色;又諸命根、力用、收攝等相,《金剛髻經》前已宣說,與彼係屬名《後靜慮》,故於此品不復宣說聲等之相。」此說自天色等,於此《金剛髻經》前[A2]已宣說,故於此經後分《後靜慮》中不復說。故又許此經所說四支,同《大日經》,即彼《釋》云:「《毘盧遮那現證菩提經》云:字謂菩提心,第二名為聲,事謂住自天,是自身所作,所言第二事,正覺兩足尊,說命即是風,力用謂憶念。如是此中事等體相如前已說。」故「住聲心及事」之言,若謂非是自起為天之事,則《大日經》「事謂」等文,亦應不許說自起天,無差別故。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== 《光明天女修法》明顯說有自起,并立生起次第圓滿次第之名,若謂此是事部,則非清淨,若謂無上瑜伽所攝,則不可作事部有自起天之據。由此當知說事部自身有自起者。《後靜慮經》及釋最為明顯。佛密論師於《摧壞釋》中引《摧壞廣續》所說修六天等,亦可了知。又《攝真實經上釋》云:「凡諸樂著事部行部二俱部儀軌者,亦當以彼儀軌,修行此說大印等法。為釋此義故云,真言心印及諸明,隨樂修習諸理趣。」心印咒明,如其次第,即是四章所說大曼陀羅、陀羅尼曼陀羅、法曼陀羅、業曼陀羅。此說瑜伽部及事行兩部儀軌,皆可修習。故由彼門可修自起及入智尊最為明顯。又事部與無上部中所說光明天等像咒皆同。依此密意,故《修法海》等中亦多以彼為例,將事行部所說諸尊生起法等,亦仿無上部而修也。 《若爾如何》會通集智金剛教義?如佛密說,彼是別說事部有一類機怖畏專修本尊瑜伽,非是希有違越世間以貪等行修道之器,而以實執生老死過患分別之行,而修道者,則無自起及入智尊。非說事部之機一切皆爾,如《金剛髻經》。以事行部多屬彼機,故諸續中亦未顯說諸尊瑜伽,縱說亦略。然彼正所化機,則非不能或不樂由防護命力等門而專修天瑜伽。又如勝菩提論師說修事行部咒之異生,亦能成就寶劍丸藥等諸悉地及息災等無邊事業。成就彼者,《金剛手灌頂經》顯了宣說,須修本尊及空瑜伽,如云:「若時行菩薩行行密咒門,自成天身,意無疑惑而修天慢,若行若住若坐,一切時中常不搖動。寂靜慧,爾時乃是行菩薩行行密咒門具足大菩薩戒。」又說:「隨順諸天所作事業,勤修瑜伽謂住禁戒。於禁戒中修行念誦護摩等業謂行妙行。勤修不異諸天瑜伽受諸學處行大乘行,謂於密咒獲得悉地。」無間又云:「諸菩薩摩訶薩,行菩薩行行密咒門常應安住無相。」後又顯了說云:「於正覺所制,禁行及尸羅,諸行并學處,若時能安住,咒師能成就。正智離分別,是昔佛所證,於無分別中,能成諸密咒,其果能證得,清淨性光明。若住於分別,則無彼成就,故當斷分別,思惟諸咒色。」斷分別者,謂以無我慧破我執分別,非謂盡滅所有分別。思惟諸咒色者,謂修天身。「若行」乃至「不動」,意明修天瑜伽堅固之量,謂於住不住定一切威儀,獲得堪能除天身外持心不散,而能除遣庸常慢執。佛密論師及勝菩提雖未宣說智尊入我,然印度諸智者多數宣說,故亦可修。若不可者,其理應謂由執自與智尊各異,不能信解合一之理,然彼非理。一切皆說由於信解自身語意,與本尊身語意不可分離之力,凡身轉動皆成手印,凡發語言皆成密咒。如《金剛手灌頂經》云:「若善男子若善女人,見曼陀羅發菩提心,具足悲愍善權方便,善巧密咒諸字義理。當作是念,離語無意,離意無語,離意無身,意即是語,語即是意,天身亦即是意,語亦即是天身。若能如是信解無異,咒師便得清淨之意,成就如是清淨時,便能於一切時,見自身與天身,自語與天語,自意與天意相等,爾時即是安住正定。若於一切時,咒師常住定,爾時能趣入身等平等性,住平等性者,盡所動支節,盡所說語言,皆是密咒印。」由此當知,觀身為天,語言為咒,意入真實,非是無上部之別法,下續部中亦定須爾。 (庚二)別釋事行部道次第分二:(辛一)解釋攝道總頌,(辛二)正釋道之次第。今初 《後靜慮》云:「勤修密咒者,於微細梵淨,三時常了知,十支儀軌業。」此說勤修密咒故,於三時中,了知現證,天瑜伽相明咒禁行,由是靜慮所了知,故名為微細。此將引發悉地諸支總攝為十。所言十者,釋中說為修行之處,咒真實,我真實,念誦真實,住火靜慮,住聲靜慮、聲後解脫靜慮、修咒儀軌、護摩儀軌、灌頂儀軌,共為十事。咒等三是念誦四支靜慮,其次三種,是下說之三種真實靜慮,此二為道主體。再次一種,是修彼二靜慮之時,先行及結行儀軌。灌頂是為成熟修彼諸道之器,護摩是修成就及修事業等時所作。由此等門獲得堪能,則能成辦無邊事業,速疾圓滿大菩提行。此是總攝事行兩部之義,為彼二機成佛之因。 事部有四總續。《妙臂問經》於佛、蓮花、金剛三部,天神、財神、世間六道種姓、密咒、事業差別、承事之方便等。餘經廣說難攝集者,此總攝集。餘略說者,此廣顯說。餘未說者此中宣說。彼於四支靜慮,三種真實靜慮;多未顯說。而於其餘修咒儀軌,修諸事業儀軌等則顯了廣說。《秘密總續》則說三部佛蓮金剛三千五百大曼陀羅繪畫灌頂等事通軌,故多顯示成熟法器之類。《蘇悉地經》未明顯說六種靜慮,而顯了說三部共同修咒儀軌、事業儀軌、修護摩法及所護之三昧耶等。《後靜慮經》總明六種靜慮,別明護持命力等靜慮支及後三種靜慮。此亦皆是三部所共。若能了知此等建立,則亦善知事部諸別續及行部諸義如何攝集。此可攝為四類,一成熟修道法器灌頂類,二成熟所依護三昧耶律儀類,三為生起堪能故修承事類,四得堪能已為利自他修習成就類。依事行部雖有多種修法,然如兩部所說而釋,要以佛密與勝菩提二師之論為善,今如彼釋。 (辛二)正釋道之次第分二:(壬一)事部道次第,(壬二)行部道次第。初又分四:(癸一)為成修道之器而行灌頂,(癸二)成器已清淨律儀及三昧耶,(癸三)住三昧耶先應如何承事,(癸四)得堪能已如何修習成就。今初 曼陀羅及灌頂儀軌恐繁不錄。此二部中,若但入壇及入壇已灌幾種頂,《根本罪釋》已說。 (癸二)成器已清淨律儀及三昧耶。 於灌頂時受何律儀,及彼根本罪等,《根本罪釋》已廣宣說,今當說餘諸三昧耶。此如《蘇悉地經》〈咒毘奈耶品〉(〈轉真言法品〉)云:「復次誦咒師,由住何律儀,速得諸成就,說彼咒調伏。有智修行者,於諸咒諸天,及大持誦者,悉皆不應瞋。智者勿臆造,咒軌及密咒,於諸惡性人,亦不應毀訾。開示密壇師,行為雖暴惡,然不應以語,或以意毀謗。智者雖盛怒,於他諸明咒,不壓縛損害,及治罰降伏。若無師隨許,不應持密咒,於未承事者,知咒亦不與。智者知經咒,曉印及儀軌,釋經并壇場,不傳未入壇。一切標幟形,及如有情形,并一切諸印,不食不跨越。具慧修行者,不輕毀諸藥,不觸諸垢穢,亦不以足踐。與諸大乘人,智者不應諍,聞菩薩神力,不應為破壞。與諸持咒者,終不相比鬦,於犯小過者,不怒行殺害。誦者住軌則,不歌舞調戲,不應為嚴身,持鬘塗妙色。不越不跳擲,不奔不急走,諸粗惡身業,皆應善遣除。安住實法者,不忿然作色,不粗語離間,不說無益語。不共外道住,亦不與彼諍,持咒不應與,屠者賤種言。智者念誦時,除一護咒人,餘皆非所須,全不應共語。不用油塗身,不食諸胡麻,蘿[A3]蔔及蒜鹽,異類諸嚼食。米粉及豆餅,油麻餅團食,如是諸豆類,成就者盡斷。毘奈耶迦食,及所施殘食,祇薩惹乳粥,持咒者皆忌。不乘諸車馬,不踐蓮花等,亦復不應踐,所棄諸餘食。一切戲笑事,著鞋及擎傘,并諸修飾事,誦咒者當捨。不以足揩足,不用手揉手,糞尿不棄水,不棄近水處。不手承飲食,不鍮器中食,不於葉背食,智者不貪食。具慧修行者,不共他不淨,大小床上臥,不應仰或覆不應數數食,不太少太多,亦不應絕食,不食可疑食。不樂諸奇事,不觀諸調戲,不觸婦女境,不應起貪心。安住咒法者,身語意三業,於飲食威儀,皆應善防護。在家持咒者,不著[A4]染色衣,陳舊及垢穢,亦不著一衣。不應自菲薄,不應不自愛,亦不應厭患,不可任痛害。除得本尊許,不應捨密咒,莫愚毀明咒,精勤莫放逸。意勿向餘散,莫起諸雜念,無貪不淨心,行者誦密咒。莫修驅逐法,護他及遮法,不以自他咒,持誦禁惡毒。除為修成就,咒不作餘用,亦不用自咒,較量及考驗。智者三時誦,應三時沐浴。」又云:「行者於初八,或十四十五,及神變月半,尤應修供養。持誦護摩供,如是受律儀,尤於諸福業,當殷重勤修。」又云:「如明咒律說,應作不應作,及學處律儀,行者常應思。貪著自安樂,晝夜應盡除,以後當作此,繫念不應散。若日間放逸,夜分當悔除,夜作次早悔,善作當慶喜。誦燒皆當淨,勝咒及律儀,諸明咒調伏,行者善安住。」祇薩惹者,謂黑芝麻豆米合煑之粥。 ᅟᅟ==[A3] 蔔【CB】,葡【補編】== ᅟᅟ==[A4] 染【CB】,柒【補編】== 未入曼陀羅不應傳咒者,如《總續》云:「若未善見壇,設傳授諸咒,彼不得成就,死後墮惡趣。若為彼宣說,咒印及儀軌,自犯三昧耶,墮號呌地獄。」若未於四部隨一曼陀羅而受灌頂,不可唯依隨許法而修諸尊及授諸咒。設作是已,淨除彼罪之法,如前續云:「如說三昧耶,設若誤毀犯,彼當善持誦,心咒十萬遍。或誦一千遍,無痴心總持,或息災護摩,或更入壇場。」《札拏經釋寶矩論》中,先說彼等三昧耶已,次云:「諸三昧耶我從事部中集,大瑜伽部諸瑜伽師,由處時增上及意樂增上,亦應如理護持。又自謂是大瑜伽部諸瑜伽師,若即不樂潔淨,不善防護,不應道理。以意樂增上,雖事部中亦有開許,如云:隨淨或不淨,用食未用食,任沐浴與否,念本尊即成。是故大瑜伽,部諸瑜伽師亦不應違上說三昧耶也。」此謂非但受事行部灌頂者,應當守護,即受無上瑜伽部者,亦須守護。故應善知彼三昧耶及根本罪,慎防莫放諸根本罪。設犯餘罪亦莫捨置,如云晝犯夜悔,夜犯晝悔,如是悔除令淨。 (癸三)住三昧耶先應如何承事分二:(子一)須承事之理,(子二)承事之次第。今初 《後靜慮》云:「說密咒靜慮,為最勝秘密,諸苦行大仙,離彼亦無成。」此說若無下說二種靜慮,雖持禁戒具足難行,修密諸仙亦無成就。《大日經》〈成就品〉亦云:「欲得廣大慧,或欲得五通,及持明成就,或長壽儒童,乃至未承事,彼即不能得。」事行兩部皆同此理。《蘇悉地經》〈咒相品〉云:「應觀部目性,勢力及事業,當精勤承事,順自意密咒。」謂於三部曼陀羅中善得灌頂,具足菩薩律儀,咒三昧耶,善巧修行次第,如《蘇悉地經》及《妙臂問經》所說處所及具德相助伴等皆悉具足,應先修習二種靜慮及諸支分而為承事。 所得灌頂如《總續》云:「於佛部壇中,若善得灌頂,此即成三部,壇等阿闍黎。」此說若得佛部灌頂,即成三部。得蓮花部灌頂,即成二部。得金剛乘灌頂,唯成一部阿闍黎耶。然隨所修何咒,須得彼咒念誦傳承。 (子二)承事之次第分二:(丑一)有念誦靜慮,(丑二)不待念誦靜慮。初又分三:(寅一)四支念誦靜慮之前行,(寅二)四支念誦靜慮之正修,(寅三)四支念誦靜慮之後行。初又分四:(卯一)先於房中所修,(卯二)出外沐浴入佛堂法,(卯三)著衣入座加持供物,(卯四)守護自身及其處所。今初 每日初座,早起床時,及餘座首,於三部中隨修何部,即結彼部三昧耶印,誦持密咒。謂平仰兩手略屈二食指,置於頭上,誦云:「嗡達塔迦達,鄔跋瓦耶娑訶。」又合掌如蓮花開敷之狀,置於心間,誦云:「嗡碑瑪鄔跋瓦耶娑訶。」又二手背相著,二大指二小指相鈎,置於臍間,誦云:「嗡斑[嗈-邑+夕]鄔跋瓦耶娑訶。」如其次第,尊勝等為佛部,觀自在等為蓮花部,金剛摧壞等為金剛部咒印。 次緣十方一切諸佛,誦云:「嗡薩瓦達塔迦達,迦雅,瓦迦,即達,斑[嗈-邑+夕]般拏梅那,薩瓦達塔迦達,斑[嗈-邑+夕]跋答,奔答南迦熱彌。」以此咒禮諸佛。 次供自身,誦云:「十方一切諸佛菩薩,我今乃至未證菩提,一切時中畢竟供養,維願諸佛諸大菩薩哀愍納受,賜我無上悉地。」 次當歸依發菩提心,誦云:「乃至證菩提,歸依佛法僧,為辦自他利,我發菩提心,謹請住十方諸佛菩[A5]薩聽,我為大菩提,今發菩提心。」次用忿怒無障明王咒印守護。印者,兩手諸指互握成拳,二手小指并豎,二食指端相著,二大指按其側。咒云:「嗡斑[嗈-邑+夕]卓答摩訶跋羅,訶那答訶,跋[嗈-邑+夕]毘朵那薩,鄔促沙摩,卓答吽泮。」於受飲食大小便時,亦可以此守護。次於心間月上觀想毘盧遮那自性摩字,頭上想不動佛自性訶字,二字皆有燄鬘圍繞。誦云:「嗡娑跋瓦虛答,薩瓦答摩,娑跋瓦虛朵吭。」應當信解自性清淨。 ᅟᅟ==[A5] 薩【CB】,提【補編】== 次出房外,嚼齒木等,掃拭佛堂。 (卯二)出外沐浴入佛堂法 次為沐浴,往無多人及無怖畏河中,兩手手指向外交叉鈎合,二手食指并豎,二大指置食指之前,以此印觸淨土,誦云:「嗡尼喀那瓦蘇得娑訶。」取土分為三分,安置淨處,此亦結前所說三種三昧耶印,隨其所應之一而後取土。 次以大指壓小指,餘指作金剛杵相,兩手相交互按其臂,上齒壓下唇,作忿怒瞻視,誦云:「那末惹那札雅雅,那摩軍札斑[嗈-邑+夕]巴拏耶,摩訶藥叉茜那巴達耶,那末斑[嗈-邑+夕]卓答雅,得雅他,嗡胡魯胡魯,底叉底叉,奔答奔答,訶那訶那,阿彌得吽泮。」以是甘露明王自護,次誦:「嗡訶那訶那,阿彌得吽泮。」兩手內握,食指伸豎,從頭至足周徧打觸,以除身中魔碍。次誦:「嗡班[嗈-邑+夕]阿格尼,般底巴達耶娑訶。」平仰兩手小指相鈎,二無名指按其中,二中指並豎,食指屈著彼第三節,大指并合於中,結此印而披金剛甲。又即前印二食指分離如金剛杵形,是為金剛甲印。誦:「那末惹那札雅雅,嗡喀格黎吽泮。」即以印觸頭肩心喉等處而為披甲。 次誦:「那末班[嗈-邑+夕]雅吽,訶那都那,摩他毘底薩雅,鄔薩惹雅泮。」左手大指按中二指。食指小指相鈎如環,觸中二指中節,右手中三指如金剛杵形,按於腰部為除碍印。經說當以此印觸土或水而除魔碍。故應先觸土水。 次誦:「那末惹那札雅雅,那摩軍札班[嗈-邑+夕]巴拏耶,嗡訶那訶那,班[嗈-邑+夕]拏訶。」以此咒水誦:「嗡格黎格拉,班[嗈-邑+夕]吽泮。」左手大指按小指甲,餘指結作金剛杵形,為格黎格拉印,以印觸水,即以此水撒地。 次誦:「嗡班[嗈-邑+夕]訶惹吽。」七遍咒土,取土一分,身入水中至沒臍處,用巾洗浴。次以第二分土洗手,誦:「嗡虛底密底,答日尼吽訶。」右手平仰,食指置大指前,以大指按食指中節,為妙音印,即以此印洒淨。《妙臂問經》說於此時洒淨。勝菩提師似許以此咒印而為洒淨。 次誦:「嗡蘇悉底迦日娑訶。」結髻守護次取第三分土,誦:「嗡布惹[嗈-邑+夕]拉吽泮。」加持,右繞向日而自塗身。 次誦:「那末惹那札雅雅,那摩軍札班[嗈-邑+夕]巴拏耶,摩訶藥叉茜那巴達耶,那末班[嗈-邑+夕]卓答雅,當卓達迦札,碑惹瓦雅,得雅他,嗡阿彌達軍札黎,喀喀,喀黑喀黑,底叉底叉,奔答奔答,訶那訶那,迦[嗈-邑+夕]迦[嗈-邑+夕],毘婆札雅毘婆札雅,薩瓦毘迦毘那雅迦那,摩訶迦拏巴底即毘達,阿那達迦惹雅娑訶。」右手平仰,屈中指,無名指以大指端按之,食指小指稍鈎,作擾水印擾水。再誦:「嗡惹得惹得,補答雅娑訶。」撒三掬水供養三寶,次誦:「嗡阿彌得吽泮。」於自頂上注三掬水。次洗手已,仍以前咒注三掬水自灌其頂。運意奉請本尊住蓮花上,誦:「嗡薩瓦達他迦達,阿彌達娑訶。」而為沐浴。 次往佛堂念誦,先於水中誦咒二十一遍。《蘇悉地經》〈念誦品〉云:「未防護不淨,隨所誦真言,彼所持誦數,智者不應數。」此說未善清淨正沐浴等所有念誦,不能滿足持誦之數,故當安住清淨。如或不能廣作沐浴,得用土水善洗諸垢。如《妙臂問經》云:「五土洗後三洗前,三洗左手雙手七,或是任用多土水,乃至垢淨而善洗。」 至佛堂前,淨洗足已,向東或北而作洗淨。次入佛堂,現前緣想敬禮諸尊,應持誦入三昧耶咒。「嗡毘惹[嗈-邑+夕]毘惹[嗈-邑+夕],摩訶班茲,薩達薩達,薩惹達薩惹達,達惹伊達惹伊,毘達摩尼桑巴那[嗈-邑+夕]尼,達惹摩底悉地,阿止當娑訶。」 (卯三)著衣入座加持供物 次以香水注於掌中,隨其所應,誦三部心加持,洒自頂上,除諸污穢。以甘露瓶真言加持,洒於茅草等座。於彼座上結吉祥坐或蓮花坐或金剛坐。次於右腕繫珠索,右無[A6]名指繫淨罪茅草環,及以綢綾,如上所說作頂髻狀。此中珠索,謂以童女所捻之線,和合單數為繩,結單數結,中繫自部念珠一粒,持誦自部真言。如誦:「嗡如如蘇普如,佐拉底叉,悉地羅[嗈-邑+夕]內,薩瓦阿惹他,薩答尼娑訶。」或誦:「敬禮三寶,敬禮觀自在菩薩摩訶薩,若有見聞者,及觸并憶念,我願治一切,有情諸疾病。得雅他,迦制,毘迦制,岡迦制,迦制,毘迦制,岡迦制,薄伽嚩帝,毘[嗈-邑+夕]耶娑訶。」或誦:「嗡姑倫答日,奔答奔答,吽泮。」如其次第即是佛部蓮花部金剛部珠索明咒,亦即彼部佛母。此中勝利,如《蘇悉地經》〈明咒毘奈耶品〉云:「由此則不為,碍神所障蔽,誦此能清淨,速得諸悉地。」 ᅟᅟ==[A6] 名【CB】,明【補編】== 繫茅草者,如前經云:「由別誦三部,三字心真言,茅草能淨罪,繫於無[A7]名指,唧那唧,阿熱利,班[嗈-邑+夕]職,供養及持誦,護摩恆當持,行者恆持此,能令手清淨。」又於珠索塗之以香,誦咒百遍。用綢綾或紅布所作之頂髻,咒以下說咒衣之咒。衣服亦以彼咒咒而披著。次以雷擊木,或苦楝木,尸林株[A8]杌,或用栴檀,或用餘木刻三股杵,善為洗濯,塗紅栴檀,生為忿怒蘇悉地尊,迎請相同智尊修供養等。次誦:「嗡都那班[嗈-邑+夕]哈。」初安住時千遍,餘時七遍。禱云:「維願世尊哀愍我故,住此辦我一切事業。」於修供養等時,左手持此羯摩金剛。每日供養誦咒七遍。《蘇悉地經》說由持此杵故,一切魔碍毘奈耶迦恐怖逃散。 ᅟᅟ==[A7] 名【CB】,明【補編】== ᅟᅟ==[A8] 杌【CB】,杭【補編】== 次先修歸依發心,次體三部一切業咒,或誦前說「那末惹那札雅雅」等甘露瓶咒加持香水,以洒水具遣除花等之魔。次誦部主密咒,或誦部心「唧那唧」等,隨其所應,以左手中香水洒淨。 次以上說除碍印,右手三指如金剛形握左中指,為增威光印,置香花等上,誦增威光真言,想諸供物皆成殊妙天物。「嗡得[嗈-邑+夕]得[嗈-邑+夕],薩尼悉底悉達雅吽泮。」又「嗡底北底北,底跋雅,河北夏摩訶夏惹雅耶娑訶。」又「嗡左拉左拉雅,奔達日吽泮。」如其次第即三部咒。次誦上甘露瓶真言加持,及隨其所應誦部心真言。 (卯四)守護自身及其處所 次以上說除魔碍之咒印,或隨所知而護自身。再誦三部一切業咒,或誦甘露真言,從「那末惹那札雅雅」至「阿彌得吽泮」,加持香水徧洒自身除諸魔碍。若誦「嗡掌奔答娑訶」或「嗡那末摩訶希雅耶,娑梅悉底悉底薩答雅,希毘希毘迦日,阿巴哈,薩瓦阿塔薩答尼娑訶」或「嗡阿格利格拉,班[嗈-邑+夕]吽泮」,如其次第即如來等三部一切業咒。 次為護處所,故應修護輪,誦:「嗡格利格拉班唧班唧布惹,奔答奔答吽泮。」加持香水七遍,洒一切處。兩手中指與無名指互結如環,指端相觸,小指食指並竪,大指作橛狀觸地形,是為橛印。誦前說咒,想於諸魔釘忿怒金剛橛,令無轉動。誦:「嗡蘇悉地迦惹左利達,阿難達母達伊,左拉左拉,奔答奔答,哈那哈那,吽泮。」加持燒香而熏,想縛上空諸天,此是三部總咒。如來部說:「嗡左拉吽。」蓮花部說:「嗡北彌尼巴迦瓦帝,摩哈雅摩哈雅,[嗈-邑+夕]伽答摩哈尼娑訶。」經及儀軌,皆未別說金剛部咒。次隨所應以彼部心加持香水,遍散周圍。誦:「[口*種]嗡阿彌柁巴瓦,鄔巴瓦吽泮,那末惹那札雅雅,那摩珍札班[嗈-邑+夕]巴那耶,摩訶藥叉茜那巴達耶,嗡松巴尼松巴吽,格哈那格哈那吽,格哈那巴雅格哈那巴雅吽,阿那雅賀巴迦[稯-禾+口],毘雅惹[嗈-邑+夕]吽泮娑訶。」想以此咒繫縛十方一切魔碍。此是三部明王密咒。 次將橛印二大指向上立,是為牆印,誦:「那末惹那札雅雅,那摩珍札班[嗈-邑+夕]巴那耶,摩訶藥叉茜那巴達耶,得耶他,嗡薩惹薩惹,班[嗈-邑+夕]札迦惹吽泮。」想金剛牆圍繞無少空隙。 次將牆印向下而繞,誦:「那末惹那札雅雅,那摩珍札班[嗈-邑+夕]巴那耶,摩訶藥叉茜那巴達耶,嗡毘樸惹叉,班[嗈-邑+夕]巴尼吽泮。」想金剛牆上有金剛網帳。 次誦甘露瓶咒及「格利格拉」咒,結印、加持彼等。《蘇悉地經》說於房屋周圍,恆以彼二明王加持金剛牆網橛。 次結為拳,大指壓諸指甲,食指外伸,從中旋繞,誦:「那摩薩捫達,班[嗈-邑+夕]尼,嗡達惹達惹,都如都如,摩札摩札,奔達奔達,薩瓦札阿札底哈得,薩西梅薩摩奔答,姑如姑如,達惹達惹,薩捫達班則,姑如阿摩類,姑如那,摩耶都達耶都達耶,巴惹巴惹,迦惹迦惹,蘇彌摩薩捫達,毘朵那薩耶左拉雅娑訶。」想牆各方火燄熾然周遍,而為結界。 (寅二)四支念誦靜慮之正修分二:(卯一)四支念誦靜慮,(卯二)依彼如何念誦。今初 《後靜慮》云:「於彼天身處,最初供養已,智者瑜伽處,於前想善逝。」此說先供諸尊,次自修為本尊。《釋論》中說:「供養為例,亦應潔淨守護自身處所請本尊等,以若不修彼等,更無供養時故。潔淨等事於一切法皆當了知。」佛密論師許是次第。《蘇悉地儀軌》說先自修為天身,次迎本尊修供養等。若就修行次第,前說似稍便利。然此多依勝菩提說,且如後釋。 此中分二:(辰一)自起為天,(辰二)前請智尊修供養等。今初 端身正坐,從勝妙境內護諸根,項如孔雀,令出入息徐徐遊行,兩眼微開下視鼻端,齒相密合,舌抵上顎,遍緣無餘諸有情聚,欲於苦中救護彼等,荷負重擔發大悲心。為利彼故願得無上菩提,當發大菩提心,集修福德資糧。以住此心所修眾善,皆能引發一切種智由此加持諸善,即在生死亦能引發無邊安樂。 次當修勝義菩提心,如《後靜慮經》云:「後解脫諸支,無二種分別,細不動明顯,慧觀現在前。」謂彼外道徧計之我,雖於名言亦定非有,故唯於五蘊假名為我。如是即是我之真實。時者,謂於迎請本尊修供養等之後。如何修者,謂依勝義觀慧正觀察時,非是他身眼等諸識所能分別,我亦不能分別他境。於勝義中頭等諸支,亦皆解脫不成實故。此破真實能取所取,顯示二空,即是明我真實。然如夢心,由內錯亂增上現顯為境,誰能破除。若執二空識為實有。此亦無少自性最極微細,故名曰細,此顯我之勝義真實,離於一切戲論之相。修彼之法,由不動等顯示,至下當釋。勝菩提論師與佛密論師所說義同。 如我真實於勝義中永離一切戲論,天之真實當知亦爾。此二如水乳合不可分離,於此無分別光明門中,修我與本尊合一之慢。於無所顯,自心明了決定,而修靜慮,即勝義天。如是修習人法我空之空性者,與餘續部在修天前,先誦「娑跋瓦」等真言而修空義,同一關要。從彼定起,緣爾時本尊之真言音相,是為聲天。《蘇悉地儀軌》中未說此法,於此中間說修彼心如月輪相,此義二師相同。次想爾時咒字之相於空中現,猶如寫成。如淨水銀吸諸金沙,想於我及本尊真實無分別行相心,所變月輪之上,次第安布,是為字天。《蘇悉地儀軌》中說為所誦之咒,二大論師皆未明說何咒。若是佛部,修尊勝咒「嗡[口*種]娑訶」,若光明天,謂「嗡瑪日則芒娑訶」等短咒亦可。如是蓮華部,修觀自在等,金剛部修金剛摧懷咒等,亦當了知。佛密論師但說次從月輪放光,此當如勝菩提論師所說,從月及咒放種種光,光芒皆有所修天像,遍虛空界,化為大供養雲,供養一切諸佛。又從所化大雲降甘露雨,息滅地獄火燄令彼安樂天。像光明次皆收回入,於自心月輪。修成爾時本尊,而起與自不異之慢,是為色天。滅地獄苦是例,亦可息滅餘有情苦。 次修印天,如《後靜慮》釋云:「從彼起已,以白毫頂髻等印,印諸支分。」此如諸續,說結頂髻白毫眼目等印,誦彼真言。即以諸印觸著彼處,加持三部諸天之頂髻等,此即替代餘部加持眼等。若未能作如是修者,勝菩提論師云:「次結本尊三昧耶印,加持心額項肩。」即以前說三部之三昧耶印咒加持。例如尊勝、楞嚴、文殊當以佛部咒印加持,一一應知。第六天者,如《後靜慮》釋云:「有世俗三摩地相。」又說名:「有分別天。」餘處說名相天,即是修[A9]已生起之本尊也。 ᅟᅟ==[A9] 已【CB】,巳【補編】== 如是修六天者,《後靜慮》云:「我性如是已,由真言識修。」釋此義云:「真言識謂六種密咒,即是六天。由彼熏修內心相續,即名修彼。」《金剛摧壞經》廣本中明顯宣說。佛密論師《金剛摧壞釋》引文云:「瑜伽師先洗,安處金剛座,供白修六天,空性字聲色,印相是為六。」又云:「諸佛菩薩,由空性等六種菩提,成金剛手。」此代餘部以五菩提而生本尊。《後靜慮釋》釋此理云:「此且總說真言識修次第,若有餘處說餘相者,亦應作如是修。」此說事部中起天瑜伽法,與此同或不同,皆應依之修習。修六天有二種,一於六天依次思惟,及於天身色三昧耶形等依次思惟,於多所緣多行相轉,是為靜慮修法。二於靜慮所思天身,不思多相,專一而住,是為三摩地修。三摩地者即是心專一趣義故。此如《後靜慮》云:「由真言識修,護住三摩地,命力善防護。」初句與「住三摩地」者,顯示二種修法,餘文明於三摩地修時,防護命力。 修此次第,謂如前說身善安住,不散分別,乃至色天如次修習。先取自為本尊之慢,次當知從眼耳鼻口臍男女根,不淨孔,髮毛孔,出入之風,是名為命。力謂憶餘所緣向彼流散之念。防護彼二,謂止出入息,如龜藏六,似舌飲水,如是由上行風,身內一切遊息,及於諸根聚落任運散動非等引意,向內收攝。如屋內人向外觀望,眼稍合閉,面略上舉,緣自為本尊身,專一等住。命力義如是者,以前引《大日經》即可成。立又命如上釋,力謂止出入息斷其散動。隨自堪能如是攝持,至不能時,徐徐放息,觀自為本尊。次仍如前修,修習疲勞休息之法,至下當說。此中須於明顯天身,生三摩地心久安住。良以風是心馬,能攝持風,則於一境心易攝持。依此密意,故《後靜慮釋》中說攝持風。如云:「心如國王,為念定作意等眷屬圍繞,乘於命馬,若能捉其命馬,則亦擒獲心王及其眷屬。餘處亦說應滅其命,由滅命故,能攝自心及念慧等。」修習靜慮雖須防護,然彼多所緣轉,非如修三摩地趣一所緣而善防護。故但云「護住三摩地」,未說靜慮。 此修幾久,如《金剛手灌頂經》說:「乃至獲得一切威儀,能以明顯天身及天慢心遮庸俗慢。」是故唯於天身明顯持心,猶非具足。須天慢堅固於彼心。此等當於無上部生起次第時廣說。無上部中於天瑜伽堅穩之後,方說持風之風瑜伽,此中則說與於天身持心同時而修。勝菩提論師雖未說此,然佛密論師顯釋續義,極為重要。若於六天,同時修風瑜伽,及於天身持心,則以先請智尊修供讚等,極為便利。後請智尊等,次第不便。若是初修,次第當如佛密而修。若已承事,次作灌頂,依瓶沐浴,並修自他悉地等時,兩種漸次隨修皆可。若後修自起者,爾時亦修供讚,可如餘師所造諸事行部儀軌而修。若先修者,以前曾未別修,故可同時修供養等。 修自起時,諸餘論師,說圓滿修各各諸尊。此二論師,則說先承事時修自起者,但修各部正尊即可。若已承事,於後修自他悉地時,則自起中所說諸尊俱修為善。 鈎入智尊灌頂及印證等,可依餘師所說修習。以二論師未說不修,故不相違。 密宗道次第廣論卷三終 密宗道次第廣論卷四 宗喀巴大師造 法尊法師譯 事部道次第品第二之二 (辰二)前請智尊修供養等分六:(巳一)起所依處,(巳二)請能依天,(巳三)示印,(巳四)供讚,(巳五)行懺悔等,([A1]巳六)修四無量。今初 ᅟᅟ==[A1] 巳【CB】,己【補編】== 於自前方陳設繪像等處,想有眾寶所成地基,金沙徧布。誦「嗡[嗈-邑+夕]拉毘吽娑訶」而加持之。再想其上有香乳海離諸垢穢,青紅蓮等眾華莊嚴,無量寶鳥飛翔其上。誦:「嗡[嗈-邑+夕]摩拉答哈吽」而加持之。次想海中有須彌山四方四面級鬘莊嚴,金銀琉璃玻璃所成,周帀叢生妙如意樹,千座尊勝幢幡為飾。又想其上有大蓮華眾寶莊嚴,具足種種奇珍為瓣,純金為蕊,玻璃為珠。蓮實之上銀絲圍繞,量廣多踰繕那,從須彌山中出。又從此生百千萬億妙蓮華網。敬禮合掌互相交叉,以右大指按左大指,誦「那摩薩瓦達塔伽達南,薩瓦塔鄔伽得,帕惹那黑芒,伽伽那康娑訶」百遍而加持之,剎那於上想有寶蓋。此處雖未說修宮殿,然儀軌中下說,送回宮殿,故亦當修。於前蓮華中心,或如餘師不從字生忽爾頓現,或從[口*種]字出生。後生蓮華為諸尊座亦可。 此二論師於自起時,未說出生宮殿及諸座位。餘師修法,則說出生獅子座等,蓮華月輪,諸有情座。並說尊勝佛母於塔中出生等。 (巳二)請能依天 迎請須用閼伽,故當先修閼伽。其器或用金銀木石,或諸餘物。一切吉祥謂赤銅器。若修息災及上悉地,用大麥及牛乳。若修增益及中悉地,須用胡蔴及酪。若修降伏及下悉地,用牛尿及粟米,或血閼伽。通一切羯摩吉祥者,謂用米花、塗香、白花、茅草、胡蔴、淨水配合陳設。熏以燒香,誦前所說或明王咒,或總部心,或各部一切羯摩咒,或誦迎請真言七遍加持閼伽。 次向前面繪像等處禮拜,以膝著地。諸指內交仰手向上竪二食指,搖二大指結召請印。誦云:「由信三昧耶,世尊請速降,受此閼伽供,維願愛念我。」次於咒尾加誦「鄂黑耶醯」捧閼伽器,若是佛部齊額供献,於餘二部平胸及臍供献。觀想自類智尊降臨。 所用真言,《蘇悉地經》〈迎請品〉說,以明王真言請天子,以明妃真言請天女,或以各各咒請。若以總部心請最為殊勝。如請尊勝佛母即誦:「唧那唧鄂黑耶醯。」又所請天,若坐若立若側,應亦作是狀,用閼伽迎請。若不能如所說而辦閼伽,應求容恕,隨有而請。 請幾尊者《後靜慮》云:「具足密咒等,眾明咒忿怒,皆向如來身,滿定故常住。」釋云:「於自前方想有佛身,剎那而想明咒密咒忿怒使者及使女等,徧虛空界周帀圍繞,自亦任持天慢安住其中。以明咒等常住佛前,故持咒者,亦應修天瑜伽向佛而住。」 次結前說蓮華部之三昧耶印,是即蓮華坐印。即從此印,三指如金剛杵,是為金剛坐印。從此印二中指相併,是為勇士坐印。此等真言,謂「嗡迦摩拉雅娑訶」,又「嗡班[嗈-邑+夕]阿薩尼吽泮」,又「嗡班[嗈-邑+夕]迦吽泮」。由此咒印奉献諸尊適宜座位,奉座請坐。或可誦「善來大悲尊」等頌,及「愍我及眾生」等頌,奉献座位。 ([A2]巳三)示印 ᅟᅟ==[A2] 巳【CB】,己【補編】== 次誦「嚮迦熱薩摩耶娑訶」。右大指按小指,餘指作金剛形,示此三昧耶金剛印。次示下三部印,誦「唧那唧」等三心咒。印者,兩手互握為拳,示二大指。又即此印左手大指內收,示右大指。又示左手大指。如其次第是三部印。 次應結諸部大三昧耶印旋繞,於諸隨來魔碍所作一切障難,成大守護。若不能行,當誦爾時明王真言加持芥子,驅逐隨來魔碍。 ([A3]巳四)供讚分二:(午一)供養,(午二)稱讚。今初 ᅟᅟ==[A3] 巳【CB】,己【補編】== 諸供養物,應如前說辟魔、清淨、增長威光。《蘇悉地經》說以供養咒及各部真言清淨,應如是修。 次小指無名指向內互鈎,二手中指並竪,食指鈎觸第三節上,二大指附其側,結閼伽印。誦云:「善逝薄伽梵,請降臨住此,受我閼伽供,維願證知我,敬仰於世尊。」又於本尊咒後加誦「阿岡札底剎娑訶」,供献閼伽。 右拳食指與大指作鉗狀,取浴足器內花,作諸指漸放印。誦前頌文,於閼伽處改為浴足,咒後加誦「嗡札瓦惹茜迦讓,札底剎娑訶」供浴足水。 若能辦者,次於鏡中現影像而浴佛。若不能辦,則可平仰合掌,食指與大指端相合,結浴身印。誦「嗡薩瓦得瓦達,阿臻底,阿彌達,娑訶」想以金等無量寶瓶香水充滿,成香水雲而浴佛身。次自運意供養衣服莊嚴,奏諸伎樂,運意演唱讚美歌音。 次右手結施皈依印。左手擎其腕,是為塗香印。誦:「清淨從淨生,諸天妙塗香,我今信供養,受[A4]已愛念我。阿訶惹阿訶惹,薩瓦毘雅,答日補唧得娑訶」奉献塗香。唯除燈明,餘三供養咒亦如是。 ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,巳【補編】== 兩手諸指交叉,二食指端在手內相鈎作環狀,大指附著其側,形如蓮華是為花印。誦「清淨從淨生,諸天微妙花,我今信供養,受已愛念我。」供献妙花。 兩手小指中指及無名指互相附著,前前指甲背處稍屈,二手食指別竪,二大指附其側,為燒香印,誦「可意林精華,和成天妙香,我今信供養,受已愛念我。」以此供香。 由仰合掌,略屈食指,為飲食印。誦:「可意藥精華,此諸真言食,我今信供養,受已愛念我。」以此供食。 大指中指並竪,手握為拳,是燈明印。誦:「吉祥除損害,善妙遣黑闇,我今信供養,願受此燈明。阿羅迦雅,阿羅迦雅,毘雅答日補唧得,娑訶」供獻燈明。 經說各部各尊,應供各別供物。若未能辦他部供品,可用餘部真言加持而供。閼伽以下諸供若不能辦,經說以彼咒印運意明顯觀想而供。彩繪花等亦可供養。縱有供品,亦須運意為先,故說意供最為殊勝,如是隨力修供養已。前說加持處所真言,此處亦當誦一百遍。 (午二)稱讚 次如《蘇悉地經》所說,當讚三寶及三部主。「依怙具大悲,大師一切智,福田功德海,我敬禮如來。清淨離諸欲,善故脫惡趣,純一真勝義,敬禮寂滅法。解已說解道,善住諸學處,具功德勝田,敬禮諸僧伽。受持童子身,莊嚴智慧炬,滅除三世闇,敬禮妙吉祥。諸佛所稱讚,修集妙功德,名稱觀世音,敬禮常悲者。大力忿怒身,善哉持明王,降伏諸難調,敬禮持金剛。」又當念誦本尊別讚。次誦百遍出生讚真言云:「那摩薩瓦布答薄底薩埵南薩瓦札,桑姑如彌達,阿毘賈惹,希尼那末都得,娑訶。」 ([A5]巳五)行懺悔等 ᅟᅟ==[A5] 巳【CB】,己【補編】== 於先造罪猛利追悔,具足堅固防護之心後不再造,當悔罪云:「一切世界中,所有諸如來,菩薩阿羅漢,願皆證知我,於我一切生,所造諸罪障,在生死海中,往生及現世,由貪欲愚痴,恚怒所憤發,於佛法僧[A6]伽,師長及父母,阿羅漢菩薩,隨一供養處,并餘有情類,有德或無德,自造諸罪業,及教他令造,或復少隨喜,放逸微細罪,身語意所造,總集盡無餘,我今如現對,諸佛菩薩前,至誠恭敬禮,以厭患心意,合掌將諸罪,數數而懺悔,我所造眾罪,如佛所現知,我今如是悔,後終不復造。」又當勇猛至誠皈依,誦:「為滅眾生苦,我乃至命存,恭敬正皈依,佛法及僧伽。」次誦:「於諸正法財,等住我隨喜,為生無分別,故請轉法輪,至所化滿足,願不入涅槃,如昔諸佛子,所發宏誓願,我亦以善心,如是發宏誓,願一切有情,安樂靜無病,願能作眾事,亦具足功德,有財能施捨,慧忍信善法,有情一切生,能憶及悲愍。」於此等義專意念誦。 ᅟᅟ==[A6] 伽【CB】,加【補編】== ([A7]巳六)修四無量 ᅟᅟ==[A7] 巳【CB】,己【補編】== 次緣一切苦惱眾生,發悲心,願令離一切苦。發慈心,願令得一切樂。發喜心,願令享成佛之樂。發捨心,願令證無上大般涅槃。 次誦:「令無邊有情,息滅一切苦,度越諸惡趣,解脫眾煩惱。逼迫三有中,所有種種苦,為救護彼故,我發菩提心。我願常救護,一切苦眾生,無依者為依,無怙者為怙,無皈者為皈,苦者令安樂,我為一切眾,息滅諸煩惱。此生及他世,所修諸善業,維願悉皆成,福智二資糧。我由六度門,精進所修習,願彼能饒益,一切諸有情。無邊生所修,或復少修習,總為諸有情,息滅一切惑,度脫而精進,乃至證菩提。」為欲度脫苦惱眾生發菩提心願當成佛,決定令與身心相應。 面前所修之天,二大論師皆許為迎請之智尊,未說新生。餘師則謂前請之天為資糧田,修資糧已。自起為天,鈎入智尊,修習念誦。僅有少數說緣前面天而修者。修天疲勞,次修念誦。修天瑜伽為修悉地之正方便,故今此中,如前所說,於自所起天身,明顯持心為主。亦於時時明觀前方如自之天,隨力持心。此二即四支念誦中二種事支。 (卯二)依彼如何念誦分三:(辰一)預備數珠數念之法,(辰二)緣何所緣念誦之法,(辰三)遇障重修念誦之法。今初 如是乃至未厭煩時修天瑜伽,修厭煩時當作念誦。數珠之質,《蘇悉地經》中說佛部用菩提子,蓮華部用蓮實,金剛部用茹惹夏最為第一。此若不備,可用木槵,海螺、水晶、真珠、珊瑚、摩尼、牙骨、泥土所作,或餘草子。《妙臂問經》說錫銅鍮亦可作珠。 數量,或一千零八、或一百零八、或五十四、或二十一摩尼等,須鑽孔,及以牛身五物洗淨。珠索,以童女所捻三股線穿貫作結。將珠捧於手中,頂禮師長本尊,誦三部真言百八遍。「那末惹那札雅雅,嗡阿部得,毘[嗈-邑+夕]雅,悉得悉答退娑訶」又「那末惹那札雅雅,那末阿雅阿瓦羅格得,穴惹雅,薄底薩埵雅,摩訶薩埵雅,嗡阿彌當,迦雷希耶希摩利那娑訶」又「嗡格日格日,熱只尼娑訶」如其次第即是佛等三部真言,此是最初加持念珠時修。後念誦時,合掌敬禮師長本尊,捧珠手中,念誦真言七遍。「嗡拔伽瓦帝悉地悉答雅,悉答退娑訶」又「嗡巴蘇摩底,希耶娑訶」又「嗡班[嗈-邑+夕]雅[嗈-邑+夕]達那則耶娑訶」如次即彼三部真言。平胸持珠,隨用左右一手,伸中指與小指,食指置中指後,於一切業皆可以大指及無名指數。於降伏事,則以食指數之。《妙臂經》說誦時應持前說之羯磨杵,若未備者,應結金剛拳而念誦。 (辰二)緣何所緣念誦之法分二:(巳一)緣字形念誦,(巳二)緣字聲念誦。初又分二:(午一)緣前尊心間字形,(午二)緣自尊心間字形。今初 《後靜慮》云:「住聲心及事,咒依不變事,不失支誦咒,疲於自休息。」意謂應當誦咒,持誦之法謂不失支,即不捨棄四支而誦。事有二種,初謂自住天慢,二謂於前修為如自之天。心謂於前尊心間所立之月輪,即第三支。聲謂於月上安立所誦之咒鬘,即第四支。住彼等者,謂持誦者相續緣彼繫著不捨。自緣何事修習念誦,即於彼事極善修習。令天明顯無有退失,故云依不變事。即是聲心之咒,所安立處之事。總謂如前所說防護命力,由具四支念誦門中,俱時緣慮前尊三支而修念誦。放棄息時,觀自所修天身。次仍如前修習。休息者為除散亂故,於自事休息,即異熟身,謂於自身捨天身觀,想異熟身而從定起。捨觀漸次,由緣字形,而捨持誦咒字之聲。由緣無字月輪,捨彼字形。次由但緣佛身,捨彼月輪。由唯緣自天身,捨前尊身。由緣字形,捨自天身。由緣字聲,捨其字形。由緣智身,捨其咒聲。由緣法身,捨彼智身。此即緣無所得我之真實。復想現似幻化陽燄等異熟身。此即於自休息之義。「由緣字形捨自天身」等者,即初修本尊時所觀字天、聲天、月輪及自與天真實合一之慢,我之真實離戲論等。此中休息,說為止息散亂,故若戲論散亂起時,當漸收攝所緣,最後住於空性,次於如幻起定。故起座時,不應不持本尊之慢。餘師依止事續所造修天儀軌,亦多宣說一切威儀當持天慢。 (午二)緣自尊心間字形 《後靜慮》云:「從事中起事,具足不變字,如是自咒觀,應想意清淨。」言如是者,謂除前說,顯餘所緣,即應想意清淨。從意所生故說名意,即是心間月輪。無貪等垢,具一切分無垢光明,故名清淨。此復具足真言字鬘,由善修習光明不變,故是不變諸字。意現為月具足諸字不變不離,故名具足不變。觀是月輪,是為安立自咒處所。 總謂如前所說防護命力,於自面前較自略高非太遠處,修如來身。想彼心間月輪安布咒鬘,轉於自修為天之事。謂入息時,想隨息入,移入自心,乃至未放息時,緣彼念誦。若放息者,與息俱放,還住天心,次復如前移入自心而誦。 (巳二)緣字聲念誦 《後靜慮》云:「由防護命力,收攝鈎錄意,合密咒明咒,當修意念誦。即以此儀軌,或復小聲念,求明咒悉地,莫作餘念誦。」緣咒聲之意,當合咒念誦。此應如前所說防護命力,將彼任運流散非等引意收攝鈎錄。謂先明觀四支念誦,次不緣念所誦咒形及月輪等,唯緣咒聲念誦。此復非如聽他誦咒,是緣彼咒所發之聲而自持誦。此緣咒聲儀軌,或意念誦,或小聲念。《釋論》中說,若護命力,則不能作小聲念誦。經說防護命力及以兩種念誦,釋謂此於前二(緣字形之二種)亦當例知。 若爾三種所緣,一一皆有二種念誦,何者應先修耶?從粗漸修,先當小聲念誦,若能於彼心不散亂,次護命力修意念誦。《釋論》中說:「初於天月咒鬘三法,為三所緣。中於月輪咒鬘二法,為二所緣。後唯緣聲為一所緣。」每一補特加羅俱須漸修此三。若勝菩提論師,雖僅說緣自與前尊心間月輪所布咒鬘而修念誦。今依佛密論師詳釋經義。天竺餘師依止事部所造儀軌,亦有說想咒鬘放光供養諸佛饒益有情。 正念誦時,如何行者?《妙臂問經》〈第五品〉云(漢譯第六品):「誦時不應太急緩,聲不過大莫太小,不共他語不緣餘,字體勿令有缺失。」又云:「懈怠貪愛不善心,隨於何境起散亂,速從彼境迴其心,善住密咒最勝字。」《蘇悉地經》如上已引,謂正誦時,除緣爾時本尊等境,雖餘最勝所緣,亦不應起作意。 息災增益宜緩,降伏念誦可令他聞。 念珠,初用及最後時,應禮諸尊。珠串滿時,當用目視彩繪等像,或塔或座。 念誦時量,上午應修一時。初夜後夜各修半時。日中,或修半時,或三分,或四分,或略念誦。晝日念誦者,夜作護摩。夜間念誦者,晝作護摩。念誦終了若作護摩,最為第一。 念誦數量,如《蘇悉地經》說:「十五字以下,應隨字多少,誦爾許洛叉(十萬),若字三十二,應誦三洛叉,字若多於彼,當先誦一萬。」不如餘部,隨眷屬多少也。 (辰三)遇障重修念誦之法 如《蘇悉地經》說,若念誦時,勿爾惛睡,或復呵欠、嚏歕、謦欬或失惡氣,大小便等。即應置珠,起立經行。次作洒淨還從首念,以上所念不能入數。或由放逸誦他真言,意白本尊重修念誦。或遭魔障、或為病苦、或是懈怠、放逸、身心疲倦、修法違越所說時量或不防護,或不潔淨,所作念誦;或是夜間惡夢,晝日未誦部主真言百遍,所作念誦,皆不得入念誦之數。又說若於一處誦至半數,另於餘處誦滿半數,如此念誦數雖滿足,然彼一切皆無義利。前說念誦越時,時非時者,始從日出半輪至一人影,是上午時。日中八時、九時(此是一日作六十四時分)是為中時。下午從一人影乃至日沒半輪,是下午時。此為晝間諸時。從日沒半輪至初夜半量,是初夜時。從後夜半量至日出半輪,是第二時。從中夜起修降伏法、隱身、尸林等法。如修息災法等則與彼時相違。此是儀軌中說務須了知,以說非時所作念誦,不入數故。儀軌引之:「行者念誦畢,當誦廿一遍,部母及部主,常恆為衛護。」三部部主謂妙吉祥,觀自在金剛手。三部部母謂佛眼、白衣、摩摩格。 (寅三)四支念誦靜慮之後行 每座念誦滿數或餘之後,右中指置無名指後,左手中指亦置無名指後,互相交叉。右手食指握左手中指、無名指,左手食指亦握右手中指與無名指,兩手小指並竪,二大指按二大指之中節,結為瓶印。獻善根云:「我此善根為某悉地之因,今奉世尊,維願世尊賜某悉地。」有說不念誦時以此手印奉獻數珠,念時仍取。是無觀慧者之言說。 次求容恕未能全如經軌之過,如前說修供讚。次以前召請印,二大指向外撥,為發遣印。念誦各各心咒,或總心咒,末後加「伽剎」字,想諸宮殿一並發遣。 次仰左手,右掌按上,諸指互交,指端下垂,平心而住。是不平等支印。由左旋繞,誦:「嗡呼魯呼魯,軍札利,摩地格毘娑訶」解除前所結界。 次讀般若等經,修六隨念,塗曼陀羅,印制多等。 日日洗滌供器,供奉鮮花,三時禮拜,所著法衣等,須三時咒洗、香熏、洒淨、念誦、護摩、供養等,時常著上衣,除睡臥時。除睡眠洗浴外,不脫下衣,勿得汙衣。加持衣咒:「嗡惹卡惹卡摩那,薩瓦布答,阿底叉那,阿摩唧拔惹娑訶」如說於承事時施鬼神食,故當施食。又以童女所捻紅線,用俱遜婆(紅藍華)或鬱金染。結成七結,誦:「嗡阿訶惹阿訶,惹奔答尼,許札答惹尼,悉答替娑訶」千遍,夜繫腰間防泄不淨。 如是上午日中、下午三時沐浴,修如上說念誦儀軌。《蘇悉地》說:半月半月,絕一日食。取黃牛乳、酪酥、糞尿和水、茅草,咒經百遍,面東蹲坐,置閼伽器,頓服三兩,半月所受一切穢惡之食皆當清淨。真言即誦:「那末拔伽瓦得,鄔尼沙雅,鄂毘許得,毘惹[嗈-邑+夕]希,毘馨底迦日娑訶」又「嗡雅穴剎娑訶」又「那末惹那札雅雅,那摩軍札班[嗈-邑+夕]拔那耶,摩訶藥叉茜那拔達耶,嗡希喀希喀,尼摩雷,札北娑日,得左得左拔底娑訶」如其次第即是三部真言。 (丑二)不待念誦靜慮分二:(寅一)釋住火住聲靜慮,(寅二)釋聲後靜慮。今初 《後靜慮》云:「咒住火成就,住聲給瑜伽,聲後給解脫,是此三真實。」此說住火真實,住聲真實,聲後真實。《釋論》說修六天以上,是二種靜慮之前行,然於此處亦說現證密咒及明咒之色等。是故生此靜慮,亦須先於六天明顯相續久住,本尊瑜伽亦須明顯而修。 言住火靜慮者,《後靜慮》云:「不分別生法,智者善自護,咒師超支住,無著修靜慮。聲連合為鬘,字相串不變,如鈴聲無斷,意取著思惟。住火內寂靜,語靜支具足,思惟止命力,斷睡眠為性。」此中最初四句顯示先思我之真實,意謂當修靜慮。誰能修者謂持咒師。如何修者謂應無著。此中著謂執實。著世俗天非此所遮。此復抉擇眼等諸支非勝義有,超出眼等住離戲論。住謂不起,安住之理,謂非眼等根識所能分別,不能執取,即是意識。從彼相應所生諸心心所即自,謂自意中不令生諸垢纏防護而住。智者,謂具智慧能觀真實。本尊諸咒於彼定中,或如聽聞或發音響,此是聲天真實,與我真實猶如水乳二合為一。如是思惟瑜伽,若時明顯,則彼咒師是已住於聲天瑜伽。咒字連合安布為鬘,意於彼中取著思惟。是字形連合為鬘耶。謂彼咒聲連合為鬘,經說如鈴聲故。為令此義決定,說「字相串」。不變者,謂字不斷不動,如外鈴聲相續生故。即於彼聲應不執實而修靜慮。 次想自為本尊,心間有火熾然,如燈燭燄。復想其中有前所說聲鬘而住。此無熱等損惱,故云寂靜。語清淨者,無彼微誦意誦之二。其所修咒一一字之支分,無間具足。如是思惟遮掉舉故,云止命力。此若不遮,等同畜類無有等引心故。遣沉沒者,以除沈分所攝睡眠顯示。此非謂是自心默誦之相,是如聽聞他人誦咒。自心變成咒音之相安住火中。若時現起不飢餓等內外諸相,如所思惟即能成辦,乃至爾時應修此二靜慮。釋論中說外相,謂無飢渴等惱。內相謂由緣火及風加行力故,依止樂暖之三摩地。此於四支念誦之後修之,或餘時亦可修。《釋論》說此是為發生咒力及住心而修故。住火能令念誦有力,令心安住,故說由此能給成就。 其住聲者《後靜慮》云:「住聲靜慮者,謂心間微細,無垢淨月輪,其中最寂靜,火燄具妙光,彼住不變事,樂住思惟聲,或不變安字,唯應思惟聲。」於心間思惟微細無垢月輪者,以大則難斷分別故。前說彼月輪中所有火燄,於彼安住不變咒字天身之事。其次捨彼,唯緣咒聲而修靜慮。出息之時,還復緣自天身。此中緣聲,不緣天身、月輪、火燄,故與彼四支念誦中二種念法及住火皆不同。所以作是修者,以餘論說,修聲或息之靜慮時,若緣色者心散亂故。通達勝義之菩提心,安住一相謂無餘相,故名不變。是故表示此心之月,亦名不變,緣彼月上所布咒字。次應捨彼唯緣聲音而修靜慮。故與四支念誦緣聲不同,彼是先於天身心休息已後唯緣聲,此乃先於咒字休息而緣聲故。釋中如是判別,且就所緣境分。然主要之差別,前於默念之中而緣聲音,此則非念誦相緣咒聲故。又數說為不待念誦之靜慮故,釋論於此亦說遮止命力之風瑜伽。 (寅二)釋聲後靜慮分二:(卯一)放捨住聲次第,(卯二)正釋聲後靜慮。今初 言聲後者,謂於唯住咒聲亦盡捨後,為無二之真實。由修習此,脫離二障能得法身自性解脫。《後靜慮》云:「觀待現為支,有聲及由意,語淨明咒王,捨支佛所知。」此說聲後靜慮,由修何等漸次能給法身解脫。故此顯然說道次第,及於何時修空性之界限。《釋論》云:「入密咒行諸瑜伽師,由於密咒支分、有聲、意誦、語清淨時,次第漸捨而得現證法身,故說聲後修習法界自性,能給解脫。」言明咒者是舉一例,亦指密咒。彼二王者,即自所修天子天女等相。彼支者,謂屬彼諸天,即彼一分或彼一時。捨彼者,謂漸捨諸位。此復有四,一待命力苦行及靜慮等,咒師自現為天之支,即自現為天身。二有聲支,即微聲誦咒時。三唯意支,即由意誦咒時。四微念意念二語清淨支,即離彼二住火住聲靜慮,心現為咒聲之相也。捨彼等者,謂於前前穩固轉入後後。如《釋論》云:「欲求解脫,從粗漸捨之次第者,謂修收攝、苦行、靜慮及命力等,緣自天像,令最粗三摩地極為穩固。由緣微念咒聲之三摩地,徧捨緣最粗定,粗三摩地修令穩固。其緣粗者,又由微細意聲三摩地故徧捨,次復捨彼安住最細。密咒分別三摩地中,次復捨彼,欲求解脫當善緣法身三摩地。」如是漸捨四支而修空性,是給解脫次第,謂佛所知。或釋為呼明咒王曰:若捨諸支,便當成就了知咒義之佛。是兩釋中,後者與略標云「聲後給解脫」,極相符順。 若緣天身亦須棄捨,何故聲後唯說捨聲,捨初支者是捨咒聲依處,現為天身之咒即是持咒者故。捨中間二支者,是捨咒聲作行。捨後支者,是捨咒聲自性,故捨彼等亦可說為捨聲。彼等一切,於緣真如定前皆不顯現,故說爾時棄捨。 此中所生之三摩地總有三種,謂緣天身,緣天語咒,及緣天意真實。初云最粗者,即極粗顯三摩地。第二較前微細,第三最細。以於身中須從粗漸生故,次第決定如是。其中先須天身明顯及能久住二和合生,是故須以多相靜慮修令明顯,以所修相須數數作意乃能明顯故。如修欲怖,若未專住,縱能明顯,然於所緣不能如欲而住,故須以專住三摩地令其安住,如上[A8]已說。由如是門能得身調柔者,如《妙臂問經》第五云:「觀視鼻端捨分別,若時境擾不搖動,其人即得明了住,彼心決定得調柔。」其擾亦不動之住分,須離沈沒。以若未生最明了之住分,則不違沈沒故。念誦之前,先須成就堅固緣天之三摩地最為主要。即前經云:「若人具足心一境,其意便生大歡喜,喜故能得身輕安,由身輕安身安樂,身樂心定由定故,爾是念誦無礙著。」其修無過三摩地法,及修已先生心輕安,依此起身輕安,其後乃成具相奢摩他,以前唯生奢摩他隨順。是諸道理,[A9]已於共乘道次第中廣說,茲不重述。四部續中最初成就具相奢摩他時,多是於天瑜伽引導之時。故若未能分具相奢摩他與彼隨順,亦未詳辨如諸大論所說成就具相奢摩他時,則未能知於天瑜伽初引導時須修幾久。 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A9] 已【CB】,巳【補編】== 如是堅固緣身三摩地[A10]已,即應捨彼,進學緣語咒三摩地。捨者謂捨於身持心,另於其他所緣持心,非謂此後便遮天相顯現。以三種念誦及住火住聲之時,亦多說緣天故。 ᅟᅟ==[A10] 已【CB】,巳【補編】== 緣咒有三,粗者,謂緣字形或聲,小聲持誦。即於月上安布字相或咒聲相,學習持心不令他散,能略自聞而誦。如是語中誦咒,心於所緣令不他散,念誦瑜伽至穩固時。捨此所學,進學微細。語不誦咒唯意持誦。心於字形或咒聲相持令不散。乃至此二極穩固時應善修習。此堅固已亦應放捨,進修最細聲性二種靜慮,謂即自心達我真實之所取分,現為咒聲、火燄、持心修習。乃至獲得前所說相。既堅固[A11]已復放捨彼,令自心所取分現為明了咒音之相,與能取分住彼咒聲音鬘而不流散,學此明了安住不離瑜伽。此若堅固,即住聲給瑜伽之義。此二喻如自心專住於所緣時,所取分亦同時明了現為天面身臂等相。如是字鬘所現諸前分相,於後分相現時,亦明了現,心安穩住。 ᅟᅟ==[A11] 已【CB】,巳【補編】== (卯二)正釋聲後靜慮 如是從修天身,乃至住聲持心,由遮命力之風加行,即由緣火,緣天身等,眾多粗細所緣心專住力,能得如《妙臂問經》所說堅固住分,及於身心生勝喜樂,發生身心調柔輕安。尤以久修風加行,力及緣火力,引生樂煖,依此發生有力安樂光明無分別定。然彼不名圓滿次第,亦復未得能斷三有根本我執之道。故當放捨住聲,更修聲後給解脫之空性靜慮。應如何修,此處僅略說者,意謂前修我真實時已廣說訖。此中唯應取前所說而重解說。如前所說,當以教理破除人我法我,先求通達諸法非勝義有中觀正見。若未得此,但不分別,則全無修空性之義。得彼正見修習之理,如經「不動光明」,謂具二種差別而修。若無我見觀察太過,便生掉舉,令心散動。當專住於無我義引生之定解,不可太為觀察。若止修太,過則不樂擇法,欲起不能,任運而趣不分別住。太安住故便能引生沈沒惛昧,成惛沒性。喻如觀察太過,觀分增上,其後反生掉舉。故當雙修觀慧以及專一安住。《釋論》中云:「今當顯示我之真實智慧自性全無沈掉,說云不動光明。言不動者,即不轉動之名,此破慧掉諸瑜伽師,由修擇法分別令心散動不寂靜相而有掉舉。故說心不散動於道寂靜。」此引教證過觀之失,故當學習止修。說擇法慧為掉舉者,義說太觀察後發生掉舉,非說慧即掉舉。《彼論》又云:「如是言光明者,即離惛沈澄淨之名,此亦破除一向修止諸瑜伽師,於擇法時心太安住擇法逆品沈沒相之惛沈。」此亦是說太安住後所生惛[A12]沈,及為擇法逆品之義,非說寂止即是惛沈。與此義同之《修次後篇》云:「若時多修毘鉢舍那智慧增上,由奢摩他力微劣故,如風中燭令心搖動,不能明了見真實義。故於爾時當修正奢摩他。若奢摩他勢力增上如睡眠人,不能明了見真實義。故於爾時當修智慧。若時此二平等俱轉,猶如兩牛並駕前進,乃至身心未生疲勞,應於爾時住無作行。」此說止觀何者增上,即應多修餘一,務令彼二平等而修。若於止品增上,止觀不等不應執為於無分別修得自在。又不應執支那堪布之規,謂於正理所破[A13]未知分齊,凡有彼此之念,一切皆為實執。妄謂中觀論中皆破彼等,便執一切觀修皆是成佛之障。《後靜慮經》本釋亦皆顯說。如《釋論》云:「如是我真實義,雖是無支、無得、無色、無相、不動光明領納為相,然許不斷觀察之道。故云:覺觀住前。覺即是慧,彼於境轉,即是觀察,故曰覺觀。彼覺觀以慧明為相,住於我真實義之前,故云:覺觀察住前。彼意說云:所了自性,雖無分別,然慧光明於前觀察而轉。」此即成立於修真實義時,亦不應捨觀察之慧。總謂住聲靜慮以下修奢摩他,聲後即修毘鉢舍那。然於此時若以觀慧太多觀察,則壞先有住分。故當雜修止觀,而得止觀雙運。 ᅟᅟ==[A12] 沈【CB】,忱【補編】== ᅟᅟ==[A13] 未【CB】,夫【補編】== 若欲成辦如事行部所說無邊事業殊勝成就,則須先修四支念誦,三種真實靜慮。若但欲修諸小成就,則不定須如是修習。 (癸四)得堪能已如何修習成就 《蘇悉地》云:「諸最勝事業,由勝念誦修,若先承事者,亦成諸小事。」《妙臂問經》亦云:「先當如法誦十萬,次乃進修諸密咒,其次速能獲悉地,密咒儀軌非久惱。」《後靜慮》亦云:「盡知咒真實,及以我真實,軌則念真實,其人得成就。」皆說先修四支念誦瑜伽,後修悉地。故於修增慧延壽等息災增益降伏事業之時,須先承事。此乃四部總軌。 息災增益降伏事業,如其次第,以如來部、蓮華部、金剛部而修。上品中品下品悉地,亦如是修。息災者,謂能息滅橫死疾病時疫魔害傳染等災。增益者,謂能增長壽命、形色、威光、勢力、功德及所求事。降伏者,謂殺逐等。修行時節,謂於臘月八月正月二月四月白半月,應修上品悉地及息災法。臘月無諸難事。又息災多宜於秋季,如是增益宜於冬季,降伏宜於春後。又修中下成就於前五月之黑半月為宜。又修上中下品悉地,及修息災增益降伏,時分如次,應於早晨、初夜、中夜、日中。又息災法,從白半月初一至十五日。增益從月半至月半。降伏應於黑半月修。又通宜於一切事業之時,謂神通半月(《蘇悉地經》謂十二月一日至十五日。)及日月蝕時、初一、初三、初五、初七、十三以及鬼宿諸時。 處所,謂上中下悉地,如其次第,可於山林等處,海邊等處,除此所餘隨順咒處。不應於傾屋等中修。 坐相,修息災法宜蓮華坐;修增益法宜吉祥坐,修降伏法宜足壓足。面則如次向北,向東,向南。 一一部中各有三品成就,息災增益降伏三事。又以各部部主、部母、明王、修息災等三事。又三品成就有多門分別。就自性者,持明、神通,知諸論等為上成就;隱身合藥及疾行等為中成就;攝召殺逐等事為下成就。就部別者,三品已說。就現相者,其物光燄、煙氣、溫煖是為三品。就事[A14]辦者,屬身、屬物、屬財富之成就。就能說者,謂諸聖者、諸天、地仙真言。給成就者,雖是上品,行者不善承事,亦有給下品成就者。若善承事,雖是下品,亦可從他轉求,給予上品成就。 ᅟᅟ==[A14] 辦【CB】,辨【補編】== 修悉地前,觀察成不成相,謂於月半,或於白月吉日,受持齋戒,一夜乃至三夜觀察夢相。用酸果等澡料,及以香水沐浴洒淨,著鮮淨衣,於初夜分,如上所說奉献閼伽,次請本尊,用白檀等燒香熏後而為供養。供獻眾多上妙酪伴供食,以酥護摩一百八遍。次用隨順事業之白膠香而作護摩。再將童女所捻線索,結成七結。用本尊咒加持七遍,繫左臂上。祈禱本尊,願於夢中示知所修成不成相。自作本尊觀想,安置茅座上敷散華,誦持真言而臥。夢中若見三寶、本尊、菩薩、四眾弟子,或夢登山、乘象、度河、得財、得衣服等,諸可樂夢,即當起修。 次正修者,或修護摩,或持誦真言等,如前修法,皆當修行。謂應三時供養、懺悔、隨喜、發願、諷般若經、作曼陀羅、受三律儀、三時守護、三易其衣而修。若由放逸未能三時修者,當誦本尊真言二十一遍。上中下等三品成就,如其次第,三日、兩日、一日受持齋戒。此等皆如《蘇悉地經》所說。 修此等時,唯於前方迎請本尊猶非具足,要須新生。其修曼陀羅及修瓶等法,此二論師所許,以前所說六天而生。正念誦時,於四支念誦中如應取其初二。裝瓶藥物及生起等,可如通規。又修如是天瑜伽時,《蘇悉地》說若少飢渴,若從病愈,若發勝慧,若增威光廣大堅固,若得善夢,常夢實事,若於念誦倍增歡喜,若少疲乏身香芬馥,樂修功德,敬重本尊是為持誦相應之相。《後靜慮》說,若心不信、懶惰、飢渴逼惱、增上掉舉、增上憂慼、猶豫事業、念誦靜慮心不愛樂、喜說雜言、作非所作、魔所著附、夢惡夢等,是為本尊棄捨之因。若貪瞋憍誑等皆寂滅,心於念誦相續而住,是為本尊現前之因。初承事時當知,亦爾又為利益自他修治病等微細成就,及行灌頂開光等事,若先已由六天三摩地及四支念誦門中,圓滿念誦之數,則雖未修三種真實靜慮,亦甚可行。有於彼時,亦修三種真實靜慮,及修三種念誦所緣,是未能知界限之過。 堪哂略知於齋戒  一分念誦浴軌等  自謂盡解事行義  故愛契合經義道 此於事部四總續  特於妙成後靜慮  如印二師所解釋  詳求密意而開顯 是觀事部唯一目 密宗道次第廣論卷四終 密宗道次第廣論卷五 宗喀巴大師造 法尊法師譯 行部道次第品第三 (壬二)行部道次第分四:(癸一)為成修道之器而行灌頂,(癸二)成道器[A1]已淨三昧耶及律儀,(癸三)住三昧耶先應如何承事,(癸四)善承事[A2]已應如何修成就。今初 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,己【補編】== ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,己【補編】== 當於行部所說大悲藏等曼陀羅中獲得灌頂,成為修道之器。其唯入壇,及入壇[A3]已灌頂法等,於《根本罪釋》中已說。曼陀羅及灌頂儀軌,恐繁不錄。應於《大日經釋》及《金剛手灌頂經》等中知。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,己【補編】== (癸二)成道器[A4]已淨三昧耶及律儀 ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,己【補編】== 《大日經》云:「當說三昧耶,汝從今以往,乃至命因緣,悉不應棄捨,正法菩提心。汝不應慳悋。損害諸有情,佛為汝宣說,此三昧耶禁,如汝護自命,如是護此等。」又說應住斷十惡等學處。事部所說餘三昧耶,多屬共同故當修學。事行兩部大乘律儀,如《文殊根本經》說即菩薩律儀。故此部根本罪,當如《菩薩地善巧方便經》所說而釋。彼於《戒品釋》中已廣說訖。此兩部中不可以受五部律法而受律儀。其受菩薩戒之儀軌,所有根本罪等,《根本罪釋》中已廣說,茲不更錄。 (癸三)住三昧耶先應如何承事分二:(子一)分別瑜伽,(子二)別釋其義。今初 《大日經》云:「秘密主,天色復有二種,謂清淨及不淨。清淨者,謂現證體性離一切相。不清淨者,謂即顯形有相之色。此二天色能成二種要義,由有相者成辦有相,由無相者亦能成辦有相。佛許由有相,得有相悉地,由安住無相,亦能成有相,是故一切種,當依止無相。」此分有相無相瑜[A5]伽。有相者,是離修空性之本尊念誦。無相者,是兼修空性之本尊念誦。勿謂但修空性。若不爾者,應許但修空性瑜伽亦能成佛,以說無相能成二悉地故。經中亦云:「不清淨之天色,謂有相色。」此非但說面臂等色,是說有差別色。(此顯無相中有淨色)佛密論師雖說修空名勝義天,亦立天名。然此經義,是分天色為二,及明依之成何悉地。故應如是而說。《明炬論》中亦說此教顯示二次第之天身。 ᅟᅟ==[A5] 伽【CB】,加【補編】== 復可分為世出世間二種瑜伽。《大日經》云:「由外內加行,我說第四支,此復是世間,有所緣無上,可加收攝句,意隨逐本尊,微誦為第一,對有緣者說。意誦名出世,棄捨收攝等,與本尊合一,意取為無異,修自性無別,非是修餘事。」此中出世非是聖者身中無漏,是說無我及彼所攝瑜伽。《善根金剛道次第論》云:「事部行部瑜伽部中,修有相方便及無相方便,大瑜伽中生起次第圓滿次第,即是正道。」此說二種次第為無上部,於下三部名為有相無相二種瑜伽。符順此經極為善哉。理由至下當說。 (子二)別釋其義分二:(丑一)釋有相瑜伽,(丑二)釋無相瑜伽。初又分二:(寅一)外四支念誦,(寅二)內四支念誦。今初 事部本尊念誦現有多種,然依行部本尊念誦非有爾多。若知於相續中生起有相無相瑜伽之理,則道支分易於了解。故此不說先護身處,供養福田,供養稱讚本尊等法。當說二種瑜伽修行次第及其念誦。 外四支念誦中初事支者,於自生為本尊之前應修空性,當如是思。自與本尊俱無自性,自身五蘊依止四大諸佛了達於勝義中猶如虛空,於名言中猶如影像。除彼所見更無過上,故自亦應如彼所見而正通達。自及所修本尊俱無自性,是緣起故,猶如影像。次想自與本尊無自性之空性,二無分別。必須獲得堅固定解,乃生本尊。《大日經》云:「若諸菩薩由密咒門行菩薩行,當於身中生起身色。較正等覺更無過上。如我之眼耳鼻舌身是四大種所攝,自性本空,唯假名攝,等同虛空。從業因起不可取執,猶如影像。如是如來現正等覺,亦是互依緣起相續。凡是緣生即同影像。由是因緣,互緣起故,天即是我,我即是天。如是應由身色生起天身。」四部修天之前皆應如是修習空性,若未以見抉擇,唯誦娑拔嚩等真言,收攝現事,全無心要。略釋論中亦引以離一異正理決擇蘊無自性修天瑜伽之教。又從空中起天之法,《略釋論》云:「修本尊瑜伽師,此世俗次第中明二種相,一者謂自心相離一切相,變成月輪等相,而修自身為天。」此說有先修月輪等而生,及不修彼等頓生之二法。說是此經〈天真實品〉等中所說。現譯經中缺此。若依前法,先想自心變為圓滿月輪,上有嗡字。從彼收放光明,自身變成毘盧遮那佛。一面二臂,手結定印。其身金色光鬘圍繞,坐白蓮花及月輪座,頭戴寶冠頂有髮髻,身穿絹羅上下二衣。咒印加持之法,廣略隨宜,茲不詳述。次於前面修與自相同之如來,是為第二事支。次於彼尊心間月輪,安布所誦咒鬘,是為四支念誦。此如《大日經》云:「字與字相合,如是事成事,善防護心意,持誦一洛叉。字是菩提心,第二是為聲,事於自身處,當立自為天,應知第二事,是佛兩足尊。咒師於彼心,想清淨月輪,諸字如次第,於中善安布,當加收攝句,修習命及力。命即說為風,說力名為念,防護此二已,先善修承事。」二種字者,兩部《大日經》釋皆未明說。然如前引《後靜慮釋》,說是四支中之月輪咒鬘。有說為修天時之月輪及咒者,非是經義。防護命力,先於明顯天身求安住分,次緣諸字修念誦等,與前事部所說皆同。此經又云:「咒師一月中,善防護念誦,先行密咒者,一事入一事,大稱一切佛,說名為前行。」此說修習一月,一事入一事者,謂緣前方心間月輪所布咒鬘。若生疲厭,可與自心展轉而修。經說意中念誦,且舉一例,俱說意誦與微誦故。《大日經》云:「或由意持誦,或微聲二相,勝瑜伽當觀。」又此二中,先修微聲念誦。意念誦時遮止命力,與前說同。 (寅二)內四支念誦 由空性中哀阿闇痾四字隨一,如前生起,是第一事。《略釋》說此生起釋迦佛身,於此心間修一月輪清淨堅固猶如明鏡。乃至能見自身為天而修。第二事者,於月輪中,修前所說毘盧遮那,如住龕內。想彼心間月輪有咒安住,而修念誦。於此亦說誦一洛叉。此似亦須二種念誦及意誦時防護命力。「說名為前行」後,又云:「其後可略加,供養花香等,為求成佛故,皆迴向菩提,咒師無所畏,持誦第二月。」此說不雜花等供養承事一月,及雜華等供養承事一月。前經又云:「我多說咒數,當誦三洛叉,是對無罪障,清淨持咒師,說此念誦數,非說餘所行。」如是緣天身持心及依風加行。乃至獲得奢摩他時,應當修習。 (丑二)釋無相瑜伽 若[A6]已獲得緣天身等正奢摩他,當修空性。《大日經》云:「若於苑囿,或於寺院,或於崖窟,隨於意遠離處,修菩提心。乃至見相應當修習。」相者《釋論》中謂通達一切法皆無自性三摩地,乃至欲住幾時心能堅住。此中說於四支念誦之前修於空性。是顯修天之前作意空性。然正修空性之次第,是於先修天瑜伽後。如《釋論》云:「由修本尊法身行相無相三摩地門,而修念誦加行之次第者,謂如前說先修四支念誦等一切法。次於本尊二無我性現似顯形色等徧計執性,觀察分析為多極微。」 ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== 如何修無相者,如彼經中廣說:「秘密主,若諸菩薩於密咒門行菩薩行,而欲修行無相三摩地者,應作是思。所有諸相為從何生,為從自身或從自心自意生耶。其中身者,謂從業生,應觀彼如艸木土石,無自體用。猶如愚人或如外物,或如偶像。如所造像,雖或有人於彼憤恚,或火、或毒、或刀、或水、或用金剛,若壞、若焚、若斫,然彼無有少分不喜。或用飲食、沐浴、塗香、華鬘、衣服、栴檀、龍腦香等,人天種種上玅資具而為供養,然於彼人亦無歡悅。所以者何,以若於彼性空色像,由我慢故發起顛倒虛妄分別。或行供養,或作損害,其人乃是愚夫自性。秘密主,如是於身當隨身念自性本空。」此說抉擇身自性空而善修習。觀察自心之理,亦如經云:「復次,祕密主,心者,謂無自性離一切相自性本空。祕密主,心無三世,當思離三世者,即由自體遠離諸相。復次,祕密主,愚夫異生,計意有相,當知此乃虛妄分別增語。諸虛妄者即名不生。祕密主,若諸菩薩由密咒門而行諸行,如是思惟,便能證得無相妙三摩地。祕密主,若時安住無相三摩地者,彼於爾時便能趣入如來所說一切密咒。」此說心無自性之理,及唯於心增益執彼實有。如是觀察身心,便能證得無相妙三摩地。得彼三摩地已,能修諸咒悉地。《略釋》中云:「自與天身無二之中,現起顯色形色。次即於彼,或以分析觀為極微,或以本來不生之理,或以自心內向加行攝命之理,或於所現不作意門。如其通達應當現證唯心了別,離天色身無所現境,意如所應誦自明咒。」此說以離一異或金剛理觀察。或於前所說義,以攝命法,攝意不散而住。或於諸戲論境由念正見不作意門,離天形色顯色,修無所現。此與《修次第論》亦極符順。《修次第》下篇云:「《寶雲經》云:如是善巧諸過失已,為離一切諸戲論故,當於空性而修瑜伽。如是於空多修習[A7]已,若於何處令心流散令心欣樂,即於是處尋思自性了解為空。又於內心亦當觀察了解為空。次更尋思能了解心所有自性亦知其空。由如是解而能悟入無相瑜伽。此即顯示若不觀察,即便不能悟入無相。」由說以慧觀察乃能悟入無相,即說若捨觀慧不能悟入無相瑜伽。此經亦說欲修無相三摩地者,當觀身心非實。故亦顯示若不以慧觀察諸法真實,則不生無相三摩地。故須恒修,正見決擇諸法無自性義所有定解。若無正見,但不起念分別,或有正見,而正修時不修正見空解,唯不分別,皆非修空性者,此復不可毘鉢舍那觀察太過,當如前說止修觀修間雜而修。 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,巳【補編】== 如是事行部中有四最要瑜伽謂天瑜伽、空、風、念誦瑜伽。此中勝義世俗二種瑜伽,是修二身正因。念誦是策發本尊心誓之支分,攝於修世俗天瑜伽之中。風瑜伽者是能堅固二種天瑜伽之支分,通二分攝,故總攝為有相無相二種瑜伽。 然於此中說無圓滿次第,故由向內攝風之力所生樂明無分別定,及依此之無相瑜伽,皆非圓滿次第。無上圓滿次第諸不共法,皆當無雜了知。若不詳知下部所有道之差別,則不能知上部不共道故。 (癸四)善承事[A8]已應如何修成就 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== 或依劍等外物,修持明劍仙等。或依內身諸處,修地水火風輪,作息災增益等事業。或修曼殊室利等法,感彼菩薩摩頂或讚善哉。若念誦後能感彼相,即得不失菩提心三摩地。此經宣說此等眾多悉地之法。 若於彼四攝道總聚、善能貫攝二部續中諸雜亂義,將諸續教現為教授。乃能墮入知教者數。若不如是,僅能了知道之一分。非為了知總道宗要。故具慧者,當於二部續教現為教授之法,勵力修學。 行部要典《大日經》,依據佛密論師解,今釋二瑜伽次第,是為易入行部門。 瑜伽部道次第品第四之一 ([A9]己二)瑜伽部道次第分二:(庚一)經中所說,(庚二)修彼次第。今初 ᅟᅟ==[A9] 己【CB】,巳【補編】== 《攝真實經》為瑜伽部一切經之根本。初緣起分,顯示圓滿二利毘盧遮那,令於彼德。發欲得心。以下經文,俱說發彼心[A10]已,證得彼之方便。修世出世悉地之共方便,根本經中廣說。彼分〈金剛界〉、〈勝三界〉、〈調伏眾生〉及〈成事品〉四品。初謂如來及如來部,即毘盧遮那種性。第二謂金剛部,即不動種性。第三謂蓮華部,即彌陀種性。第四謂滿眾生願之寶部,即寶生種性。五部之中,根本經僅說其四者。佛密論師說成滿眾生意樂中,就作者門即是寶部,就作業門即羯磨部。業與作者,二合為一故也。其〈後續〉者,為挕能修出世悉地上上有情。說上品成就之殊勝,能得佛菩薩之因。此亦宣說總屬四品之道。〈後後續〉者,為攝不能悟入真實修上悉地之勝方便,為彼怖畏專修,要有所緣愛著念誦供養等之有情而說。此亦通屬四品之道。然此與說,瑜伽續為以修為主之機而說,亦不相違。正所被機以修為主,旁化之機非修為主,不相違故。 ᅟᅟ==[A10] 已【CB】,巳【補編】== 若爾此四品道,為對四類補特伽羅說耶?抑為對一補特伽羅漸次引導四位不同而說?《最勝大疏》有云:「如來行者,本性仁賢是等分行。佛部行者,是貪欲行。第二品之所化是瞋恚行。第三品所化是痴分或邪見行。第四品之所化是慳悋行。」此說為對四類補特伽羅如無上部說如來為五部行者。《彼釋》又云:「如來及金剛部、寶部、蓮華部、羯磨部,如次即是自性異熟受用變化四身,大圓鏡平等性妙觀察成所作四智,菩提心布施度、智慧度、精進度。」此就所得果門而說。若如是說,則一一所化之所得,皆須具彼四部。 現證毘盧遮那果者,一一品中,為樂廣中略三機各說三種三摩地。樂中者之四類三三摩地,於每品四印曼陀羅中說。樂略者之四類三三摩地,於每品一印曼陀羅中說。樂廣者之四類三三摩地,於每品中皆說大曼陀羅、陀羅尼曼陀羅、法曼陀羅、業曼陀羅之最初加行,最勝曼陀羅及最勝事業之三三摩地。《真實光明論》謂身是大印,意是三昧耶印,語是法印,業是羯磨印,是以四品四部,別配身語意業四印。《阿嚩達惹論》中亦云:「彼印,即此身等差別,說名大三法業四印。」彼並廣說能立之因。如是所配身等四法,即於毘盧、不動、彌陀及餘二部,說為身意語業,非指某尊之身意等。《真實光明論》中又說四部各有大三法業四曼,而配四印。是依各部身意語業四法而說。如《阿嚩達惹論》亦云:「四部中大曼陀羅,當知是為安立諸尊之色身故,攝身無盡[A11]藏變化。三昧耶曼陀羅,為表所證解脫門故,安立杵鈎箭鈴等等,攝意無盡藏變化。法曼陀羅,為表所證法之方便,安立住定諸尊,攝語無盡藏變化。如是業曼陀羅安立供養等尊,當知總攝一切如來利有情。」 ᅟᅟ==[A11] 藏【CB】,臧【補編】== 《真實光明論》文是就主要者言,例如〈金剛界品〉第一曼陀羅中,雖以自部之身大印為主,然非全無意三昧耶印等,說四印印定故,餘品諸曼當知亦爾。《阿嚩達惹論》云:「以此次第,雖就身等四事而說四曼,然實無有離身之心及離身心之語。以是當知各曼陀羅皆有身等四分。故於四部一切曼陀羅中俱有身等標幟。如次即此所說大三法業四印。」若能詳知此等差別,則亦能知《最勝大疏》,有時說四品道為一補特伽羅成佛之緣。有時說為各別補特伽羅之道,都不相違。瑜伽部中多說自起本尊召入智尊以四印印定者,是得果位四印方便。以自身語意業四事,修成本尊身語意業四德,淨治庸常身語意業四法。如是雖依各部說有多種道次,然以佛部或金剛持部之行者最為第一。以於金剛界曼陀羅得圓滿灌頂者,是一切部之阿闍黎。若得餘部,唯是少分之阿闍黎。疏中引證而成立故。 若爾修證毘盧遮那之方便道,唯彼三種三摩地耶?答:彼非圓滿道,尚須先修圓滿自體大瑜伽之道故。修天瑜伽,下三部中皆未宣說順生三有染品次第而修,故彼唯是無上部之別法。然有順清淨品修法。以修五相證菩提道,如最後有菩薩成佛次第,作彼慢而修故。其前所修之道,唯《真實光明論》略說別配四道《資糧加行見修》,三大論師皆未宣說。然於五相證菩提前,順有學道而修,甚為明顯。於成大日如來以後之道,則是順成佛後所作佛事而修。 (庚二)修彼次第分四:(辛一)為成修道之器而行灌頂,(辛二)成器已淨三昧耶及律儀,(辛三)住三昧耶先應如何成事,(辛四)善承事已應如何修悉地。今初 入金剛界曼陀羅等灌頂,傳授三昧耶及律儀,令成修道之器。此有但入曼陀羅者,及入[A12]已灌頂者。後又有二,謂不受五部律儀但受菩薩律儀者,唯傳弟子灌頂。俱受二律儀者,可並傳金剛阿闍黎灌頂。此依《金剛生論》及《上疏》意。《根本罪釋》已廣說訖,故不重述。 ᅟᅟ==[A12] 已【CB】,巳【補編】== (辛二)成器已淨三昧耶及律儀 得灌頂已,淨治所受三昧耶及律儀,是初修者所不可無。須善精進不可懈怠。《阿嚩達惹論》云:「承事師已,於彼所說大三法業曼陀羅中,如法灌頂,依於大乘現觀儀軌受持律儀。次於所護三昧耶、毘奈耶、正行、禁行,皆當善巧。次為善護三昧耶等,應常勇悍無懈,以修一切自他利為前行故。三昧耶者,即是欲得果者不應違越之事。隨順本尊所喜身語意行,進趣善法遮止不善為相。是大師所制之特勝。」《勝吉祥經》〈初品〉及《金剛頂》所說諸三昧耶及《根本罪》。已於根本罪釋廣說,茲不重述。若不具足護持三昧耶等,即不成就。《金剛頂》云:「雖經百千劫,恒精進修行,世間四種人,修亦不成就。未發菩提心,具足諸疑惑,不依教而行,無信不成就。」此說具足四過,雖修多劫亦不成就,故須具足四德。謂依教授善修大菩提心為入大乘之門,起深信心全無疑惑,依佛所制進止學處諸三昧耶如教守護,於本尊師長所起堅固信。是則在家出家行者,皆當安住律儀而修。《金剛頂》云:「當遠離殺盜,淫欲及妄酒,安住在家戒,爾時修明王。若是出家者,正住三律儀,別解脫菩薩,持明律第一。」若在家身堪受別解脫者,亦當具三律儀而修。 (辛三)住三昧耶先應如何承事分二:(壬一)有相瑜伽,(壬二)無相瑜伽。初又分二:(癸一)緣粗天身四座瑜伽,(癸二)緣細標幟四座瑜伽。初又分二:(子一)四座修法,(子二)不能時如何修。初又分二:(丑一)唯得弟子灌頂之四座瑜伽,(丑二)得阿闍黎灌頂之四座瑜伽。今初 《上疏》說阿闍黎弟子二種不同道者,是依[A13]已得阿闍黎灌頂與唯得弟子灌頂二種次第。唯得弟子灌頂當云何修?《上疏》中云:「依弟子增上者,自加持等,當如是知。謂自護、沐浴、又自護、護處所。次請本尊,修行禮拜,悔罪,隨喜福德、請轉法輪,請佛住世,迴向,發菩提心,及皈依三寶等。金剛合掌,結金剛縛,金剛合掌,當心解放,所降金剛,令堅固住。修無我觀,如前修月輪等。當如本尊而結大印,令入智慧薩埵。修大印[A14]已次誦『[嗈-邑+夕]吽[口*(一/火/又)]賀』。意善觀想,召一切如來入自身。修自體三昧耶印已,以本尊與一切如來,及以法業大印印定,用本部三昧耶加持自體,灌自部頂。既灌頂已,善供喜等四供(喜鬘歌舞),敬禮一切如來,善修自身大印,誦『班雜薩埵』等本尊真言。於一年中日修四座。」此謂沐浴為先,修忿怒瑜伽與護輪,於福田前修皈依等。修金剛合掌乃至降智尊,用五儀軌生為本尊,召入與自相同之智薩埵,而以四印印定。次復召入無量如來,亦以四印印定,自部加持。以自部灌頂而灌頂,献供養,敬禮已,修身大印以及本尊念誦。此中僅有一尊瑜伽,無大瑜伽,亦未說修宮殿。《出生薩埵修法》廣略二論,皆說修習金剛薩埵一尊之後,彼住虛空。次想四大漸次積聚,上有須彌宮殿,中有獅子寶座,自從空降安住其上。《廣修法》說:誦「班[嗈-邑+夕]答都」結勝菩提印,自成毘盧遮那。次誦「班[嗈-邑+夕]薩埵」從自心中變出金剛薩埵,住於前面所想獅子座上。次誦金剛薩埵心咒結彼大印,想自身成金剛薩埵。又從吽字變成吽作明王,誦結開門咒印,意想開啟四門。以金剛攝咒印,挕集諸佛。修為金剛薩埵,誦「百名讚」。以四守門咒印修鈎召等。次以四印印定。修供養後,修三平等以及念誦。《略修法》說:自從空降,變一金剛薩埵住於前面所想第二獅子座上。未說自修毘盧遮那。 ᅟᅟ==[A13] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A14] 已【CB】,巳【補編】== 《上疏》說:依弟子增上者為一尊瑜伽,依阿闍黎增上為大瑜伽。故二《修法》所說一尊瑜伽,顯係依於弟子增上。《疏》雖未說宮殿及中間與前面諸尊。然二《修法》說故,弟子亦應修之。二《修法》中所說修金剛薩埵者,意指投華所中。故當如《疏》所說而修本尊。若欲依彼漸次而修四座瑜伽,當以《上疏》所說為本。《出生薩埵修法》廣略二中,隨依一法而修即可。義既易解又恐文繁,茲不廣敘。修至生幾許瑜伽者,下當廣說。 (丑二)得阿闍黎灌頂之四座瑜伽 得阿闍黎灌頂者有二,若欲為弟子灌頂者,則如《金剛生論》所說:自圓滿大瑜伽三三摩地具修無減為廣承事。攝為最勝曼陀羅生法等為中承事。修大瑜伽各尊真言誦滿十萬為略承事。隨一即可。若欲修本尊者。如《上疏》云:「如是已說弟子瑜伽與隨瑜伽,當說諸阿闍黎修曼陀羅與修本尊大瑜伽之儀軌。」此說修本尊時,亦須修大瑜伽。《金剛薩埵修法廣論》亦云:「諸得阿闍黎灌頂者,修大瑜伽遍行一切儀軌。」此說若得圓滿灌頂,須俱修諸本尊,未得圓滿灌頂,不可俱修本尊。此非謂略修大瑜伽便足,是須俱修三三摩地。如《上疏》云:「當說方便差別,其三摩地,是正方便。」其三摩地分為最初加行等三,下至為樂略道一印曼陀羅中,亦說修三三摩地故。能成毘盧遮那之正方便,說三三摩地故。若不能修廣中三三摩地,亦須修略三三摩地及大瑜伽。大瑜伽中無廣中略三種差別。修行時量,《金剛生論》說修一年或六月或一月,因彼補特伽羅上中下別,時無一定。若灌頂者,則說乃至獲得諸尊開許而修。修現觀法至何量者。如《上疏》云:「如是乃至見金剛界大曼陀羅,日日勤修。」謂於上午、日中、下午、半夜、四座,依於儀軌次第,遮止散亂。所修次第,勿落空言。務當按文現起總義,以觀察慧觀察而修。遣除魔碍,堅固受持三昧耶及律儀,以敬禮供養念誦等修治相續。觀察本尊,明如現見,乃至爾時而修。此明初生瑜伽之量,非說此後不須再修。阿闍黎與弟子修法皆爾。此未明說於一所緣修心專注之住分者,意謂緣細金剛時修。於說彼勝利時可知。自圓滿大瑜伽,《金剛生論》甚顯,恐繁不錄。 佛密論師,未由[A15]己得不得圓滿灌頂,與由為他灌頂,以及自修本尊之別,而分修道漸次。然說得金剛界大曼陀羅灌頂補特伽羅,具足三昧耶與律儀,修如來與佛部菩薩之二種法。彼二隨修何種,皆唯一尊。於前宮殿座上,如大曼陀羅時而修本尊。若不能者,則如四印及一切時修其本尊。受持律儀,献內外供并稱讚等日修四座。此說似較慶喜藏師之規,易於修學。 ᅟᅟ==[A15] 己【CB】,已【補編】== (子二)不能時如何修 若不能以五相證菩提法,起如來等修本尊者,則當念誦本尊心咒,即修自為本尊,於自前面亦如是修,後供養稱讚等圓滿念誦。如《阿嚩達惹》云:「若不能如所說而修本尊三昧耶薩埵瑜伽之行者,則當念誦。以彼義故,加持自成所持誦之本尊薩埵,受灌頂修三摩地及供養,於前面亦如是修而持誦。」此中唯以本尊心咒起本尊者,是為不能修行,唯欲從持誦等取成就者而說。若能修行則不應爾。前論引教顯了說云:「此第二法唯以心咒修習三昧耶薩埵者,是為唯依念誦而求成就者說,非為能以大印等法修成就者。若爾云何《後後續廣》說『惡見無貪者,此密法非理』等。次說下至以心咒義自成佛身,前面亦唯誦咒而修佛身。如欲修習,誦金剛句一百八遍。」此是念誦本尊瑜伽儀軌,假名為修。然此亦甚殊勝。是故以瑜伽部為諸存亡灌頂及開光等,最下須依此修,而圓滿各尊之念誦。 (癸二)緣細標幟四座瑜伽分三:(子一)修習細相之所為事,(子二)由緣細相令心堅固,(子三)得堅固已修收放等。今初 《攝真實會》〈初品〉中云:「次極善安住,修習隨一相,彼皆堅固已,智觀三摩地。」《真實光明論》說:「成就微細三摩地已,次善安住所修之天身等,一切堅固猶如現見。由此獲得殊勝堪能心故,所修一切皆能增長。」《阿嚩達惹》亦云:「諸欲得三摩地所生成就之瑜伽師,定應先修微細金剛。」如下所說,若唯以靜慮而修眾多成就者,定須先修此也。總之,此是修習勝奢摩他。故凡奢摩他之所為,皆此所為。 (子二)由緣細相令心堅固 佛密論師許先修天瑜伽,次修細相。《阿嚩達惹論》云:「如是廣略二法,皆先修本尊三昧耶薩埵,加持自體、灌頂、三摩地、供養已,為令自心得自在故,修細金剛三摩地。」 修行漸次如〈初品〉云:「令舌抵上顎,住想於鼻端,金剛端樂觸,心當得等至。」前二句明得安住之方便,次二句明住已生定之法。此亦應如《阿嚩達惹》中說:憶念本尊瑜伽而修。身者,如《憍薩羅莊嚴論》云:「圓滿一切事已,處遠離處無諸喧鬧,結跏趺坐端正其身,舌根令抵前齒上顎,雙唇平等。」餘三摩地威儀,亦當具足。次修所緣微細金剛色等,如所決定想住鼻端,於彼攝心。《阿嚩達惹論》說:「細如髮端,粗如胡麻,同本尊色,上有五股。」慶喜藏論師許此先於臍生起,誦「蘇叉摩班[嗈-邑+夕]」,次想上昇,從鼻孔出安立鼻端。釋迦友論師則許從心間引生。《阿嚩達惹論釋》說:從心間生起,與息同時,意誦心咒,引至鼻端。佛密論師說:緣微細金剛修時止出入息,於鼻孔中持息,隨順住心生殊玅觸。 持心之法,釋迦友論師引《中觀心論》:「心意如醉象,狂奔於邪道,念索繫緣柱,慧鈎漸自在。」說如是修,慧即正知,謂以調象喻,顯正念正知二法令心調柔。住心所依微細金剛,如繫象之堅柱。意不調柔,如未調象。依止正念於所緣境,令心不散,如繫象索。若心不住所緣,即以正知了知,離過安住,猶如象師見象邪行不如教住,用鈎制伏。以是持心有二關要,一能安住所緣,令不散亂;二若散亂無間了知仍如前住。初依仗修不散正念之法,故須先令所緣明了。謂起有力正念,憶所安住令不散亂。若無明了有力之念,則不能斷昏沈。故《憍薩羅莊嚴論》云:「由慧明了不昧而住正念。」第二依仗修正知法。故非住念太久太急,須於安住不捨之中,時時觀察如所住心為住未住。此謂若太策勵心便掉舉,若太渙散心便沉沒。故須了知離彼二過處中而修,若於微細金剛善堅固已,則由鼻端或餘身分,發生樂觸。由此玅觸即能除遣不堪修行善事之身粗重,生身輕安。若離粗重身即調柔,便能精進。由身輕安引心輕安。經云:「由身輕安而受安樂,由有安樂心注一趣。」此是《憍薩羅莊嚴論》明了宣說,依於微細所緣,引生心一境性奢摩他法。《瑜伽論》說:「由心輕安引身輕安,從此引生正奢摩他。」亦不相違。以此中心輕安,許為心一境性奢摩他故。由其所引經證即可了知。此乃至成就奢摩他而修,甚為明顯。要至引生身心輕安,此方生故。此復先應修習明顯天像。修此時量,於二月中每日四座恒修不斷。如《上疏》云:「若日日中四座加行,乃至兩月定得相狀。」 (子三)得堅固已修收放等 〈初品〉中云:「若微細金剛,現起樂觸相,其相應普遍,心亦應隨遍,心如欲遍已,乃至遍三界。」《上疏》中說:由修微細金剛之力,能遍自身。若欲增長,次令遍滿聚落,乃至三界。開放之法。《阿嚩達惹》中說誦「薩葩惹班[嗈-邑+夕]」,猶如風吹微塵,散布眾多微細金剛漸令普遍。如是久思惟已應誦「桑訶惹那班[嗈-邑+夕]」。隨入息觸,收聚鼻端成一金剛。如〈初品〉云:「次彼漸收[A16]斂,乃至住鼻端。」《憍薩羅莊嚴》說:「次從鼻端入右鼻孔安住心間。」誦「嗡祗札底叉」,先求緣微細相之奢摩他。彼成就已,復於種種收放練習定力,此乃殊勝調心之因。故與唯修安住其力不等。 ᅟᅟ==[A16] 斂【CB】,歛【補編】== 《上疏》中說收放以下修習一月。共修三月,細三摩地即得圓滿。《攝真實》本釋皆廣說微細瑜伽。若能於此獲得了解。則於龍猛派《集密現觀》等,多說先修住分,次習定力,極易了知。 (壬二)無相瑜伽分三:(癸一)《挕真實》所說,(癸二)釋續中所說,(癸三)略說修法。今初 《攝真實》云:「由悟入阿字,而修一切字,自口入他口,修習得成就。有定穿智慧,名曰三摩地,應由此修印,修已速成就。有慧音隨行,善出正定語,修此能速得,秘密咒悉地。密咒明咒等,悉皆無差別,由修習此慧,能速得悉地。」初頌雖無心咒之名,然《阿嚩達惹》說:四頌如次,是依心咒、手印、密咒、明咒而修通達真實之慧。 阿字是無生故,說為一切諸法之門。由阿字義悟入本性無生,故於所誦一切咒字,皆以法無我理而修。即寂滅無所見也。口、門及悟入義同,謂自悟入與他悟入。以入阿字義故,自無所見。前面本尊即他,次亦入無所見也。若口作門義解,謂自及前面所修本尊是解脫門,是故名自他門。入彼二門義如上說。此文正說漸次展轉觀察,自與前面本尊并諸咒字,皆非實有之分別慧。定穿慧者,謂緣勝義。名曰三摩地者,謂遮揀擇分別,略住正定。第三頌有三摩地語。第四頌中亦同此說。《阿嚩達惹》論云:「諸大論師謂後三頌正說修奢摩他。」文雖別說止修觀修,然正修時須等分修。 若無分別展轉隨咒音轉而能專注,即修密咒之慧。明咒亦爾。二字異者,應以觀察無自性理而令無異。决擇自及前面本尊并所誦咒,皆無自性。修習彼義四者相同。然分修習心咒等慧之差別者,是由佛部等四部念誦者而分,至下當說。 (癸二)《釋續》中所說分四:(子一)佛部修法,(子二)金剛部修法,(子三)寶部修法,(子四)蓮華部修法。今初 自修為毘盧遮那等佛身,於前面亦修如是身,心間想有咒字。次於自與前尊抉擇人法無我,獲得無性定解。專修色等不現之三摩地。如《金剛頂經》云:「佛部持誦者,住吉祥佛性,三千世界中,當修習佛身。於彼佛心間,修習自咒字,修自身無我,是人法空性。次於彼佛身,亦想為無我。觀佛色為何,其自性非有,佛無數取趣,非蘊亦非界,佛非能所取,亦非全無佛。六波羅密種,以慧善將護。無賴耶依處,即無我菩提。由如是瑜伽,持誦佛部者,頓超於大劫,修得極歡喜。」 (子二)金剛部修法 想自身為金剛薩埵,前面亦想金剛杵形徧滿虛空,杵臍安立咒字。次由漸析色等,而得無性定解,應專修習。如《金剛頂經》云:「金剛部誦者,自為金剛心,於此三千世,應修金剛色。於金剛杵中,應想明咒字,此杵即無性,菩提心妙果。此何名金剛,何性無變異,何以名自性,何名空法性。色等一切法,修習為空相,析色為微塵,微塵亦非有。說色即是空,亦名為金剛,由如是瑜伽,速得極喜地。」 (子三)寶部修法 想自為金剛寶,前面空中想諸咒字,次於所抉擇之能取所取,無實平等性義獲得定解,專注而修。如《金剛頂經》云:「次寶部誦者,自為金剛寶,於此三千界,應修為空相。行者於虛空,想諸明咒字,名諸法無性,名空性真如。外內遍計色,暫時皆無生,若色且非有,彼云何名眼。由無色及眼,諸識亦不生,如是則一切,皆離能所取。由此瑜伽法,得極喜最勝。」 (子四)蓮華部修法 觀想自為世間自在,前面想有蓮華徧滿虛空,安立咒字。次於所抉擇之一切諸法無自性義獲得定解。應善修習。《金剛頂》云:「蓮華部誦者,自為蓮華心。於三千世界,修習蓮花形。於彼大蓮華,修諸明咒字。智者於蓮華,思惟法心要。如蓮不沾水,亦不染泥穢。如是諸法淨,法界本無生。如來藏為何,即此空法性。色等諸法性,即名真如性。由此瑜伽法,難行大瑜伽,現生成正覺,定當修蓮華。」由於此等數數修習,假名念誦,非誦咒字。《阿嚩達惹論》於說有所緣念誦後云:「有法無我慧瑜伽師,其勝義慧瑜伽,如《挕真實會》及《金剛頂經》所說,諸餘念誦差別,此亦應說。」次即如前所引《挕真實會》以及《釋續》所說而說。 (癸三)略說修法 如是《金剛頂經》所說,是以毘鉢舍那為主,用觀察慧觀察而修。《攝真實會》所說,則有觀不觀察止觀二分。《憍薩羅莊嚴》云:「奢摩他者,於三摩地思惟為相,謂心專注一所緣境。毘鉢舍那即慧,是心所法擇法為相。謂於定心,決擇此是有漏,此是無漏,此是雜染,此是清淨。」此說止觀行相。簡擇漏無漏等名毘鉢舍那者,是緣盡所有性毘鉢舍那。緣如所有性者,准此應知。若專修習止品住心,後當惛沈。若專修習觀品思擇,後當掉舉。故於止觀二品當平等修。若掉舉者,當作意無常等可厭所緣。若惛沈者,當想心光明等策舉所緣,而令除遣。由如是修,若無功用平等任運而轉,即得雙運。如《憍薩羅莊嚴論》云:「若奢摩他增上,心當惛沈散亂。毘鉢舍那增上,則當掉舉散亂。故應如次,以光明作意,與無常作意,遮止二種散亂。於所思義雙運轉住。用正念索繫止觀馬,遮所失坯之心,念趣正行,即雙運轉。雙運轉者,即是無功用轉之義。」佛密論師意許修空性兼修遮止命力加行。《阿嚩達惹論》云:「如所思惟我、天所誦諸字,由修習無生門,勝解諸法皆為空性。心所依處命力二法皆向內挕。以離色等之心,作意我、天及所誦字等同虛空。」至出息時,領納鼻內微細風觸而放,繫念前面本尊。後仍如前遮止命力而修。如是若有不以正見决擇無我,唯令內心全不執著,無分別住,或由挕息加行等力,引生樂明無分別三摩地,而許為修諸法真實之瑜伽者。且非下三部規,况云無上瑜伽。雖以正見抉擇無我,然正修時,若不繫念正見而修正見所決定義,唯令住心不分別者,亦非修真實義。故諸樂解脫者,先當求無我見,得已,當知無謬修法。慶喜藏雖於《挕真實會》及《勝吉祥大疏》中處處散說,決擇空見之理。於《金剛生論》修本尊之後,亦略說修三種平等性之種子。然未如佛密論師解《挕真實會》,與釋續修空性之理,一處總說。亦未如釋迦友論師別說止觀之相,增減之失,雙運之理。然前所說修習空性之理,是善巧瑜伽部三大論師共同意趣。是故瑜伽部中,由修四座細相,本尊瑜伽,引生有相三摩地法,次生無相三摩地法之義,皆應如前了知。此中說為先承事者,義是漸近所得。如《集密後續》云:「由共與勝別,許二種承事。」說修二種成就方便皆名承事。此中亦爾。是故四部皆說先承事者,是顯進趣上上道之次第。此須善能分別天瑜伽與空瑜伽,於身生起界限。若不知此,僅執念誦修法儀軌,與彼時之持咒而為承事,其所為果,亦僅為行灌頂開光等儀軌而求了解者。未見能得任何一部密道之要義也。下三續部及造彼釋諸大論師,解釋修空止觀之規,皆與蓮華戒論師之三篇修次第論,寂靜論師之般若教授論,無著之瑜伽師地論,及慈氏諸論等所說相同。 先修奢摩他已,次修毘鉢舍那次第之理。未得二種輕安,但是毘鉢舍那隨順,得後始是真實毘鉢舍那之理。修無我中俱有止觀之理,以及成就雙運之界限等,詳如共乘道次第中廣說。 修承事時能得悉地之因,如《阿嚩達惹》云:「諸印密咒明咒等中,雖外供等儀軌亦是成就之支。然一切法本性,於正勤念誦及精進修行者速與悉地。故諸精勤行者,尤當於此精進。」此說勤修本尊圓滿念誦誠為最要。然於修治能碍成就之障,極讚修空,故此尤為重要。即前論云:「若於正等覺等本尊,隨念修習無相。如是由於一切我法無所得故,則無障悉地之惑業,速當獲得如欲悉地。」又云:「若時諸瑜伽師已善承事密咒,而猶未能得如欲悉地者,當於修大印等加行及念誦加行之前後,增上緣本尊之法身。」此是若未能得悉地,於本尊修猛利法時所說。故於修本尊身大印之前及念誦後。若修空性速得悉地。 密宗道次第廣論卷五終 密宗道次第廣論卷六 宗喀巴大師造 法尊法師譯 瑜伽部道次第品第四之二 (辛四)善承事[A1]已應如何修悉地分三:(壬一)由靜慮修悉地法,(壬二)由念誦修悉地法,(壬三)由護摩修悉地法。今初 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 若如上說總承事已,別於細金剛三摩地獲得自在,則當修習靜慮所成世出世間諸妙悉地。此復有二,一由入壇時降入智尊者,於寶藏等世間悉地,略修即成。二諸餘悉地則須修至獲得所說相狀乃能成就。此中佛密論師,唯於修四印時說智薩埵降入自身而修。修餘一切世出世間悉地,唯說自住三昧耶薩埵慢,智慧薩埵不入自身安住前面,由供養等而修。對餘論師所說先自修三昧耶薩埵,召入智慧薩埵,次修悉地之宗加以破斥。然修一切悉地,皆須先修本尊瑜伽,則是諸師所共許。若為如法利益除遣自他貧乏等故,修取寶藏悉地者,如〈初品〉云:「藏中金剛形,當於自心修,修已即能見,地中諸寶藏。」謂於自心想寶藏瓶,中有月輪,月上有五股杵。念誦「班[嗈-邑+夕]尼底」,乃至見相而修。相者,謂可見觸之相,得相狀已修念誦一通夜,次往想有寶藏之處,供養本尊等,及施鬼神食。以金剛鎖咒印,縛護寶藏及其處所。次修念誦便能見其寶藏,掘地而取。如是或於虛空修金剛杵,自修羯摩金剛,修念誦後隨二金剛所墜處,即知其有寶藏。又於舌上修金剛杵而修念誦,自即能說諦語謂某處有。 若欲修不沉沒悉地,可於泉水等旁,或於隨所樂處,以大瓦器滿注淨水,安可見處,意誦「班[嗈-邑+夕] \[嗈-邑+夕]羅」。若諸水塵,變金剛相,更互相著,結成一金剛形。四座修習,乃至獲得見觸等相。次至堪受手足等觸堅如金剛,於彼隨繪何部曼陀羅輪,修前行儀軌已,經一通夜安住三摩地。次若欲於水上行時,但當現起此三摩地安住其中,即能於水上行住等。若緣虛空諸塵,修成羯摩金剛,變成一金剛梯。乃至堪受手足觸著,如前而修,則能上昇須彌頂等。若修持明悉地,當廣修供養等儀軌,修微細金剛後,誦「班[嗈-邑+夕]答㘃」等四種心咒隨一。隨順各品部別,觀想持明圓滿形體住月輪上,乃至得觸見相而修。次供本尊,經一通夜住於三摩地中。智慧本尊降臨,授與所修持明悉地。如是等眾多共悉地皆可修行。若欲修得最勝悉地,自修五如來身隨一形,念誦「班[嗈-邑+夕]答都」,想有微細佛身遍虛空界。於出息時觀想一切明顯,至入息時想如酥入砂中皆入自心而攝持之。如是不作餘業專精修習,調伏三業所有粗重,乃至見相而修。獲得相已,如前說繪壇等而修,則成就持佛形之持明菩薩。又於如來部中,若住金剛薩埵等本尊與自身無別之慢,每日遠離三業障碍而修,至出息時想本尊形遍虛空界。尤於諸根及所念境,想彼一切皆為本尊形像。思惟彼時當如是念,此等一切皆從分別而生,如所分別,若以教理觀察,皆於勝義非有。次收息及意時,當緣本尊。如是修習,若得前說相狀,則當繪壇供養,通夜住定,勤修念誦。本尊降臨授與本尊大印身形悉地,修此二時,說止命力而修。若於彼二由修力弱未得所說之悉地者,然如神通、壽、力、身色殊妙等諸悉地,不待勤勞亦可成就。如是所修悉地,是瑜伽部上根所化,初修行之最妙悉地。然在事行部中,若成就前說之持明悉地,即是最大身悉地也。 (壬二)由念誦修悉地法 由念誦門修悉地者,先自修為本尊。於四月中每日四座持誦如來或其部心一百八遍,圓滿承事。次若欲修大悉地者,先於本尊像前,修習本尊瑜伽,亦經四月每日四座如前念誦。最後通夜持誦,至天明時即得本尊身之悉地。若欲得三昧耶印悉地者,先當如前承事。次於本尊像前,四座皆結佛部之金剛母三昧耶印。不解彼印當善持誦,總誦真言滿十萬遍,後仍結印誦一通夜。爾時若感疲勞可暫解印略息,結印重誦。如是專注一意,若於頂上結印見其熾然,爾時結印即當跳動。若跳動已,結印略舉便能無碍騰空而去。若於眉間結印念誦,見其搖動,爾時略結彼印隨自所欲即能現身。若於心間結彼印而念誦,見其跳動,爾時略結彼印即得隱身悉地。若彼印發聲者,則結佛部諸尊一切三昧耶印,或隨一印,念彼心咒,便能作彼經所說諸業。又四月中先善承事,次於本尊像前,經一月中日修四座。後持誦一通夜,則於甲鎧、棍杖、線繩、芥灰、芥子、金剛、橛杵、弓箭、寶劍、糞等隨一物品;或以各各真言,或以本尊真言加持。或繫於身,或持於手,凡諸男女兒童被魔所魅,或恐人及非人魔類損惱,及已損惱,皆能防護,解脫損惱及諸怖畏。又諸村邑國土,恐有怨敵水火災病發生,如前守護,即能脫離彼諸怖畏。又欲了知善不善等,求降智尊,隨以紫白栴檀調水為泥,誦咒一遍而觸。或結金剛與鈎等印,或鑄像等觸著而降,降已如實宣說能息魔等。或用銅瓦等瓶,如前加持亦能降臨。若求失物何在,或誰所竊,皆能顯示。又如前說三種次第,最後於孔雀毛束中,安一木杵,繫於頂上。以金剛母三昧耶印按壓,乃至入一切印中而持誦。現相以後旋搖彼毛,自即能現一切形色,顯示世間一事業,顯示十方諸佛及諸眷屬,自亦能現佛身。又先承事四月。次於本尊像前結前三昧耶印,於四月中每日四次持誦一百八遍。次繪壇場結三昧耶印持誦一通夜。若見印熾,然後隨心欲於某一有情,想入其心愛樂誦持,即得自在。此是守護、延請自在事業。《阿嚩達惹》又說由念誦修慈等三摩地法,此等坐相、念誦聲音、意中觀想及顧視法,又各各三昧耶、積集資糧、念珠、捻珠法等,如《阿嚩達惹論》本釋總集諸經圓滿儀軌中說。 (壬三)由摩護修悉地法 先於息滅眾惡,增益種性等灶,修各尊瑜伽,日日護摩,乃至獲得自他滅罪等相,而修各各事業。 如是先當清淨三昧耶及律儀,為諸成就之本。次當勤修有相無相四座瑜伽。獲堪能已,進修共與不共悉地而趣諸道。下三部密經中,當知此理,不許風息、念誦、真空、天瑜伽等,總合一處而趣諸道。此等不具生起次第關要,及無圓滿次第諸宗要故,須得殊勝悉地而趣諸道。為令了知彼宗要故,於《阿嚩達惹論》及善根金剛論師《釋論》,依止初品《善集經》中散說修習悉地之理,略說少分。 瑜伽續中最勝教  攝真實經香乳海  三師妙論為擾杖  搖出第一甘露味 得淨灌頂住律儀  由修四座念誦法  善令本尊身語意  與自三業合為一 由三瑜伽修治心  入修悉地三種門  本尊授與上成就  此是殊妙易行道 是故略知結印法  及誦儀軌諸次第  縱云已知瑜伽義  然須更求諸道要 了知道要承事為先修地法品第五之一 ([A2]己三)無上瑜伽部道次第分三:(庚一)攝道之總聚,(庚二)釋道之次第,(庚三)釋次第之道。今初 ᅟᅟ==[A2] 己【CB】,巳【補編】== 無上瑜伽之道次第,當攝為幾聚耶。若知於此義中,智者所說多種總攝道次第之不同,則能增長觀者妙慧。故當說彼諸門。善根金剛論師《道次第》中說波羅密多乘道次第已,次說咒乘道次第時,攝為五種儀軌。謂熟未熟灌頂儀軌,熟已不壞護三昧耶儀軌,從師聽聞經續了知法相儀軌,修行菩提淨心儀軌,究竟方便淨行儀軌。如彼《道次第》云:「具善數取趣,於最勝師所,發心受灌頂,護律善知相,修心清淨行,是五儀軌相。」 《解七莊嚴論》云:「諸瑜伽續中,皆現為三續,智說為因續,方便續果續。」又云:「持上瑜伽續,果必依於因,五[A3]入如種子,應知取捨別。次漸受灌頂,應行方便續。先由聽聞慧,於文續多聞。次以思惟慧,俱學其文義,後以修習力,先學生次第,後圓滿次第。離覆穿毒過,善相續安住,定生果無疑,如水糞生穀。」因續如《明炬論》說謂五種補特伽羅得受灌頂。方便續,謂依聞思慧了解續義,漸學二種次第。如是學者能證果續。此依《集密後續》所說攝為三續,乃是霞答迦惹嚩摩論師所許。 ᅟᅟ==[A3] 入【CB】,人【補編】== 《黑閻曼德迦經》〈初品〉釋《寶炬論》,依於最勝補特伽羅攝為六聚。謂一切遍行之三昧耶依三昧耶而後灌頂,得灌頂後承事,承事而後修行,修行所成之果,果後利他事業。依於下劣補特伽羅,攝為四聚。謂三昧耶、灌頂、承事、事業。 《集智金剛續》說有貪乘人成佛之理,攝為四聚。謂續、因緣、訓釋、近因。此義如《明炬論》云:「以貪法理趣,證義故宣說,能生五部佛,說名為相續。後合為一部,說名為因緣。執持金剛等,是說名訓釋。喜等諸正行,當知說為因。」《明炬論》以離欲乘人欲界成佛四相為喻,而說有貪乘人一生成佛四相亦同。前者第一相,謂須生人中,如是此中亦須捨離庸常身慢,轉入五部或其部屬本尊之慢。如受生然,故名為續。此是第一次第。前者第二相,謂未出家時有種種相,出家以後唯一出家相為因緣。如是此中種種本尊化相,最後入一大密金剛持種。生死涅槃種種諸法,於真實光明中等同一味、唯一種性,是即圓滿次第。此是本尊壇等多法根本故名因緣。前者第三相,謂定須安住毘奈耶行,如是此中決定須受金剛三昧耶等五部三昧耶及灌頂。此是必須依止之處故名訓釋。訓釋梵云跋達,義亦通於依止處故。前者第四相,謂欲求證果,必須法行近因。如是此中亦須三行隨一行之近因。此等即是灌頂,受三昧耶二種次第,增長諸行。果位法色二身,聖派諸師許攝入圓滿次第光明與雙蓮。如是則可攝為五聚。謂成熟修道法器之灌頂,清淨爾時所得三昧耶與律儀,依彼如何修道,增長道之諸行,證果之理。《明炬論》說彼次第云:「諸於大金剛持所化曼陀羅,具聽聞善根者,當授明灌頂,顯示了不了義觀察次第圓滿次第修法。」造道之總聚者,謂諸續中所說一切續義,依於所化需要增上前後錯綜,令知是一補特伽羅成佛順緣。將諸清淨續論現為最勝教授。故依何義組纖成道次第,即於彼義。了知能攝一切續義,最為切要。如《黑閻曼德迦經》釋《寶炬論》云:「又此教王極相錯綜,是故當以尊長教授,於彼一一承事等中如應歸屬。謂諸宣說三昧耶者,先總合為一聚。次說灌頂事者,次說承事與修行者,次諸說果事者,次說無邊業者。」說《黑閻曼德迦經》如是者,僅是一例。實一切續皆應如是攝集。如是攝道次第諸異說中,隨一皆可,然今當依《集智金剛續》意而說。 (庚二)釋道之次第 無上瑜伽正所化機,謂如前說已修共道淨治相續大乘種性。是大乘中具足最勝種性大堪能者,由大悲心發動意故,成就猛利欲樂急願成佛,欲入無上瑜伽法門速疾成佛,必須無倒了知續義,善學二種次第及諸密行。為知續義故須聽聞,為求聽聞知已修行,則須先受清淨灌頂,如法護持三昧耶及律儀。以灌頂與三昧耶等,是金剛乘之道基故。如是欲求灌頂,須先入曼陀羅,此復先應修習所入之曼陀羅。如鈴論師《灌頂儀軌》云:「金剛持宣說,灌頂壇為先。」曼陀羅亦如彼論云:「今當說何為,曼陀羅體性,繪畫諸事業,線分彩次第,諸眾生本性,所成壇無二。」此說繪像、彩土、身曼陀羅三種。又依有情差別,說靜慮曼陀羅。故入曼陀羅時之壇,總有四種。又依菩提心說於勝義世俗二種菩提心曼陀羅,及薄伽曼陀羅灌頂。然此三者係上三灌頂時事,非是水灌頂等以前所入之曼陀羅。又先未曾受灌頂者,不可即於身曼陀羅灌頂。於靜慮曼陀羅灌頂,亦須師資俱具勝相。故彼二者非總灌頂。至下當說,雖亦可依繪像,然說阿闍黎德相時,多說善巧畫壇事業。續及解釋諸大智者,多說最初灌頂依彩土曼陀羅。是故總說弟子所入之曼陀羅,是指彩土之所繪者。如理修成如來依止,供養自入,後令弟子入也,此在彩土之時。為明諸尊居處作香壇等,是天預備,為知分散彩土處故彈線分別,故須先彈業線分別,與加持所彈業線之智線。又彈線所分處,及作天預備處,若作地神預備,則於彼處作壇應先求得地神聽許。除乞土時,若不別作地神預備,唯作地軌次第即可。弟子預備,是於灌頂之前,為令相續成受灌頂之器。瓶預備又分二,業瓶預備,為除弟子及供物等不淨障碍;餘瓶預備,為灌頂時須用眾多水故。求地神開許作儀軌之地,須善作地軌,故地軌為先。雖久住地不須圓滿地軌,然須知圓滿地軌之儀式。此若不知,設遇前軌所不能辦之地,則將不知所作。故當說廣儀軌。 此復先觀彼地可否作曼陀羅,故須觀地,知其可者,須從主乞得其聽許,故當乞地,乞得聽許須淨彼地,故須淨地。既淨治已,則須攝持作壇處所,故當攝地。所攝持地復須加持守護。是故共有五種地軌。修此之阿闍黎須先承事,故修彼等先當承事。總修承事雖不定須弟子勸請,然為弟子灌頂等故而修承事,則必須待弟子勸請。故更須作弟子請師長法,師長守護弟子法等,此等是為弟子灌頂次第。若修壇輪供養為天灌頂即是開光,故以灌頂為主要義。於灌頂儀軌支分中,護摩與資糧輪儀軌,及修彼時所需咒師之相,鈴杵、大小油杓、骷髏杖等,應如何製,製後如何持用等,皆應了知。如是由灌頂力,成為法器。善護諸三昧耶,聞思教義決擇修習。上者現法即能成佛;中者於餘有情起中有位而得成佛;下者轉生乃能成佛。若能知此諸道次[A4]第,則善分別上中下三補特伽羅一切道要,自修習時何道為宜,引導餘人用何次第,皆能善知。 ᅟᅟ==[A4] 第【CB】,弟【補編】== (庚三)釋次第之道分四:(辛一)成就修道法器,(辛二)淨三昧耶律儀,(辛三)住彼如何修道,(辛四)現證所修之果。初又分四:(壬一)聞修咒道定須灌頂,(壬二)灌頂師資須互觀察,(壬三)觀知其可勸請承事,(壬四)承事已灌頂之次第。今初 欲成聞修大密之器,要得清淨灌頂,是故灌頂即是成就根本。若無灌頂,縱能無倒了達教義精進修習,終不能得殊勝悉地。非但有不得大悉地之失,縱得諸小悉地師資亦俱墮那洛迦。如《大印空點》第二云:「若時諸師資,先灌一次頂,爾時即成為,宣說大密器。無灌頂不成,如壓沙無油。若無灌頂者,慢心說密教,師弟縱成就,死亦墮地獄。故應勤精進,從師請灌頂。」《金剛鬘經》第二亦云:「灌頂為主要,諸悉地常住,我說如寔義,故先應正聽。若具慧弟子,先正受灌頂,於滿次瑜伽,爾時成法器。若無正灌頂,雖了達教義,行者師弟子,俱墮大苦獄。」又云:「如咒能摧毒,咒取淨精華,弟子受灌頂,未淨能令淨。」《佛頂經》第三云:「譬如家無子,死後便空虛,如是無灌頂,諸智皆空無。猶如琵琶身,無弦不可彈,如是無灌頂,咒定不能成。實無有灌頂,愚妄說云有,乃至佛在世,師弟墮地獄。」無畏《經釋》中云:「决定當受一切灌頂。」是說須受一切灌頂之義。《釋難具智論》中,說初二頌配秘密灌頂智慧灌頂。則第三頌當配第四灌頂。《佛頂曼陀羅》中,亦說如次配三灌頂。乃至佛在世者,《具智論》說乃至佛法住世而墮地獄。自無第四灌頂妄云有灌頂故。《經釋》則謂:乃至地獄未空而住地獄。自未能得灌頂妄傳他灌頂故。以是未得諸上灌頂,僅受瓶灌頂者,對於聞修俱生自性圓滿次第法門猶非自在。曼陀羅儀軌之《金剛鬘論》亦顯然云:「瑜伽以及瑜伽母續亦爾。此謂妄作阿闍黎耶全無教證,於無俱生灌頂及律儀者,而妄說彼自性,全非佛說,亦非正理。」此破僅得明灌頂者,便謂俱可聞說修習二續之執。 灌頂次第,若未入壇令見本尊,不得直傳灌頂便令修行。如《平等加行經》〈第七品〉云:「若未入壇場,捨諸三昧耶,不知密真實,雖修無成就。」又《金剛幕經》第八云:「行者未入壇,未正受灌頂,若未見善住,或未燒護摩,現世及後世,皆無大成就。」以是未入壇者,縱善修行亦無成就。又於彼人開示道者,如下所說,犯三昧耶。則前入自心之金剛薩埵,不住而去。如《攝真實經》云:「我今授汝此智,汝入一切如來種性。尚能成就一切如來,況餘悉地?當生如是妙智。汝不應告彼未見大曼陀羅者,犯三昧耶。」龍智及毳衣大師等所造,堪為依據之曼陀羅儀軌,亦如是說。言見曼陀羅者,釋迦親說是依儀軌入壇開示本尊。謂於水灌頂等以前所入之曼陀羅,非是泛說餘曼陀羅。《雙運明顯論》云:「此諸灌頂入曼陀羅方可授與。」彼於解釋花鬘灌頂至第四灌頂後而作彼說。故於入壇示本尊者,乃可灌頂。未入壇者,定不應行。又灌頂者,未灌下頂決定不可授上灌頂。是故於全未受無上部灌頂之初發業者,若捨諸下灌頂及三昧耶與律儀等。唯傳諸後灌頂而說諸道,俱害自他。凡諸閑教義者咸應棄捨,若非爾者,則應未成生起次第之器,亦堪修習第二次第。未得諸前灌頂,亦應可傳第四灌頂。以未得成修初次第器之灌頂,即可傳授圓滿次第之灌頂故。若弟子灌頂與諸上灌頂無定次第,餘諸灌頂理應等故。經說由秘密灌頂等,成為堪修圓滿次第之道器者,意謂已由前諸灌頂令諸有情成為修習生起次第之器。若謂唯彼諸上灌頂即能成者,則《五次第等》說後三灌頂於圓滿次第各別自在。水灌頂等於修各部悉地各得自在,亦應許彼無諸前者可灌後者。又如福頂大師云:「雖行灌頂而難憑信,如誑愚夫無所知識,又以微小加持而代灌頂宣說深法。應當棄此金剛乘之似法。」此說極是。若以續部所說曼陀羅輪具足德相次第無亂圓滿儀軌,而受灌頂,乃生功德,堪為真淨教授之法器等。由餘儀軌不能安立四身果報殊勝種子,亦不能淨障碍悉地三業諸垢,亦不能成聽聞最勝教授甚深經論之器,故於建樹金剛乘之基礎,應多勵力。 (壬二)灌頂師資須互觀察分二:(癸一)不觀察之過失,(癸二)善觀察之方便。今初 師長若不觀察弟子法器,隨人而灌頂者,非法器者不能守護三昧耶故,現後俱損。故為非器宣說生多過失,犯三昧耶,遠離成就,招諸魔害,弟子若不觀察師相,隨從何人即受灌頂,為彼邪師所欺,不能守護經說上師諸三昧耶斷壞成就,招諸魔害生多過患,故應互善觀察。《師長五十頌》云:「師長及弟子,俱犯三昧耶,勇士先觀察,師長與弟子。」《金剛鬘經》〈第二品〉云:「如摩瑩觀寶,煉冶而觀金,如是十二年,應善觀弟子。故應一切時,如是互觀察,不爾生魔碍,招苦壞成就。」又〈五十四品〉云:「猶如獅子乳,不應注瓦器,如是大瑜伽,非器不應與。弟子剎那歿,現後俱受損,非器施教授,師長壞成就。」《大印空點》〈第二品〉云:「如煆鍊觀金,如智者觀寶,如觀安樂女,如是觀弟子。故應俱策勵,師資互觀察,不爾便成過,終不得悉地。」十二年者,意謂不能速知,由經爾久可得了知。非定須爾久也。 (癸二)善觀察之方便 所觀之阿闍黎有二。一、住咒生起次第之阿闍黎;二、住定圓滿次第之阿闍黎。如龍智云:「佛說金剛乘,有二阿闍黎,一謂重持咒,二謂住靜慮。」二師之相,如云:「住咒瑜伽師,樂緣天像修,由此得行相,當繪彩土壇,行者住密咒,具無二智行,以如幻之身,繪如幻壇場。」重持咒者,非謂不樂修習,以說樂修本尊瑜伽,獲得心淨相故。重咒重定二者,非趣別道。以修四座瑜伽堅固生起次第,乃趣圓滿次第。次第決定,是聖父子所許要義。生起次第之灌頂阿闍黎,注重修習四座本尊瑜伽,復須誦咒,故說重咒。圓滿次第阿闍黎傳授灌頂與前不同,由住無二智雙運,及幻身靜慮,即可灌頂。故說住定,非是隨住何定皆可。 若是圓滿次第阿闍黎傳灌頂,必具生起次第阿闍黎之一切德相,並有增上功德,此極希少,若無彼師。生起次第之阿闍黎,亦具灌頂阿闍黎之德相,故此當說觀察彼之方便。此德相如《金剛鬘經》〈第六十四品〉云:「善息災等業,知咒瑜伽軌,此師可稱讚。行施住淨戒,具最勝忍進,晝夜勤修行,有慧善工巧,具師長德聚,說名阿闍黎,內愛樂集密,外作聲聞行,以如是教授,轉教諸弟子,當知為大師。」此說戒清淨等具足六度,且以集密為例,內修無上乘道,外順別解脫行。如是引導弟子。又說了知十真實等眾多功德。 若不能得圓滿德相如經說者,當捨德失相等及多過失,而依德增上者,《勝義承事論》云:「濁世師長德失雜,難得全無過失者,善觀何師德增上,弟子即應親近彼。」必不容少之相。藏地諸賢謂得圓滿灌頂、安住三昧耶與律儀,親見師長傳承軌則,了知十種真實,善巧灌頂儀軌,先修承事,獲得本尊聽許或未遮止,定須具此三法,實應如是。言住咒律儀者,須未犯根本罪,此最重要。《金剛鬘經》〈第八品〉云:「善摧根本罪,由經咒加行,賜予世間樂,如是為師長。」此說阿闍黎相須離根本罪故。《律生論》〈第十八品〉云:「永斷根本罪,亦離諸粗罪。」說此為傳弟子之三昧耶,其傳授者尤應具足。 所觀弟子之德相者,如《攝真實會》〈初品〉云:「入大曼陀羅者,不須觀察是器非器。」此說入壇灌頂二者之中,若但入壇則不須觀弟子之相。如《金剛生論》云:「若不受律儀者,不應教『汝今』等,不應作阿闍黎隨許以及灌頂,但令入壇。」此說若俱不能受持二種律儀(菩薩律儀與密咒律儀),唯令入壇投花示以本尊。捨置安立三昧耶等,佛密論師,亦如是解《大日經》意。扎拏經釋《寶炬論》中,引《真實光明論》為據,說斷殺者可如是行。說灌頂者,若但守護菩薩共律,不能守護密咒律儀。但傳弟子灌頂,若俱守護二種律儀,則可傳阿闍黎灌頂。故觀能否護戒而為灌頂,最為重要。《鬘論》亦云:「若善觀察知彼無有憍慢等過,住近事等律儀,及淨修多聞等,可受金剛薩埵律儀,則雖族非高貴,容顏醜惡,亦應增上安住(預備為弟子)。若彼希求金剛薩埵律儀,信樂金剛乘,不求餘大師。」此說上品希求律儀及深信金剛乘二法,為可圓滿灌頂弟子之所必具。《金剛鬘經》〈六十四品〉說具淨信、恭敬師長、常修善行、無諸諂誑、多聞聖教、成就樂度諸有情心等功德相。然若能守二種律儀,皆可具足。《秘密總續》說具貴族、少壯、多聞、經論等德相[A5]已。又別說云:「弟子成勝德,支體無殘失,無病族高貴,信戒者希少。若有信三寶,愛樂大乘法,好修福有情,此等可攝受。弟子若勤求,修善逝密咒,雖醜陋無德,智者令入壇。」《總續》又云:「曼陀羅儀軌,四眾樂大乘,勤護所受戒,說為共軌則。」此說若苾蒭等四眾,各各勤行別解脫戒,於金剛乘尤深愛樂,則可作曼陀羅儀軌。是故金剛空行母說不對苾蒭說真實者,是指不信解大乘之苾蒭。寂靜與無畏論師說:「第二句文,是遮相違,顯此大乘意業為主。」謂顯咒行與修別解脫戒二不相違。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== (壬三)觀知其可勸請承事分三:(癸一)弟子勸請,(癸二)師長守護,(癸三)先修承事。今初 如是觀察若知其可,應請師長灌頂。《金剛空行》四十六云:「為求繪壇故,弟子應殷勤,數數請師長。」謂應供壇頂禮,長跪合掌。如智凱論師云:「一切智大師,普度三世尊,生死泥淖中,救我無依者,請為金剛師。」如是三請。《五十頌》云:「調伏於師前,如法善披衣,長跪而合掌,三請欲聞等。」若知確是法器,雖未勸請,亦可教誡而傳灌頂。《大日經》云:「又自觀有情,知堪為法器,無過具勝解,淨信好利他,知此弟子已,彼雖未請白,師長為饒益,召彼如是告。」 (癸二)師長守護 《金剛空行》四十六云:「請已師問云,資具皆備否?若云有少許,餘有未具足。爾時阿闍黎,應觀彼心意,堅者知堅固,動者知動搖,雜者知為雜。次於弟子足,想弓形風輪,臍間然智火,光燄上心間,熾然徧一切。[口*(一/火/又)]字變惡形,罪性從鼻出,次修忿怒像,噉食彼罪業。嗡班[嗈-邑+夕]扎格尼,喀喀喀黑喀黑,薩嚩跋邦,答哈答哈,跋彌孤茹吽吽泮。所修成天形,安布諸守護。」此說攝受弟子,《金剛空行釋》解彼次第云:「弟子作請白者,謂阿闍黎願將一切有情立於無上菩提。」故問一切曼陀羅之用具汝皆備否,若云有未備者,爾時應於足掌想有弓形風輪,於臍間想火輪,其上想有日輪吽字,由風吹動吽字燄鬘熾然心間。[口*(一/火/又)]字所生罪障自性,狀如羅剎,青色忿怒,陰相長懸,由心中起從鼻孔出。吽字上至心間變成金剛藥叉、藍色大腹、獠牙前展右足。左手持牙當心作恐怖印。右手擎牙上舉,從鼻追出。念誦:「嗡班[嗈-邑+夕]扎格尼等咒,意想食彼罪障。」寂靜論師謂以左手作恐怖印豎立如牙。跋嚩跋陀羅論師說:「次想弟子由桑字變成普賢。為守護彼心故,從普賢心出烏面母等橛,上半為忿怒像,橛下半為獨股杵形,釘自心所出障礙主。橛燄焚燒魔碍餘眾。次想弟子心中吽字成金剛杵,頂上阿字成月輪,上有十字金剛杵,杭字莊嚴。」烏面母等,僅是一例。變成金剛橛之本尊,隨時所宜。普賢者,或如《普賢修法二釋》所說:白藍紅三面,其上二臂作抱持印,右下二臂執杵及劍,左下二臂執珍寶與蓮花。天衣眾寶而為莊嚴,或依餘教所說普賢而修。堅固等三,《跋嚩跋跎羅》說是觀察善不善等相。《鬘論》亦云:「弟子臍間日上吽字光明,照逼心間,[口*崗]字所生罪惡,黑如羅剎形極忿暴,陰相下垂,毛髮上竪,從鼻孔出。吽字上至心間變成下文所說吽迦惹像,亦從彼出。誦『嗡松跋尼松跋吽吽泮泮,嗡格哈那格哈那吽吽泮泮,嗡格哈那巴耶格哈那巴耶吽吽泮泮,嗡阿那耶賀,跋伽聞,毘黎耶惹[嗈-邑+夕],某甲薩嚩巴𠳐那霞耶,吽吽泮娑訶。』以所執熾然金剛杵,摧滅所出罪業。」若先從二字變成吽迦惹與罪障,次由吽迦惹光明追逐罪障從鼻孔出,以金剛杵摧滅令盡,意趣無違,便於修習。次想吽迦惹誦,嗡班[嗈-邑+夕]格利格拉耶,阿薩耶,薩嚩毘伽那,奔答奔答吽泮,而發教勅。自亦如是念誦。用上為甘露軍茶利像,下為橛形之橛,釘治弟子心中魔碍,由橛猛利光燄,焚燒諸餘魔碍。次想弟子由桑字成普賢。為守護故,心間阿字生起月輪,有阿字所變羯魔杵莊嚴。頂上月輪有吽字所生五股金剛杵豎立,杵臍有摩摩格三昧耶尊。此尊心中有智尊摩摩格。智尊心中月輪有金剛杵,杵臍中有下說咒鬘。從咒放出微細黃色金剛杵光,徧滿全身,而披甲鎧。誦「嗡阿香迦日,馨底迦日,姑札札,姑札札,姑札只尼,伽達耶伽達耶,姑札只尼,某甲惹叉惹叉娑訶。」而作守護。若更傳授軍荼利咒令其持誦。則魔不能為害,用具易得。《集密》〈第十四品〉,說此咒是摩摩格咒。摩摩格者,總軌中說:「藍色,有黑白紅三面,右三手持金剛杵、輪及紅莖青蓮花,左手持鈴寶劍。」 此攝受弟子法,是淨罪障,魔不能害之大方便,即於餘時若自若他亦可修作。《金剛鬘論》於承事後乃說此法,請已承事之阿闍黎,即於請時可作。若在未承事前請者,亦可即於爾時作法,是故次第不定。 (癸三)先修承事 總言承事即二次第。如《集密後續》云:「由共勝差別,承事有二種,共由四金剛,勝由六支分。」故得灌頂住三昧耶律儀,漸次學習二次第之承事,即修自道。豈可灌頂開光等事,乃須承事,非自修耶。是故然燈賢等眾多智者,於承事時圓滿宣說本尊瑜伽,其後乃說曼陀羅儀軌。意謂為他灌不灌頂,及修共勝悉地隨一,皆須修習四座瑜伽,若未承事即傳灌頂,是為自害。《集心論》云:「勝曼陀羅師,應先勤承事,次於曼陀羅,善觀察調伏,若未事本尊,徒為自損害。」黑行論師亦云:「若未承事本尊,則自損害。」《鬘論》亦云:「知一切智道,應先修承事,集福破魔軍,離承事無成。了二次真實,安住遠離處,應修本尊輪,勞時誦密咒。誦壇主一億,或本尊十萬,眷屬各一萬,此名先承事。」此說為集資糧及破魔故,先修本尊與誦咒等承事。《賢攝受經》有彼頌文,故先承事最為切要。為傳灌頂與開光等,承事本尊之量。《鬘論》中云:「若由如是廣修承事,能剎那頃圓滿收放曼陀羅中一切諸尊瑜伽。若住壇輪諸尊未遮,或由積集資糧而得開許,可行入壇、開光及攝受徒眾等。」此說勤行四座瑜伽,修本尊慢與明顯相,為主要之承事。此如何修,生起次第時當廣說。如《鬘論》說持誦之量,《四百五十頌》中亦云:「誦壇主咒億,或本尊十萬,餘尊各萬遍,或壇主開許。」此謂若得正尊開許,雖未滿數亦可壇繪。寶金剛師與隨《鬘論》行之補底論師亦說隨誦壇主本尊滿一億數。《二觀察經》中〈初觀察第十品〉云:「壇主誦十萬,壇眾誦萬徧。」毳衣論師、持祥論師亦作此論。故《現說經》〈四十九品〉說壇主與本尊誦十萬者,意謂隨一。又《鬘論》頌是引《賢攝受經》,故彼經於壇主本尊俱說誦十萬者,理當譯同《鬘論》。日生、月足、慧鎧所造之曼陀羅儀軌,雖亦俱說壇主本尊各為十萬,然當依止然燈大師而為定量。勝樂法中黑行論師與答日迦跋說正尊父母各誦三萬,三輪四十八尊各誦二萬,大樂輪與三昧耶輪十二尊,各誦五千五百遍。答日迦跋又云:「住中或略法,壇主誦一億,空行誦十千,令諸尊歡喜,上智誦一萬,護摩善供養。」藏地智者解釋此義,謂十三尊或五尊者,壇主十萬,眷屬各為一萬,通一切尊共誦降智真言一萬。以彼持誦十分之一而燒護摩。然除《時輪法類》說以降智念誦十分之一而燒護摩,及《律生》等說修息災增益等成就時,須以念誦十分之一作護摩外,堪為定量之曼陀羅儀軌,皆未說曼陀羅儀軌前之念誦,須以什一而作護摩,故不須也。以是答日迦跋所說,是為懺除儀軌增減念誦增減過故,修念誦後所作護摩,非什一之護摩。如《金剛藏莊嚴》〈第七品〉云:「密咒有增減,皆以護摩滿。」隨順《佛頂骨經》之曼陀羅儀軌有云:「如經所說軌,住生起位師,持誦壇主數,隨福上中下,兆億萬能成。眷屬是主分,不須別持誦,若見開許相,誦未滿亦成。」跋嚩跋陀羅師亦云:「次誦自明一萬或誦十萬或百萬遍。」說眷屬是壇主支分,故不須別誦者,勿即以為事實如是。彼意或約究竟,至於空性於無二智現,為能依所依之理,獲得堅穩定解者說,應更詳察。 所誦真言,如黑行論師云:「勇識心真言,應誦三萬遍。」此說心咒。《四百五十頌》云:「出雜三真實。」此說「班[嗈-邑+夕]枳」等,出生咒中雜以三字(嗡阿吽),為承事時所誦真言。不空足論師說持誦恐怖十字心咒十萬,故行灌頂等法,鬘咒等諸長咒非所定須。《律生》〈十二品〉云:「善時所誦一具,三誦二倍,具二誦三倍,惡時誦四倍。」有謂經說正尊誦十萬及眷屬一萬者,當增四倍,然非經義。《律生》〈十一品〉說正尊父母與空行母等四眷屬修此六尊於取寶藏取精華時,心咒誦一億遍,心中心咒誦三億等,所誦什一而作護摩。釋論謂此,依於圓滿世說。所引經之釋論亦說:「言持誦一億二億等者,是依圓滿世說,故當誦二倍等。」此說顯是修悉地時,作曼陀羅儀軌前之念誦,曾未作彼說故,其餘堪為依據之曼陀羅儀軌,亦未說如是建立故。 有云灌頂,即為弟子消滅罪障,增益功德,治魔碍等,故是修息災增益等悉地之時。此不應理,若如是者,初承事時一切誦修,皆有彼義。彼等應亦是修悉地之時。眾多經教皆說先作承事,次修悉地,分為二時,應俱違一切也。 修承事之差別,勇識金剛說有三種。一、見相承事。謂由修習四座瑜伽,見煙等相。二、時期承事。謂修一年或半年或四月。三、數量承事。謂誦正尊十萬眷屬一萬,隨修一種即可。毳衣論師則謂:「如云:壇主誦十萬,壇眾誦萬遍,由持誦故或得相狀,或得自心清淨穩固,是先承事。」此說由數量念誦與修天瑜伽,須得本尊開許之相,或得心清淨天瑜伽堅固,二者隨一。持祥論師亦如是說。故若未得本尊開許,誦數未滿。說經年等三種時量隨一修習,即可作法,不應正理。見相承事有二,若未獲得本尊開許之相,獲得自心清淨相者,亦應誦滿念誦之數。又龍智云:「愛樂修習得相可繪。」亦說安住念誦。《四百五十誦》云:「住輪如理誦,得相後正繪。」此俱說二事故。正念誦者,謂各座瑜伽時,意不散亂,遠離雜言,如諸念誦修法所說而誦。餘時隨便念誦不足為數,下當宣說。念誦儀式,慧祥論師謂於作壇之處繪曼陀羅,塗香聚花,於彼修本尊而念誦。恐怖天謂若無自在,可略修念誦想本尊聽許,其天亦可單修一尊。然彼全無可信證據,故不應如是行。藏師有云:或修為瓶,或修前起,而修念誦。然燈賢等諸可依者,多說如現觀時所說,而修念誦,未說餘法。是故總修本尊四座念誦,與為灌頂所修四座念誦,全無差別。又有藏師說雖一曼陀羅,每次灌頂皆須圓滿念誦一次,實如上說念誦一次,即彼便足。然說先修念誦承事,至灌頂時,亦應觀夢,須得開許或未遮止,應如是行。若於別尊異曼陀羅,則須別修念誦。惟除恐怖金剛,許可但修一尊念誦,餘尊主伴俱須圓滿誦也。 密宗道次第廣論卷六終 密宗道次第廣論卷七 宗喀巴大師造 法尊法師譯 了知道要承事為先修地法品第五之二 (壬四)承事[A1]已灌頂之次第分二:(癸一)明作法之時,(癸二)作法之次第。今初 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 《總續》云:「以正寂靜心,於寂靜時日,而行咒迎請,如意得成就。」又云:「凶日與非時,非處無軌則,智不應繪壇,繪者決定死。」又云:「一切續儀軌,須臾而吉祥,常於吉祥日,主吉而繪壇。不吉時作事,全無成就者。」此說善惡時日於作壇法有大利害,故應觀察。應於何月中修,如《總續》云:「自仲秋十五,至季春月圓,智者於此時,如法繪壇場。為除碍治病,及自修諸壇,夏季亦可繪,智者不須觀。」此說七個月中,可作灌頂壇場,餘壇夏季亦可作之。 七月上下弦何時作?及上弦何時作?前經云:「智者於所說,諸月上弦中,十五或十三,初八或十四,初十與十一,或於初一日,初五及初七,初三亦可作,於此十日中,善繪曼陀羅。下弦吉期中,繪壇亦無妨。」《善住經》云:「若與宿曜合,黑月亦可行。」何曜可用耶?前經云:「木曜與月曜,金曜日曜吉,作諸猛利事,餘曜日亦可。」宿可用者,即前經云:「鬼柳與氐星,軫角及婁尾,於此諸日中,繪壇最吉祥。彼等主寂靜,是諸吉祥宿,智者應繪壇,凶日作猛事。」諸凶結合(二十七結合中有八主凶),與凶作用(十一中有一凶),亦應迴避。餘殊勝時如《總續》云:「日蝕與月蝕,及有奇相時,並於神通月,精勤繪壇場。」又說用具完備,信心深厚,精勤事業,無諸損害,花果繁盛,以及弟子承事,師長歡喜之時,亦可作也。《蘇悉地》說師長歡喜時所授諸咒易於成就。《鬘論》說於如是吉日上午,作繪壇事。 (癸二)作法之次第分二:(子一)正作灌頂儀軌次第,(子二)灌頂支分儀軌次第。今初 《幻網經》云:「先攝受地基,次日行預備,三晚正入壇。」故此分三。 (丑一)地儀軌,(丑二)預備儀軌,(丑三)正行儀軌。初又分六:(寅一)觀地,(寅二)乞地,(寅三)淨地,(寅四)攝地,(寅五)守護加持,(寅六)餘處餘壇須否地軌。今初 此中欲釋諸曼陀羅共同儀軌,以《鬘論》為本,因彼論依父續母續等曼陀羅共同儀軌,及明儀軌最詳故。《總續》中說非處繪壇者死,故當觀察處所可否作壇。《鬘論》中說東方繪壇國王死傷,國多災患,南方所為者死,西方阿闍黎死,北方入壇者死,火方(東南)降雨,羅剎(西南)饑饉,風方(西北)風雨,近塔則死,近有龍處則發洪水,樹陰死亡幼童,知彼眾過避前一切,當於城邑村園,寺廟居家,自在(東北)方作,或於悅意東方偏北而作。《勝吉祥經》釋下說,若於火方作天旱無雨起諸火災,於風方作當降大雨,與前不同,又說於樹下作者死,於龍處作死及病水。除增說於南方空房,餘六處同上說。並說彼等是大師說。《總續》中說在塔前作,故遮與塔太近。《金剛空行經》〈四十六品〉云:「村尸林集場,園寺與城郭,東與北方吉,南西則非爾。」又云:「或隨意所喜,於彼處繪壇。」此說可隨意作。若言七方不可用者,與此隨意所喜相違,又說東與北方可用亦相違反。然此無過,東與北者意取東北。遮其餘七方者,謂若不在聚落寺廟等內,而於彼外隣近繪壇,造曼陀羅殿者,雖地悅意亦不可用。若非在彼等處,則可隨意所喜而作。又《總續》云:「一切皆圓滿,緣具最難得,總於平整地,光潤向東傾,其處多甘泉,具好樹莊嚴,令心目歡喜,無害無毒箭,作壇最吉祥,得一切悉地。」毒箭者謂荊棘、瓦礫、懸險、骨鎖、株杌、孔穴、蟻窩、灰炭、鹹鹵、砂石、塵髮、蟲蟻等處,皆當避離。彼經亦說須稍北傾。《鬘論》又說地如龜背,為死亡與失財之因,故當遠離。《金剛空行經》〈四十六品〉云:「寺院與園囿,山巔及盤石,宮殿等頂上,尸林及天祠,凡此諸地址,經中咸讚許。」謂在寺院等內作法,不須觀方。用土觀者,如《鬘論》說掘穴一張手量,速以原土填滿,有餘者善。《總續》則說掘沒膝量,仍[A2]填原土,若有餘土即有成就,反爾不應作法,作則招苦不獲善果。又《金剛手灌頂經》云:「智者掘肘許,咒師以所掘,原土而填滿,有餘為最上,平滿為中等,不滿則應捨,不應於彼修。」用水觀者,《鬘論》中說,即於前穴,再掘一手,滿注淨水,他去百步返回觀察,水滿則善,水減應捨,若有聲響表有龍難。《金剛空行經》說,東行百步轉回觀察,水滿者善,涸者應捨。《釋論》則說涸至半量以下者凶,餘者良善。又說水若右旋者上,不旋者中,左旋者捨。若有魔碍,以甘露軍茶利辟魔,釘金剛橛。三昧耶金剛論師說掘孔注水時,誦甘露軍茶利咒,向東行時誦三字咒(嗡阿吽),已由方相觀知可用。復以此二觀察者,《總續》說是觀知善者能得悉地,觀察於彼作法能否成[A3]辦所求義利。《鬘論》中說即於寺院、塔下、宮殿、蘭若作法,亦作彼二觀察。爾時是由彼事觀察吉不吉也。用色觀者,如《金剛手灌頂經》云:「白色修息災,許紅為自在,當知黃增益,黑修猛利行。」 ᅟᅟ==[A2] 填【CB】,埧【補編】== ᅟᅟ==[A3] 辦【CB】,辨【補編】== (寅二)乞地 《總續》中云:「得地主聽許,軌範繪壇場。」此說須得地主聽許,是故觀知可用之地,若屬王等,當從現主乞請聽許。次於上午先行施食,於所觀地用妙香等作曼陀羅,善修曼陀羅輪而為供養,舉昇虛空。次於彼處地祇神等奉施供食,如是三請:「住此諸天龍,藥叉羅剎等,我今乞此地,建壇汝應施。」次誦:「嗡姆集利娑訶,嗡摩哈尼娑訶,嗡當底利娑訶。」口咒左手二十一遍,供養世間自在為先,頭南面東,著新淨衣,臥潔淨處。若夢凶惡,可誦甘露軍茶利咒,勝解一切諸法勝義無性。或再觀夢,若彼施與或未遮難可用其地,遮則莫用。次日上午白前,舉昇虛空諸尊,請其聽許。午時修守護輪,釘諸魔碍,或燒猛利護摩驅逐魔碍。若如後作,則為守護弟子,午後當在火界(東南方)灶中舉行息災護摩。用一切業咒加持之芥子水灰,於彼洒淨。次結金剛跏趺,修如下所說之地神,先献浴足,漱口、閼伽、供品。誦:「嗡請來」及「救護」等,三返祈請。想彼答云:「可如是作。」舉昇虛空。《鬘論》此處未明說向地神乞地,然說先請給地,故是請給繪壇之地。《四百五十論》等亦說施食,當如是作。此與前二是從不現之地主而乞也。 (寅三)淨地分三:(卯一)由掘淨地,(卯二)由物咒定三法淨地,(卯三)由無上清淨淨地。初又分二:(辰一)為淨地箭而掘,(辰二)為觀蟒神而掘。今初 次《總續》云:「用鋤掘其地,次出地毒箭。」須出地箭之理以及如何取出,如前續云:「有箭地基上,作業無成就。箭過謂枯骨,瓦礫及灰燼,朽木并荊棘,勵力盡揀出。」此又名為擇土。掘至幾許量者,《金剛空行經》〈四十六品〉云:「下等悉地別,掘至膝陰臍,揀去腐草石,瓦礫灰炭箭,并諸荊[A4]刺等。」此說若修上品悉地掘至臍處,修中下品掘齊陰處、膝處,出諸地箭。地箭愈淨,悉地愈易成就,未揀石等之過,如《鬘論》云:「有石起大風,雜骨生痛苦,瓦柴感喑啞,草炭致災疫,有髮木根等,能生微細苦。」了知此過當善揀擇。《勝祥大疏》於須揀除彼等繪壇之理,亦說此諸過失。故是未善揀除繪壇之過,非說掘地發現彼等便有此失。於作台處隨台(作壇之台)量度,而出地箭。若掘餘處而出地箭則無所益。若諸地箭不能盡除當如何作?如《總續》云:「若不能盡除,一切地箭過,則當用密咒,善修治彼處。」《鬘論》與答日迦跋說用手觸地誦咒,然未明言何咒。《賢攝論》與日生師說是「嗡哈那哈那卓答吽泮」,不能揀除地箭之量,日生說是掘至膝許,若不能淨,掘至腰許,若仍不淨當用咒淨。慧鎧師說為除地箭所掘坑穴,當用土水觀察。三昧耶金剛師亦說初二相同。擇盡地箭所餘淨土,和以香水仍填彼坑,若不滿者,可用餘土填滿。次以吽字與一切事業咒加持香水,遍洒捶築,量高半肘,中心略高,東北微低。如是作之勝利與不如是作之過患,如《金剛空行》云:「於前說地相,中高而繪壇,東北微低下,咒師得成就。中高得王位,及諸持明處,北高者死亡,或損失財寶,或害諸疾病。若東方高起,種族速滅盡,地本體中窪,行者受衰損。」《鬘論》於作壇處高低亦如是說。故於處所壇台俱當了知。《總續》中說於台中心掘一小穴,安置穀寶,誦咒加持。難勝月及答日迦跋,《鬘論》、毘布底等亦說中安藥及五寶,此如不空足說安置五寶五穀之瓶,用土填滿。故安地庫最為善哉。 ᅟᅟ==[A4] 刺【CB】,剌【補編】== (辰二)為觀蟒神而掘分三:([A5]巳一)觀蟒神行住之理,([A6]巳二)知已應如何掘法,([A7]巳三)掘地好惡之德失。今初 ᅟᅟ==[A5] 巳【CB】,已【補編】== ᅟᅟ==[A6] 巳【CB】,已【補編】== ᅟᅟ==[A7] 巳【CB】,已【補編】== 《金剛空行經》說觀察蟒神。難勝月及無畏、慧鎧、寶鎧、日生、如來金剛等曼陀羅儀軌,亦說觀察。作何等事須觀蟒神,如《金剛空行》云:「佛寺及宮殿,塔壇與築城,房屋花園等,當掘蟒神腹。」《鬘論》說造阿蘭若時,亦應觀察。毘布底曼陀羅儀軌亦云:「造廟塔宮閣,開光建壇等,此當觀地蟒。」故有多事須此觀察,若造曼陀羅室,及前所說掘地修治建造曼陀羅台,定須觀察。在掘地前,如前所說辟除彼處魔碍,奉施食品,次當觀察地主蟒神。《鬘論》但概略云:「以金剛拳執持彈線,與修行伴向右施繞,阿闍黎住火方風方,而彈東西北南四線。將建寺等地基作成方形,秋三月等三月如其次第。當觀頭向東南西北,面朝南等而臥。從日出後,於龍腋下離一肘處,向右旋繞掘為墻基。」毘布底師則詳言之,謂將處所彈成方形,於彼四方,各隨三月所有日數,分九十格。蟒神於彼住行之理,謂於孟秋初一,頭在東北隅格,尾在西南隅格,面向南住。每過一日頭,往南移一格,右旋而轉。三月之中遊行一方之九十格。故經一年,繞盡四方四九十格。此左脇臥,從頭至尾有十張手,每一張手按壓十格,故隨安住何方隅時,皆按壓九十格。其身橫量,覆地九格。故隨住於何方隅時,其陰密處皆在中心。毘布底曼陀羅儀軌中云:「地基作方形,隨三月日數,每方如是分,自在(東北)至火界(東南),東面分九十,從火至離寔(西南),離寔到風界(西北),風至自在隅,如是各九十。秋月孟仲季,頭住自在等,尾在離寔等,陰處居地中。臍下為蟒身,人頂有蛇頭。面南枕左手,右持寶在腰,臥遍九格地,龍身十張手。住東西邊際,如所量地格,初一起遊行,每日行一分,東方如是行,南西北亦爾。冬月孟仲季,白月等面西,勝支(頭)向火隅,尾在風界等。春月孟仲季,面視藥叉方(北),頭住離寔界,尾在自在等。夏月孟仲季,面目望東方,頭在風界等,尾居火等處。經歷一歲中,繞遍一切地。」又說八大龍王住於彼尾端等八處。即前論云:「龍王行差別,隨月別應知,無邊(龍名)身白妙,想尾等次第,其身八龍王,供乳等五供,尾端種性(龍名)藍,陰處力因(龍名)綠,臍螺護(龍名)藕色,臂大蓮(龍名)如金,增財(龍名)綠於心,安立(龍名)紅在喉,耳中蓮(龍名)白光,無邊(龍名)藍住頂。」蟒神亦是無邊龍王,白色殊妙。 云何隨地大小,彼皆如是遍臥。藏師有謂:如彼月影隨器大小,皆現水中,故不相違。然不應理,若一蟒神如是遍一切處,則成相違。體若是一隨地大小影各別現亦無說故。故是為知所欲掘處,是否地神所不宜處,隨地大小作是觀察。非謂所觀一切處,所皆須如是安住。 (巳二)知已應如何掘法 若爾何為初應掘處?即前論云:「東棄廿七格,北置十三半,竪(東西)九橫(南北)四半,為初掘腋前。」此依頭向東說,謂從頭所按格,西經三九二十七格,是處不可挖掘,再從彼界西過九格。從身背所壓地,前過十三格半,不可挖掘,再從彼界向南過四格半,乃是最初掘處。許彼處為腋前,即掘腋前九格之軌。《鬘論》說有兩派,謂掘腋前一肘處之自派,與掘面前之他派也。《律生釋論》中云:「頭部捨二十格或廿一格,腹部捨二三格,次當定其背尾,掘其腹部。」當觀此與全身首尾共按九十格說,有無相違。如彼又云:「蛇頭一面量,面部有九格,如是項及心,臍間亦彼量,陰處量亦爾,餘為蟒形狀。」此說身量大小決定,與說陰處在地中間亦覺相違。想如是蟒神已,供乳等供,想掘者為碍邊際尊,鋤有金剛莊嚴,右手持上,左手持下,面向東北,掘四鋤土,以寂靜心,置施食內或置火界(東南)等外。第五鋤土散彼地中,餘諸方隅諸作事人皆可挖掘。毘布底云:「人修碍邊相,鋤有金剛飾,左手執下部,怖逐諸魔眾,面向東北方,先掘四鋤土,靜心置食內,或拋火界外,其第五鋤土,善布彼地中,第五散方隅,一切人可掘。」 (巳三)掘地好惡之德失 若如上說而掘,一切法財意願,皆能成就增長。若掘餘處,生多過失,如前論云:「此增法財願,若掘蟒神王,所壓九分土,喪父母子女,妻妾自親屬,掘背後自死,或離家失財,掘尾死象馬,牛羊及力衰。五鋤有木髮,蟻爪灰招損,有石招風災,穀壳杭染疫,有骨感痛苦。」所言五鋤土中,有木柴等招過患者,是未揀之過,非謂有即生過。《鬘論》如前說者,是說觀察蟒神所掘之地。毘布底云:「次除石等以原土填,若彼不足,亦用餘土,洒以香水,填所掘坑。」此說揀除地箭而作。未說改移餘處及遮彼惡相之方便。日生亦云:「若不除彼箭,當生諸過失。」又云:「由善除地箭,煩惱即盡除。」於觀蟒神所掘之地作是說故。慧鎧論師別說為觀成就掘地與觀蟒神掘地。《鬘論》及寶鎧論師說彼二作一事者,意在建壇之時,若為餘事觀察地神掘地之時,不須觀察三品成就而掘地故。 (卯二)由物咒定三法淨地 次以一切業咒所加持之芥子水灰,散洒彼地。再以前咒加持牛生五物,東起漸塗,復洒香水。誦「嗡布康」。想為虛空,如〈勝樂灌頂品〉所說修為空性。誦「吽瑯吽」,想地成為金剛自性。《金剛空行經》謂:「嗡阿瑯吽。」次誦:「嗡梅底尼班集拔嚩班[嗈-邑+夕]奔答吽,嗡哈那哈那班[嗈-邑+夕]卓答吽泮,嗡阿吽穴答耶穴答耶惹卡惹卡吽吽泮。」以手觸地加持,想地成為金剛體性,繫縛堅牢。次以忿怒金剛摧諸魔碍,由三金剛淨諸罪惡而為守護。《金剛空行》與《幕經》中,三咒中之第一與此不同。《四座經》說於誦第二咒時,修右手為金剛,伸手拍地而為修治。次降前舉昇虛空之地神,奉施供食,融入地中。手挽花輪印誦三字與百字咒,而以地神加持其地。 (卯三)由無上清淨淨地 勝解一切法,與空性一味,次勝解真如性最極清淨。《大日經》云:「咒師住分別,而修治地法,由捨菩提心,密主彼不淨,故應離分別,而淨一切地。」龍智亦如是說。故於淨地,此最切要。《鬘論》中說如彈線時所說,方隅決定,於彼地上須能容造所想壇房,四方四門具四牌樓,網輪圍繞,中繪壇場。《金剛空行》亦云:「於如是淨地,當造繪壇房,謂壇與隨順,寶等四倍量。」此說壇房大於壇台四倍,故上所說地軌,多依別造壇房而說。 (寅四)攝地分三:(卯一)修天瑜伽啟白舉壇,(卯二)起持天慢誡勅魔碍,(卯三)作天步法及例外事。今初 次於曼陀羅處,徧布妙花自坐其中,如法執持鈴杵。圓滿修習當繪之曼陀羅瑜伽及守護輪,遣除魔碍,舌由吽字成金剛杵,右手執香爐,誦云:「徧住十方界,諸佛憶念我,我某甲金剛,於此繪壇場,今請諸佛等,降臨賜成就。」以此《金剛頂》文,請白供養諸佛菩薩。金剛生論譯作:「我名曰某甲,繪金剛持壇。」次若有四弟子可令各持鈴杵,住於東等四方,如其次第而修毘盧、寶生、彌陀、不空瑜伽。若無四者,令一弟子想阿闍黎與本壇之正尊無異,如其次第,往彼各方,持彼彼如來慢與住虛空毘盧佛等,同聲請云:「諸如來寂靜,一切如來依,法無我第一,請說妙壇場。圓滿一切相,離一切非相,普賢最勝身,請說妙壇場。妙寂靜法生,淨治彼智行,普賢最勝語,請說妙壇場。諸有情大心,自性淨無垢,普賢意調御,請說妙壇場。」〈集密第四品〉謂諸如來請金剛持說灌頂曼陀羅者,是為教示未來所化,故當作如是請。梵本曼陀羅儀軌中多用此文。自與毘盧等佛同請者,是從難勝月說。如云:「師等金剛心,持鈴杵弟子,與常等諸佛,由外同勸請。」阿闍黎亦應自想為正尊,由四如來勸請。若無弟子,《鬘論》說可自以定力,當如是行,是為教授。 諸如來者,謂具五部。能生毘盧佛等大寂靜三摩地,故云寂靜。是一切如來所依處故,云一切如來依。是念住等諸法無自性故,云法無我第一。請說妙壇場者,能取空悲無別大樂心藏,是名為曼陀羅。以彩土曼陀羅表顯之,亦得曼陀羅名,今請為說明也。圓滿一切相者,謂具四方等一切相。離一切非相者,離彩土粗細等過失也。由此中有身金剛自性之最勝身故,云普賢最勝身。明顯出生白法性故,云妙寂靜法生。淨治為得彼智之諸行故,云淨治彼智行。能顯彼者,即語金剛性故,云普賢最勝語。開遍一切法自性故,云諸有情大心。由勝義中遠離一切徧計所執,即是意金剛自性故,云自性淨無垢。由調所應調故,云普賢意調御。請說妙壇場等如前,此是《鬘論》所說。持四如來慢者,毘布底及持祥論師,說勝樂壇則為四瑜伽母,紅大威德壇則為痴威德等四慢而勸請,準此道理餘亦應知。毘布底說先献曼陀羅供而請。次將所修之曼陀羅,舉昇虛空。咒曰:「嗡班[嗈-邑+夕]鄔只墀。」義謂金剛善住。印者,二金剛拳伸二食指,指端相觸向下,安住頂上。有謂二小指相連者誤也。結印誦咒舉昇虛空。 (卯二)起持天慢誡勅魔碍 次解跏[A8]趺,起向東方並足而立,合掌於頂,誦:「嗡跋羅拏摩彌,薩嚩達他伽達。」禮諸如來。次觀諸有情類,無明所覆,隨魔而轉,為除魔故,自剎那起,如下所說吽迦羅尊,右眼由摩字成日,左眼由札字成月,從睛吽字放如劫火,以此金剛視法,遍觀十方眾生。如是觀時,身作金剛步舞,二目各別作用,如勝賢論師云:「右由摩成日,放金剛光明,睛吽出劫火,勤拋金剛杵,行走光明聚,金剛視觀察,諸毒悉逃逸。左成無垢月,從闇字放光,具足甘露聚,飲諸自眷屬,飽滿而供養。」《結合經》第七觀察中〈第四品〉說,吽迦羅尊三面六臂,遣除魔碍。隨順彼經,故此論師於舉壇輪昇虛空後,說從本尊之慢,轉起吽迦羅尊,答日迦跋亦說起為勝三界尊。日生師與《歡喜金剛羯摩次第儀軌》中說歡喜金剛,即修歡喜金剛。持祥論師說紅黑大威德,即修彼尊。若如彼說,則彼諸尊不須改易主尊之慢。龍智論師說修瞋恚金剛遣魔。此亦不須改本尊慢。然作金剛步舞,須於地上畫成金剛,故當修為立相。《四百五十頌》說,曼殊金剛應成忿怒,故諸主尊非忿怒者,須改其慢住忿怒慢而遣魔碍。次如《金剛頂經》所說住慢,如云:「我即金剛持,我金剛薩埵,我即佛大王,我大力金剛,我瑜伽自在,堅固金剛手,我大金剛主,終不捨加持。」瑜伽諸師說彼頌義是持四部轉輪王慢,此作持六部慢如理應知。此即當於《賢攝》所說持五部等諸佛之慢。最後句義,謂由一切部主教勅終不棄捨,加持言教。 ᅟᅟ==[A8] 趺【CB】,跌【補編】== 次於兩足心修熾然金剛加持雙足。其種子者,《鬘論》與《結合經》皆說從吽字生。答日迦跋、寂靜論師說從阿字生羯摩杵,次現威嚴拋杵搖鈴,金剛步舞,往自在方(東北方)。次自彼方共諸弟子金剛步舞,右繞曼陀羅地,後遣魔碍。《幻網經》及持祥日生師等亦如是說。毳衣大師、答日迦跋、黑行、毘布底諸論師則說先作誡勅,次繞曼陀羅地。然說先繞一匝,次誡勅後,復以金剛步繞。故與《鬘論》意趣全不相違。當旋繞時,說須結合,故於四門,各與左側弟子,彼鈴內置自杵,彼杵置自鈴內。次前右後,亦如是行,每方各四。毘布底說咒為「嗡喀班[嗈-邑+夕]只,班[嗈-邑+夕]吽迦羅吽泮。」此於繞後而作亦不相違。答日迦跋說次於自在方誡勅,故住彼處。若作長誡勅者,則誦:「若諸天眾,阿修羅眾,藥叉、羅剎、餓鬼、糞掃、忘念部多、空行與空行母、射影、老男、老女、役從、眷屬、迦樓羅、緊那羅成就明咒者,汝等應速他去。我某甲金剛阿闍黎,為令一切有情得無上智,為某甲弟子圓滿大菩提故,今於此處當繪某名大曼陀羅,是故聞此大金剛持勅令速當遠去,若不去者,我以吽迦羅尊金剛[A9]熾然光明,最極光明大金剛杵擊彼頭顱碎為百分。」此是《結合經》第七觀察中〈第四品〉與《幻網》第二所說。當誦三遍,想放無量明王遣諸魔碍。若作短誡勅者,則誦:「安住身語意,魔碍咸諦聽,我勝金剛持,轉勅語輪者,金剛熾然色,三身所成語,若有違我者,於此壞非餘。」此是《集密經》〈十三品〉所說。當誦三遍,觀想如前。三身亦有說為佛三身者。《明炬論》說此是三身合一之義。故是能教者之差別,非是所教之境。曼陀羅地至金剛際,加持彼成吽字所成金剛體性。已說當說一切位中,隨於何時觀想所緣,乃至未顯,當不散亂,徐徐而修,最為切要。有以禮拜境與發心之境有情各別,持慢境與誡勅之境亦異,故各仿彼形態作種種舞,謂是《鬘論》之軌。然《鬘論》與《教授穗論》,并餘二種《結合經》釋,二種《幻網》釋等,堪依教典都未曾說。故惟藏地樂戲論者,依尼帕爾一類不善巧之咒師,隨自臆度而安立耳。有說略修作四誡勅,是由四門四阿闍黎各別作者,亦不應理。《幻網經》云:「由阿闍黎自作天狀,右手勤拋金剛,左手搖鈴,以金剛步具足威嚴遍繞曼陀羅地。」此於東門阿闍黎所作誡勅,說是阿闍黎自作故。誡勅語中亦云「某甲金剛阿闍黎」故。燃燈賢師、毳衣大師及答日迦跋等諸堪依者,亦皆說是前所勸請之阿闍黎作彼事故。餘三方之誡勅,非許初誡勅之所不攝故。長短二誡勅說隨取一故。以是遣魔誡勅,定是金剛阿闍黎所作之事也。 ᅟᅟ==[A9] 熾【CB】,𢡠【補編】== (卯三)作天步法及例外事 毳衣大師與黑行論師說加持雙足想旋繞時,足下出光猶如劫火,燒魔令散。未說以足畫地作金剛紋。寂靜論師說繪金剛。《鬘論》亦如是云:「此四因以金剛莊嚴,畫諸金剛,故名為金剛步。各向右旋,展右足等各行一次。」金剛步形有四:獨股金剛、三股金剛、五股金剛、及雜金剛步形。生此諸金剛之處謂足心,種子謂吽。足心向地畫諸金剛,舞蹈旋繞。然《鬘論》說向後退繞印留足跡。當作金剛步時,《鬘論》中說二金剛眼作二種視,謂向前直視及向後回顧。是故四種步法各須二視,此等步法如《鬘論》云:「二目二手腰,足側向右旋,作響而分散,向左亦如是。次作跑步舞,次搖動而舞,速作響如是,舞蹈善轉輪。」榜譯師云:「舞蹈轉如輪。」《賢攝》中云:「應如輪旋轉。」此譯為善。此等次第,謂先如前加持雙足,拋杵振鈴口誦吽字,足於地上畫成獨股金剛等相,二手叉腰,右轉如輪。次疾跑舞,如其所應舉步速疾。如前作已,左轉如輪。前三步法(獨股、三股、五股金剛步形)右足先畫後前二紋,次以左足亦如是畫,間雜而行。第四步法(雜金剛形),以右足畫前右二金剛,以左足畫後左二金剛。一一金剛步法皆應旋繞。《鬘論》僅於誦時說誦吽字為先,未說餘咒。《金剛空行》、《結合》、《幻網》多數曼陀羅儀軌於金剛步旋繞時,亦唯說誦吽字。藏地諸師於此等時,作諸餘法。然《鬘論》意唯有爾許。《鬘論》說有先行一返金剛舞而展右足者,或行三返,或不定等三派,隨欲應作。言展右者,謂屈左腨,距五搩手,右足威嚴直伸。若展左者,與前相違。毘舍佉者,謂二足中間隔二十六指,足指側向,雙膝直伸。周圓者,謂兩足中隔二肘,如鵝翅形。平立者,謂雙足諸指互連,兩足大指及跟相觸。此諸行相是《結合經》、《幻網經釋》及慶喜藏論師所說。此五是於東等四方及於中央次第而作。龍智與無畏論師等,許驅魔時所持天慢,即可作彼形相(五種步法)。故應住吽迦羅等慢口誦吽字。藏中諸師說彼諸法,先定基址,謂足次第按前按側按後,第四立成步法。《結合經》中亦說先定基址。阿闍黎耶向內,弟子向外,東方阿闍黎作右展,弟子左展,南方相反。於餘二方所作步法亦同。次若了知而樂為者,可作餘八步法,及諸形狀,坐位等事。若不了知,或知而不樂故不作者,亦說無過。如《鬘論》云:「若不徧知,或以不能,或樂略,或不樂,而不作一切金剛步法等,或有少分未作,皆不失壞正軌。以遣魔者,由旋繞等亦能辦故。此是明教授者所說。」若不於地作畫金剛等舞,而僅加持足成金剛,繞曼陀羅地基,不可立為金剛步法。黑行論師所說彼時所緣,最須明了。次於彼地塗諸妙香,供花香等,并於四角四門提香爐等,及歌舞等供養。次誦曼陀羅主真言百零八遍,及百字咒七遍,以手觸地。放收天輪,當臥其處。 寂靜論師等說在地中央修現觀已而正啟白,為攝持地。《結合經》及《幻網經》說遣魔已,以金剛步法旋繞為攝持地。《鬘論》亦爾。此為攝地之理,謂由弟子持四部慢,請於彼地畫曼陀羅,阿闍黎耶默然允許,於彼畫曼陀羅。故是攝彼地為曼陀羅基。此須遣離住彼魔碍,故誡勅與步法等,亦屬攝地法。 (寅五)守護加持分二:(卯一)先起為天鈎召魔碍,(卯二)以金剛橛釘所召魔。今初 寂靜論師說遣魔第二日,釘金剛橛,此論亦說。故若當日無暇可如是行。當日能者則隨廣略作步法後即可行之。若第二日作者,晨起即發心云:「為安立眾生於金剛持位,故應遣魔。」剎那想成空性,次由纜字想成日輪,上有吽字成雜金剛,臍有吽字莊嚴光明,放出熾然金剛,各方無少間隙,成金剛牆。上有帳幕,幕下牆上,有金剛盖,外有箭網,其下地基亦成雜金剛體,熾然難忍。於彼中間,剎那自成金剛薩埵為體之勝三世明王又名吽迦羅尊。三面本面藍色,右黃左綠,張口獠牙、卷舌。每面皆現豎眉忿怒三目圓赤,具足輪等六印。額上戴五枯顱,項懸頭鬘鮮血淋漓,人頭相連,以為腰帶繫虎皮裙。以黑無邊龍,束赤黃髮,向上熾然,並安立等八大龍王而為莊嚴。於六臂中,初二手持鈴杵,結金剛拳,兩背相著,二小指相鈎結,二食指直伸,為勝三世印,與自光般若母等住。右下二手持鈎與索,左下二手持顱蓋,喀敞迦(杖之一種)。雙足右展左屈,於雜金剛及日輪上,踏作怖天及時相母。光聚熾然如猛劫火,食盡眾生一切魔碍。猛喝吽聲,顧視十方,從自心間吽字放諸光明,鈎召十方魔碍,付與吽字所出十大明王。言十方魔碍者,謂帝釋等有形魔碍及其眷屬。《鬘論》與《律生釋》於說金剛牆等之後釘金剛橛。然燈賢、答日迦跋、黑行大師等說釘橛以後修金剛牆等。毳衣大師則說二時俱作。 前遣魔者,是誡魔碍驅往他方。此鈎魔者,毳衣大師說是鈎召逃逸魔碍。是遣不受誡勑背逃他處,仍欲為障碍者,鈎來釘制,乃至曼陀羅事未圓滿時釘制不放。此由拔橛可知。此中起為吽迦羅尊誡勑魔碍,及召不受誡勑等者,如《攝真實》〈第二品〉說,往昔大自在等一切暴惡有情為吽迦羅之所調伏,故教後學,亦持彼慢調伏諸惡有情最為殊勝,是此論師之意趣也。 (卯二)以金剛橛釘所召魔分二:(辰一)橛及生起儀軌,(辰二)釘橛法及其他。今初 橛料用擔木與骨鐵三中隨一而作。長量十八指、十二指、八指三等隨一。粗量隨自長量分三之一。作何形者?此論與龍智及持祥論師,唯說修成上作明王下為橛形,餘未明說。〈灌頂品〉云:「十橛上作自像下為橛形。」拉利班[嗈-邑+夕]論師亦云:「橛上為明王,下獨股金剛。」寂靜論師亦說橛臍以上如所修明王像,橛臍以下為獨股金剛形。應如是造。橛上次第纏五色線,塗以芥子及紫檀末,繫紅花鬘,置新器中。如答日迦跋云:「檐等塗紫香,繫紅綾花鬘。」龍智亦說纏五色線。橛之數量,此論說十橛與四橛兩派,後者亦是勝賢所許。然燈賢說一橛。拉利班[嗈-邑+夕]則說五橛。橛之修法,有別修諸尊與不別修之兩派,此論與律生疏宣說別修諸橛為十明王。毳衣大師、慧鎧論師亦說修諸橛為門隅八尊,亦是別修。龍智與答日迦跋說修諸橛為碍邊際尊。持祥師說修為劍害獄主,此是不別修者。然燈賢說一橛,亦修成碍邊際。隨依何派皆先遣魔清淨,次修上半為明王像,下半為獨股金剛相,劫火熾然。若略修者,即此便足。若樂廣者,可入智尊灌頂印證供養稱讚。難勝月云:「橛頂上置椎,由餘手握持,誦前咒而打。」此說右手執椎,擊左手中橛頂,故須鐵椎。此亦先遣清淨。隨修何尊釘魔,即由彼尊右手標幟而變為椎。 (辰二)釘橛法及其他 次從長聲吽字所成十井,裝諸魔碍,先誦:「嗡班[嗈-邑+夕]格利格拉耶,薩嚩毘迦那吽。」或誦《集密經》說「嗡伽伽」等真言,橛插其頭。次誦:「嗡班[嗈-邑+夕]拇伽羅阿廓札耶吽。」想用椎釘,從自在方起,於光鬘八方,先由阿闍黎釘,次若不能(疲勞等),可由諸門阿闍黎釘。上方橛釘在東方橛之東,下方橛釘在西方橛之西。此中事相,雖是阿闍黎或弟子左手執橛右手椎釘,然所修義,為唯自持天慢而釘,為別有所修耶。《鬘論》中云「彼諸明王」乃至「左以金剛拳握,右手執正標幟所成鐵椎繫紅花鬘。」謂前自作誡勅,將諸魔碍付與十大明王,各釘自橛。是此論及寶鎧論師之意。若《集密》龍猛派則說自作誡勅,鈎召與釘皆由害妙明王作之。曼殊金剛、歡喜金剛、紅大威德法中,皆說前誡勅時,持何尊慢即由彼釘。毳衣大師、慧鎧論師說由門隅八尊而釘。許四橛者,有釘四方及釘四隅兩派,後說是勝賢所許。如曼殊金剛曼陀羅儀軌本釋說用一橛釘於中央。此是十護方神及諸眷屬唯用一橛普釘一切魔碍。日生說想一切魔碍攝為一體,觀想釘於中央,實有橛者想釘於曼陀羅中央,實橛則釘於自在方,最為善哉。論云:「雖說釘於壇外光鬘,現今諸師則說釘橛於曼陀羅室外。其上造十土堆,每一座中皆供花等以及傘食,令彼諸橛明王歡喜,亦不相違。以如是行,亦能成辦所求之悉地故。」此說隨釘內外何處。然為斷除妨碍橛,故當釘入土堆內,每座供養橛者,日日應行。 若無所說橛者,唯修而釘如上釘已,說誦「嗡班[嗈-邑+夕]阿吽」仰掌反轉擊地,作如是勝解者,是依難勝月論師意。勝賢亦云:「又若智能者,釘三摩地橛。」釘橛擊椎,應想一切魔碍皆成一味大樂真如。諸餘魔碍亦皆遠逃。論說:「堅固勝解上下諸方廣大周圍,一切眾生永離魔碍。」故釘橛時,一一觀想,皆須明了堅固。 (寅六)餘處餘壇須否地軌 若在舊有曼陀羅室與宮殿等餘處,立彩土曼陀羅及於布繪曼陀羅、身曼陀羅等中灌頂等,是否須此地軌?如《總續》云:「仙處與牛圈,岩窟及山頂,或地基堅硬,屋上并盤石,塔前與洲渚,及諸湖沼畔,淨地與觀地,皆不須勤行,亦不須捶堅,高下等眾過,於彼勿憂疑。」說彼諸處不須觀地,前說地須東北低下,縱彼反高亦無庸疑。故觀地法與高下等差別,皆不勞觀察也。言不須淨地者,不須掘淨,非是全不須淨。即前續云:「於本有地基,先當善洒掃,手打誦密咒,即是彼淨法。」《金剛空行》亦同彼說。《律生經》〈第十八品〉云:「昔作事業地,不須再掘等,手觸誦吽字,地以真言淨。」如彼《釋論》說以物咒定三一切淨地。《鬘論》亦說。故當作彼等及無上淨,於不現主乞地法類,及攝地法類等,若於彼處作彩土曼陀羅亦須全作。依布繪壇當如何行?布繪灌頂曼陀羅儀軌中,羅睺羅友、語自在稱、常住金剛所造皆未宣說,就義觀察實亦無用。故彼不須觀地乞地及淨地等。攝地時儀軌者,《鬘論》於意曼陀羅灌頂時說云:「以曼陀羅主形攝持地等,為佛像等開光,為弟子眾灌頂、送聖,究竟乃至寂靜護摩,一切皆以意作。」故修本尊瑜伽,誡勅魔碍,釘金剛橛牆等守護,皆應修習。身曼陀羅灌頂,須否地軌,天竺教典未見明說,諸先師長皆謂不須諸地儀軌,或准意曼陀羅所說道理現見亦可。 頌曰: 吉祥究竟金剛乘  無上瑜伽教海義  無餘盡攝道總聚  及道次第決定理 由先承事淨相續  隨於何地繪壇場  能令清淨諸儀軌  如智者論顯了說 密宗道次第廣論卷七終 密宗道次第廣論卷八 宗喀巴大師造 法尊法師譯 預備儀軌次第品第六之一 (丑二)預備儀軌分三:(寅一)預備總建立,(寅二)各別預備儀軌,(寅三)餘曼陀羅預備。今初 預備法者,《結合》七觀察〈第四品〉中說地神預備。《後續》中說初天預備、次瓶預備。後說弟子預備。共為四種預備。且皆說於預備之時。龍智、答日迦跋、然燈賢等亦於彼時說彼四種。其中地神,有在地軌中有而預備時無者。如《金剛空行經》及黑行論師等諸論,有在預備時有而地軌時無者。如《結合》、《幻網經》及龍智、然燈賢等所著眾多曼陀羅儀軌。有二時俱有者,如《鬘論》等。共有三派。彩線繪畢之後,《律生經》說弟子預備。黑行論師及難勝月則說修瓶。持祥論師亦於修曼陀羅之後修瓶,次說弟子預備。《鬘論》雖如《律生經》說,然非在預備時不作弟子預備,下當廣說。 地神與天預備,須在預備時作。弟子預備,不論說於何時,實行唯應在預備時。實行修瓶亦須先修。《鬘論》於瓶預備後說天預備者,是依然燈賢於瓶預備之後啟白天預備之次第。此是啟白天之預備,非謂天預備之正行,不在瓶預備之前也。如《鬘論》云:「曼陀羅地塗以妙香散布眾華,下午作天裝來入內,於地中央面向東坐,或可由東向西而坐。具曼陀羅主尊瑜伽,於諸尊處用甘露栴檀紅花等,作諸圓壇。善修自三昧耶輪已,請召住虛空之智輪,令入彼中。供養稱讚嘗受甘露。次於所修曼陀羅外,東方等處安置諸瓶或於餘方。面向北方應善預備自在隅處諸瓶。」此說於諸尊處塗香壇基作天預備,其後乃修瓶預備故。若如是修,亦順《四百五十頌》釋,然燈賢云:「妙香等塗地,散布眾妙華,安立月輪等,智者作壇場。於彼諸智輪,次結縛界等,供讚嘗甘露,次應預備瓶。」其釋論中亦如《鬘論》,說於下午天裝入內,修主尊瑜伽[A1]已,於諸尊處各想自座,於彼召請安住虛空智輪,供養等已,修瓶預備。釋論於啟白天後云:「此是天安住之儀軌。」說在瓶安住後,然本釋二論皆未於彼說天預備之正行。《鬘論》雖似說於瓶預備後修天預備正行,然是為令知啟白境而說,非說於彼作天預備。故天瓶預備之次第,同《金剛空行》、《結合》及然燈賢等。此等是正行儀軌之近分,故名預備,亦名增上安住,其增上義,日生論師說是善住。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== (寅二)各別預備儀軌分五:(卯一)地神預備,(卯二)諸尊預備,(卯三)瓶預備,(卯四)啟白諸尊,(卯五)弟子預備。今初 釘橛畢,坐壇中,於自面前作香壇場。或如寂靜論師說於壇中作香壇場。於彼修從[口*(一/火/又)]字變成地神。《律生經》說從[口*(一/火/又)]字生。《金剛空行》則說從朗字生。次想手中月輪有三吽字,指端按地三次。毳衣大師說以持杵指按。以按地聲,吽字光明,策發智慧地神,從地湧出而與修者相合。具歡喜心,其身黃色著白色衣,具諸莊嚴。一面二臂,左執金瓶,右手作無畏印。此二手相同。《律生經》、《結合》說與智尊相合。《金剛空行經》說湧出半身兩手持瓶,不入智尊,修供讚等,梵典多如是說。供彼閼伽等後,三誦:「嗡,善來極善來,地神世間母,眾寶充滿母,妙飾莊嚴母,瓔珞鳴釧母,供金剛心母,受此閼伽供,善辦壇場業。嘿嘿嘿嘿嘿娑訶。」此是請召與請住之預備。言善辦者,意說請其安住。或誦:「一切救世佛,修行及勝德,諸地波羅蜜,汝皆與作證。如釋迦獅子,降伏諸魔軍,我亦摧魔力,當畫曼陀羅。」如是三誦而行預備。此與乞地時之地神,生不生及供讚等無有差別,故儀軌相同。善來等是《結合》七觀察文與《金剛空行》〈四十六品〉之梵語(讚)義同。一切救世佛等二頌,初頌出《幻網經》,第二出《大日經》。次想地神答云:「當如是行。」即入地中。黑行論師等說想地神云:「欲令我何所為。」為答彼故,献供等後,啟云:「一切救」等,次想彼聽許云:「可如是行。」次以兩手作金剛內縛而按地,三誦:「嗡班集跋嚩吽。」想從金剛縛印所生吽字放光熾然,乃至金剛地基皆成金剛。次三誦「嗡班[嗈-邑+夕]只札底叉」而加持之。《鬘論》中說由此令地為自作證。謂由前說諸軌,能使地神為自作證,說於諸佛往昔勝行作證,與薩惹哈所說以手按地策發地神,是佛昔緣起者。如《大遊戲經》說:「大師告魔羅言:汝行一次無遮施尚得欲界自在,况我廣行無量百千俱胝那由他次無遮施。魔言:我如是行,有汝作證,汝如是行,無有證者。爾時佛以右手遍摩全身而按地言:此地為諸眾生依,動非動等無親疏,此為我證我無妄,汝應於此為我證。說已,無間大地震動,發大音聲。爾時地神共百俱胝眷屬,於大地震未久,從地涌出半身,一切莊嚴之所莊嚴,恭敬合掌白言:大士,實爾,此我現見,世尊即是人天世間勝證勝量。聞是語已,魔軍逃散。」福頂大師說:如昔時作證,現我念誦圓滿於曼陀羅獲得自在,願亦為我作證。《大日經》疏中云:「如昔大師在汝地上行菩薩行已,坐菩提樹下降魔成佛,汝為作證。我亦為利有情,於汝地上畫曼陀羅,當成正覺。」義謂願為作證令無魔碍。 乞地與預備時,同誦「一切救世佛」等,其差別者,前是求地作曼陀羅,此是於彼作曼陀羅求其作證。此時自修之天瑜伽,意說前吽迦羅瑜伽即可,是故未說餘者。若於餘時,可用壇主瑜伽。 (卯二)諸尊預備分二:(辰一)為定天處故彈線,(辰二)應如何修天預備。初又分四:([A2]巳一)彈線曼陀羅之量,([A3]巳二)彈線次第與時間,([A4]巳三)彈羯摩線之次第,([A5]巳四)釋所彈諸線之義。今初 ᅟᅟ==[A2] 巳【CB】,已【補編】== ᅟᅟ==[A3] 巳【CB】,已【補編】== ᅟᅟ==[A4] 巳【CB】,已【補編】== ᅟᅟ==[A5] 巳【CB】,已【補編】== 此中彈曼陀羅線當齊何量而彈耶?此中有二,一由諸尊建立,二由施主建立。初如《幕經》第二中云:「金剛持三肘,佛壇四肘量,五肘作明壇,舞自在六肘,七肘馬王者。」此說不動、毘盧、寶生、彌陀、不空成就之曼陀羅,從三肘至七肘。《集密經》說身語意曼陀羅,如其次第十二肘十六肘二十肘。此依四面根本線說,前者亦爾。二施主者,如轉輪王說廣踰繕那量,觀待所化。《鬘論》引教說畫掌許亦可。是故曼陀量,但隨共許而說,非定唯爾。如世尊云:「若贍部洲主,或轉輪聖王,周圍踰繕那,應畫曼陀羅,智者應正觀,所化眾生心,隨欲而為量,全無少過失,隨欲曼陀羅,畫於手掌中,尚辦論說義,况畫於地等。」以是然燈賢云:「依有情意樂,立為定量等,方便慧所生,悉地量何定,此從一肘起,乃至於千肘,如是輪彈線。」此說為彼樂數量決定者,安立肘等定量,事實不定。龍智亦說隨弟子力所能,從一肘起乃至千肘。《律生》亦說:「從半肘起。」 (巳二)彈線次第與時間 彈羯摩線與智線有無決定次第耶?二線次第,決定應先彈羯摩線,次彈智線,多數智者論中分明說故。龍智說是次第最為明顯。薩惹哈云:「先以白[A6]粉等,决定依次彈,其上彈智線,應周徧舒展。」如說先彈白粉所塗之線,次於彼上再彈智線,黑行論師亦如是說。難勝月云:「如彈線次第,善展彈智線。」又云:「如經所說線,於變化壇彈,更善彈智線。」謂如所彈羯摩線之次第而彈智線。跋縛跋札亦云:「先彈一切羯摩線已,應展智線。」不空足云:「於一色線,加持一切羯摩,彈為土線。於彼線上再彈五色智線加持初線。」此說智線能加持羯摩線。寶金剛論師云:「如業線次第,應善展智線。」又云:「於曼陀羅線,應融入智線。」彈智線者,是將智線融入羯摩線中而加持之,故定須先彈羯摩線。 ᅟᅟ==[A6] 粉【CB】,紛【補編】== 有許先彈智線後彈業線,謂是《金剛空行》「彈智慧線已,應善作此業」及《律生經》「智於空彈線,如是向下彈」所說。不應道理。《金剛空行經》云:「彈智慧線已,次應作此業。分布諸顏色,予欲及解脫。」此謂彈智線後而繪彩色,非彈羯摩線也。跋嚩跋札於《金剛空行釋》亦說先彈業線後彈智線。《律生經》說如於虛空所彈智線,亦於地彈。彼是說於虛空彈智線後再於地彈智線之據,非彈智線後彈業線之證。若不爾者,龍智亦云:「師資緩行金剛步,如於虛空所彈線,如是應於地上彈。」黑行論師亦云:「向南方站已,於空如是彈。」又云:「地彈二梵線。」說於虛空彈後無間於地上彈。毘布底云:「爾時如虛空線,雙手平降於地彈二梵線。」汝許彼三乃是先彈業線後彈智線之宗,寧不相違。其尤甚者,成立先彈不彈業線兩派二線各別,引《大日經疏》說已於餘壇用訖,智線不堪作業線者,亦未應理。(智線誠不可再作業線用,然彼疏文是說彈虛空之智線不可作彈地之智線,故所引文不足為證。)佛密論師以在餘壇已用之理,成立前線不可用者,非成立智線不可作業線,是成彈虛空之線不可彈地故。此如《大日經》云:「於東舒展線,齊臍執持已,應於空擎持,次往至南方,應向北方畫,次將第二線,自以親手取。」謂彈虛空東西、南北二線,後彈地者另取餘線。解釋前線不可彈地之意,如《略疏》云:「意謂由於餘壇已用,同劣物故。」《文疏》亦云:「次自取後線者,義謂前線由於前壇成劣不適畫用,是故另取餘五色線用畫後壇。」經說二線,初謂於空彈自性曼陀羅,次謂於地彈彼影像之曼陀羅,彼二皆為五色。羯摩線則唯一白色,意謂彼易知故經未明說。又《略疏》云:「其彈曼陀羅線,說二種五色線,謂於空彈自性曼陀羅線,及於地彈加持彼影像之曼陀羅線。」如云:「說線有四種,謂白黃紅赤,及說為黑色。第五說如空,向虛空持已,應觀彼為壇。又以第二線,於地建壇場。」又云:「雖未明說濕線之相。為離顏色錯亂,故唯用一白色。」《文疏》亦云:「如是牽線分地,捻一白色線為濕線。」許二種五色線及一種獨色線共三線故。以是彼引諸證欲成諸線各別,應許彈虛空之智線,不可彈地,如是則與《律生》及多定量無上部曼陀羅儀軌,皆說虛空地上二種智線,用一線彈。及汝自亦作如是行,皆成相違。業線雖定不彈虛空,智線則可俱彈空地,故不應執凡彈地線,一切皆用羯摩線彈。佛密亦說用五色線彈地,是為加持曼陀羅線,其所加持之事,即一色線所彈諸線。故若不取講說次第,而依實義次第,則諸意趣皆不相違。彈虛空之線不可彈地者,是別建立,彈智線時更當廣說。 雖般若室利於歡喜金剛曼陀羅儀軌中,亦同《大日經疏》說三種線。然堪為依據之無上部教,皆無說者,故不可信。《金剛空行經》與《律生經》、《四百五十頌》等五色線外未說餘線,說用彼線彈諸線者,意為先已彈羯摩線,即如是彈智線,非許即用彼線而彈業線。如薩惹哈、黑行論師雖說用五色線而彈諸線,然亦宣說先彈線業,次於彼上更彈智線。《鬘論》中於證線量有六十四分時,引經云:「次作白色線。」於彼說白色線,然亦說五色線,故許有二種線。線有六十四分與九十六分兩派者,非謂論師所許彼此相違,是明各續之規則故。寶鎧與毘布底二師所說線等建立,隨《鬘論》行。前者(寶鎧)雖未明說,後者於勝樂曼陀羅儀軌引云:「初先彈白線,其後彈智線。」答日迦跋於說五色智線以後,次云:「大血所染線,三縷具量度,用甘露白檀,善塗而彈線。」此說前線為廿五縷,後為三縷。故亦是說智線與羯摩各別。此師曼陀羅儀軌云:「八種智線後,應想賢善相,次分諸部分。」其善非謂彈智線後,再以業線分各部分。是彈八大智線之後,彈餘智線,以餘智線須具彈故。 二線次第如是,何時彈耶?羯摩線者,應如龍智、琅迦勝賢、[嗈-邑+夕]耶茜那說於天預備之前。《金剛空行經》云:「於諸如來處,栴檀等方壇。」此說曼陀羅中何處有天,即於彼處作天預備香曼陀羅,若未彈線,則不知彼處故。難勝月云:「決定壇何處,即於彼壇塗,五香或餘香。」毳衣大師、黑行論師、寂靜論師日生師等多說天預備塗香之處,即為諸天處。故彈智線者,如龍智說於弟子預備後,彩畫之前,堪為據者多如是說,故當於彼時彈。 (巳三)彈羯摩線之次第分二:(午一)預備繩線,(午二)彈線之法。今初 繩線之因,如答日迦跋云:「由淨未壞棉。」此若難得,則可用潔淨未壞未雜毛髮之棉線作之。搓者及如何搓?如《總續》云:「其彈壇繩線,染色淨堅細,如是童女搓,新鮮極潔淨,美妙最柔和,香馥安樂觸,善搓撚為細,搓令粗細等,無諸結斷過,花香供線繩,智者彈諸線。」言染色者,意說五色之線。此論師(鬘論作者即無畏論師)與勝賢、[嗈-邑+夕]耶茜那說用童貞女所搓線,或勇士價值所買線。故若隨賣線者所索之價,不與論價付值而買,則餘人所搓者亦可。日生說具三昧耶者所搓,故彼搓者亦可。線之數量,如答日迦跋說三縷白色,長短粗細之量,猶如智線除執手處,為曼陀羅兩倍,門量廿分之一。(初句指長量,次句指粗量。)生起儀軌,生為一切業尊,此是跋嚩跋札與不空足所許。塗以香水及五甘露牛生五物,置於金等器中,自具正尊瑜伽,辟魔清淨為先,生為各各法之一切業尊,入智尊等供養稱讚,用手觸著,誦甘露瓶而為守護,再洒曾誦一切業咒之五甘露水與芥子香水。次用持金剛之右手摩觸,誦:「嗡班[嗈-邑+夕]薩摩耶蘇札,摩底札摩吽。」誦三字百八遍以為預備。此等二線相同。次如勝賢等說,用和白檀之米粉、或石粉、或餘白粉,染其繩線。 (午二)彈線之法分二:(未一)彈曼陀羅外線法,(未二)彈曼陀羅內線法。初又分二:(申一)彈二派共同線法,(申二)彈二派各別線法。今初 從於曼陀羅地洒以瓶水,至供讚虛空曼陀羅,應如後說而行。先求曼陀羅之中心,作一圓點,次於四方,以量等線各作一點。次以長過前量之線,於四點上各作一圈。此處雖但說作四圈,下文說拭五圈,故中央應亦作一圈。此中東西南北與中央各作一圈者,為求東西、南北兩條梵線(即縱橫之直線),與兩條角線(即四維斜線)之端直。次自修為正尊瑜伽,想助伴為毘盧遮那或甘露軍茶利。放線取線,及持法等,當如下說而行。生為毘盧是龍智說,生為甘露軍茶利是寂靜論師說,毳衣大師說弟子作本尊。勝賢論師說生為段生母(勝樂中之一尊),日生論師說為伽摩日(歡喜金剛之一尊)。此謂弟子有為自之本尊或各壇之一切業尊二派。次《金剛空行經》云:「緣諸方平等。」眾多曼陀羅儀軌中,亦說觀一切方為平等性而後彈線。謂東方等唯是分別假立,都無自性,故應先想無性平等。由此可滅方向錯誤之過。 彈八大線之次第者,如《金剛幕經》第八說,先彈梵線,次彈角線,次彈根線(即曼陀羅墻外之方線。)此師依彼即說如是次第。《律生經疏》亦如是釋。答日迦跋、黑行論師、薩惹哈及勝賢論師亦作此說。現見亦是毳衣大師意趣。龍智與《四百五十頌本》釋、跋嚩跋札、日生師等,則說梵線之後彈根本線次彈角線。此非父續母續之別,以《鬘論》依二續共義而說,跋嚩跋札說是《金剛空行經》意,日生論師則於歡喜金剛曼陀羅儀軌而說故。其梵線中,薩惹哈及黑行論師、毘布底說先彈南北梵線,次彈東西。前列諸餘論師,則說先彈東西,次彈南北。藏地智者說毘布底所說之南,答日迦跋所說之東,二者義同。以隨勝樂所向為南即立為空行母之住處故。毘布底說:「故隨所向為南,諸瑜伽師意。」故此是毘布底引布嚩具慧師曼陀羅儀軌之說。如云:「行至南門後,徧繞諸餘方,是母續次第。瑜伽續從東,繞至南門等,是為實語者,說畫曼陀羅,應觀為世俗,方由無量分,觀南等非有。所說面向南,行者知世俗。」此謂瑜伽母續說由南繞,瑜伽續中說由東繞畫曼陀羅。雖說二方不同,然同知方非勝義有。是故南方是如言義。又毘布底引布嚩具慧師教云:「先面向獄主,住壇輪地北,於空地彈線。」謂彈初梵線時,面向有獄主方。說北既是曼陀羅地之北,故知南等亦為壇外。 彈角線者,如此論說彈火風角線後,次彈第二角線。前諸論師亦同。四根線之次第,如此論說,東西北南依次而彈。答日迦跋、然燈賢、勝賢等亦如是說。龍智與黑行論師說東南西北依次而彈。毳衣大師別說東西南北依次而彈。亦有先彈西南二根線者,故無定准。彈梵線角線根線時,師資各有二處决定。彈梵線時,師長二處為北東,弟子二處南西,是說先彈南北梵線三師所說。前敘諸餘論師則說西南二方為師長處,東北二方為弟子處。此與《律生》第十七說相順,如云:「西方及南方,師長定善住,東方與北方,弟子處等引。」此等亦非二續之別,隨依何行現見皆同。 彈角線時如此論說,師長二處謂火與離實,弟子二處謂風與自在。前敘諸師亦許。然勝賢與[嗈-邑+夕]耶茜那反上而說。跋剎所譯中說。龍智說師長住自在,弟子住離實,而彈角線。賈師所譯與上相反。 彈根本線,如此論說,火風二角為師長處,離實自在二角為弟子處。前敘諸師亦同。面所向者,隨彼所住方隅,即自彼處,直向所對其餘方隅。彈線旋繞總有三派,如此論說右繞,日生、寶鎧、《四百五十頌》本釋等亦說。左繞者,薩惹哈、黑行論師、毘布底等所說。左右錯雜繞者,如答日迦跋云:「由左繞加行,彈一切種線,隅分向右繞。」此說方線左繞,隅線右繞而彈。龍智、毳衣大師未有明說。布嚩具慧與毘布底於勝樂曼陀羅儀軌中說若不左繞,有害弟子。然《金剛空行經》則說:「此中師弟子,應於右旋繞。」釋論亦如是釋。答日迦跋亦說隅線右繞。是故不須定執母續左繞。如此論師說右繞為二續共規。寶鎧論師於勝樂中亦說右繞。勝賢論師於勝樂曼陀羅儀軌中說:「次師與修伴,旋轉而繞行,左行為主故,應俱作左規。然由世難達,觀待作右繞。」[嗈-邑+夕]耶茜那、金剛空行曼陀羅儀軌中亦同彼說。 彈曼陀羅內外諸餘線時其旋繞法、住處、次第皆如前行。《鬘論》中彈九品諸方線時,作如是說。毳衣大師說諸餘線以前法彈。彈羯摩線,龍智雖但宣說師資住處决定,未明旋繞之法,然當與彈智線相同。 必須師資共彈羯摩線者,乃是龍智、琅迦勝賢、[嗈-邑+夕]耶茜那所許。諸續與曼陀羅儀軌,於分彩土時說,阿闍黎若不能圓滿分散,如下所說容有例外。彈線時說,若有弟子,則應同彈。無者,阿闍黎繫線於橛而自彈。未說可無師長。故彈二種線,皆定須師長。 次從墻線至垜口線,分為諸分彈線。彼等攝頌,如《鬘論》云:「東方等點上,執線為四輪,魚頭至尾邊,彈梵線角線,角門量七方(方是十之代名,謂從角至角十七門量也),肘等根本線,中拭八分一,門分四小分。根外離一二,一二一一邊,由角平六線。從梵線漸遠,三小分初線,二線二小分,端連八小三。台線伸四線,三為五小分,四四分其初,正觸平線端,三各隔一分,第四端平線,具足十小分。由根端出線,四分再平竪,各二分對直,八分共三曲。」此門面門側門量不等者,雖是九十六分線與六十四分線之共規,然九十六分者,門面門側門量有等不等二種。若面側門量相等,則無幡處闇處。其「台線伸四線」則為「伸二線」也。此師俱說長短二線。毳衣大師、薩惹哈等多說長線。雖有經說門為壇輪十分之一及九分之一者,然印度諸師皆未立彼名,故此論師亦捨彼等而說八分。此是《金剛幕經》與《金剛空行》之意趣,印度諸曼陀羅儀軌亦如是說。 正彈線時,如《金剛空行》云:「線斷師長死,線長生疾病,方誤弟子瘋。」應知彼事。論說若有彼相,應修治法,而未說用何法修治。應如治惡夢之方便。又《總續》云:「有凶相不成。」又云:「長短生疾病。」如下所說之量,若線長短當生疾病,寂靜論師說師長病。言方誤者,義謂住處錯亂。弟子瘋者,如答日迦跋云:「方錯弟子惱。」謂弟子苦惱也。有謂長短是指所彈紋線,非是繩線。彼非經義,若果爾者,則不應彈壇外長線,所須外線不可彈故。此線凶相為是彈何線之時耶?寂靜論師謂彈二梵線時。《鬘論》亦於彈彼二線後說。故意相同。日生說有彈二梵線,彈八大線,與彈一切線之三派。故《總續》云:「故智於一切,殷重善彈線。」謂彈二種線與作二線時,應善謹慎。 (申二)彈二派各別線法 其牌樓等,由說二種線量故有差別。此復總明線之長量,謂曼陀羅兩倍,粗量謂門廿分之一。如《律生經》第十七云:「長為輪兩倍,門廿分之一。」曼陀羅儀軌等多如是說。說如是長量者,《鬘論》說唯為彈梵線,彈諸餘線,彼雖無用,然為彈二梵線故說彼量。其梵線有長短二種,若牌樓高度與法輪杵端共為二大分(即二門量,一大分有四小分)者,則從根線至彼根線為曼陀羅,以此兩倍為線繩量。若牌樓高作三門量,法輪杵端合作一門量者,則前線量不敷應用,故是根本曼陀羅及其眷屬之兩倍。如《鬘論》云:「唯以四根線內所畫之根本曼陀羅兩倍長線,應彈六十四分梵線。」又云:「又曼陀羅亦攝雜金剛臍邊際,謂曼陀羅及其眷屬,即從根線外出八分,共為四十八分。」說此等後,又云:「故線繩量九十六分。」引文證成六十四分線云:「次作白線繩,自與修行伴,用白檀所和,米粉而浸染。梵線二清淨,所有壇輪量,應用二倍彈,半為根本線。」此文出琅迦勝賢曼陀羅儀軌。此云梵線半量彈根本線,故顯線繩量為十六大分。從墻至墻內之宮殿,是為正曼陀羅。從磚至垜,(此就平面畫圖而說)是為施設於彼之支,名彼眷屬。如王偕彼眷屬行時,唯言王行。如是曼陀羅與眷屬,同名曰曼陀羅。故說曼陀羅兩倍者,可引通二義也。如是初者,從中心至根線之曼陀羅內量,與從根線至蓮蕊邊外量二者相等。故從杵端為曼陀羅之兩倍。後者從中央至垜線,與垜線至光鬘相等。故從光鬘亦為曼陀羅兩倍。其中初說,如《律生經》第十七云:「線相六十四,是壇場線相。」此於初繞外圓線時,說線相望為六十四。釋謂六十四分之分為一小分。薩惹哈與毳衣大師等亦多如是說。如六十四分者則說牌樓高一門量。龍智說門門、框門、面門、側四量相等。故說牌樓為門三倍者是高量。若說橫量,其最大層亦不及柱頂故。以是龍智讚許二十四大分(即九十六小分)線。二十四大分之牌樓與圓等,如《鬘論》云:「柱端外平面,橫彈十一線,各捨一小分,五七捨分半。或可三七九,各捨一小分,第四六及十,各為半小分,餘五各分半。彼雙方寬量,於梵線左右,箭分半(箭即五數)邊際,條層二分半,線長三分半。六分邊第二,第三長三分。四分邊第四,五分及五半(第五條之下半也),捨三分四半。三邊六五分。四線長七分,十一線五分,第五條上邊,平量三分半。七條下三分,上半為六分,諸條至邊線,與餘邊相連,成一曲其內,離半分亦爾。其外吠陀邊(四分之外也),圓線又二線,各捨棄二分。捨四餘圓線,面側與門等,則無闇條層。」彼中亦無掛幡條層。 十六大分(即線長量,六十四分)者之牌樓與圓線等,如《鬘論》云:「牌樓門三倍,橫長非竪直,爾時三直線,從台如是量。各方彼無間,牌樓猛利條(猛利為十一代名),高量一門量。財天(八之代名)財天日(十二之代名),勝者(二十四)財天勝,日財天及日,勝財天如次,(謂十一條中,第一條佔牌樓八分之一,餘准應知。)此等謂平量。從梵線左右,各捨四分半,條長二分半,線長三分半。第二與第三,捨五分長三。第四捨四分,長三分箭(五)者,捨三半三半,六捨三五分。次三長八分,一七分後六。其外吠陀邊,圓線二又圓,二分邊圓線,最後四分邊。」(共四道圓線)此無闇條,故二柱間相隔十二小分。說「爾時三直線」,故有幡條。若謂此中門,面門、側門量等者,則不符順《鬘論》牌樓柱與柱間隔門三倍之說。若如門面有二小分,門側亦爾,則與此說無闇條而成相違。若將門上一分歸入牌樓,則與繩線六十四分不合,柱與幡處極不雅觀,是故門側應作三分。如是門至門側,四事(謂門、門框、門面、門側)量等非等,共有三說,一說門等四事相等。一說門與門框相等,而與面側非等,然彼面側亦自相等。一說面側亦不相等。一門量(牌樓一門量)中,寶鎧論師說門側外為五小分,其內為二小分,內端外一小分為樑,再外一小分為空層藍色。此許樑上無墻為虛空層,然此樑上無墻未見美善。 此論師說牌樓高度有三大分與一大分二種,初中又有二等九等,與五等三三等兩種。後者為五等三三等。總此三種牌樓皆十一層。然《鬘論》中「王(十六代名)三罪(罪十八代名)及日,王方與三人(人為十四代名),方對直諸分,是牌層次第。」此以曲線以內諸層隔斷為因,破第二層實水口為十八分等之說。故曲線內所對諸層,各左右有二層,總合彼二數為十一,若分別數則多於彼。繩線長短兩派,從垜至垜長短無異。惟六十四分派,垜口之外梵線僅二大分,第二大分為法輪與杵端,是故牌樓高度唯一門量。以是彼諸教中說牌樓為門三倍者,是說橫量。門與牌樓無空闇層,三倍亦是柱與柱間,是為此師所許,如《鬘論》云:「雜金剛臍總有十二門量,其根線內為八門量,外長各二門量。中無闇層,牌樓柱中為門三倍。」論說為十一層。許二柱上橫層各餘一分,依此而作為十四分。 毳衣大師於一門量牌樓,宣說門面門側各半門量,牌樓長量為門四倍,故知許有闇層。然燈賢說牌樓為門三倍之意。寂靜師謂長為三倍,高隨美觀應作。 牌樓之外一大分中,內半為法輪外半為中股杵端。如《鬘論》云:「法輪外二小分為金剛股端。」故旁股尖觸中股處以外即為股端,非從中股盡處再將杵端左右各開作為兩分。此亦二派相同。沙羅答論師說內一小分為輪座之蓮華,次二為輪,次一為傘,鹿對輪住。次圓線者,若長線派,蓮鬘與金剛墻各半大分。光鬘為一大分。如是自中央至垜口,自垜口至光鬘,各六門量。以是每方梵線,各有十二大分即便圓滿。故於此派,《鬘論》破斥蓮鬘與金剛墻各一小分光鬘二小分者,於短線派,則說蓮鬘與金剛墻,各一小分或各二分,光鬘二小分或四小分,隨一皆可。《金剛空行經》云:「外有光壇場,彩地二倍量。」毳衣大師謂是金剛墻與光鬘各一小分。又《鬘論》云:「有一勝樂曼陀羅中,依經中說金剛蓮輪形,亦安立三墻。故於金剛鬘外,說有蓮華與輪鬘者。」此說共有兩重蓮華,琅迦勝賢所許正爾。繪圓線時,以檐木橛,下為獨股,上為五股杵相,想從吽字所生,誦釘橛咒一百八遍,誦椎橛咒,以金剛椎釘壇中央。次將九十六分長線雙掛橛上,從自在方右旋而彈。六十四分線時,亦可以單線作圓線。為繪圓線,故說繩線增一張手量等。前說線長生病,須除此也。若無實橛釘於中央,修定亦可,准前釘橛時說可知。毳衣大師說六十四分者,亦從自在旋繞而彈。當先於梵線上尋求量度。當於何處繪屍林耶,此論未明了說。《鬘論》引前《金剛空行經》說光鬘之文。次云:「彼旋繞處外,樹等八屍林。」經謂:「彼輪圍之外。」答日迦跋《曼陀羅儀軌》中亦如是說。慧鎧論師亦云:「當於金剛墻,及火光輪外,繪樹等屍林。」雖舊譯之《律生經》云:「於金剛墻內,八屍林莊嚴。」然新譯云:「金剛墻於內,八屍林莊嚴。」此譯清淨。以《律生經釋》云:「光明謂五色,應於彼外畫諸屍林。」毘布底亦如是說故,跋嚩跋陀羅師未明了說。如勝樂尊可住屍林圍繞之中,餘尊不須。若為攝受無善根者,勝樂亦不須繪,是為《鬘論》之意。此師所許,除時輪本經所說不同外,餘無上部諸曼陀羅,定須蓮華金剛墻及火燄。其餘屍林與勝樂之三墻則非必須。繩線二量,非是父續母續之別,隨一皆可。門面、門側、門量等或非等,亦可隨一作之。非許如是所說之曼陀羅,唯作彼軌。 (未二)彈曼陀羅內線法 此中略說少數曼陀羅之內線。集密內線,如《鬘論》云:「梵線八分邊,及七邊圓線。從此正伸出,至餘方線界,梵外二三分,漸次彈二線。外圓線之外,離一分圓線。次捨三小分,平線至角線。拭一切梵線,諸格中隔線。」其前六句,明九格線。兩派集密相同。其次四句,明龍猛派集密之線,謂前兩道圓線之外捨一小分,再彈一道圓線。如龍智云:「五色光莊嚴,金剛鬘明了。」此說一光鬘及一金剛鬘,為繪初鬘而彈。然燈賢唯說金剛鬘未說光鬘,為繪初鬘,但一圓線即可。次捨三小分處,乃至角線彈格層者,是四金剛母處。其外四小分處,為繪八菩薩及四隅明王而彈,此即龍智「於內輪之外,四線平等繪」之義。妙吉祥金剛中(集密別派)從外圓線至根本線,有八小分。故彼長行說彈線云:「根本線內,捨一門量之處,二角線間彈一平線。次為安布色金剛等,捨一門量。」應如是繪。若爾,龍猛派之圓線,如《鬘論》長行云:「特於二圓線內,捨一分金剛鬘,彈第三道圓線。第一圓線內為光鬘。其外更無圓線。」此說前捨七分所彈圓線之內,繞金剛鬘一分。於八分處所繞第一圓線之外,更無圓線。似與彈線頌文相違。《鬘論》於此為證龍猛派依前彈線引頌云:「由梵作中台,半台量第二,第三一台半,半台彈餘線。」則頌應依長行。以龍智說台量為第二小分故。故從梵至二小分為第一線,次去一分彈第二線,次去三分旋內圓線是為第三,此後圓線是為第四,此線須作一小分故。此四句頌跋剎譯缺,賈師譯台為臍。然《鬘論》又引文證云:「中央輪之量,為半根本線。」此說以半根本線量,作中央壇。則從金剛鬘之圓墻,為內壇界,以彼是根本線半量。若如此說,則應依於彈線頌文而作。頌及長行,恰師榜師所譯俱同,故非書訛。《鬘論》於說八分旋金剛鬘時云:「《金剛空行》說第一圓線外,為繪光鬘,捨一小分旋一圓線。」此與彈線頌文相順,意謂兩派皆可。雖現譯《金剛空行經》僅云:「內輪金剛墻,及光壇二次,從自在隅起,右旋而繞線。」然梵本中定有於八分外繞光明鬘,最為明顯。《鬘論》於此集密兩派,僅說從根本線捨一門量彈一平線,未說於內天處亦彈平線,彈內線已,中格內外之角線及彼層之眾線,并內外諸梵線,皆當拭去。餘處角線及天層線則須存留,覆以彩色,用以界分天處彩處之別。 勝樂六十二尊之內線者,如《鬘論》云:「根本內壇場,由天別彈線,當說稍別異,餘勝樂內線。非離梵角線,即梵外二分,彈線至根本,角傍亦如是。從中臍八方,各長為四門。臍外捨四分,彈四分橫線,平住梵角上,此復彈五線,各捨二小分。彼等及第六,直達於邊界。梵線及角線,左右七線中,從第五三一,一小分邊起,到各第二端,迴達第七中,一線成五曲。其內捨半分,如是彈餘線。梵外漸捨王(十六),日(十二)龍(八)河(四)眼(二)分,彈五層圓線,前三內半分,更彈三圓線。除輻及圓線,餘盡應拂拭。」《鬘論》於此引文證云:「從根本線起,彈四種圓線,三輪各門量,應正旋周達。餘為八葉蓮,其量無增減,意輪等輞上,有杵蓮輪鬘。」(意輪輞上有杵,語上有蓮,身輪輞上有輪。)琅迦勝賢所著曼陀羅儀軌有此文,唯譯文稍異耳。《鬘論》彈線之長行云:「第四意輪之轂內,除小分四分之一,再捨二分半為蓮葉,為顯蓮蕊,彈一鬚鬘體性之線。」此與彈線頌說從中央捨二小分旋花蕊者,文句各異。雖不相合,然頌文是粗算,當依長行細數而繪。即於餘處,亦多宣說一方華葉之量,為一方華蕊之兩倍。故華葉應作二分半,華蕊應作一又四分之一。雖毘布底依於《鬘論》彈線頌文安立,然亦應如是繪,有為繪金剛鬘。故於內輪之中彈半分之圓線者,有於諸輻之旁。繪四猛利金剛而圍繞者,又有於輻邊上,如其所應繪作金剛蓮華及輪鬘者,《鬘論》說此三派。第二派即琅迦勝賢所許。第三毘布底亦許之。 歡喜金剛九尊線者,自中向外捨五小分,為明華蕊彈一圓線。其外捨十小分,為明華葉彈一圓線。其外一分,為安諸瓶或作金剛鬘也。紅威德五尊者亦如是彈。 日生論師於歡喜金剛九尊處,為九格線。作怖金剛,亦如是彈。此等為例餘可准知。 彈線時開門者,有說彈完八大線時,有說彈完一切線時。彼二隨一即可。其法,謂自明顯想為主尊,目從希字,右生為日,左生為月。以忿怒視,遍觀一切,口謂「唏唏」。增上勝解拂拭碍解脫門所有諸障。於梵線及根線交會之處,左右拭去根線各二小分。此如《四百五十頌》云:「以唏字怒視,次應開啟門。」龍智菩薩亦云:「應正念幻身,次開啟諸門。」謂觀自天身如幻行相也。線圓滿後,供養稱讚,送去線之智尊,繩線安置屏處。此中亦爾。 密宗道次第廣論卷八終 密宗道次第廣論卷九 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明預備儀軌次第品第六之二 (巳四)釋所彈諸線之義分二:(午一)釋曼陀羅外線義,(午二)釋曼陀羅內線義。初中又二:(未一)釋圓線及牌樓線義,(未二)釋垜線至墻線義。初中又二:(申一)釋圓線及杵股線義,(申二)釋牌樓線義。今初 線是分別宮殿相者,依所彈線應知如何修宮殿法,茲當解說。屍林,如《律生》及《十二穗論》應當了知。諸方火焰量相等者,是表光量均等之義,非不射往四分之外,故於火端不繪彩邊,以表放出無量,一切方所火燄熾然,其內之金剛墻,量厚質堅,是大輪圍山體。於所修義,下自風輪上至色究竟天,是此論師所許。故於金剛墻處當如是知。金剛自體或為五股或為三股或為雜杵,故於畫時亦如是繪。金剛與蓮鬘中間之圓線,《鬘論》說有兩派,自宗是表法生,所修有法生者,當如是知。若如勝樂等少數曼陀羅不修法生,則入法界之內,故許彼線表顯法界。他派說彼線是大輪圍山為體。火燄與金剛墻間之圓線。雖未明說表顯何事。若作輪圍體性,顯然是金剛墻所攝。金剛墻護輪之內端觸於法生線者,是蓮花葉。華葉在處即是法生。其內第一圓線,即蓮花鬚。從鬚至鬚,是圓蓮蕊。《鬘論》中有許從蓮鬚邊即為輪圍者,謂龍智云:「牌樓金剛端,其外為輪圍,杵鬘具妙光。」此說二金剛鬘為輪圍體。破云:「唯金剛墻是輪圍體,蓮鬚、蓮葉、法生皆非金剛墻攝,故非輪圍。然說雜杵端外,即為輪圍,故許彼等假名輪圍,則為善哉。」又因彼文說自杵外,即金剛墻之輪圍山,破彼許無蓮華及法生者,成立雜金剛杵在蓮華後,如云:「說無蓮華有雜杵者,是大錯誤。」故於說有雜杵,未明說有蓮華之教,堪為定量者之意趣,皆依有蓮華派解釋。以是故許從蕊此邊至蕊彼邊所有量度,即雜金剛從此股端至彼股端之所按壓。雜金剛臍,形為四方。從臍此邊至臍彼邊量有十二大分。線量兩派,於此義同。其上所安杵股長量,若線長九十六分者,有四大分。如六十四分者有二大分。《鬘論》破許股量十四分者,於前二種令成決定。故此師規,若許杵股為二大分,則牌樓量為一門量。唯以根本壇場兩倍為繩線量。若許杵股為四大分,則牌樓量為三門量,根本壇場及眷屬之兩倍為繩線量。 若爾,於臍何處安立雜金剛諸股耶?此中杵股四門量者,其金剛臍每方皆有十二門量,左捨四門,右捨四門,於中四門量邊起諸旁股。如《鬘論》云:「牌樓旁側懸幡處上,從摩竭陀魚口,出雜金剛諸股,略向外去,中寬三分,長十六分。」此於牌樓高三門量時說。彼時兩幡中有四門量故。摩竭陀魚口者,是彼所出諸股之根本故。以是旁股外邊,不可越過幡處外線,故於彼層之外繞股杵者不應道理。此派離去梵線左右各二門量而繞杵股,法以十六小分線量,鈎回二分,觀由何處牽線能到中股外端餘二分處,即可了知。此是杵股內線。門面門側與門等者,離去梵線左右二門量處,所出杵股外線,亦不可過柱之外線。更未見說繞杵股處較此長者。論說諸股略向外去之義,毘布底謂略直向前。說諸旁股長十二分,故與中股相等,然中股端較旁股端長二分者,是由旁股彎曲之故。即與餘處說金剛杵左右兩股與彼中間三段相等,(如普通杵,兩旁股之長量與中間臍之長量相等,故名三段相等。)亦不相違。餘處有說一方蓮蕊兩倍,即為一方華葉之量,然此蓮蕊極廣,華葉僅說二小分也。 如許股長二大分者,當從何處出生旁股?《鬘論》、《律生經疏》皆無明文。然《鬘論》中為證牌樓之柱,安於方台上之瓶中,引勝賢曼陀羅儀規文云:「鯨口至鯨口,牌樓三門量,從方台瓶出,直畫牌樓柱。」如初二句,說鯨魚口至鯨魚口,為門三倍。則於左右各捨十八小分中間,從有十二分處,出生旁股。如是亦順《空行海經》所說:「從柱頂處出,雜杵大光明。」此中亦說旁股觸處之外,杵之中股有二小分,故曲二分與前說同。此去梵線左右一門量半而繞杵股,法以八分之線,鈎回二分,觀從何處牽線能到中股即可了知。此是杵股內線。杵股外線,亦不可過柱之外線。 杵股量有長短二派,有說於股中央繞一圓線,自此邊至彼邊,前者(股長者)是四大分,後者(股短者)為二大分。然若每方作三股者不須彼線。若作五股,則自中股中央直往左右以及前後,前者(股長者)各二門量,後者(股短者)各有一門量半。前者旁股之最粗處說有三分,中股未有明文。諸師長說為一門量。杵股短者,未明了說粗處之量,然應同前。 (申二)釋牌樓線義 若爾,後者說牌樓量為門三倍不應道理,以自下層此邊至彼邊間,有十四小分故。然彼無過,言三倍者,非說牌樓頂之平量,是說基之寬量,基亦無墻。唯是二柱根本之間,門面門側與門等者,鬘論說為四倍,亦是二柱間也。其面側與門不等,牌樓高為三門量者,則二柱間有十四分。其摩羯陀魚口至彼魚口雖有十六小分,然牌樓中心之寬量,是說二柱之間。柱外雖有懸幡之處,然彼是頂邊所懸之莊嚴,非下寬量之所攝故。 若爾,牌樓齊幾許寬?如曼陀羅四方之墻,任何外出,終不能越雜金剛臍。如是牌樓下部寬量,終不能過雜金剛杵左右二股。又牌樓柱決定不在雜金剛臍,若依所繪有暗層者,從門側前去一小分,即到雜金剛臍之邊,故臍盡處有牌樓柱。若如所繪無暗層者,則門側外線之下端,與雜金剛臍邊相齊,次去一分空隙之界,有牌樓柱。此於門側外端平去一分處作一切皆同。 有於面側與門等者而作暗層,與諸大車說從根線至垜口線唯八小分而成相違。說柱高度僅有五分,有最下層不能蓋覆柱端之過。故所繪者當缺闇層。 高度一門量者,從梵線左右各去六分處而出旁股,如前已說,若於彼界而作闇層,云何彼層可出旁股?故齊彼界理應安柱。於所繪中少闇層者,非是所修義中,門與牌樓中間無空而不作闇層也。如《鬘論》云:「有說牌樓之柱從墻線起量長七分,不應道理,以牌樓諸柱離宮殿稍遠,一一皆安於四方台上故。由在平地見其如與供台相連,故於台外當繪此等。」此以諸柱離宮殿稍遠為因,而破許諸柱從墻線起者,所破敵者,非於所繪分別有無暗層而許如是。所出責難亦未分辨所繪有無闇層,乃是總破如是許者。故言離宮殿稍遠者,是依牌樓總相而說。 具《密彈線儀軌》亦云:「牌樓一大分,離宮頂一分,門與多惹那(牌樓),不應過密接。」彌底大師破許一門量之牌樓與門相連。自宗宣說台與柱間不應太遠,又說彼二下基相等。故於臍上似與台界中無間隔,應從台線繪出。雖台實在臍上,柱從臍出,然亦顯示不應有高下也。 略遠之量,《鬘論》說闇層一小分,即是彼量。故曼陀羅與牌樓之空隙,亦有名之為中層者。以是所修闇層,非在二柱之中,乃在門與牌樓之間。牌樓之柱,即在所繪對直而有,寬為一分,長為五分。下有方台,台上有瓶,柱由瓶出。此是彼一切之總量。柱根柱端嵌飾眾寶,中繪獅子伸手上承。有說於柱中段作圓鏡者。 柱之數量,《教授穗》等諸大論說每方各有二柱。 懸幢幡者,牌樓下層,與柱擎持之間。若有梁者,即懸梁上,若無梁者,懸於寶簷。彼上嵌有寶雲,窮其艶麗,懸諸紅黃色等雜色飄帶,寶柄小拂。此亦如所繪者懸掛,故非柱上莊嚴。有說幡處,從象身上獅子口中,懸掛眾寶瓔珞。此非說是從獅子口懸諸綵幡,是說於幡幢旁,從象身上獅子口中懸掛瓔珞之規。 牌樓諸層由下至上,謂金、水簷、寶、蹄、闇、嚩惹那、闇、水簷、寶蹄、垜。此諸層中二等(厚薄相等)九等。或於三門量及一門量之牌樓,作五等三三等,自下至上,謂水簷、寶、蹄、金、魚、金、蹄、寶、蹄、金、垜。有於初規(二等九等者)最下層處,說無金磚,而為升斗。論云:「於馬蹄層與嚩惹那諸邊,盡其美妙,安諸幢幡。亦可安列獅子、八足獅子、鵝王、孔雀、緊那羅及緊那羅女。」故以彼等有情形像,擎持二闇層之上層,如應當作。榜師所譯作八足虎。 論云:「牌樓當懸雜色寶蓋、瓔珞、寶繐。」謂在曲線之內。「瓔珞等者,義謂從上鯨魚口內懸諸珠串,盡美應作。」珠串即鬘。曲線以內留半分者,為畫寶等。藏地諸師,說於闇層安放除暗寶珠。 論云:「第十一層,有說唯鹿無諸箭垜。龍智破云:安住瓶柱上,牌樓門三倍,具有方箭垜,如鈴聲宣揚。此說輪座之側,牝牡鹿尾之後,各有二垜。」言有方者是二之名。有方義通鳥及上弦下弦,故跋剎譯為鳥,是譯者過。故鹿非在垜上,是在垜層。後二垜上,有猴持傘。頂有初月寶珠金剛。其傘寶柄長三小分。白傘周幔高二小分,掛雀舌帶,亦有說懸紅絹與飄帶者。傘量有說六分,有說:「上柄寂靜量,傘幔量亦爾。」論說有此兩派。《鬘論》引教證云:「四小八寂靜。」此謂門之八分名曰寂靜。最外二垜之上,應作一小分之幢幡。 杵股已說。輪者,謂具足十輻之法輪,寬量二分,其座蓮月,在第十一層上。此座左右箭垜層處,有牝牡鹿,首望法輪。離輪半分許處而住。連頸共有一分,仰首眼望輪頂。有說:「具八幅法輪,具五分量輞。」謂輞量是一小分中五分之一。十輻之輪亦同。於諸輻間,可見中股(杵之中股)。此是所繪,所修義中則為竪立。 牌樓左右,非太遠處,諸如意樹生寶瓶中。具足輪等七寶。輪寶八輻黃色,象寶六牙白色,馬寶色綠,女寶紺色二八年華,珠寶黃色具足六楞,長者紅色具無盡藏,兵臣黑色身披甲鎧手執鎗劍,是《光顯密意論》所說。經說珠寶藍色八楞,當如是繪。《鬘論》未說彼等行相。於空隙處繪諸得成就者,於諸雲中,繪諸天子手執華鬘。 (未二)釋垜線至墻線義分二:(申一)釋墻線義,(申二)釋磚線至垜線義。今初 墻之五重,論中說有上下重叠及內外五層之兩派,未說何者應理,然以後者為善。以五重墻說為一分,是厚量故。於所繪中多明顯說內外五重即所修義,亦無不可之理。有說:「彼五重墻共祇門量四分之一,每重為門量二十分之一。故是相觸未合,中無空隙。然燈賢云:應畫諸紋間,麥許未相觸。又云:門分二十分,平均畫諸紋,此是自語相違。」此言過矣,若爾《律生經》云:「諸紋畫之間,麥許應彈繪。」應亦相違。以墻為門四分之一,是彼規故,於墻厚量分為五分,即門二十分之一故。故彼二說,是依根線一肘量者而說,門量四分之一,有五麥又四分之一。故是每紋此至彼邊作一麥量,非是二紋中間有一麥量。雖餘一麥四分之一,然就粗算,捨而未計。未相觸者,如答日迦跋云:「麥許未相雜,應繪一切紋。」是諸彩土互不相雜之義,非說中空未觸。又寂靜論師云:「言麥許未觸者,謂下分量,其上隨美而作。」意說所繪,墻基稍粗有一麥量,上無彼量,非所修義。說門二十分之一與一麥量之意趣,至下當說。 墻所到界,若是面側與門等者,則門側五重墻,俱達於雜金剛臍之邊際。此有門側之梁,如《鬘論》云:「龍智菩薩,謂門側二線上之線,即為橫梁,是故不許中隙闇層,與上頂層。」彼線有十四分,然梁安於墻內門側,直至對方門側之間。若於門側前面安梁,則超雜金剛臍,不應道理。故長為十二分,寬為一分。此派於門側之梁上,決定不作五重墻也。 如面側門不等而牌樓作三門量者,於所繪者亦有闇層,故從門側之端至雜金剛臍邊,中有一分。於彼中間有墻相連,此中門側內線之端,直至對方內線之端,線長八分,即是梁長八分。此是《鬘論》及隨行者所說。次門側外線之端至對方外線之端,線長十分,即是支梁升斗處或頂簷處或是梁上五色墻處。此是《鬘論》所說。藏地諸師有作此說:二線中間寬一小分,作五色墻,就所繪說。約所修者,墻在門側八分梁上,是故門與牌樓,中空二分。彼說非理。梁上五墻,即門側五墻之相續,彼等不當間斷。以是門側前之五墻,是於梁上而來,須如所繪而築,故於門與牌樓之中絕非如彼所說。若門側內墻界至外墻界,平頭截斷,則與《鬘論》「第四四小分」,說門側外線長四小分而成相違。論說梁有八分,不應錯誤,彼是正說門側內端互望之量,非謂彼外便無梁到。以是門側之前內外五墻非全平齊,實有長短。梁為斜形,漸漸長至外墻之端。故梁外端,約略未滿十小分也。此說或一大梁,或具升斗,故梁寬量如是。如說門側外端至對方之外端,線有十分,亦說彼為五色之處,除外層色,內四層色皆無十分。如是梁為八分,但依內面說,非謂外面定為彼量,《律生經釋》亦云:「八小分上梁,應知為十分。」有說為十分者,彼就一門量(牌樓之量)者而說。此中門側下邊應如何作雖未明說,然非如側面門等者五墻相齊。若覺不美(五層墻有長短,故不美),於橫斷處略向內斜即可美觀。 若牌樓作一門量者,門側內外皆須長於門面,如前已成。故門側外層墻直到雜金剛臍邊。梁處在下,五色墻在上,門頂通彼二上。故凡側臉與門不等者,梁上之墻與門側之墻相連,如所繪者甚為美觀。 如是三派,門側梁下所繪雖無柱,然修時應有。論云:「四方有四門,八柱而莊嚴。」若謂彼是壇內八柱,故所證不成者,不應道理,以內八柱,如勝樂等壇中非有。言:「八柱而莊嚴。」是一切曼陀羅之共規故。藏地諸師有作是說:「有四方壇有一門者,有圓壇塲具四門者,如《空行海經》及《最上訓釋》亦說勝樂壇內有八柱者,故說彼通一切曼陀羅者,乃此論師未住正知。」此是未知對方意趣。《鬘論》說通一切曼陀羅者,引「八柱而莊嚴」一句,未引「四方有四門」故。是故雖有圓壇與方壇一門者,全無妨難。四方四門為八柱之所莊嚴處,八柱乃能莊嚴。故凡四方四門之曼陀羅,皆有八柱莊嚴。非是說一切曼陀羅皆爾。勝樂曼陀羅雖有八柱者,亦無妨難。此中四方四門之勝樂曼陀羅,但有一內無八柱者即定。以是說四方四門定有八柱,破說八柱是內柱故。 若謂意指門旁八柱,云:「八柱而莊嚴。」不須顯示門側梁下之柱。論云:「四方有四門,八柱而莊嚴。」此說所莊嚴處,顯見是指宮殿。門旁諸柱乃牌樓柱應思云何可引彼釋。有以門側梁下有柱為因,便說門框等三互相重叠。論說彼等未解經義,意謂若重豎者,門面之處不能[A1]懸空,門側之墻無從建立,故無門側之梁,其下亦無柱也。 ᅟᅟ==[A1] 懸【CB】,縣【補編】== (申二)釋磚線至垜線義 磚簷安於墻上,乃至門側之端隨墻而有。如《鬘論》云:「於寶磚層有三角,點形四方,平圓依次嵌飾眾寶,乃至柱旁。」此說乃至柱旁意指所繪。諸師說磚出墻半分,若爾,則有半分安於墻上。網鬘層處,論中僅說四金鍱外從摩羯陀魚口[A2]懸諸瓔珞及半瓔珞。未說於磚簷上為何所有。藏地諸師以論中說磚上為黑色,故說於中空處,有寶升斗用支金鍱,高量如所繪者。其中瓔珞,謂紅線串真珠為鬘,中有摩尼,兩旁上下皆以金鑲。半瓔珞者,論謂瓔珞兩旁所懸,較瓔珞略短之寶鬘。此亦顯瓔珞為曲者。於半瓔珞之端,有懸金鑲大珠,有懸寶柄小拂,有於鈴中懸諸小拂。論說此三,故於一一端上隨懸一種,間錯莊嚴。有餘師說,於前所說半瓔珞旁,懸可意之花鬘,再於彼側懸種種衣。若如此說,則半瓔珞成五重或四重。又餘師論,說懸花鬘及懸衣鬘之半瓔珞。懸此之處,有說為諸空隙,有說為諸角處。瓔珞之中,有作蓮花初月,上有日輪半杵莊嚴。有懸寶者,有於華上安圓滿杵(非半杵也)。寶水簷者,論說是從房簷垂下,故是四金鍱上頂簷椽端所懸。如何繪水簷者,論云:「有說於七小分寶水簷處繪諸珍寶。」此說繪水簷與繪寶二法,然未明說水簷應如何繪。藏地師說如瓶無嘴頭底倒懸。或說如舊式骨莊嚴薩惹剎端之相。後說與恰師譯龍智《曼陀羅儀軌》云:「薩惹剎及升鬘等。」譯水簷為薩惹剎者相合。此又名跋姑利。《鬘論》於水簷時說從頂簷懸掛。此頂簷者,諸師謂於正宮殿頂之外,另安頂簷。 ᅟᅟ==[A2] 懸【CB】,縣【補編】== 箭垜所在及其量度,如《鬘論》云:「如八分之箭垜,宮殿莊嚴。若離箭垜,則寶水簷猶如斷頭,即不如是。諸大寺廟,現見如是。故此所繪曼陀羅之箭垜,乃至綵幡之線。所修之曼陀羅,則至門側之上。《金剛鬘經》亦說旁有諸箭垜故。」此說若從根線去八小分在第八小分處,宮殿莊嚴,若在七分以內,則諸水簷猶如斷頭極不美觀。故應作在水簷之上。箭垜,梵語迦羅摩希日喀,直譯為頭次第,亦有譯升鬘者。論說此於所繪雖僅通至綵幡之線。然所修者,直通門側之上。故彼下之水簷,瓔珞半瓔珞寶磚等,亦有爾許。箭垜之形,《鬘論》中說半花葉形。論說彩土墻上,寶磚、瓔珞、半瓔珞、水簷等次第重叠。此中所說之彩土墻,是於五色墻上說彩土名,莫執唯是所繪彩土。然諸水簷在瓔珞半瓔珞之外,非如所繪頂簷寬量。印度論中未見明說,藏地諸師說與欲層(廊下之台)邊齊。然於門框及門面處難容彼量,故立壇時,一高一下,應隨美觀而作。 台階(廊下之欲層)如所繪者,修時亦同,門處間斷非有。是故又名四緣、陀羅尼層、舞層。雖未明說於彼安布諸尊,然當安立各種各色舞狀之天女也。 門與門框等界,初月之上安有紅黃綠黑隨一種寶,其上更有半杵或以全杵莊嚴。從月至杵共一小分。《鬘論》引文證在外界而作。頌云:「台內外角處,有日月寶杵,杵飾或唯寶,智者依次繪。」若如此說,則欲層內外角,皆應作月日等。論云:「四方半花葉形垜上於金瓶或寶瓶,有八幢幡。」此是四方共有八幢八幡。非是一方即有十六或有八幡。安立幡處,有說是箭垜層而非箭垜,或是箭垜側間。然論明說是半花葉形之垜上,故是箭垜。插於彼二側間之瓶口中。幢者,繫於寶桿,上有初月寶珠金剛之頂,三條絹帶繫諸鳴鈴,端有獸王、鵝王、食龍、毛魚、鯨魚莊嚴。風飄動時,成為三屈形相端嚴。諸鈴發出錫錫之音,并有小拂。其作有情形像之端,即是絹條舌端。幡除有情形像,餘與前同。此等每方四個。四角垜上,當作四傘,量如牌樓上者。 (午二)釋曼陀羅內線義 宮殿中央有九格金剛鬘層者,如《勝吉祥釋》云:「為表諸佛常無間斷善轉金剛乘法輪故,八柱上有圓金剛鬘周徧圍繞。」此說柱上安有金剛圓梁。若唯如彼所說,未在地上作者,則不能知齊何界限,為內曼陀羅之差別。故凡無有雙層門者,地上亦應有如是墻。圓墻中央,主尊處外之方層者,《鬘論》說名主尊標幟,或主尊層。地上亦應有之。諸餘尊處之外,各方所彈兩線之間,是立柱處。有許彼為梁者不應道理。如龍智云:「內中繪八柱,金剛妙莊嚴,其中分九孔,於金剛柱間。」多作是說。第十八《穗論》云:「由四無碍解清淨故,於彼之上有四橫梁。以能荷負利他擔故。」此說柱上有四橫梁。《金剛頂經》說主尊座量八萬踰繕那,四如來座各六萬踰繕那。故中央格當較大於四方諸格四分之一,藏地智者說於繪時,雖為柱線隔斷無容彼處,修竪起時,即無彼柱故可容受。然主尊處四邊方格,非梁交叉所成中孔,以所繪中未繪梁故。亦非是柱,乃以判別主尊位者,故於修竪起時,亦應有彼,若於繪時,不可大小,則應修時,亦不可能。是故彼派,說五佛處有其廣狹。若依彼說,則不能依原線大小相等,當於所繪亦大四分之一。若如彈線繪布壇場,四角有天,似稍難畫,然主尊處,有大差別。 《鬘論》雖廣說彈線法,然未明說葢頂之法。堪依據之梵典亦未明說。故是總葢宮頂,抑為別葢兩層(內外兩層,非上下兩層)宮頂,極難決定。 藏中智者說如《憍薩羅》(釋迦友造)云:「一一直對門處各有二柱,一端依金剛線,一端依曼陀羅中心。」此說柱根自墻,柱端達曼陀羅中央,有四大分。准此道理,外壇頂量,亦為寬之半量。五重墻量高三大分及一小分,磚一小分,瓔珞等處有二小分。此與內梁高量相等。佛密亦云:「於內有八柱,擎持四梁端,四梁孔格處,覆二十八椽,座頂如所應。」此說自梵線與根線合處,內去一大分,平去五小分,安立八柱,寬量一分,用持諸梁而覆其頂。 傳為佛密所造論中,未見明說內有別宮。故是葢覆根本曼陀羅法,然未見說柱安何處及說頂之厚量。彼釋迦友之教,雖未明說柱長有四大分。然總觀諸無內壇者,以及二種《集密》等之有者,如是葢頂似為應理,當審觀察。傳為佛密所造論云:「外形如塔寨,王宮及帳幕。」此說外形如塔、城寨、王宮、帳幕四種隨一。傳為蓮花生所造之論中,雖亦宣說,然不可信。藏地諸師有說從頂至基,量等宮內量寬,亦未見有確證。諸餘內線易解。如勝樂者,雖須廣說,恐煩且止。 密咒軌則,初作法器時須入壇灌頂。中修二次第瑜伽時,亦須修能所依之曼陀羅瑜伽而進諸道。後證果時,亦須以能所依之相而成正覺。於彼一切,曼陀羅為最要,曼陀羅相,應以彈線決擇,線以《金剛鬘論》最為明決。故依彼派而善解說。彈線儀軌已竟。 (辰二)應如何修天預備 前略標時,說坐壇中或向西坐之二派者,是自修現觀之坐處。若修天預備時當說由東向西。於曼陀羅地基塗諸妙香散布眾花,以五甘露所和香水,於諸尊位作曼陀羅。此復五部主處作為方壇,餘作圓形。如《金剛空行》云:「遍塗五甘露,於諸如來位,作檀等方壇,所餘諸尊處,各別作圓壇。」慧鎧於勝樂六十二尊時,亦如是說。故空行母等四處,亦應作方形。准此道理餘亦應知。 龍智及然燈賢、《鬘論》,除散花外未說餘花。薩惹哈、答日迦跋、不空足於諸尊處亦說安花。後者是於香點中央安花為座,此亦如安花堆非是修彼為天。答日迦跋說以各尊真言而安置花。 論說:「次如前說於各尊處修各三昧耶輪,次從自心種子放光,召請安住虛空智輪入彼身中。」彼即前地軌時昇虛空者,如是入智尊已。 隨應安於蓮上月座或日座上,供養稱讚嘗受甘露。此論與《四百五十頌》皆說有座,故安座之宮殿亦應先修。跋縛跋陀羅說天輪剎那生起,與住空者合為一處。然《歡喜金剛羯摩次第儀軌》等亦說於各尊種子生起。故所緣明了者,即可頓生。若不明了,從種子等依次而生。餘更應修灌頂及印證等。 供養數量,如答日迦跋云:「燈等諸供物,如諸尊數供,不應減於十。」謂應與諸尊數量等,不具者,亦不應少於十供。設供品法,藏地諸師說預備供設為方形,故有於墻上供,有於各尊之前作方形者。然依通規即可。 持祥與毳衣大師等於此雖不說修三昧耶尊,唯請智尊作供讚等,然詳彼等意趣,當如薩惹哈、難勝月、黑行論師、答日迦跋、《鬘論》等說生三昧耶召入智尊,最為善哉。 (卯三)瓶預備分四:(辰一)明瓶之因量數,(辰二)瓶物及畫相法,(辰三)如何陳設諸瓶,(辰四)修瓶法及支分。今初 因者,《金剛空行經》云:「金銀銅瓦隨一,及隨力所能而作瓶。」謂除彼四,鍮石等類亦可。量者,《時輪》中說息災增益之瓶,腹圓十有六指,從腹之下至瓶口邊,高二十指,從瓶口處至所懸邊,量為二指。瓶項量高六指,從懸唇此邊至彼邊,共有八指,其中二分為項孔量,一分為二唇之寬量。愛敬瓶量亦爾。諸餘續說:「瓶無根本及諸黑色,唇懸,項長,腹大。」一根本者,謂瓶座。無黑色者,若本性白即可,不,則應用米粉或白石粉或白檀泥,塗染令白。亦說用石灰及白土塗染。唇者,非如通常所說,乃從口邊之所懸者。《明顯雙運論》云:「此等諸瓶內,尊勝應具相,以齊八指量,項高而端嚴,腹寬五張手,若小於此量,施主不吉祥,遠離諸黑色,不與根本連,全無諸孔隙,如是無破裂。」說尊勝瓶應具彼相,餘不決定。數者,此論師說,曼殊金剛,廣者,隨諸尊數之瓶,又加一事業瓶。略者,一尊勝瓶一事業瓶,或唯一尊勝瓶。或隨宮內天數,或依五如來數,或如不動金剛,略攝為佛、佛母、菩薩、菩薩母、明王,而作五瓶。如勝樂者,依五輪數用五瓶等。宣說眾多略攝規則,准此等理餘亦應知。《明顯雙運論》引《善住續》云:「彩土隨天數,或五八九瓶。」准此等理數量隨宜應知。 (辰二)瓶物及畫相法 瓶內裝幾許物?如《金剛空行》第四十六云:「五藥五寶穀,氷片紫檀等,藥水善充滿。」又說五香。五寶謂珍珠、金、瑪瑙、珊瑚、水晶。若無瑪瑙,可用銀或銅螺隨一。若無水晶可用摩尼。五藥謂枳哈底、根札迦日、白阿跋惹姊達、紅白二種敦札鄔曇缽羅,即棍鄔曇缽羅。初者有云虎刺。第三即白難勝。〈灌頂品〉中亦數白芨為一。五穀者,謂胡麻、大麥、莞荳、稻、麥。恰師所譯說以[火*門]辛枳鄔代替小麥。榜師所譯及〈灌頂品〉說替稻米。其[火*門]辛枳鄔與摩辛得鄔,諸師說即大豆小豆。五穀五藥,《金剛空行經》說與此稍異。此論說用五種甘露所和香水。香者,如答日迦跋云:「氷片紅花檀,紫檀及麝香。誦咒而注入。」即是五香,共五種五。慧鎧論師又說五藏,共六種五三十瓶物。言五藏者,如智金剛《摧壞釋》云:「地藏胡麻,水藏海鹽,穀藏酥油,果藏甘蔗,花藏蜂蜜。」 次荅日迦跋云:「熏辟魔為先,滿注妙香水。」如慧鎧論師說善洗諸瓶,用黑香熏,芥子打而驅魔,誦甘露瓶等一切事業咒,而為守護。 灌瓶之水,如日生論師說:「取未經牛馬等所涉之水,莫觸餘器。」當取淨水,無諸虫類,和以妙香中量注入(非太滿)。莎惹哈說水中和以乳酒。 於何瓶中裝何物者?如此論說:「若貧乏者,尊勝羯摩二瓶裝寶為藏。非餘諸瓶。此復尊勝瓶中定須裝寶。」餘諸瓶物似裝不裝皆可。不空足說主尊瓶中裝穀藥寶,諸餘瓶中滿注香水。寂靜論師與跋嚩跋陀羅亦說穀藥等物裝尊勝瓶。寂靜論師說其理由,謂尊勝瓶為主,多諸作用,是與餘瓶差別之義。此是四百五十頌說。 裝諸物法,慧祥師說穀藥五甘露等先誦主尊真言一百八遍加[A3]持,用布包裹,繫於瓶口莊嚴,用香熏後裝入瓶中。然跋嚩跋陀羅與毘布底說注瓶中,當如是作。作怖天說以裝瓶物之器安置瓶上,非是正義。加持彼諸物之真言,謂:「嗡奔[嗈-邑+夕]北沙則阿吽,嗡奔[嗈-邑+夕]惹那阿吽,嗡奔[嗈-邑+夕]北伽阿吽,嗡奔[嗈-邑+夕]伽惹北阿吽,嗡奔[嗈-邑+夕]阿彌得阿吽。」慧鎧論師說是五藥、五寶、五穀、五藏、五甘露咒。其五香咒為:「嗡奔[嗈-邑+夕]根得阿吽。」 ᅟᅟ==[A3] 持【CB】,特【補編】== 繫於瓶項之衣為白黃紅三色,亦有書說加綠及青,故用彼等隨一。餘多有說繫一雙布及花鬘者。《金剛空行經》云:「項纏雙新布。」謂纏二層新布。作怖天許各瓶項布順各尊色,然無確證。 又龍智云:「以廣大白衣,應繫於瓶項,智者以白線,如法纏衣上。」有隨順此說誦吽字七遍,加持七縷白線而纏。纏線咒謂:「嗡班[嗈-邑+夕]協喀惹,茹札摩札,底嚮跋那答吽。」毘布底說以此線纏項衣。然餘經說順息災等事業繫五色線,故是非唯用白之據。《金剛空行經》說「以染色線飾」故。此項莊嚴,多說為布,亦有總名曰衣。三昧耶金剛說名為曩補(衣之一種)。若有清淨新布即以彼作,若無新布,如其所應用絹等作,亦有曼陀羅儀軌說布須未壞邊者。[A4]繫項結法,梵典曼陀羅儀軌中皆無明文。佛密論師《摧壞金剛疏》云:「繫未作餘用之淨布,作三髻形。」當如是作。 ᅟᅟ==[A4] 繫【CB】,擊【補編】== 瓶口莊嚴,如《金剛空行經》云:「口滿鮮樹葉。」曼陀羅儀軌中多說用有葉樹莊嚴其口。《總續》亦說用諸上菜樹葉嚴飾瓶口。諸曼陀羅儀軌多說樹為阿摩羅等五樹。此論亦說。然彼等樹藏地難得,故凡有果葉之香樹即可。《金剛空行經》云:「吉祥草墊下。」說以吉祥草為瓶墊,未說莊嚴瓶口。諸可依曼陀羅儀軌,亦未說吉祥草為口莊嚴,但說以有葉等樹作。經云:「摩尼芥茅草。」釋云:「茅草者即青茅,為吉祥故,具足新葉,應插七吉祥草及孔雀翎。」佛密此文非說瓶口莊嚴。即彼論云:「其口為吉祥故,用無憂等果樹莊嚴,其上置金剛杵繫吉祥線。」說以此等為莊嚴故。以是插茅草者,如《智金剛釋》說於繫項上塗以牛糞,為遮魔碍等故,於上插七茅草。雖毘摩羅彌札與樂苗論師說茅草為口莊嚴。然彼不順《秘密總續》,故不取為定量。縱許茅草為口莊嚴,亦非以吉祥草為口莊嚴之據。若捨無上部所說口莊嚴而取事部之教,亦不得成。 此等之清淨者(即表法),《歡喜金剛羯磨次第儀軌》說藥穀及諸寶,如其次第為曼陀羅諸尊菩提心、意、身色之相。《等合曼陀羅儀軌》云:「瓶是諸尊處,口項飾牌樓,繩線大悲相,五藥悲覺心,穀是天本性,五寶為身光,藏為心智界,香等勝戒德。」此是姑姑惹[嗈-邑+夕]所說。 畫相諸法,尊勝瓶上,於法生中畫蓮花月輪或是日輪。諸餘瓶上,於蓮華月輪或日輪。其上畫各尊種子或幖幟。如龍智云:「一切諸壇尊,種子或幖幟,調和紅花等,智者畫瓶側。」第三句明用墨,第四句明畫處,即畫於瓶上也。畫法生者是寂靜論師派。標幟顏色,如《金剛空行》云:「幟隨各尊色。」字色亦應如是。若唯一瓶,前面畫主尊相,左邊畫一切事業相。若許四方畫毘盧等相者,則於毘盧相處畫主尊相。亦有論說於瓶口上畫主尊相。又有他派許佛眼等相,亦畫於四方,俱如《鬘論》所說。 (辰三)如何陳設諸瓶 論說兩派,謂設於所修曼陀羅東方等位。及向北坐而預備自在方所有諸瓶。前者謂於天預備曼陀羅之外,東等方隅安設諸瓶。主尊之瓶置於中央。後者如於彩土曼陀羅中,安置幖幟次第,於一一香曼陀羅上,設順各尊吉祥草等座位,安布曼陀羅相。答日迦跋、慧鎧論師說安八瓶於四門及四隅,第九設於中央。答日迦跋說於東門左側安立業瓶。安布諸瓶總有二時,此是預備時安布也。 (辰四)修瓶法及支分 應於瓶上安置吽字所咒之螺水或顱器,若無此等,瓦器亦可。《明顯雙運論》云:「於瓶瓦盃上,安置金剛杵。」《四百五十頌本釋》與毳衣大師亦說於香水器安置金剛。持祥論師等多不安螺水,說將有花鬘之金剛安置瓶口,於螺盃中如所獲得五種甘露及以香水誦:「嗡班[嗈-邑+夕]阿彌多迦叉吽。」及三字七遍而咒之。如《鬘論》說:「由咒七遍智慧甘露,金剛微塵為性。」此說誦彼咒時,觀想智慧甘露及諸水微,成為金剛自性。咒義亦爾。故金剛水非以灌注水時執金剛於瓶口而注得名。由尊勝是諸瓶之主,作用眾多,故此論說於彼瓶口安置螺水。餘瓶不爾。於彼螺上置金剛杵中繫花鬘誦:「嗡禱得禱得摩訶禱得得娑訶。」想召殑伽河水與瓶水成一體,後生為天。寶鎧論師、毘布底等亦如是說。次先辟魔清淨,從榜字中修成寶瓶。《鬘論》兩譯俱如是說。寂靜、勝賢、寶鎧、毘布底說亦爾。答日迦跋、慧鎧論師說從[口*種]字而生宮殿,次於瓶中剎那想成天輪及諸座位。從自心中種子放光召請智輪於前,供獻浴足洗面閼伽,令入智尊。由大貪溶化為菩提心性,想與先注之水合為一味。論說於相亦想三昧耶與智尊合一。故亦修諸相為各三昧耶尊與智尊相合。於業瓶中生為一切業尊。寶鎧及毘布底亦如此說,然未明說某瓶應修某尊。龍智與《四百五十頌本釋》、毳衣大師、黑行論師、難勝月等亦未明說。慧鎧師云:「於尊勝瓶中,應剎那而想,圓滿諸天輪,餘瓶想天輪,隨從諸部眾。」《歡喜金剛羯摩次第儀軌》亦說主尊瓶中俱修諸尊。不空足說主尊瓶中但修主尊,諸餘瓶中以三段法而修各尊。與此論師意趣相順。以誦咒時說主尊瓶,誦主尊咒或誦鄔答迦咒,未說誦持餘咒,餘尊瓶中各誦彼自咒故。以是應知若唯二瓶或一瓶者,則[A5]主尊瓶中應修一切天。若瓶較多,當觀由諸尊門如何攝瓶,即於彼瓶修彼諸尊。若不修瓶為宮殿者,主尊瓶中,若不俱修諸尊,雖無宮殿但修座位即可。生起之法,不空足與[嗈-邑+夕]耶茜那說由三段法生。故如天預備時所說而修。海生所造《二觀察經疏》云:「由本尊瑜伽,從前說瓶內,略取少許水,注於瓦盃中,安置尊勝瓶,榜生寶瓶上,於彼修圓滿,三昧耶壇輪,召請智慧輪,漸供浴足等,與三昧合一,獻供令滿足。」藏師有說此是於螺盃中俱修諸尊。然彼教文非顯此義。以彼釋論於《初觀察》明瓶數量與瓶物時,未說修諸尊法。故《後觀察》善住時,說於瓶中修諸尊儀軌,「於彼修圓滿」者,是於尊勝瓶中修曼陀羅之據。若謂彼文顯示於尊勝瓶上瓦盃中生諸尊者,則應許此處及前文,俱未明說尊勝瓶中修諸尊法。餘定量論未見說於螺盃生諸尊者。故彼盃中似不須修諸尊,應審觀察。 ᅟᅟ==[A5] 主【CB】,王【補編】== 此於瓶上所安香水充滿之螺或顱或瓦盃者,說是供瓶閼伽之器。如毳衣大師云:「瓶上安閼伽器,注香水及白花,上安繫花鬘之金剛。」又云:「以有白花之閼伽器供獻瓶尊。」水之修法,誦鄔答迦咒及三字七遍,想成智慧甘露金剛微塵自性。《鬘論》此義如前已說。 此處先化諸尊而後持誦,乃是《鬘論》及隨行者之規,與琅迦勝賢說相順。[嗈-邑+夕]耶茜那亦隨彼行。不空足說業瓶之天不化。此論未說彼別。毳衣大師等亦說誦咒後方化。故知隨何次第皆可。 天化水時,若瓶先修為宮殿者,亦應化成瓶相,諸相若修為諸尊者,亦應化成諸相。諸尊化後次誦吽字,左拳執花鬘端,念誦主尊心咒或鄔答迦,咒水一百八遍。主尊瓶中,裝入甘露瓶咒所加持之白花三朵。諸餘尊瓶,即誦彼尊真言一百八遍,或二十一遍或七遍。於彼瓶上執金剛花鬘端,如前裝花。左手執花鬘時,日生師說右手持珠。跋嚩跋陀羅說:「弟子手執繫花鬘之金剛,安置瓶上,師長另持花鬘一端,誦吽咒百八遍。」勝賢論師說誦主尊咒一千零八遍,誦鄔答迦一百八遍。《四百五十頌》云:「正供養閼伽,應裝入白花。」故亦供螺水等閼伽。《釋論》則說誦壇主咒及吽七遍而後供獻《總續》中云:「裝入諸花已,應用妙香熏。」於灌頂瓶作如是說,故應亦用香熏。修瓶念誦之時,未說其餘觀想,似應作如修現觀時念誦之觀,想從各尊心中咒鬘收放光明,鈎召諸佛菩薩智慧甘露,融入各尊,即此便足。藏地諸師有說:「想自口中放紅色光,順咒線照瓶內諸尊皆成紅色,為自自在,從彼諸尊毛孔,流注甘露。」 次以花等供養諸瓶,以業瓶口莊嚴,取業瓶水,洒淨守護。祝云:「直至此處曼陀羅事未圓滿頃,當遮魔碍。」施食後洒淨時,誦不動等金剛讚頌為先,遍振鈴聲。所請能遮魔者,勝賢論師說是一切業尊,毳衣大師說融化後亦誦讚文。餘諸論師說先供讚後方融化。勝解瓶水為天本性供獻食物及讚誦等。若覺不便,可如餘師所說而修。《佛頂曼陀羅儀軌》云:「先供顱閼伽,香等及飲食,與瓶數等供,亦以內密供,令諸尊歡喜。」如前天預備法,於瓶亦隨天數而修供養。不空足說次將諸瓶藏於自室。 為洒自身及諸弟子,故從諸瓶,略取少水,貯於螺盃等中,安於曼陀羅室,若無室者,隨設壇處,壇東門外稍北三足架上。為洒餘者,當置業瓶及吉祥草墊於彼處。 瓶尊念誦及供養等,每日三次或修一次。《總續》與《四百五十頌本釋》,并勝賢論師等多說每日修瓶念誦三次。《鬘論》說修一次。故從次日至未灌頂以來,如前修法日修三次,若無暇者每日一次。 密宗道次第廣論卷九終 密宗道次第廣論卷十 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明預備儀軌次第品第六之三 (卯四)啟白諸尊 然燈賢云:「復供養壇輪。」謂於預備諸尊,非唯先應供養,此處亦應供養啟白。《總續》亦如是說,故當供養。 右膝着地,舌從吽字生為金剛,吽字莊嚴。右手執持香鑪,左手振鈴,白曰:「敬禮某金剛,世尊大明王,為愍弟子故,供養諸尊等。我今畫依怙,悲體曼陀羅,故我恭敬求,願世尊恩許。佛作壇利生,住果位菩薩,及餘密咒天,諸天與護世,含識住菩提,樂正法有情,諸具金剛目,皆請憶念我。我某甲金剛,於某曼陀羅,隨力而供事,為利生畫壇,願哀愍攝受,我與諸弟子,一切壇塲事,[A1]唯願速降臨。」思惟其義,三次啟白。《律生經》與《金剛空行》,如其所應,亦有此文。《總續》完全具足,唯譯文稍異耳。《金剛空行》與《總續》俱說誦三遍。說須思惟彼義而作啟白。言作壇利生者,謂以曼陀羅事而利眾生。住果位菩薩者,謂已得地。所餘密咒天者,謂未得地。其下句《總續》作「及護世諸天」,再下句《律生》作「情住大菩提」。寂靜論師釋彼義為安立菩提之人,即是趣入大菩提者。金剛目者,謂金剛眼。《鬘論》中僅說:「有情謂人等。」顯係與有金剛眼者,同為一事。如《總續》云:「諸有金剛眼,樂正法有情。」餘文易解。《金剛空行經》說此在瓶預備後。然燈賢亦作如是說,此論亦隨彼行。 ᅟᅟ==[A1] 唯【CB】,維【補編】== (卯五)弟子預備分四:(辰一)四門阿闍黎與業金剛預備,(辰二)弟子預備數及次第,(辰三)正弟子預備儀軌,(辰四)舉昇曼陀羅夢相吉凶應如何行。今初 守門之阿闍黎,若是自己灌頂弟子,不須預備。若非爾者,應令住於曼陀羅室東門之外,而受二種律儀。或先授阿闍黎律儀,以預備法而作預備。此須四人,若無者,三人或二人乃至一人。除彼,餘如是預備之第五弟子,餘續名業金剛。若無別業金剛,《鬘論》說即以守門阿闍黎任之。是隨難勝月說,如云:「恐壞三昧耶,非弟子莫入,無者用二三,下至用一人。」此中弟子,謂是自傳灌頂或為作預備者。總之助自修行之守門師及業金剛。若非自傳灌頂而令入者,壞三昧耶。故若非是弟子,雖灌頂事亦應遮其窺視。 (辰二)弟子預備數及次第 同時可為幾多弟子作預備耶?龍智、燃燈賢、毳衣、難勝月、黑行等諸論師未明顯說數應若干。答日迦跋說可攝受二十五人以下,唯除偶數。此是《總續》意趣,如云:「智者於弟子,一三五或七,乃至二十五,攝受非雙數。弟子過彼數,是不知攝受。」《大日經》云:「弟子信貴族,如是信三寶,成就甚深慧,精進具尸羅,安忍無慳悋,勇敢志堅定,十或八七五,一二四或多,攝受不須觀。」此說具彼德相弟子,亦許雙數。彼以十數以內為數量者,謂具彼相者,如金剛薩埵極希少故。此依灌頂而說。若但令入壇者,則許數無定量,即前經云:「秘密主,諸已修習無邊大乘密咒行者,彼等即是金剛薩埵,為彼等故說此數量,然阿闍黎成就大悲,唯應發誓廣盡諸有情界,由此可成菩提心之因故,應當攝受無量有情。」此等文義,疏如前釋,非說灌頂,同時攝受無量弟子。准此差別,《攝真實經金剛頂經》亦當了知。《建立三三[A2]昧耶經》云:「合掌持花,一二三四五弟子,可令入。」此亦連數。《鬘論》亦說若一弟子或二或多。藏中智者規式,多如《總續》而行。《總續》中云:「總之諸弟子,內心互賢善,靜調利師長,不攝互仇怨。」此最重要。 ᅟᅟ==[A2] 昧【CB】,味【補編】== 若經攝受弟子儀軌所攝受之弟子,至預備時未全在者當如何行?如《總續》云:「所攝受弟子,預備時未在,當作彼形像,作所說諸業。若攝受弟子,由餘少緣故,未能來至者,可令餘暫代。」《律生經》說畫曼陀羅後作弟子預備。持祥與此論師說修曼陀羅後作善住(即開光)及弟子預備。此是講說次第而非實行次第,以餘三預備法及繪曼陀羅法,顯係為與天及弟子作灌頂故。如《鬘論》云:「如是弟子略作預備,為預備故,供養安立諸天,為彈智線等故,於曼陀羅地基上升虛空,心想安住。」此處說作弟子預備,次將預備諸尊舉昇虛空,其後乃說彈諸智線。 (辰三)正弟子預備儀軌分五:(巳一)教正發起傳內灌頂,(巳二)請白令持,(巳三)受戒加持,(巳四)令投齒木給三水等,(巳五)慰勵守護觀察夢相。今初 此中若於曼陀羅室作預備者,藏中諸先覺說當遮畫像等面,勿令觀見天預備之花等以及諸瓶。當如《賢攝經》說令諸弟子沐浴著新淨衣,供曼陀羅,長跪合掌,手捧花鬘。當教示云:「非為希求現法,後世善趣安樂。當為證得如來三身圓滿德故,入曼陀羅。如是亦得二種善趣。」此是略攝《總續》之義。《總續》之文,《四百五十頌》中所譯最善。「有為修密咒,而入曼陀羅,[A3]除有為求福,更有求他世。由希求後世,智者修淨信,而入曼陀羅,不應求現果。若求現法者,不得後世利,若希求他世,亦增現世果。」入曼陀羅有三發起,有為修密咒而入者,是求現世善趣。餘有為求福而入者,是求後世善趣。有為求他世而入者,是求二身圓滿。如是三中,當如第三入曼陀羅。「不應求現果」句,表示不應如彼前二。如此論說以是下劣世間,故現後二善趣同名為現。非唯指今生之圓滿。寂靜論師說後四句明彼道理,最為善哉,亦與經說入壇三種發起極相隨順,故知如《明顯雙運論》等一類曼陀羅儀軌,譯為「諸求咒悉地,當入此壇場」。是譯未善,師長應善開曉。使弟子等發如是心:「若求無上佛果,二種善趣亦能兼得,故當為求成佛入曼陀羅。」 ᅟᅟ==[A3] 除【CB】,餘【補編】== 次應想諸弟子從自口門入自身中,順金剛道出住妃蓮華中。心間種子放光,召請諸佛佛母,入自口中,溶化灌頂。安於曼陀羅之東門。此處當住何尊之慢,由何方便召弟子入自口?如《明顯雙運論》說自為主尊由心間種子放光召入。弟子生為何天?此論不明。然毳衣大師說修一面二臂黑茹迦。故應修為當時一面二臂之主尊也。論中未說以此等觀曉示弟子,似但師長自修即可。然於一一弟子皆當明了觀想。 (巳二)請白令持 次由東門令其請白入壇,教令誦云:「生老死可怖,如摩竭魚等,度我出有海,大樂師唯汝,大菩提法固,依怙我樂求,賜我三昧耶,賜我菩提心,佛法僧三歸,亦請賜授我,大解脫妙城,依怙令我入。」然燈賢說三請。答[A4]日迦跋說令供曼陀羅。呼師長曰大樂,唯汝一人是我大師。大樂是金剛持之名,視師應同彼也。寂靜師說法是彼道,固是餘不能壞。《金剛頂》亦云:「菩薩法堅固。」樂求者即欲彼。三昧耶謂咒續印等。賜我菩提心者,《金剛鬘》及《金剛頂經》作「賜我諸律儀」。三皈者,謂皈依三寶。《金剛鬘》及《金剛頂》無此二句。《律生》中有。《金剛[A5]鬘經》有同初三句者。餘文易解。今解彼義以猛利欲而行請白。 ᅟᅟ==[A4] 日【CB】,曰【補編】== ᅟᅟ==[A5] 鬘經【CB】,經鬘【補編】== 次以一弟子為上首,普對一切如是告言令其受持。「兒來此大乘,密咒行儀軌,應正開示汝。汝是大法器,身語意金剛,三世諸佛陀,以金剛咒力,正得無等智,無等密咒行,釋迦師子等,諸佛以大力,降伏惡魔軍,達世間隨眾,轉法輪涅槃。為得徧智故,兒當修此慧。」大乘密咒行句,餘曼陀羅儀軌多作「大乘之密咒」。儀軌者,謂方便。說彼之理,謂因汝是大法器故。其次四句《律生》僅後二句,毳衣大師曼陀羅儀軌中具有四句。諸佛能得智慧係金剛咒之力,寂靜論師謂是念誦之力。大師由了達或證知世間,隨自行弟子之心行而轉法輪。毳衣大師曼陀羅儀軌亦譯云:「知世間隨眾。」此者,謂密咒法。此是曼陀羅儀軌中所引《大日經》文。現譯《大日經》中第二頌作「過去諸佛陀,如是未來者,現在諸依怙,利生住世者,彼一切了知,此勝密咒法,勇士往覺樹,獲無相徧智。」無「世間隨眾」等二句。總之三世諸佛,皆依咒軌乃得成佛,汝欲成佛,亦當依止此咒。 前白云「我樂求」,豈非自白[A6]己樂咒道,此處何須教欲咒耶?答云無過,意謂如汝所請我為汝作,汝莫散亂當善持此。是令勝解堅固。故《鬘論》說此名令正受持。 ᅟᅟ==[A6] 己【CB】,已【補編】== (巳三)受戒加持 此中毳衣大師、寂靜、無畏、寶鎧、常金剛、毘布底俱說令受共戒阿闍黎戒。此二戒體,如寂靜論師云:「此中若有律儀,雖不作阿闍黎亦可與者,是總律儀,謂即皈依及唯發菩提心,如前已說。若須作阿闍黎方授與者,是阿闍黎律儀,謂即五部所攝。」此說皈依為先發菩提心,是共律儀。五部律儀是阿闍黎不共律儀。《鬘論》與《律生釋》亦如是說。唯發心之唯字,但遮五部所攝之三昧耶,非遮諸行而但說發心也。共不共者,不空足云:「次應傳與事行部等,共同律儀及無上瑜伽部十四他勝六粗罪等。」彼謂四部所共名共律儀,若傳離十四根本罪等三昧耶,為無上瑜伽所獨有。然非唯爾,亦共瑜伽部故,以瑜伽部亦說用受五部律法受律儀故。若謂不許瑜伽部有十四他勝罪者,則與《金剛頂經》「所餘十四種,說為他勝罪。」成相違故。是故阿闍黎戒,為瑜伽與無上瑜伽兩部共有,不共事行,又如弟子灌頂,於受不受五部律者,皆可傳授,名共灌頂。若阿闍黎灌頂,唯傳與受五部律者,故名不共灌頂。如是第一律儀,隨受阿闍黎與弟子何種灌頂皆須受持,故名為共。第二唯受阿闍黎灌頂者,方可授與故名不共。又第一是菩薩律儀,故是顯密所共,第二唯金剛乘律儀,故名不共。是故安立共不共別,總有三義。 傳授二律儀之儀軌,前六論師皆許「我皈依三寶」等四句,及受五部律法。故令三誦「我皈依三寶,悔除一切罪,隨喜眾生善,意受佛菩提。」而授律儀。此儀軌是《幻網》第二及《金剛幕》十二中說。若問初三句義,但是皈依懺罪隨喜,非受戒軌,第四句中亦不顯說受戒,云何可作受戒儀耶?答云:實爾,故第四句當如歡喜金剛,及依寂靜論師論中所說,作「發心佛菩提」,以是受發心故。唯受願心非是律儀,故知是受行心。以此略文受律儀者,是依最利根者,《莊嚴能仁密意論》云:「皈依佛法僧,乃至證菩提。謂依色身、法身、菩薩、僧寶,自當成正等覺,拔此一切世間,令出苦海,安立正等覺位。是故以此略法,令上上根發菩提心,律儀自性。」以此受菩薩戒,文簡難了,故阿闍黎當為明顯曉示,初三句為受戒加行,第四句為受菩提心及菩薩行之法。 《金剛幕經》十二,彼四句後尚有皈依佛法僧。「乃至證菩提,發此菩提心,為辦自他利,我發菩提心,希有請有情,行菩提勝行,為利生成佛。」若受戒法,連此儀軌而受,易於曉示。《集學論》於具行法之發心說為受戒,故以儀軌兼行受者,是受戒法。但受發心,則是發心儀軌。寂靜師云:「又於何者,唯應授與明灌頂耶?謂諸不求阿闍黎灌頂者,或雖希求而唯受總戒不受阿闍黎戒者。」此說若不欲受阿闍黎灌頂者,及雖欲受而唯護持共戒,不護不共戒者,唯傳弟子灌頂。餘五論師亦如是說。故唯護菩薩戒而不護咒戒者,除弟子灌頂外,不應為授阿闍黎以上之灌頂。若傳諸上灌頂,則必應持咒戒。是故蓮華鈎等於事行部受五部戒,不應正理。以《智點經》說彼二部除水冠等,無餘阿闍黎灌頂故。事行部經以及堪為正量者之解釋,皆未說受五部戒故。慶喜藏師亦明顯說不受五部戒者,不傳阿闍黎灌頂故。此於根本罪釋[A7]已廣說訖。 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,己【補編】== 總之,受共律儀,即受菩薩律儀,復是受學菩薩六度等行。故應了知壞菩薩戒諸根本罪因緣,勤慎防護,不應妄執學六度行與學咒道違如水火。《攝真實經》與《金剛頂》所說全不護戒但可入壇之義。慶喜藏師明了解釋,佛密論師亦以但可入壇釋《大日經》,如餘廣說。如是具共戒已,為受阿闍黎戒,更令請云:「輪不退灌頂,最勝傳授我,依怙輪諸尊,真實上師業,諸佛三昧耶,密戒願為說。為利諸有情,恒為阿闍黎。」次令發菩提心三誦:「一切諸佛菩薩請憶念我,我名某甲始從今日乃至未證菩提,如三世諸佛。」乃至「立生於涅槃。」此文通行故不全錄。此請白者,寂靜論師說是已受近事等戒。無畏論師、慶喜藏等亦說灌頂弟子須受別解脫戒。故若堪受別解脫者,應先傳與近事以上別解脫戒,亦須受有菩薩戒者。寂靜論師說彼手中捧花先禮阿闍黎足,散花請白。毳衣大師亦說頂禮阿闍黎足。餘師亦同。請白之義,謂為利有情故,令我作阿闍黎,請說彼法。此由授我能生不退殊勝種子,金剛阿闍黎灌頂故,成阿闍黎。「輪」者,灌頂處之壇輪。有作「輪之」,謂曼陀羅阿闍黎之灌頂。言「輪諸尊」等者,謂請說曼陀羅及天之二真實并阿闍黎諸事次第。請傳阿闍黎之勝三昧耶及律儀者,謂「諸佛」等四句。諸曼陀羅儀軌,或有不作此請白者,若不作此請白,則於前請白時,當為說此等義,令於一處請白。受律儀前說律儀者,如《金剛頂經》說無上部曼陀羅儀軌亦多如此,然亦有不說律儀者。彼二隨依何者皆可。然阿闍黎皆應先令了解五部三昧耶之大概,俾令弟子善發為利一切有情,當受五部總別諸三昧耶之心,而後受戒。以緣戒生欲受之心,及於諸三昧耶不分類別欲受一切,是發戒體必不容少之因支故。以是《金剛頂經》說應先問欲不欲受。無上部曼陀羅儀軌堪為量者,亦多作如是說。如《鬘論》說誦此儀軌三遍。龍智及難勝月、《明顯雙運》、日生、寶鎧、毘布底等亦多宣說此最重要。以任何戒,凡能發生戒者,決定須於正行儀軌,無殘缺故。故初受及退失重受,正行儀軌定須圓滿三誦。 有說「如三世諸佛」等初四句明發心,其次四句受菩薩戒,餘者受密咒戒,不應道理。如上所說諸大論師,皆別宣說受菩薩戒之儀軌故。從「如三世諸佛」至「立生於涅槃」,多說是受五部律儀之儀軌故。故彼文中所有受二發心學三聚戒,是受密咒律儀支分,非受共戒。 藏師有云:「若廣宣示律儀,則可略受戒,云如尊所教勅,我一切奉行,即此便足。若略宣示律儀,則應廣受。」此極非理。《金剛頂》中宣說戒相最廣。然受戒時,仍用受五部律儀之儀軌。毳衣大師、寂靜、勝賢師等亦廣宣說其受戒時,亦以受五部律儀儀軌而受故。受咒戒之儀軌,無上部二經與《金剛頂經》俱說是受五部律儀法故。故僅受三昧耶與受咒戒,儀軌非無差別。 受咒戒之時者,薩惹哈與慶喜藏等,依《金剛頂》意趣,說於正行時受。龍智與難勝月、答日迦跋及《鬘論》等則說於此處受。然燈賢等於問夢相後受。故在任何時受,皆可生戒。於正行時受者,彼阿闍黎於先自入壇時,如前所說觀想而受,縱先犯根本罪亦還生戒,則於傳弟子時,自亦具足律儀。若在此處受者,以根本罪數多易犯,現是防護極緩慢時,應審觀察自身而傳。多應自先入壇次傳弟子律儀乃覺契理。發生戒之時者,三說儀軌即生,不待獲得瓶水灌頂與冠灌頂。以《金剛頂經》云:「安立三律儀,次示曼陀羅。」說於安立咒戒之後,方顯示諸尊故。此論中說次以甘露瓶咒守護。如何作者?如難勝月說洒香水。或如三昧耶金剛說以手按弟子頂,誦甘露瓶七遍。 《鬘論》與隨行者說諸弟子心喉頂上,如次想有金剛蓮花妙輪,其上如次有二日一月或一日二月,上有黑色吽字,紅色阿字,白色嗡字,次誦彼字,以執金剛右拳,於心等處塗以香水。頭上供花,面前供燈,心間復供以香。然燈賢說修、觸、念誦,皆自下起,漸從三字變成三相三字莊嚴。《明顯雙運》則說修、觸、念誦,自上漸起,隨一即可。 說修三相者多,唯慧鎧說修身語意三尊。然燈賢等說誦一切業咒,供諸供物。寶鎧則說各以自咒而供,亦有說供食與樂者。總之,應如答日迦跋等說於諸弟子生為主尊三處,修三金剛相後,即成供境而應供養。從今日起乃至未染生死過患,恒應具足供養。 (巳四)令投齒木給三水等 投齒木處,《鬘論》說作四肘方曼陀羅,塗牛糞等。言如牛皮許者,毘耶跋達說是厚薄之量。作怖天說四方圈內,畫八葉蓮,上安花聚。堪為量者餘均未說。 投齒木者,無憂等木,此處難得。可如龍智所說用有乳木,非太粗細,端直無蟲,不裂無傷,兩端相等,洗以香水,熏以燒香,長十二指,端繫妙花。次阿闍黎面向北方授與弟子,弟子向東或北,口誦「嗡班[嗈-邑+夕]哈薩」,兩手夾持木端,目向上視,心無希望,向前投擲。《總續》中說向北而授弟子,弟子向東而投。若阿闍黎未能念誦長咒加持齒木,可如不空足說,誦摧魔咒(即集密之事業尊咒)。或可如難勝月說誦「嗡阿唧哈桑跋惹達尼吽[口*泮]」七遍。慧祥師說投齒木[A8]已,想從青色吽字放光,齒木亦成光明。餘諸智者,論中皆無此說。投木之相,若向東北西南上下而墜,如其次第,能成息災增益愛敬降伏持明地下悉地。若落壇外即無成就。向者,意謂木端所指,隨繫花處說彼為端。 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== 次從[口*(一/火/又)]字生水,誦[口*(一/火/又)]加持,授令嗽口。次給三掬甘露咒加持之香水,念誦「嗡室毘虛答達摩薩嚩跋[口*榜]尼[嗈-邑+夕]阿茜,穴答耶,薩嚩毘迦羅跋那,阿跋那耶吽」而注。漱口及三掬水,《鬘論》分別而說。藏中有說為右手者,然作怖天說是左手。藏中有許為令夢想明了。然龍智與答日迦跋說是為淨語罪。 次從吽字所生吉祥草聚,誦吽字及甘露瓶咒,草端未壞,以為敷具。如是為作枕故,從什字生少吉祥草,誦什字與甘露瓶咒。次誦「嗡班[嗈-邑+夕]底叉拏[口*榜]」而授與。《律生經》云:「什字咒加持,授與吉祥草。」難勝月說二吉祥草皆從什字所生。論說前者(作敷具用者)多故,後者(作枕用者)應少。藏師有說多者交與右手,少者交與左手。三昧耶金剛但說交左手。《幻網經》云:「木草交掌中。」則說彼二(齒木與吉祥草)俱交合掌之中。毘耶跋達說此為令瑞夢不錯亂故。 次從吽字所生紅線,長齊弟子身量而作三折,念誦甘露瓶咒七遍,結為三結或為六結,繫於弟子右臂。有經說繫左臂。口誦「嗡補答梅只惹卡惹卡,薩嚩那娑訶」,親為繫縛而作守護,線齊身量,作為三折即是身量三分之一。彼結六結或結三結,繫右臂或左臂皆可。《大日經》說繫左臂,《幻網經》說繫右臂,龍智、毳衣、難勝月等多說繫右臂結三結。《金剛鬘經》說線量長一肘四指,結三金剛結,纏左臂三匝。藏師依於男女而分左右,及於結處所有作法,曼陀羅儀軌中未見說此。 龍智與《明顯雙運》說用童女捻線。慧祥則說於五色線修從吽字成金剛線。餘為量者皆未說此。 (巳五)慰勵守護觀察夢相 誦云:「諸佛於世間,或時出不出,鄔曇鉢羅花,多時乃一現。無等利有情,能不般涅槃,密咒行出世,較前更希有。昔多俱胝劫,所造諸罪惡,見此曼陀羅,彼一切當盡。況能正安住,無邊稱咒行,持誦能救咒,當得無上位。諸於此勝行,妙慧最無垢,生苦諸惡趣,彼等皆寂滅。汝等諸大士,今得無能等,汝等由何法,能為佛菩薩。於此教攝受,安住而生長,汝等即由彼,善生大乘中。此吉祥勝道,能出最大乘,由此令汝等,皆當成如來。」宣說此義,令生歡喜。「無等利有情」等二句,現《大日經》中無,釋亦未說。然曼陀羅儀軌多有說者。從第一句至更希有說咒出世之少。其次四句明見曼陀羅之力大,再次四句明誦咒修行之力大,再次四句明信咒之力大。言見曼陀羅者,非唯眼見,要具三法乃有彼力。一加行,謂為入曼陀羅故悔罪皈依受戒。二根本,謂正入曼陀羅時發菩提心,見佛菩薩像及印等,發生淨信。三見後,謂受持不謗正法,不捨發心等三昧耶。由具三法見曼陀羅,能淨多劫所集眾罪。無邊稱者,《大日經疏》說是無量功德名稱之咒。寂靜論師說佛為無邊稱。慧無垢,經作慧無動,謂於咒義心不散亂。《攝受經》作正生。《疏》謂今日正於大乘中生,明日已生於大乘中。《鬘論》則於入曼陀羅說為已生。咒行大乘,是生無上菩提正因,故名出最大乘。經《疏》釋此為出生大。與《鬘論》說大乘能生最大勝果,義相符順。次以甘露瓶咒守護弟子,令持誦故當傳其咒。教云各觀所夢,明晨來為我說。或於曼陀羅室或於餘處,令如獅子而臥。爾時如《總續》云:「敷吉祥草處,令首向東臥。」亦如薩惹哈而教云:「汝臥草敷具,賢者明早起,汝等於明日,即得見佛頂,廣大曼陀羅。」佛頂,僅是一例。 (辰四)舉昇曼陀羅夢相吉凶應如何行 自入曼陀羅室為守護,故應誦甘露瓶咒。毳衣大師於此及前二處,皆誦主尊根本真言。此處為彈如下所說智線等故,供養預備諸尊舉昇虛空。舉昇之法,依前所說咒印而作。毳衣大師說請白後無間即舉。答日迦跋等說明日方舉。《鬘論》則說於此時舉。又《總續》說送往。薩惹哈說攝入自心。餘論師說舉於虛空,共為三法。 翌晨師先施食,問諸弟子夢相。若見三寶與親友等,讚慰令喜。若夢從山墜等應為守護。又分夜分為四,前三分中夢無定,故取第四分。如《曼殊根本大教王經》云:「初夜分諸夢,當知從痰生,次從膽病生,世人所輕忽。第三由風起,第四乃真實。」遮凶夢之方便甚為繁廣。《鬘論》說以甘露瓶咒守護。然燈賢說以摧碍咒摧伏。龍智則說修無我義而為淨治。總有二種遮止方便。《總續》說作息災護摩,此為最善。答日迦跋說以一切業咒摧伏弟子惡夢。若阿闍黎有惡夢者,說有多種遮止方便。如云:「所夢吉或凶,明晨為我說,一切業治凶。若阿闍黎耶見不善夢相,於護剎空行,如法施供食,誦百字堅固,徧修守護輪,誦一切勇識,親口所說咒,披甲自防護,勇識瑜伽母,白莊嚴住慢,勤作供火業,息一切魔礙。」此依勝樂說以施食,護輪、誦咒、修披甲尊、請白諸尊、著六莊嚴自住天慢,及燒護摩七種遮止方便。餘尊亦同。餘時若有惡夢,亦可修此,最為善哉。 (寅三)餘曼陀羅預備 依止布繪而灌頂者,前說三論師中,語自在稱雖都未說預備,但說正行。然餘二論師(羅睺羅友與常住金剛)說瓶與弟子預備,故此二法決定應作。依止靜慮曼陀羅者,如前已引《鬘論》說訖。依身曼陀羅者,須否預備諸梵典中皆無明文。或如藏師許為不用。或准靜慮曼陀羅法亦可。 頌曰: 灌頂近分預備法  能成甚深道法器  由見預備清淨軌  於密法中最殊勝 故雖軌則微細分  亦從智論善攝集  不違諸佛菩薩意  以顯了語善宣說 繪修供養曼陀羅儀軌次第品第七之一 (丑三)正行儀軌分三:(寅一)彈智線分彩色,(寅二)安諸瓶飾壇場,(寅三)修行供養灌頂。初又分三:(卯一)彈智線,(卯二)分彩儀軌,(卯三)繪壇辟魔。初又分二:(辰一)預備智線,(辰二)正彈次第及送往法。今初 自先東向修金剛持或修主尊瑜伽獲得瑞相。線因與撚線者,如前已說。次將五聚五線置五器內。用芥子末和五甘露香水調為五色,別染諸線。《金剛空行》與《律生經》說具足五智之二十五線。以《鬘論》說五聚線以五智為體,一一智中有四智隨行故。又以一一種子各放收五如來,故為二十五線。由是線數決定須二十五。染色之法,除前所說勿用其餘。次與弟子俱如前修,於左手中從小指根至大指根,安布諸線。白者毘盧,黃者寶生,紅者彌陀,綠者義成,藍者不動為體,各各從自種子而生。種子,為繃蕚什吭吽或繃蕚繒吭吽或嗡娑痾哈吽。即是諸經所說五部種子。智尊入三昧耶尊者,謂前昇虛空之各方諸佛攝為五尊,從彼心間繃等種子,出生智線光明為體。口誦:「嗡啊夏穴達,班[嗈-邑+夕]蘇多羅梅波羅耶剎,摩訶曼陀羅,蘇多羅孥耶吽」白毘盧佛。次於「夏穴達」處,改為其餘四部佛號,啟白彼佛。咒文義謂為彈大曼陀羅線,故請授我金剛線。「夏穴達」者常義,即勸請毘盧佛。次於左右二眼安立黃色[嗈-邑+夕]字,如次成為黃色日月自性。口誦:「嗡底達枳札蕚姑希[嗈-邑+夕]」眼睛疾轉,眼睫啟合,以如鈎狀熾然視法,鈎召毘盧佛等所生諸線,入自手內各色線中。薩惹哈與黑行論師說是召請諸尊。毳衣大師、燃燈賢等多說攝召諸線。 次共弟子念誦:「嗡啊阿那臾內,阿奴伽達,薩嚩達摩,薩帕惹薩帕惹,阿奴波羅毘札,薩嚩達摩,阿達印達,阿奴波羅毘札,薩嚩達磨,嗡啊吽」先將五線搓為一線,次將五線合搓一繩。第一咒義謂一切法互相隨行,即是互相安住。第二咒義謂一切法互相隨入,即是相互錯雜。第三咒義謂一切法極相隨入,即是互雜不可分別。《律生經》云:「諸法性自爾,令線互相合。」線之長量,除在師徒左手,從食指繞四指中部,由下伸出,以食指背按壓地處,餘為曼陀羅之兩倍。粗為門量廿分之一。搓畢,置於前說香塗地上之金盤等潔淨器中,以妙香水及五甘露牛生五物侵潤,入三字中。香花供養,用手摩觸,誦甘露瓶而為守護。《四百五十頌》云:「入三字行者。」釋云:「入三字已。」故非三字入於線內,是攝線入三字之中。此如《歡喜金剛次第儀軌》中說:「嗡啊吽三,安於二邊及以中央。」 左右二眼次從摩札二字變為日月。口誦「班[嗈-邑+夕]底枳摩札」令堅固住。洒誦一切業咒之甘露水以及芥子香水。右手執杵而摩觸之。先誦:「嗡班[嗈-邑+夕]三昧耶,蘇多羅摩底札摩吽」再誦三種子字一百八十遍,而為預備。 (辰二)正彈次第及送往法 次以一切瓶水,散洒曼陀羅地,念誦「嗡薩嚩桑穴達尼吽泮」,於作淨法之地,塗以妙香,外面散花。想空中有所繪之曼陀羅,奉獻閼伽為先,供養稱讚。自與助伴次修,左右二目,從[嗈-邑+夕]所成日月有黃色光。此如《律生》經釋所云「月日」,次第而修。 次自左手作金剛拳,執線平臍,誦「雑雑雑」三字及三[嗈-邑+夕]字,授與助伴。彼亦念誦諸字而受,以左手金剛拳,平臍而持。想一切方皆平等性。與不背師行之弟子,同以持杵右手大指食指,提線而彈。并應彈指作聲。凡彈一切線時,皆誦「嗡班[嗈-邑+夕]三昧耶蘇多羅」與「吽嗡娑啊訶」,弟子不背師行,彈業線時亦同。觀想以此彈線之聲,勸發徧虛空界諸佛,諸佛降臨入諸線中。如《鬘論》說彈線之聲表示:「是汝利生時,故當降臨此。」然燈賢、毳衣師、黑行、薩惹哈等亦作此說。故但應想彈線之聲為「是汝利生時」等義。不須自誦其詞,如是入智線者,義為以彼加持業線,此如前說彈線之前,雖先明想虛空有所繪曼陀羅修供養等。然彈線時,非想出生所繪之曼陀羅,是勸諸佛而令攝入。《大日經疏》說彈虛空之線,以在餘壇已用,非是新者不在地彈,故應別取五色線彈。然彼建立此中不許,如前已說。慧鎧論師曾於歡喜金剛說彼建立極不應理,以須用彈虛空之線加持業線,故亦應以彼彈地也。彈空無間即彈地者。《鬘論》等說師資之手同時下降而彈。俱彈虛空與地線者,諸大論師曼陀羅儀軌中僅說彈二梵線。諸餘智線,不須向空彈也。傳謂勇金剛所造之《曼陀羅儀軌》云:「上望而彈十六智線,下視而彈十六天線。」然不可信。 若爾,於地彈智線時,為有加持業線觀想否耶?彈智線時,須想分出五智為體五色智線,入業線中。如前所引寶金剛論亦說攝入智線。[嗈-邑+夕]耶茜那亦云:「分布彩色時,由誦根本咒,舉智線於空,繪畢仍降入。」說分彩時,為免跨越智線之罪,而舉智線於空。故於彈智線時,應如前說攝入,最為明顯。若不爾者,應無智線可舉。毳衣大師、《鬘論》亦說舉彼,至下當說。又《鬘論》與《律生經釋》說於地上彈智線時,以彈虛空觀想而彈。故以彈線聲所勸發,想降臨之諸佛皆入線紋。此與前說觀想,是彈智線正行,須無缺失。 所彈智線之量,如《鬘論》說彈二梵線,從此光鬘至彼光鬘,意說長線。若用短線彈者,則從杵端至於杵端。彈二角線,從此垜端至彼垜端。彈諸根線,為壇輪量。彈諸餘線亦如業線,牽繩而彈。如前已說。 彈智線畢,即應送往。《金剛空行》與多曼陀羅儀軌中,皆說五色線彈一切線後即送往故。又以智線加持業線無分別故,彈智線後隨跨何線,須以金剛勢而入故,故於一切業線悉皆應彈智線。 彈智線時,毳衣大師說阿闍黎手執鈴杵。當如是行。先應以金剛拳持線,後可隨便而持。如《金剛空行》云:「左手金剛拳,平臍而執持,其後隨便持。」 修一切方為平等性,謂旋繞方,師弟住處,面所向處,及彈線次序等,如前廣說。如《鬘論》云:「於空中持線時以金剛足。」又云:「於地上彈二梵線時,左足作半跏[A9]趺,右足著地。弟子反彼。」二隨行者亦如是說。前者毘布底謂以金剛步。龍智亦說。故行走時如前所說,加持雙足而行。正彈地時,應如所說坐法而坐。餘線亦同。業線亦如是彈。 ᅟᅟ==[A9] 趺【CB】,跌【補編】== 智線業線名義云何?體以五佛五智為性,相為五色線狀,故名智線。以是一切業尊為體之線,故名業線,猶如業瓶。 如是善彈一切線畢,供養獻食,次誦「嗡啊吽班[嗈-邑+夕]穆」,想諸智線入前所請預備諸尊心間。其五色線,如應安置原處。 密宗道次第廣論卷十終 密宗道次第廣論卷十一 宗喀巴大師造 法尊法師譯 繪修供養曼陀羅儀軌次第品第七之二 (卯二)分彩儀軌分四:(辰一)預備彩色拔所釘橛,(辰二)師資分彩法,(辰三)明曼陀羅分繪彩處,(辰四)於曼陀羅安立標幟送往智色。今初 《鬘論》與隨行者皆說此處施食,然未明說為何布施。難勝月說分彩之前應衣紅衣施食,與此義同,故是分彩之前行也。《鬘論》與隨行者說於新器放白黃紅綠黑諸色,如次想從榜朗讓杭蕚字所生。白等顏料論說如次是用月晶、黃寶、瑪瑙、摩羅迦達、帝青所作,或以真珠、純金、珊瑚、火晶等作,或用四寶和雜作之,此依富有者說。又說或用土作或用米作或用花作如其所應磚末炭末或骨末等亦可,善為預備,此依赤貧者言,《律生經》與《總續》意趣如是。 次《鬘論》中僅說從繃蕚什吭吽生毘盧等,然諸色料應依諸尊次序分安五方,別書五字,洒淨為先,或但從種子或由三段法生為五佛。次想虛空五佛心中有繃等字所成智色,以如智線時所說之熾然視法鈎召攝入,想與智色合成一味。以繃字等咒已,次誦:「嗡班[嗈-邑+夕]即多羅三昧耶吽」一百八遍而加持之。毳衣大師亦說召入智色。 次以熾然視法令生威光,安立什字,說云:「由何諦實,能使有情彩色增多,能令諸佛愛樂有情,願即由此實語令諸彩色熾然。」以此諦語加持令色增長。 《修天超勝法》中說為熾然。謂以熾然視法,觀想彩色增多,說諦實語。令有情彩色增多者,毘布底謂令塵增多。若修天瑜伽有力者,彩土則能增長,次以香花等物供養。此增長彩色等,是隨《集密》二部曼陀羅儀軌說。然彼二中說增長法未能如此明顯。次將曼陀羅中為繪圓線所釘之橛,以下所說四吽字咒拔出,意想攝入自手金剛杵中。用五彩土填平橛孔,實釘橛者應如是行,若未實釘則不須爾。填彩土時無定次第。 (辰二)師資分彩法 《鬘論》謂於此處應振鈴聲以金剛歌除諸惡相。誦云:「此法界清淨,善度有情界,當繪佛所喜,金剛曼陀羅。」藏師認為此係答日迦跋、慧鎧論師所說,五誦:「此是鏡清淨」等,以配五智之義,乃執振鈴,每誦一次於橛穴中注一彩土。彼義非正,此是為除依於彩色之惡相故,拋杵振鈴語誦彼詞意念真實義故。《金剛幕經》第八於散宮殿彩時明了宣說:「此是分散彩色之三昧耶,此法界清淨,善度有情界,當繪佛所喜,金剛曼陀羅。」答日迦跋亦云:「應面向東方,左拳握彩色,說諦實而繪,此是鏡清淨,能度有情界,吉祥大樂王,一切如來處,嗡班[嗈-邑+夕]即多羅三昧耶吽。應誦持五遍,線量十二指,直高起平整,一麥不和雜,遍繪一切處。」所說諦實即「此是」等。誦彼後所繪者,即「線量十二指」至「遍繪一切處」。說為土填橛穴云何相順。彼外牆是白色,為繪彼故說「鏡清淨」。每配一智之名,同時繪一層。下說彩土,變現惡相,是無真實之意樂加行者,有則不爾。故彼即是遣除彩色惡相方便。阿闍黎耶所繪五牆之量,此說為十二指。《歡喜金剛羯磨次第曼陀羅儀軌》中亦說為一張手。無上部曼陀羅儀軌多說左手金剛拳繪。如《金剛空行經》說最初以金剛拳持線,後可隨宜。此亦應爾,以金剛拳不能繪最直邊紋故。如《總續》云:「金剛拳加行,或以鈎召印,或鉢印加行,或明手印繪。」無上部中唯初一種。有謂金剛拳者,謂以左手持金剛杵而繪,故以經說右手持金剛杵之文破之。 分繪彩色之次第者,由外依次而繪。《金剛空行經》云:「白黃與紅綠,一切內為黑,依次分色繪。」由外漸繪五牆彩色,次第雖定,然白色等漸次則無定準,臨時如應配之。《大日經》云:「色由內分散,不應由外分。」諸師謂是意說始由繪者住處,最為善哉。《疏》中亦如是解。分繪之法,謂善端直,遠離粗細等過。《金剛空行經》云:「一一彩色寬,門量廿分一,若色不平整,或彎曲低下,紋低無成就,彎曲生熱惱,高量一小指,應端直而繪。粗則生疾病,低下當損財,彎曲互相瞋,斷者師弟死,若非右繞繪,彩土被橛罰。」言橛罰者,《鬘論》謂是悉地之因,彩色互雜種姓斷絕。藏地咒師有謂雖阿闍黎如經而繪,猶應用顱鉢或寶器蓋覆餘方所繪之牆,至相連時開器而視,若有粗斷過應作對治方便,善者應誦吉祥頌等。此是迷文執義之談,粗細彎曲說是所繪之過,此如《四百五十論》云:「分粗遭疾病。」《鬘論》引為「分粗生諸病。」持祥亦云:「皆應遠離粗等過失而繪,若粗繪者,當生疾病。」若謂初繪無過,後時乃成粗等之失,諸定量者,皆未曾說。如說非右繞繪,是分彩之過失,此亦相同。由繪時有如是過失,故說勵力善繪。若約繪時善繪後開視時生從眾過而作彼說。如何應理?《總續》云:「從東北界起,應分諸彩末,右繞莫間斷,平整無缺失。若惡若失壞,若不平殘缺,當生諸過患,智者分彩色,故應善殷重。」答日迦跋、黑行論師、薩惹哈等亦以繪太粗等生諸過失為因,說應勵力善繪,具相而繪。如線斷等是彈線時之過,不關線紋之相,分彩亦應如是。布嚩具慧與毘布底於勝樂法,說不左繞有如上說彩色被橛罰過,此等諸過是說繪五牆時。於餘彩土,《金剛空行經》與諸曼陀羅儀軌皆未宣說。慧祥雖說繪一張手許時,應葢以金盤等,以花圍繞,次若相善,應讚希有。若相不善,應將魔碍入彩土中,以橛釘之。然諸堪為量者之論,皆無此說,故難憑信。彼曼陀羅儀軌多有不可信者。三昧耶金剛說略繪五紋,以瓦器等覆之,後由弟子隨宜而繪。毘耶跋達亦說覆以花器後可隨宜而繪,然皆未說觀相善惡。如是作者,《歡喜金剛羯摩次第儀軌》說於邊紋散諸散花,供諸供養。因於彩牆供養散花,恐損彩土,故說葢覆。然大論師皆未說此,須否葢覆,應更觀察。息止惡相之方便者,《鬘論》說佛為息滅諸過失,故說:「分彩諸過失,於無空行者,若忍真實行,誰亦不能障。」龍智曼陀羅儀軌中亦說。 墻寬門量廿分之一,中有麥許,是然燈賢、持祥、慧鎧、布[A1]嚩具慧等所共說,彼諸論師於此粗事絕無錯誤,說是自語相違極不應理,當更求其密意。密意如《鬘論》云:「所修之曼陀羅,是五墻由五寶所成,有謂中有一麥量許。」此既說有人許。則於所修,應亦有許中有一麥量者。然諸曼陀羅儀軌是說所繪者如是,故於所繪亦須解其無違。《鬘論》唯依根本線長一肘量者之曼陀羅,而說:「線粗一麥又二十分之一,為門二十分之一。」故說一一牆,此邊至彼邊中有一麥許者,唯是根本線長一肘之墻寬量,說有門量二十分之一者,是大小一切曼陀羅之墻寬量。故當了知二者所明寬量無違。諸彩條牆,應勝解為白色寶等所成細條體性。 ᅟᅟ==[A1] 嚩【CB】,縛【補編】== 如是善繪如前所說量許,次令弟子或令畫師隨宜而繪,如《金剛空行》云:「次隨弟子繪。」《鬘論》說當出入曼陀羅時,恐犯跨越線彩之過,應以金剛勢入,意謂將智彩墻舉昇虛空,而誦:「嗡班[嗈-邑+夕]北伽札摩吽。」毳衣大師亦說舉昇智線,彼等義如前說。如[嗈-邑+夕]耶茜那說前所舉者,仍應降入。 (辰三)明曼陀羅分繪彩處分二:(巳一)曼陀羅外分繪彩處,(巳二)曼陀羅內分繪彩處。今初 曼陀羅及眷屬,定須彩繪。其中五墻,由外至內,為當如次繪何色耶?略有二種,一、若中央及四方為常說五佛,猶如《集密》不動金剛與金剛界曼陀羅者,則從東方至中,次第右繞五佛身色而繪。二、若四方及中央安立餘尊者,當依能印証五佛身色之次第而繪。五墻之色,一一皆通四方,不與餘處色作東白南黃等同。所修五墻次第如何而有?有諸論師許為內外五層,有餘論師許為一牆重叠五色。《鬘論》敘此二家未明自宗,然其所許應同前說。以於線時說彼門側外線至彼外線共有十小分故,說墻寬量是一分故。若如後說,則墻厚量僅有一小分中五分之一,牆有太薄之失。寶磚處為紅色,瓔珞半瓔珞處黑色。若許墻為重叠,則說彼為餘色,然非此中所欲。欲塵台處,或為水晶或金瑪瑙或諸餘寶,隨美應作。然諸師長皆作瑪瑙之色。水簷前垜俱為白色,處所當作藍色,以是虛空體故。是故中層名曰闇層,是中空體性故。門側上之橫梁,用寶隨美而作,種種寶雲以為莊嚴。在所繪者,門前牆處不須繪梁。牌樓柱與彎曲內懸寶蓋之下,應作如來身色。後者是方色莊嚴之虛空。馬蹄、嚩惹那、摩羯陀魚處,說隨美觀而作。其餘諸層論未明說,意謂易知。言易知者,水簷箭垜白色,底為藍色。寶層闇層於前已說,與彼相同。金層依名,可知其為黃色。四法輪者,自宗許為金色,他派有用餘寶作者。牝牡八鹿,是以金為自性,餘寶莊嚴。宮下羯摩杵臍黑色。有論說為主尊身色。各方中股為各方如來色,若是三股,其餘二股如其所應,為彼側如來身色。例如《集密》不動,東方右股為不空成就色,左股為寶生佛色。若是五股,如其所應為餘方及中央佛色,例如前者,所繪稍隱之右股,作彌陀佛色,左股中央佛色。顯見之左右股,即作左右佛色。亦有論說各方一切杵股皆作彼方佛色,前說與此,隨一皆可。論云:「主尊四面,謂各方之面色,是他宗義。」例如《勝樂》有說東股作青色等。此是餘宗。牌樓左右諸如意瓶由金所作。諸如意樹,如餘妙樹。羯摩杵下蓮蕊綠色,蓮鬚黃色,諸葉雜色,有葉之處是法生內當作深粉紅色。表法生者,是蓮鬘與金剛鬘之中線,應作白色。此邊如前彈線時說共有三派。許輪鬘者,若是玻瓈者為白色。若是金者則為黃色。是依金剛杵色而說。金剛自性及彼邊界應為黑色。有論亦說彼二為白色及黃色,隨一即可。金剛地基處為雜色。於所修中,下自風輪,上至色究竟天,皆有金剛圍故。風輪等體是雜色故。光鬘之色謂即五如來色向外射放。 (巳二)曼陀羅內分繪彩處 根本線內曼陀羅之地基,由二角線所分四方,各為該方之如來色。所修曼陀羅頂四方亦爾。此未分別頂之內外,但總說為彼色。壇中諸柱亦作各方之如來色。各方如來標幟有輪鬘等莊嚴。圓金剛鬘及諸金剛,未明說為何色。圓鬘在所修中有二,所繪圓鬘應是圓梁,如諸師說作黑色和藍色。金剛如說外金剛有三色,隨一即可。壇內光鬘,如《鬘論》云:「諸智者說不繪彩邊。」故於火燄之端不繪彩邊。色與外光鬘同。論云:「主尊居處,為主尊色。」若是通常五尊,即隨彼色。若非爾者,則隨彼彼部主之色,曼殊金剛主尊雖是金黃,然是藍色。《四百五十論》云:「中央諸地分,帝青光熾然。」又紅大威德十三尊,持祥論師亦說中央地基為藍色故。蓮華雜色,蕊為綠色。葉色,如云:「誑綠自在黑,火風界者黃,餘方為紅色。」論云:「主尊層處有主尊標幟鬘。」層者,謂九格宮殿中,主尊處周圍之方層。此於地上之所繪者。雖未明說何色,當為中央地色。圓線之外,梵線兩側離四分處,共有八瓶,量高四方甘露充滿。有許為黃金者,復有許為寶體,隨各方如來身色者。諸餘邊線,色與粗細隨美應作。 (辰四)於曼陀羅安立標幟送往智色 如是諸尊乃至座具圓滿,安立能依曼陀羅有三法,謂安立各尊種子字、標幟、鑄塑等像,隨力而作。如龍智云:「隨力於壇場,安立諸種子,或相或形像,鑄成或製造。」《曼陀羅儀軌則》譯為:「塑造或鑄成。」此中若有無善根者(非密法大器)則繪標幟或印。若無彼者,應繪形像,謂應安置繪像、鑄像、彫刻、泥塑等像。繪手印者,《現說尊長》中云:「無能則安放,所繪印或相。」又云:「或彩色或筆,繪彼等莊嚴。」印謂手印,相謂標幟。如《現說》第三云:「字壇為第一,第二相壇場,手印是第三,設像為第四,布花是第五,第六為壇輪。」《穗論》第十二云:「形像或繪畫或彫刻或鑄造或由鍛師製造所成。」故第四種俱說是彩土上所置之鑄像等,與布繪曼陀羅。其餘二種未見解說,然第五種易知。其第六種,如《攝行論》等說,男女諸瑜伽師,作諸天相,如其所應住於曼陀羅處。傳謂勇金剛師所造論中說設香點。《總續》說三法,謂設天像,及諸標幟、坐具。若圓滿繪諸尊支分,費時太長,支分若缺不得加持,是故特贊繪畫標幟。曼陀羅儀軌亦多繪此者。 如是繪已,應善觀察為善未善,有未善者,應更改繪。如《總續》云:「圓滿繪壇已,應令心等住,其後多觀察,若有未善處,彼應再改繪。」繪壇以後,不可無一得灌頂者空置而去。如總續云:「作沐浴等時,安餘見壇者,繪曼陀羅時,終不應空棄。」若審知所繪曼陀羅一切明顯,應以吽字及誦甘露瓶之五種甘露香水,徧塗曼陀羅外。并以彼水,洒淨壇輪。次誦「嗡啊吽班[嗈-邑+夕]穆」送去智色。盤內餘色安置屏處。此雖未說供養彩色,然應如前智線所說。如勝賢云:「散失諸色,宜用布等拭淨。」此於香水塗曼陀羅以前作之。 (卯三)繪壇辟魔 繪曼陀羅等時,若地出水或風雲等,由天所作或人所作障碍相起。爾時若能別修除害方便即如彼修。若不能者,應剎那頃堅固勝解,有金剛幕,箭網寶蓋,中間空處依諸輻端,有最可畏十大明王,由此加持十輻黃輪向右旋轉,輪轂中有曼陀羅室相如宮殿。復修金剛體性之地基等遮禦一切魔障。於護餘事亦可用此,但須略改念誦而已。 (寅二)安諸瓶飾壇場分二:(卯一)安布諸瓶,(卯二)嚴飾壇場。今初 將前所備諸瓶,於曼陀羅右繞安布。《歡喜金剛羯摩次第儀軌中說》:「爾時以香前導,奏諸伎樂,繞曼陀羅三匝而後安布。」慧鎧論師亦云:「諸瓶以供物,傘蓋及幢樂,鈸歌而前引,安布於壇場。」二說相同。所安之處,《鬘論》與毘布底說於火燄之外。寶鎧師說:「若有屍林安屍林外。」答日迦跋則云:「金剛鬘外,能生障碍,不應陳設。」與前不同。安布之規,《鬘論》但說曼殊金剛不動金剛安布瓶規。餘尊安布瓶規,準彼可知。且如曼殊金剛,於東門外略向右側,安主尊瓶。東門之左如次右繞,安布毘盧、佛眼、業瓶。言左右者,望內而說。主尊瓶右,安布色金剛母,法界金剛母,害獄主諸瓶。南門左側安布寶生及摩摩格。右側安布聲金剛母,慧邊際瓶。西門左側安布無量光、白衣母,右側安布香金剛母蓮邊際瓶。北門左側安布不空成就、度母,右側安布味金剛母、觸金剛母,碍邊際瓶。若是不動金剛,則於前說四佛母無間與右側第一唯除主尊,每方各安二瓶。四角安四隅明王瓶,東西二明王瓶無間,安布上下二明王瓶。 準此安立餘(曼陀羅)瓶之理,如寶鎧勝樂十三尊所說。謂東門右側先安主尊瓶,次安烏面母瓶。左側安空行母與一切業二瓶。北面南門左側安布那摩等三,右側安梟面母等三,四隅安布獄主堅母等瓶。四角諸瓶誦「嗡班[嗈-邑+夕]葯叉吽」咒,安鷲翎等四箭,是《鬘論》與《律生釋論》中說。答日迦跋攝為十瓶,將主尊與業瓶,安於東門右左。所餘八瓶,安於四門四隅。準此道理,餘多易知。 (卯二)嚴飾壇場 次於曼陀羅外四方,誦《般若》等正法。謂於東方誦《般若經》。餘南西北三方,毘布底說誦《入楞伽》、《三摩地王》及《華嚴經》。金剛生師說誦《華嚴》、《不可思議秘密經》、《金光明經》。安放龍腦及阿迦茹、都茹迦等八隻香鑪。如《總續》云:「預備十香鑪,用瓦等燒作,安布諸方隅,及後并於前。若香爐不敷,可供泥鉢中,若此亦非有,則門各安一。」又供千百種種妙衣,或每尊供一衣,或隨力供,安於篩等器中。如《總續》云:「富者一切天,各供養二衣。餘者三部主,各奉獻二衣。或由知法者,將一雙小布,安篩置壇中,普供養一切。」更可供養傘蓋幢幡、牌坊、妙布、有鈴白拂,裝滿諸瓶貝葉芭蕉等物隨宜安放,於彼諸物誦吽字及主尊真言,及誦「嗡班[嗈-邑+夕]娑帕惹那康」以為供養。慧護論師說於曼陀羅室之外,東方等處,如次樹立白及淡黃、黑、灰、紅、雜、深黃、綠色八幡,供献諸尊。有謂毘盧寶生彌陀不空及彼四部諸幡,依次立於從火乃至自在四隅,主尊之幡竪於東方,彼部之幡,各竪自方。前說符順《總續》,唯除《續》說東南紫色。又《續》說為八幢,故知幢幡皆可。為令護方神生歡喜,故安立十五幡,帝釋者黃,徧入者黑,月天者白,日天者紅,梵王者黃,立於東方。火天者紅,獄主者黑,離實者灰,各立自方。西方水天者白。地神者黃,毘摩質多者黑。風處風神者綠,北方毘沙門者黃色,毘那夜迦者白。自在者白立自在方。若不敷者,隨力奉献。《總續》中說若幢不足,可供一白色幢,用孔雀翎莊嚴幢頂。若有多者竪於東方。莎惹哈云:「次以香花等,隨天數供養。」謂於一一尊處,皆應圓滿供養一分。 (寅三)修行供養灌頂分二:(卯一)修行供養,(卯二)灌頂儀軌。初中又二:(辰一)修曼陀羅,(辰二)供曼陀羅。初中又二:(巳一)修彩土曼陀羅法,(巳二)修其餘曼陀羅法。今初 次應沐浴塗上妙香,身著上衣頂髻莊嚴,以誦甘露瓶水,洒曼陀羅。次誦三字及甘露瓶,以守護曼陀羅。執持鈴杵,近東門處西向而坐,安住主尊瑜伽修曼陀羅。如此論師所說,寶鎧與毘布底亦爾。莎惹哈與答日迦跋說於圓滿修法之後,修曼陀羅。修曼陀羅時生三昧耶曼陀羅,與入智壇之規,如《鬘論》云:「所繪之曼陀羅,剎那空後,觀成所修之曼陀羅,俱守護輪釘魔碍等,眷屬儀軌,如云明妃顏殊妙,年可十五六,香花善莊嚴,欲樂於壇中。德帶摩摩格,慧者加持彼,放寂靜莊嚴,佛住虛空界。謂與外印入等至定,若無外印,應與智印入定,以正行歡喜聲,召請智輪,供養浴足閼伽為先,入自身內,欲火溶化,由金剛路至蓮華中,放出智輪,入於三昧耶輪。」隨行二師未引彼頌,餘說亦爾。洒壇輪已,剎那想為空性,以為淨治,次觀成所修曼陀羅自性。謂修能依所依,皆為智慧所現曼陀羅之自性。若唯修能依所依曼陀羅,猶未具,更當先修護論,以及釘魔碍等儀軌眷屬,四大重叠乃至座位以及諸尊一切修法,皆如各各修法(儀軌)中說。 次入智尊,引證《集密第四品頌》以真實或所修明妃入等至聲召請智尊,由自口門入自身中,溶化以後從蓮華出,放諸尊輪入三昧耶曼陀羅中。寂靜者謂諸佛,佛住之虛空界謂彼宮殿。放入彼中是莊嚴義,為證須從明妃等至界處,放於宮殿,故引彼文。非引彼證三昧耶尊,是證智尊。彼文見於《集密續》中彩繪曼陀羅後供養曼陀羅時所說。其義謂修自部母邑同摩摩格,而於曼陀羅中修內供養。此是《顯炬論》說。所繪曼陀羅中不能如是實行,修義應爾。如是應修自身不異彩繪曼陀羅中主尊,而修供養。龍智於修曼陀羅時,引述彼文,由與明妃等,至從菩提心所生三十二尊,作放出等,各往自土,次仍召請來曼陀羅入彩繪曼陀羅諸尊。此說「欲樂於壇中」之義,須如前修。與明妃等至後,放出諸尊之時,須修自與彩繪曼陀羅之主尊不異。所放諸尊,是智慧尊,非是三昧耶尊。如引《集密》證智尊入三昧耶尊,自與明妃等至之時,須自與前不異。如是修三昧耶尊時,亦由自與前尊不異而修,似為應理。又「放佛寂靜處,莊嚴虛空界」者,(此與《鬘論》所引文同。唯藏人譯句稍異耳。)龍智意如前說。持祥論師於《札拏曼陀羅儀軌》,亦以自前不異而修,謂住曼陀羅中,自與明妃等至,由菩提心所化諸天,放滿虛空。次各安住自處,召請智尊入彼。此則許前者,是三昧耶尊。毳衣大師意趣,亦為自前不異而修,恐繁不錄。 答日迦跋與莎惹哈,則說自與前異修曼陀羅,故不應執唯一。然此二派皆說生為三昧耶尊,次入智尊。黎拉班[嗈-邑+夕]則說繪曼陀羅以後,不更新生三昧耶尊,即降預備諸尊安住其處,再從胎中,放出諸尊入彼等中,次復召入智尊。日生則說由入三三摩地瑜伽,及與明妃等至之聲,召請諸佛入自心中,從蓮放出作利他事,次復回至曼陀羅角上虛空中,於諸相鈎入縛自在。此未說及新生召入智尊,彼二皆是自前相異之家。若是自前相異而修,則於修成曼陀羅前,先應如法修天瑜伽。若不異者,則不別修天瑜伽也。曼陀羅中所安諸相,應修為諸尊否,曼陀羅儀軌中二說俱有。如造標幟之相,若未淨空即修為天,不應道理。由先修空後,生為天名相生為天故。此於所繪之曼陀羅亦同。入智尊者如答日迦跋云:「洒淨想為天,降虛空諸尊,請智曼陀羅,六合為一體。」此說召請舉昇虛空諸尊及餘智尊。六者,預備天中有三昧尊與智尊之二,修地軌時,舉昇虛空之曼陀羅亦二。彼四與所請之智尊并彩繪之三昧耶尊為六。薩惹哈云:「前說預備尊,由心變化[A2]已,加持曼陀羅,或由心種子,鈎召諸智尊,加持壇諸尊。」預備天有二尊,故成四合。《鬘論》於此雖未明說入預備天,然前舉昇虛空,未送往者亦應攝入。預備天僅入地軌時舉昇虛空諸尊,未攝入餘智尊,故是五合。毳衣大師、持祥論師,但說二合。日生則全無合。黎拉班[嗈-邑+夕]說有三合。故從一至六合,皆有說者。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== 次於加持眼等無間,由自心間種子放光鈎召諸佛及諸天女而為灌頂,如應印定。其不知部別者,可以金剛薩埵或不動佛而為印定。 (巳二)修其餘曼陀羅法 若修布繪曼陀羅時,亦先洒淨,如各現觀而修,與彩繪同。如《鬘論》云:「次應現起彩繪曼陀羅或布繪曼陀羅或意曼陀羅,於彼以供養等為先,如修弟子善住,修佛像等善住。」此於修壇輪後作如是說,意謂修曼陀羅法相同故。前說依畫像之三曼陀羅儀軌,未說修曼陀羅,僅說供養等後而灌頂者,意謂易解,當知修法亦同。 《現說曼陀羅》第四亦說布繪曼陀羅,故依布繪左證甚多。此中有說先將畫像諸尊分出,待生起後再令攝入,極不應理,此與開光安住成相違故。不出諸尊即生諸天,無少過故。若不爾者,過失極多,彩色生為天已,後繪宮殿及生天時,亦應先出加持彩色諸尊而生。開光佛像及已生為不動佛之弟子,水灌頂後,欲作冠灌頂時,亦應分出不動佛別修寶生等。依此道理餘亦應知。 修靜慮曼陀羅,如現觀修習即可。 修身曼陀羅者,義隱難知。故於彼法有作是念,何為所修之身?所修之曼陀羅復何所似?彼所依身於此曼陀羅之修法又復如何?茲當宣說,灌頂之前三曼陀羅中之身曼陀羅,鈴論師云:「諸眾生本性,所成壇無二。」此說所修之身即曼陀羅,譬如彩繪與布繪曼陀羅,即是彼時修曼陀羅所依事故。彼三雖未修習成曼陀羅,然亦可得曼陀羅名。身曼陀羅名為自性成就,餘二名假造曼陀羅。不依由儀軌修成得名,以依此義,三者皆是意所造故。亦非依於本性,有無智慧所現能所依曼陀羅而言,以約彼義,三種有無無差別故。若謂眾生本有勝樂諸尊,則不應云:「不知彼自性,許為彼法器。」以若不知勝樂身曼陀羅成相違故。有以有情身之真實,與曼陀羅諸尊真實全無差別,說為本性成就,則應彩土及畫像之真實亦與諸尊真實相同,不應安立彼二為假造者。故鈴論師之意,是以生起智慧所現能所依曼陀羅所依之事,須吾從新勵力修造而分。以生餘二所依諸事,須用彩等從新造作,身曼陀羅生為諸尊之脈界等,不須新造而本有故。無二義謂即依彼事而生諸尊。故修此曼陀羅之所依事,定須本性成就之身。 彼但云「諸眾生」,其為弟子灌頂之曼陀羅,為阿闍黎之身,為弟子身,抑是餘者之身,或不分別彼等修一總身而為曼陀羅耶。此中修習身曼陀羅,即修身曼陀羅現觀,非有餘事。如修身曼陀羅現觀即將自身修為諸尊,此中亦由修曼陀羅之阿闍黎,修自身為能依,所依之曼陀羅而行灌頂,彼中無用餘身。此如鈴論師云:「先暫想三輪,即金剛上師,次弟子如自,後遍修一切。」此說阿闍黎於灌頂之前,先應自修為三輪曼陀羅,次乃灌頂。此是修曼陀羅瑜伽與現觀同為一事,故今藏地諸師現有二說,有謂先應如修外曼陀羅現觀,於前生起宮殿等已,次於主尊及與師長無異之身,圓修身曼陀羅而後灌頂。有謂先如身曼陀羅而修自起,從彼出第二黑茹迦入自身曼陀羅,後說為善。前說未將本性成就,因位之身先修為曼陀羅,故入彼中而受灌頂,不成身曼陀羅之灌頂故。自入何曼陀羅取受灌頂,亦令弟子入彼而為灌頂,是謂灌頂總相建立,若入彼說則應弟子亦非入阿闍黎身曼陀羅受灌頂故。自從主尊分出而入壇者,即彼自前不異之二外曼陀羅亦有。灌頂之境,謂主尊與師長不異。總之,修曼陀羅即是修曼陀羅現觀,豈是修一曼陀羅已,另於他曼陀羅自入及灌頂耶。 今當宣說所修之曼陀羅。如何修所依曼陀羅?論說:「身一弓四方,即宮殿四方。」有謂彼身本為宮殿想令明顯,有謂勝解代替四方宮殿,異說雖多然不應理。若許自身本有四方宮殿之性,自不了知今令了知,如前[A3]已破。若僅勝解為代替者,則諸脈界亦應不須修為諸尊唯以勝解代替諸尊即可。故三種曼陀羅,僅是修為能所依曼陀羅之事有異,其所修成之曼陀羅則無不同。如修能依曼陀羅時,須修六十二尊之身面臂等相,修所依曼陀羅,須修四方門等相,二者理相同故。《金剛鬘經》亦云:「身成微妙宮,一切佛所依。」此是略標。總攝廣說身中何分修為宮殿,何分之義,則云:「修彼成宮殿。」謂由修身轉變為宮殿。龍智亦云:「從梵線發起,分成四方形,顯現為宮殿,是行者身壇。」於修身曼陀羅所依曼陀羅時,說修自身成四方等之宮殿故。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== 若修身為所依曼陀羅時,須修為宮殿者,不於宮殿方隅安立諸尊,而於自身安立諸尊,不應道理。此無過失,例如《集密》不動金剛修法中說,於宮殿中修金剛持,次於彼身修身曼陀羅安立三十二尊時,不安立於宮殿方隅,以修宮殿與於身中安立諸尊無相違故。修能依曼陀羅,謂修脈界成勇識、勇識母之相,此無不同。 修彼所依成曼陀羅之理,如外曼陀羅從映囕等字生為四大及須彌盧。此中從二足開展之弓形,與三聚處三角形等,生為地等。如外曼陀羅於所繪墻等生為宮殿。此中於身五色風等諸分,生為宮殿。如云:「身成微妙宮。」即由彼彼身分,轉成曼陀羅之彼彼支分。如是諸脈脈中諸界,亦轉變成諸尊。然此不須如餘二曼陀羅空後乃生,即由此等轉變生為二種曼陀羅(能依所依)也。脈及諸界,例如外曼陀羅所有標幟。 若爾,鈴論師云:「二假造體性,隨所化增上,彼非智者修,見真解脫故。」彼說身曼陀羅勝餘二曼陀羅,應乖正理,以就所修曼陀羅,體假非假造二相等故無彼過失,此中所修之曼陀羅,即諸佛身莊嚴現為能依所依,是瑜伽師正所得果。此所修事,即是能得彼果方便。如是依何道智而證彼果,即加持此自身諸脈與脈內諸界風,為勇識勇識母,由此堪能而生彼果,故此即是主要方便。外曼陀羅雖亦加持[口*種]字以及音韻等字,然非如內能生諸道,故由彼二所修之曼陀羅,勝劣應理。「二假造體性,隨所化增上。」義說依彼二種假造方便修曼陀羅入壇灌頂,為彼非假造曼陀羅引導所化方便,而非不假造曼陀羅之要方便。故說上根所化不須二種假造曼陀羅灌頂者。全非此義,以密咒所化上中下三根,最初成法器時,皆須先入假造之曼陀羅灌頂,是諸經論所共說故。「彼非智者修」者,意謂智者不執前二方便為修曼陀羅之主要方便。所以然者,如實知見身曼陀羅宗要真義,由專修彼宗要義故,能得解脫。若專修餘外壇日月標幟等事,則不能解脫故。如《金剛空行》云:「為知真行故,應作假修習,及勤假念誦。」此說於非假造曼陀羅灌頂時,須先於假造曼陀羅灌頂,故當了知彼為因果。此中雖有多義應說,恐煩不述。 (辰二)供曼陀羅分二:(巳一)正作供養,(巳二)息增減過旋繞開門。初又分二:(午一)內供諸尊,(午二)外施諸食。初又分二:(未一)總說供養次第,(未二)別釋供閼伽法。今初 此處雖未明說,然須洒淨供物,各依自法生起,而後供養。次放出諸天女,以意為體性之供品而行供養。又供雙衣寶蓋,三字加持之嚼噉䑛喝等飲食,以及金、女、象、馬、牛等。外由十六或八或四瑜伽母作色金剛母等體,以各供品而修供養。振鈴念誦不動金剛等讚,而取自與明妃二界置顱器中,修成甘露而為供養。勝解諸尊由飽嘗甘露故,皆成大樂自性。此依實印而說,若是智印,則須如是勝解而行供養,修法為先亦可供酒。 次誦曼陀羅主尊咒一百八遍,眷屬真言二十一遍及百字明。如《現說》第三云:「百字於一切,修令咒堅固,具足自己名,雜一而念誦。」毳衣大師說一切諸尊皆誦百八遍,誦後復獻供養稱讚。薩惹哈及慧鎧師等多說此處亦獻會供。黑行論師等多說內護摩。 (未二)別釋供閼伽法 閼伽器者,論云:「金銀銅石木,珠母及瓦螺,葉鉢為浴足,洒漱閼伽器,或於餘器中。」正說九種,餘者亦可。《總續》雖說此等為閼伽器,然實亦是餘水之器。此如難勝月云:「此皆閼伽支,故說閼伽名。」內物及真言者,若息災者則用大麥、牛乳、白花、茅草、胡蔴、炒米及和以甘露之白色香水,此等稱為閼伽七物。誦「嗡啊吽」部主真言,甘露瓶咒七遍或百八遍而為加持。若作增益用者,則以胡蔴、酥酪、黃花、茅草及和甘露之黃香水。如《總續》云:「次注妙香水,智者以手洒,用燒香善熏,心意善持誦。」而作持誦。陳設之法,謂自左起,安置閼伽、浴足、洒淨、漱口之器。於彼等前安三盛器,難勝月云:「香花及燈明,熏香等置右,左安閼伽器,前復置盛器。」其諸盛器,置於三足架上。供養印及真言,謂以右拳大指與食指作鉗狀,取浴足器中之水花於諸指上旋繞,食指漸開。口誦「嗡阿什扎嚩惹茜迦讓、跋當扎底剎吽娑訶」供盛器中。次右手持茅草,用茅端取第二器中之水,於「跋當」處改誦為「卓伽曩」,於第二盛器中三返洒淨。用業瓶水洒淨亦爾。次以右手大食二指,取第二器中之花水,拳口向下,小指漸開。誦加「阿[嗈-邑+夕]摩曩」之咒,供第二盛器中。次用掌擎第三閼伽之器及水,誦加「阿崗」之咒開金剛掌,供第三盛器中。一一各供三遍,如是四水共為三器,以洒淨與漱口同一器故。供養次第,多說如上供四水之次第。然亦有餘論說別次序者,洒淨隨宜皆可。有說先供閼伽,有說唯供閼伽無餘三水。各隨時宜,所供獻處,以浴足水沐浴足故想供於足。如是洒淨水想供於全身,漱口水供於手或口,閼伽供於面前或頭,花供頭上,香及燈明供於面前,食供面前或手或口,塗香供心,一切儀軌中皆應如是知。 (午二)外施諸食 《鬘論》次說令修行伴守曼陀羅,自出室外,以施食法向東方等,供施自所依信諸天及帝釋等。此宗宣說世出世天俱在室外施食,彩繪曼陀羅與供食之曼陀羅諸尊各異。想帝釋等在諸天曼陀羅之諸方隅而施其食,是此論師所許。薩惹哈與然燈賢等唯說護剎及護方神在外施食,未說在外供出世食。毘布底說自供食後,令他在外施方神食。藏地諸師先在室內俱供曼陀羅諸天,與自所依信之護法神等食,後往外施世間神食。施世間食之境,如勝賢云:「次出東門外,帝釋等方主,先以言奉請,當作如是說。有與佛俱來,安住於此處,皆憶念我故,受我今所有。香花等食物,慈念諸有情,弟子無魔碍。」此說施於請智尊時同來之護方神。然此論師(無畏)則說供曼陀羅諸尊,同時請帝釋等變成出世間天而行供食。供食以後,曼陀羅諸尊入自身,十大明王,諸護方神,置曼陀羅室外十方,乃至曼陀羅事未竟而住。又於曼陀羅室之外,各方陳設十大明王土堆,於前施食。外作十五土堆,或在諸小壇上於八方施十五護方神食。再於彼外作八土台或以牛糞塗壇、瓦器盛牛乳等布施諸龍。其外右旋散諸食物,以及酥油、蜂蜜、淨水、牛乳、酒等五物。送彩繪曼陀羅以後,供施食等,次攝十大明王入於自身,送護方神。日日供彼等食,如前釘橛時說。若於餘事亦如是行,遮止災難尤為殊勝。食品等之生法,如下當說。藏地諸師供施食訖,作樂前導送食驅魔,護送食等三處,阿闍黎耶壓後,次回至室內,誦根本咒等。 施食訖應洗淨,洗淨法謂蹲坐禁語,手置膝內,右手上仰,中指及無[A4]名指略屈,持水向口,以少許水漱口多返,觸兩耳孔、二目、鼻、口、雙手、臍、頭二或三次,此是《曼殊室利根本經》說,以手持水而洗。《妙臂問經》亦云:「水洗手足已,將兩膝向外,手在內蹲坐,無聲無沫洗,飲淨水三口,淨拭唇二次。」此說先洗手足,次於左手注清淨水,以手指沾水,如前洗後,飲水三口,拭唇兩次。有說此除與鬼交談之穢。然《鬘論》說非爾,以諸方神生為出世間天而施食故。又於四處施食,皆合供護方神與曼陀羅諸尊,然於餘處未作洗淨。故洗淨者為總除不淨耳。 ᅟᅟ==[A4] 名【CB】,明【補編】== ([A5]巳二)息增減過旋繞開門 ᅟᅟ==[A5] 巳【CB】,己【補編】== 若能辦者,為息增減過,故當燒息災護摩。為曼陀羅得滿足,故應作增益護摩。次具前說之吽迦羅瑜伽,口誦四吽真言,手持花鬘,如前所說舉曼陀羅,觀想由下躐入及誦真言,以金剛勢入曼陀羅。拋杵振鈴作如前說金剛步法,共彼守門四阿闍黎,旋繞三匝,觀曼陀羅,次將花鬘供奉主尊。東門等阿闍黎,如次念誦「嗡吽泮嗡,吽阿泮,嗡吽阿阿阿泮,嗡吽哈那摩惹耶,都扎那伽達耶伽達耶,阿阿吽吽」而入曼陀羅中,以金剛步如前旋繞。《勝吉祥經》說繞三匝。振金剛鈴,即能滿足增減不圓滿過。次每旋繞一匝,開啟一門。先到西方口誦「嗡班佐答,伽札三昧耶,波羅北夏耶吽」而開東門。如是至北方開南門,東開西門,南開北門。龍智說爾時結吽迦羅印,左伸而住,解印開門。有說隨續別作,於母續中當右伸而開門。然《鬘論》於地儀軌時,說吽迦羅瑜伽,彼說右伸,故是二續所共,不須作彼分別。自西開東門者,是依身在門內而開,餘亦准此應知。次誦「嗡三昧耶波羅北夏耶彌」供獻花鬘。又作舞而取鬘,繫自頭上,禮曼陀羅而請白言:「願於一切有情,施予一切成就之恩。」次修念誦。頌曰: 賢者入內灌頂處  諸佛身土曼陀羅 如理修行令歡喜  儀軌次第依論釋 密宗道次第廣論卷十一終 密宗道次第廣論卷十二 宗喀巴大師造 法尊法師譯 自入壇受灌頂次令弟子入壇次第品第八 (卯二)灌頂儀軌分二:(辰一)自入壇請悉地諦語加持,(辰二)為他灌頂儀軌。初又分二:(巳一)入壇灌頂請其聽許,(巳二)請求悉地諦語加持。今初 如《鬘論》云:「入曼陀羅室時,諸弟子誦:『嗡波羅毘夏,薄伽梵摩訶蘇喀,末卡蘇讓,薩嚩悉地蘇喀,波羅當跋惹摩蘇喀,鄔達摩悉地,[嗈-邑+夕]吽[稯-禾+口]賀,波羅悉地娑。』發生歡喜。以曼陀羅自在(主尊)之身,入壇右繞,住於西門等處,誦:『嗡班佐伽札耶三昧耶波羅北夏耶吽開東門等。』」如此論說弟子入內誦上真言發生歡喜,以主尊慢重行開門。《律生》疏中亦如是說。 此處說弟子入曼陀羅室右繞開門,似未中理。傳謂無畏師造《勝樂灌頂品》說:「入曼陀羅室時,師應先於弟子入故。」然勝賢說:「主尊阿闍黎,作勇自在身,次於入壇時,弟子如是說。」於阿闍黎入壇時,說先誦波羅毘夏真言入內,繞三匝後請降智尊,其後以跋惹摩蘇喀真言投花,次取繫自頭上。《鬘論》之文與彼相同。彼想自師長為主尊,是自入壇之義。故言阿闍黎者,是指作法者之師長弟子。如是說之弟子,是作法者自己,非自己之弟子。《鬘論》諸譯稍未逮也。其〈灌頂品〉是熟悉《鬘論》之印師所造,非是無畏自造。理如下說。造彼品者,雖係觀察《鬘論》方作是說,然《鬘論》義多隨勝賢論師,故此亦應順彼而說。故阿闍黎自入曼陀羅時,口誦波羅毘夏真言歡喜而入,由門入內先須開門,故此說開門是以主尊慢而開,不同前說住於吽迦羅慢而開。前說以金剛勢入曼陀羅,乃至自取花鬘繫於頭上,其後必復閉門。彼若未閉不須復開門故,弟子入內自門入故。 生歡喜之真言,《勝吉祥經》譯成藏語:「大樂世尊入微妙,諸成就樂解脫城,以勝安樂妙悉地,[嗈-邑+夕]吽[稯-禾+口]賀善成就。」由見入宮殿之勝利,歡喜入內。龍智於縛眼帶時亦說此真言。次《鬘論》云:「誦:嗡跋惹摩蘇喀,夏耶蘇拉利達,毘拉薩那彌達那彌得,那摩彌薄伽梵當,[嗈-邑+夕]吽[稯-禾+口]貨,黑黑黑黑黑,波羅底剎姑蘇曼[嗈-邑+夕]黎,那塔賀,於曼陀羅投擲花鬘。次自拾起以得花鬘灌頂,意樂自繫頭上。勝解於曼陀羅自在師長現前,受彼所授之花鬘灌頂等。下說一切灌頂,皆如儀軌得阿闍黎隨許。」《律生釋》中亦如是說。投花真言,《勝吉祥經》譯為「具勝安樂遊戲心,以喜愛手禮世尊,[嗈-邑+夕]吽[稯-禾+口]賀黑黑黑黑黑,依怙願受手中花。」 若依彼文,似阿闍黎自入壇時,不須投花以前入壇法類。然如勝賢論師於餘入壇法類隨宜略說,說是略攝智者儀軌。是故此中入壇法類應與弟子入壇無別。然燈賢與毳衣大師、薩惹哈等,多如弟子入壇說阿闍黎入法。《鬘論》亦云此是阿闍黎入壇儀軌故。 如是若修自前不異,則須自從主尊分出,想師長與主尊無異,作一切師長事,師所作事實由自作。若修自前異者,則不須也。圓滿入壇受灌頂後,然燈賢與毳衣大師等說亦當受阿闍黎隨許諸事。受法,如[嗈-邑+夕]耶茜那云:「次為弟子入,智者如是白,我某阿闍黎,吉祥黑茹迦,諸佛諸菩薩,所說諸儀軌,以圓滿儀軌,我作利生事,於此願聽許,諸佛諸菩薩,維願愛念我。次應自思惟,得彼等隨許。」如是白已,想聽許云可如是行。 (巳二)請求悉地諦語加持 次為令弟子入,故以大樂體性方便智慧真實性讚為先,求曼陀羅悉地,諦語加持,即是虛空生等九頌。前五頌是三昧耶之三供養歌,次一頌是宣真實義,後三頌是宣諦實義。三歌,謂真實義歌、法性歌、印歌。初中有三,一自性真實歌:「虛空生相故,無始終最勝,薩埵金剛性,修不動金剛。」其薩埵者,真如一味無戲論,無分別智菩提心,即是金剛薩埵自性。彼由分別所不能壞,故是金剛。何為此中菩提心耶?謂諸菩薩無始相續心性本淨,於諸地中,漸除諸垢究竟淨之法身,彼即勝義菩提心故,無始無終最為第一。如除墻壁等障假名出生虛空。彼虛空相,謂能表之譬喻,於此中有名具彼相。真如性亦爾,由離障明顯,假立生名。故無始終生滅。《勝吉祥》之「金剛薩埵」。諸曼陀羅儀軌,可改誦為「不動」、「曼殊金剛」及「勝樂」等。此等是以歌讚,供養曼陀羅內諸尊,故不動金剛等可作二釋,謂呼讚之境及賜我彼位。以下諸讚亦同。 二圓滿真實歌:「最勝大悉地,大自在上天,持金剛中王,我修勝不壞。」諸悉地中最勝之大悉地,謂即正等菩提。於十力等皆得自在名大自在,故能超上諸世間天。由得一切身語意金剛故,名為一切持金剛者,諸佛菩薩一切圓滿皆依此故,亦名為王。彼之圓滿,即是常恒不變之勝德也。 三清淨真實歌:「尊無過常住,一切貪中愛,世尊大貪喜,我修真實性。」言無過者,謂斷一切障及習氣。常住義,謂盡虛空際三身常住。得悉地之一切貪欲,能作貪著一切有情事業,故是具有無緣大悲之大貪者。以無相法而生歡喜故名大喜。有作「以真實」者,義指前三頌中所說。此是寂靜論師所解,故以有具聲者為善(具聲,即第三囀聲)。 二法性歌:「最清淨勝法,本解脫如來,普賢一切性,修菩提薩埵。」由具不退轉之清淨,名最清淨。般涅槃為一切法中之勝,勝中最勝謂佛涅槃,是彼自性故名勝法。由自性淨,故名本來解脫。如實了知諸法法性,故名如來。賢者謂善,普謂無餘,由此能生彼也,法界是一切法相或自性,故名一切性。有菩提體性之心者,名菩提薩埵。 三印歌:「大悉地最勝,大自在勝印,由拋大金剛,我修金剛慢。」初句及大自在,如前已說印,謂金剛薩埵身語意金剛自性身。由此印是佛母金剛慢印之主,願我成就。此說以右手拋擲金剛者,唯是譬喻。 此諸三昧耶,皆說金剛之真實,由曼陀羅諸尊皆是金剛持之自性,故亦即是彼等真實。次宣真實義者:「徧諸有情意,住諸有情心,是諸有情父,三昧耶勝欲。」離障清淨真如為主之智,是所希欲,故名為欲。是具最勝正智三昧耶者之最勝法,得勝欲名。所希欲之真如,徧於佛及異生心意,此復在佛地時,以究竟淨徧於佛心,於諸菩薩由斷自地執障清淨而徧。由緣真如修無分別,能與安樂故說如父。有論作「住於心」,謂由與安樂故,令心歡喜,名住於心。此所欲是一切有情之父,諸佛菩薩淨智皆從此生。彼二亦是異生之父,以彼等身心之安樂,皆依清淨真如而安立故。徧於異生之理,前未說者,準此應知。次宣諦實義者:「勝智慧方便,曼陀羅諦實,由彼令依怙,圓滿我所欲。諸法如影像,明淨無穢濁,無取亦無說,正從因業生。由實性真如,出離諦實義,壇影像明顯,弟子見無障。」勝智謂無二智,即是方便智慧無二體性之曼陀羅。諸曼陀羅儀軌,多作「慧方便壇」。諦實者,謂由彼無顛倒故,滿足意中所思欲樂。諸法,謂曼陀羅諸尊。如影像者,謂是唯心所現。由離煩惱所知等至三障,故名清淨光明無濁。由無自性唯可自證,非餘識所能了故名無取。亦非名言分別之境,故曰無說。此等之因,謂即法界。業即聞思修三慧等。真如實性即正智金剛持,一切曼陀羅尊皆從彼生。影像即所繪曼陀羅。明顯謂繪何尊形像,即見彼尊之身。無障或無垢者,謂由諦實,世尊加持,能滅諸罪見曼陀羅。餘論作「諸弟子」。無量曼陀羅儀軌中多說此等,善解此義最為切要。故依寂靜、無畏論師所說而釋。《勝吉祥經》無後五頌,第一頌首謂「嗡虛空」。彼疏所解亦多同前;後四頌於《四百五十頌》及毳衣大師等曼陀羅儀軌多有宣說。答日迦跋說誦三遍。 (辰二)為他灌頂儀軌分二:(巳一)為弟子灌頂成法器儀軌,(巳二)為天灌頂善住儀軌。初又分三:(午一)灌頂儀軌,(午二)犯三昧耶還淨法,(午三)曼陀羅後法。初又分二:(未一)依彩繪曼陀羅灌頂儀軌,(未二)依止餘曼陀羅灌頂斷疑。初又分五:(申一)入曼陀羅,(申二)入後灌頂,(申三)灌頂後法,(申四)釋灌頂義,(申五)釋後法理灌頂開合。初又分二:(酉一)遮面入壇,(酉二)見壇而入。初又分二:(戌一)入幔帳外,(戌二)入幔帳內。今初 次著裝入壇者,若諸門阿闍黎不欲入壇,令餘人入。若欲入者,即令彼等與前預備具二種律儀之弟子,沐浴清淨塗妙香等,安置帳外,生為毘盧佛或主尊,紅色等衣誦甘露瓶而為加持。下衣則誦:「嗡薩嚩達塔伽達,阿奴達惹,薄底阿朗迦惹嚩薩多羅,補[嗈-邑+夕]美伽,薩穆多羅,薩帕惹拏,三昧耶吽。」上衣則誦:「嗡班[嗈-邑+夕]惹卡杭。」頂髻則誦:「嗡班[嗈-邑+夕]鄔尼沙吽泮。」此是加特披著共同真言。次縛眼帶,或紅或黃。毳衣大師亦如是說《攝真實》說各品色別,故非定紅。加持眼帶之咒,謂甘露瓶。繫縛咒謂:「嗡[嗈-邑+夕]曲奔當跋惹末那耶吽。」然亦非定此咒。繫縛之法,毳衣大師說中下根弟子全不令見,上根可以略見。用布縛者,以乃至未投花阿闍黎為除眼布時,不得全觀曼陀羅故。除後教云金剛應視,始令視故。 次僅說誦「阿康毘惹吽」供養花鬘,未說請白,意謂前之請白即是入壇之請白也。寂靜及跋嚩跋陀羅,著衣入壇未說下衣。餘師多唯說執花鬘及縛眼布。 次加持者,先用一切業水洒淨,想於心喉頂處金剛蓮華,輪中有日月輪,上有黑色吽字,紅色阿字,白色嗡字。諸字放光照徹全身,口誦吽字令安立於曼陀羅之東門。寂靜論師、日生亦說加持眼等,僅廣略異。次問種性以及勝解,由業金剛導諸弟子,為入曼陀羅故,阿闍黎當問:「喜所喜者,汝是誰?」彼荅云:「我大樂善根。」此問荅以荅日迦跋之《曼陀羅儀軌》譯文為善。「兒是誰何喜?善根住大樂,應如是問答。」此是問種性與勝解。言善根者,如薩惹哈說為勝子。由表勝解大樂,知其堪能入曼陀羅。《等行經》中問何所喜?答喜善根,此義如上說。《律生經》云:「應問汝是誰?答云我善根。」餘堪為量者,亦多作是說。故知善根是能喜者,非所喜境。毳衣大師如上問後,復問:兒欲何為?彼答云:「欲行佛勝三昧耶。」義謂汝善根勝解大樂欲何所作為?答云:為修諸佛勝三昧耶。《等行》二部曼陀羅儀軌俱有此問答。 次令發一切瑜伽心,令誦「嗡薩嚩瑜伽即當鄔跋達耶彌」發菩提心。《鬘論》及隨行者(二隨行者謂寶鎧與毘布底)皆說令弟子誦此咒發心,極為善哉。《勝吉祥經》於說此咒之前有云:「最初令誦一切如來最勝秘密真言一遍而發。」與此咒義「應當發一切瑜伽心」極相隨順。然燈賢、毳衣師、答日迦跋師等皆說以此真言發心。龍智及跋嚩、跋陀羅、黑行師等,亦多有未說者。發心之理,如《勝吉祥經》說:「發願心後,更發通達諸佛本體菩提自性之心。」於心間月輪上,修金剛而發者,兩部經疏皆未見說。慶喜藏諸餘曼陀羅儀軌及無上部曼陀羅儀軌,亦多未宣說。藏中諸師有於心間唯修白色五股杵者,有俱修月輪與杵者。又《勝吉祥經》云:「由略發此心,成佛定無疑,勿捨菩提心,謂是金剛印。」《大疏》釋彼義云:「空性金剛,謂於月上修五股金剛印,誦云底义。略發此心,即生不退熏習等,同一切如來,故當了知即現在佛。」經說以底义咒而發,此中未說彼咒。彼論師意謂當《上疏》所說四禮第一禮時,金剛薩埵入內,於心間月輪上觀為五股金剛杵形,此意即發方便智慧之心。《四百五十頌》與寂靜論師、《釋論》未說四禮。然釋:「由略發此心」等頌時,《釋論》則云:「言略發者,謂從願菩提或行菩提心,於心月上想金剛相。」此文若不作發一切瑜伽心解,更無餘處可解,故知是此發心之證。《四百五十頌》亦略說:「正發瑜伽心,想心間金剛。」又《勝吉祥經》云:「由略誦此故,不離一切如來永不退轉,映覆諸魔,當知此大菩薩即是如來。」此說發彼心之勝利。彼《疏》亦云:「以由略發此心之力不退轉故,由决定得無上菩提等同諸如來故,當知即是如來。」此與「由略發此心」等義同,故亦可作發彼心解。 慶喜藏與寂靜論師於此發心,俱說通發願心與了達菩提自性之行心,故諸先覺皆說通發世俗勝義二菩提心。慶喜藏說月上金剛是空性體,故金剛配勝義發心,以月輪配世俗發心,亦極善哉。若解此義,則以密咒方便善巧,令於大乘種性决定,最為殊勝。應善分別,於正見上發勝義心,及為利益一切有情發求成佛之願,現為月輪金剛行相。由於此文及此類文能盡了解,則成眾多殊勝因緣,故於灌頂備極讚揚。 次於心間執杵及花,誦云:「嗡蘇惹得,三昧耶當賀,悉得斑[嗈-邑+夕]耶答蘇康,今一切如來皆加持汝,於諸未入曼陀羅者,汝不應說此一切如來最勝秘密曼陀羅,亦不應為不信者說。」賀字以上《勝吉祥經》中有。以下之咒,然燈賢等多有宣說。如此處於心間執杵,《勝吉祥經》亦說。答日迦跋等亦多說於發心前執杵。言「今」等文,此論與然燈賢、毳衣大師等所宣說,餘多未說。末句有譯「亦非對諸不信者」極善,義謂雖已入壇,若於咒懷不信,亦不應為彼說。此是初番安立三昧耶之所無者。 (戌二)入幔帳內分三:(亥一)入壇繞禮,(亥二)立三昧耶,(亥三)降智諦語。今初 次誦「嗡閻曼達枳吽」手牽弟子。又誦「阿康毘惹吽」令入幔內。次誦「摩訶惹達蘇枳札、蘇朵稞、蘇蘇稞、斑[嗈-邑+夕]薩埵阿得悉得芒」令其旋繞。此二咒由阿闍黎誦。 寂靜論師說以前咒鈎召弟子。毳衣大師亦說以守東門母咒鈎召弟子。故應想以彼咒召於東門。毳衣大師亦說次以五字令入幔內。《集密》十六品云:「應告彼言,此是入大曼陀羅金剛三昧耶,阿康毘惹吽。」說以此咒入曼陀羅,故事實上雖入幔內,所修則須令入曼陀羅內。凡欲灌頂,先須入曼陀羅內者,義謂是說諸尊殊勝密語之器,須入諸尊之內。此是最初入曼陀羅,故須善為曉示。如毘布底、《曼陀羅儀軌》云:「我引兒趣入,最勝安樂宮。」黑行與薩惹哈亦云:「一切如來處,黑茹迦妙城,心藏曼陀羅,我使弟子入。」故是由阿闍黎引導。亦應開示弟子觀想。跋嚩跋陀羅說誦此「阿康毘若吽」時,意想與曼陀羅諸天無二,令入曼陀羅之近分。答日迦跋亦說應與諸天無異。義謂令入曼陀羅中,想與諸尊無內外別,與諸天成同分,即是入內之義。旋繞真言,是《勝吉祥經》說彼《大疏》云:「於東門等,誦一一守門之心咒,想諸守門鈎自入彼彼門。後入東門誦此真言。」故是先入東門,退出旋繞,餘門亦準此理應知。 次於曼陀羅之東門,合掌誦云:「嗡薩嚩達塔伽達,補佐跋窣塔那耶,阿達摩南,尼耶達耶彌,薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]薩埵,阿底底义芒,嗡薩嚩布答,布佐跋窣塔那耶,阿達摩南尼耶達耶彌,薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]北熱[嗈-邑+夕]那,阿底底义芒。」南門誦云:「嗡薩嚩達塔迦達布[嗈-邑+夕]阿毘克迦耶,阿達摩南尼耶達耶彌,薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]惹那阿毘克[嗈-邑+夕]芒。」西門誦云:「嗡薩嚩達塔伽達,布[嗈-邑+夕]波羅跋惹達那耶,阿達摩南尼耶達耶彌,薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]達摩波羅跋惹達耶彌。」北門誦云:「嗡薩嚩達塔迦達布[嗈-邑+夕]迦摩內,阿達摩南尼耶達耶彌,薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]迦摩姑如芒。」以此五咒如其次第,令禮曼陀羅中不動等諸如來。又於東門解義為先,教令誦云:「嗡姑如[嗈-邑+夕]惹娜,跋薩塔那耶,阿達摩南尼耶達耶彌,嗡薩嚩薩埵跋日達羅那堂,阿達摩南尼耶達耶彌」除第二第五咒,餘是《攝真實經》初品所說。此論師說第一為主尊,第二為毘盧,依中央為不動種性而說。龍智於不動佛說前二真言等僅作四禮,然於此宗許中央有不動佛者,四方之禮應同《鬘論》。毳衣大師與黑行師、薩惹哈等,先以「那摩得」等,禮身語意三業,次禮四方,則初是禮主尊。彼改誦空行母等各方諸尊之名號而禮。勝賢亦說金剛薩埵等四,以改不動等四而為四禮,以主尊為彼四自性,說空行等四尊加持。 禮時須先解彼咒義,「阿達摩南尼耶達耶彌」等四句義,謂將自供養。為何供養?即由四咒上句表示,謂於一切如來為作供養承事,供養灌頂,供養善轉,供養業故。「薩嚩達塔伽達斑[嗈-邑+夕]薩埵」謂是一切如來,亦是金剛薩埵,故同一事。餘亦準知。後四咒謂呼召彼等請加持我,為我灌頂,為我善轉,為我作供養業。第二咒義准此應知。如是於曼陀羅五方五佛或彼種性諸尊,隨時配釋。龍智與《明顯雙運論》說爾時修不動等四尊。 頂禮之法,如《攝真實經》云:「初伸金剛合掌以全身體,第二平心金剛合掌,置於額上而禮,第三頂上金剛合掌,置口而禮,第四頂上金剛合掌,降至心間以頂著地而禮。」慶喜藏說於四禮時,想自金剛薩埵至金剛業,入於心等四處,成金剛等四相而住,由觀彼等,即是供養承事等四。如《鬘論》云:「有說於此,心間安住等至大樂,有說安立心等處者,此不應修,是餘規故。」破說於心間修諸尊等至,及於心等四處安立標幟。在此師意,請白各佛之時,唯應勝解由彼加持,堪於一切如來,供養承事,供養灌頂,供養轉法輪及事業圓滿,未說收入諸尊。勝賢則云:「世尊入心中,用意徧觀察。」又云:「應觀寶生佛,用金剛灌頂。」又云:「由彌陀自性,善觀彼堪能。」又云:「想不空成就,為能密供養。」故想各佛分出一尊入弟子身,亦不相違。 頂禮師長之咒,義謂為承事師長故,為盡度一切有情故,兩返以自供養。除少不同,是《金剛空行》第三十二品所說。 薩惹哈及黑行論師、勝賢師等,說四禮後受咒律儀。後二師說授律儀時,執弟子手而授。薩惹哈師僅說宣說律儀未說受戒儀軌,意謂宣戒之文即可改為受戒儀軌,易知故略。答日迦跋說用業瓶水浴弟子,繫遮目帶取花鬘後,即請受咒律儀。彼是預備正行二時俱受之規,若如是行果利極大。 (亥二)立三昧耶 立三昧耶,是阿闍黎教如是作,雖非弟子自受,然亦應須守護同於自受。若唯入曼陀羅不能防護戒者,則不須此。立三昧耶之處,毳衣大師等說是曼陀羅東方。初由說勝利門立於三昧耶者,教云:「汝今將入一切如來種性,我當為汝生金剛智,由此智故,尚能令汝獲得一切如來悉地况餘悉地。於諸未見曼陀羅者之前不應為說,說則汝當失三昧耶。」毳衣大師及難勝月說此時應執手而教。藏地諸師將金剛杵置頭而作。入曼陀羅即成一切如來種子,故云入彼種性。金剛智者,謂了知三世之天智,如下所說降下而生,即令生彼。由此智故等文,明示發生彼智勝利,即勝與共悉地。言見曼陀羅者,謂須如法入內示知諸尊。不爾,則為未見曼陀羅也。由飲誓水等令有三昧耶,若違所受之誓,即退失三昧耶,現法當害病等,後法當墮惡趣等苦。此是釋迦友說。慶喜藏謂一切如來即是五佛,彼之種性,謂即生彼之佛母等。入彼種性有二,入彩繪曼陀羅者謂外入。若誦「三昧耶吽」,由一切如來降一切如來之智者謂內入。此處降智,是由曼陀羅門入內,諸如來之加持,不同下說之降智也。金剛智者,是有初地等自性智。生彼智者即是現證。其殊勝即「由此智」等。《上疏》所說:「當生金剛智者,謂無間所入者。」謂以「三昧耶吽」令入壇時,為諸如來之所加持,即內入之降智。「說者,謂說金剛界曼陀羅如此。」此是一例,意謂一切咒中密法。當失三昧耶者,謂教於三昧耶,不可違越。 如是說已,次以金剛置頂振鈴告云:「汝此金剛誓,若汝對餘說,此頭當破裂。」此是隨《攝真實經》云:「此是汝金剛三昧耶,若對餘者說者,腦當破裂。」慶喜藏、釋迦友雖未說此,然云:「不許宣說秘密,是汝不可違越之三昧耶。」由此不可壞,故名曰金剛,非說置於頭上之金剛也。為於誰說說何事者,同前。言裂頭或腦者,是身生之過患。 次於心間持杵教云:「嗡,金剛薩埵尊,今日入汝心,若宣說此理,無間破裂去。」所說此理及對誰說《攝真實經》及二部疏皆未明說,意謂於初安立三昧耶時,已說自能了知。此處所說金剛薩埵入心,係先來已入弟子者。為何時所入耶?慶喜藏所說見瑜伽部別入法,於此無涉。釋迦友說:「前請聽許之時入阿闍黎。頂四禮時,弟子請白,世尊聖言亦於爾時,金剛薩埵住弟子心。」如彼所說此中亦爾。《攝真實經》亦說彼頌,唯無「嗡」字。毳衣大師等云:「黑茹迦吉祥。」即配金剛薩埵之時。智尊入身不住而去,一切曼陀羅儀軌中,皆說是於未由入壇示知諸尊得見曼陀羅者,宣說秘密之過。故於未由入曼陀羅受弟子灌頂者,雖作微分加持儀軌及傳諸餘灌頂,即便開示密義,亦為最不清淨。 雙由勝利過患二門而安立於三昧耶者,次以大指與無名指持盃,取尊勝瓶上水,注弟子口,告云:「此汝地獄水,燒犯三昧耶,賜護者悉地,飲金剛甘露。嗡奔[嗈-邑+夕]阿彌達鄔答迦义。」令飲誓水。此與《金剛鬘經》文略不同。不空足說水注手中。有說三义字,或說一义字。由治罰故名為金剛,由饒益故名甘露水。《攝真實會》、《金剛頂經》及龍智菩薩等說名誓水,謂令發誓,守護密咒諸三昧耶。如《金剛頂經》云:「以金剛薩埵,誓心令發誓。」以諸咒師憶及此事,能大策勵守護三昧耶及律儀。 次由奉師教門安立三昧耶者,教云:「從今時起,我即是汝之金剛手,我教作此汝即應作,汝不應毀訾我,令汝未捨苦惱死墮地獄。」此是《攝真實經》所說。教誡此時,龍智說應執手而教。龍智所說:「未捨憂苦。」《真實光明論》於餘處說損惱或不樂,是違佛教所感。然此是教莫毀師長,是違師教之所感也。如說:「由未捨彼,縱經百年壽猶未滿,然即爾時或於餘時速當死沒墮捺落迦。」故有譯為:「由未捨苦惱」(用第三轉)者,譯文善淨。然燈賢說以此堅固誓願。此如難勝月云:「安住淨信者,恐有未堅固,師長應觀察。」義謂由前安立住三昧耶,猶恐未固,故作此令奉教安立三昧耶也。此注誓水之安立三昧耶,是安立令總受根本支分諸三昧耶,餘者是安立於別三昧耶。由於非器宣揚秘密,及輕毀師長,違越師教能奪成就,過患最重,故於守護第一與第七根本罪,殷重別立於三昧耶。 (亥三)降智諦語 《鬘論》於此處及餘處,宣說共同降智儀軌。降智所為,謂於修悉地前為欲了知修何悉地。降智之境者,謂弟子與器。器者,有經說為十二歲之男女,肢體圓滿,未染聚落法者。然餘多說若師長於金剛持前常時修習,集多福德,能剎那頃堅固修者,雖根殘缺年老染世亦能降下。所降之境說須作預備法,二者相同。能降之人,先於山等可意處所,善修承事令心穩固,已得金剛薩埵堅固瑜伽能降下者,依儀軌而請降。若不能者,不作降法,可於授三昧耶水後問其所覩。此是他派《明顯雙運論》云:「若阿闍黎已得降法堪能,可以龍智儀軌請降,故此不說。」謂自曼陀羅儀軌中,未說降智。毘布底亦未說。 降法有二:一隨行《集密》而降者,先令弟子在前,剎那想空,次從阿字生為無量光佛。令如《攝真實經》所說而請。「敬請一切如來加持,金剛薩埵降臨我身。」想彼心間從朗字生方形黃色地輪,有杵莊嚴,日上有藍吽字。毳衣大師說四角上有三股杵而為莊嚴。想頭上從榜字出生圓形白色水輪,有瓶莊嚴,月上有白杭字。喉中從讓字生藍色弓形風輪,二幡搖動以為莊嚴,月上有紅阿字,次想自心種子放光,召請身語意諸金剛,如其次第入三字中。足下風輪,熾然讓字紅色三角火輪讓字莊嚴,紅色則字放光舉昇弟子,則字放光從足孔入,吽等光明遍滿全身。謂如前修足下風輪,上有火輪,其上兩足掌中則有則字。 次燒香爐為先,振鈴誦云:「啊北夏耶,當跋耶,惹惹惹惹,[嗈-邑+夕]拉耶[嗈-邑+夕]拉耶,吽哈啊則。」誦咒百遍,心住靜慮而行降請。《四百五十頌》疏說心間地,喉處水,頂上風,足下如前。毳衣師說想臍處火,心間地,頂上水,足下風及則字猛火熾然,由風吹則字火上昇及臍,與彼火合,然燒地水皆沸,降滴甘露,心生飽足,由風吹起而降。 二以《億現說經》所說而降,師長作勝樂身右伸而住,弟子亦爾。平心合掌,左手振鈴,右熏燒香,洪音誦咒而降。咒為:「底叉摩訶卓答,阿北夏耶吽,豈利黑如迦耶毘摩黑,毘耶惹[嗈-邑+夕]耶,底摩黑娑訶。」以此真言勸發勇識。所熏之物,鈴論師謂婦女染汙之月經帶,塗以五肉五甘露及貓糞,和以黑香,於顱盃中燒尸炭火而熏。此是依物降智之法。薩惹哈說:「若不降者,於心間修佛頂父母量如芥子,由彼空界放諸紅光遍滿全身,誦咒而降。」佛頂父母僅是一例,若所降者跳動太甚,爾時於彼頂上,修須彌山金剛為體,其上復有大自在輪(金剛地基),再上又有黃色五股金剛,上有阿字,字上有毘盧遮那佛,便得止息,如是降時,想弟子由吽字光明,策動舌或月上紅色啊字光鬘閃耀,教云:「說金剛語。」即能實說若自若他善不善等。此與「主黑班即」義同。 次由自心種子光明,召彼入降弟子之天,入自心間種子。次於弟子頭上持杵,先說「嗡汝為等」,次誦「吽哈阿則穆」而送往,此是自宗。若投花後而降,令說善等,次誦「底义班[嗈-邑+夕]」令堅固住。從問眼何所見,乃至繫於頭上,後當送往所降之天。此是敘他所許。此師與寶鎧師皆說送往,餘曼陀羅儀軌唯說安住。降後問時,想為彌陀或彌陀部諸天而問。 次弟子向曼陀羅住,問云:「汝今眼見何色。」若云見白色等,當告令知有修息災等悉地之善根。次用執金剛之右手,握弟子二大指,以金剛舞誦甘露瓶令繞三匝。作諦語加持云:「我令諸弟子,入此正壇場,諸尊種次第,隨福如是降。此悉地何等,是何種性器,有何等福力,如是降壇場。」是集《總續》之文。彼等義謂,我令諸弟子眾為於諸尊投花入曼陀羅,隨是何尊種性次第,願隨彼等福力降落壇中。此是總說諦語。次說別諦語謂「此悉地」等。《總續》作「此修何悉地」,文義較順。謂上中下三品悉地當修何等,於此壇中願如是降。言種性者,謂是諸尊種性。「有何等福力」者,謂修彼彼悉地經時,久暫有無善根,於投花時願如是現。 (酉二)見壇而入 次於所執華鬘,念誦𦺡字加持,生為一妙鮮花,授與弟子掌中,以不全投花鬘,僅投其中之一花故。論說爾時勝解彼花為鬘,義謂供花鬘者,想花繫諸尊首,亦想以花供諸尊首。自想三字放光明顯,洗除眾罪。次於師長如是加持恭敬為先,想住於曼陀羅自在之前,意想入於曼陀羅內,口誦:「嗡底义班[嗈-邑+夕]枳朵美跋嚩,夏穴朵美跋嚩,什答揚美,阿堤底叉,薩嚩悉地美札雅剎吽,阿康毘惹吽,波羅底剎姑蘇摩阿[嗈-邑+夕]林塔賀」投花於彼尊首。吽字以前真言,是《攝真實經》說。彼說投花真言為:「波羅底剎班[嗈-邑+夕]吽。」若以前咒投花,是龍智規,然彼尚說四哈字及賀字嗡字。毳衣、日生說用𦺡字加持。不空足說連投三次。《大日經疏》說已得灌頂者,可置花於本尊之上,依彼五色墻內花所落處,觀其種性,而授彼尊瑜伽,亦能表示悉地。若曼陀羅有形像者,落於諸尊毫相或頭上或頂髻,堪修大印,若落目部或口,當修密咒悉地,落身上中下分,修上中下悉地。毳衣大師說修菩提自在資財。若離身太遠者,須長時修,近者速能成就。諸尊處所由格線等分別應知,若落兩尊中間,何者相近即彼種性。此是《總續》意趣,若相等者,俱修二者悉地,信樂何尊即彼種性。若落牆外,應再三投,仍落外者,成就微小。毳衣大師說此不應攝受。若落諸外圓線,以及外金剛牆之外,全無悉地。然亦令其見曼陀羅,由持咒等成就善根,餘時更入。《總續》說燒息災護摩次乃令入,落於牆上亦如是說。若落主尊說速成就,若落外金剛牆之內,須大劬勞。 次取彼花繫花鬘上,口誦「嗡波羅底格那當,伊芒薩埵摩訶跋拉」繫於弟子頭上。多經及曼陀羅儀軌,說繫頭上。《鬘論》則說將彼花鬘,置於弟子頭上即可。咒義謂大力有情攝受此。《律生釋》云:「汝大力薩埵,當善攝持此。」於頭上繫花鬘已乃作如是說。故知言大力薩埵者,義謂稱喚投花所中本尊,當攝受此弟子。如《攝真實經》云:「由繫花鬘,彼大薩埵,即當攝受故速成就。」《憍薩羅莊嚴論》亦云:「言摩訶跋拉者,稱喚彼天,此是第一花鬘灌頂。」彼摩訶薩埵,即當攝受者,謂至菩提當永攝受。《上疏》亦云:「次云投花鬘者,謂供花鬘諸尊攝受。為圓滿此上中下品悉地說永攝受,故云嗡波羅底格那娑彌芒薩埵摩訶跋拉。」 此由師長宣誓諦語,弟子亦如上說觀想誦咒。次當至心信念自與何尊有緣,即依於彼,而正投花。 次由師長取花繫弟子頂,將弟子交與本尊云:「汝於此自種性弟子,乃至未證菩提應當攝受。」此即花鬘灌頂,須善開解。作如是交付者,謂若依彼修行速得悉地,一切生中本尊攝受最為重要,故持祥《曼陀羅儀軌》譯為:「大力有情,應當取此。」是譯似稍遜也。《無垢光論》(《時輪釋》)有云:「若於彩色投花有壞彩色之罪,故當於尊勝瓶相上投花。」 《鬘論》依於不知者說,故云:「善心無過。」次修心中月上主尊(主尊種子),額上讓[A1]字,二目熾然有二嗡字。誦云:「嗡,現金剛薩埵,欲為汝開眼,金剛眼無上,一切眼今開。嗡若[嗈-邑+夕]那曲吽阿娑訶。」除去遮目。《攝真實經》此頌仍存梵語,彼云:「黑班[嗈-邑+夕]跋歇。」寂靜解云:「金剛眼者,謂於一切色中無障礙眼,言無上者,謂如佛眼,一切眼者謂見一切之眼,言今開者謂除諸障。」《鬘論》意亦同彼。總謂金剛薩埵或勝黑茹迦,今為汝開眼,開後成為能見一切之無上金剛眼,弟子亦應作如是想。 ᅟᅟ==[A1] 字二【CB】,[-]【補編】== [嗈-邑+夕]耶茜那於此處云:「次二目月上,嗡字心中月,正緣為主尊,由眼視諸光,與壇場諸尊眼性無差別,次想諸尊眼,攝於二目中。」謂由二目放光,自眼與諸尊眼成無差別,次仍收回。此是勝賢師派,《鬘論》作如是解意趣相順。緣主尊者,若如《明炬論》說可修主尊,然彼與此不同,故是主尊種子如吽字等。聖天、毳衣等說亦以「若那[嗈-邑+夕]曲」等而開眼。黑行與答日迦跋等說用眼錍誦開眼咒而為開眼。「黑班[嗈-邑+夕]跋歇」者,教令觀曼陀羅,非開眼真言也。次令金剛觀視,始從主尊乃至守北門者,或至下方妙害明王,由說諸尊名字為先,開示令知。此是《集密》兩派之規。毳衣則從東門乃至主尊。若持祥等則從北門漸次開示。隨作何種漸次皆可。 次當告云:「今當以信力,觀此壇真實,汝生為佛姓,印咒善加持,諸悉地圓滿,成佛三昧耶,金剛蓮遊戲,正修諸密咒。」此如《金剛藏莊嚴經》第三品說。唯彼文作:「修勝三昧耶,金剛蓮勝戲,當知咒本性。」除第七句,餘文《總續》亦說。彼云:「為悉地護戒,精進修密咒。」次令弟子誦云:「我入金剛曼陀羅大曼陀羅,我見瑜伽曼陀羅大曼陀羅,我於秘密曼陀羅大曼陀羅而得灌頂。」令說「三昧耶,賀賀賀。」《賢攝論》於入金剛等三句之首,各句有一吽字。及說三昧耶賀。後者此亦應有,以云「令說三昧耶」故。《金剛藏莊嚴經》第四,雖於傳上灌頂供養師後而說,然勝天與難勝月亦於此處說,故與經不相違。言入曼陀羅者,謂前入幔內時及投花時,入曼陀羅投花,故云入彼。言見曼陀羅者,謂除遮目開示諸尊之時。於曼陀羅得灌頂者,此上雖是入壇法類,然是獲得第一花鬘灌頂。此處如龍智說開示,能依所依曼陀羅之真實。勝賢、[嗈-邑+夕]耶茜那亦作是說。聖天亦云:「開眼後頂禮,告示天真實。」堪為量者多作此說。故非限於阿闍黎耶灌頂之後。藏師有謂由先降智獲得第一花鬘灌頂,而說真實,與「餘者成就遠」,亦無相違。開示諸尊之前說令頂禮,餘師亦有說者,故應頂禮。 入曼陀羅儀軌次第,諸大論中有種種說,是故次第無定。彼諸時中除降智等,特殊時外,弟子為毘盧佛或主尊像,師長可住主尊瑜伽。此阿闍黎(無畏)總攝經教及諸大論師曼陀羅儀軌之義,編為次第。若略釋此義者,入曼陀羅是此處之正行,從著裝至教令秘密,是入壇之加行。入曼陀羅是令與天同分。此中有二:入曼陀羅內與彼同分者,是以二咒鈎入之時。既入壇內令於諸尊發生信解,禮拜旋繞及令祈禱。修諸悉地以三昧耶而為根本,為令守護三昧耶故次當安立於三昧耶。由降智尊使與諸天同分是內同分,前者是外同分。如是令與諸尊成同分已,尚須觀察可否灌頂,故問所現及投花等。由是了知可否灌頂,可者復是何尊種性,於彼種性三品悉地當修何等,修彼久暫經幾許時。由彼投花了知可否灌頂,是此時之所為。修何悉地與如何修,是灌頂後之所為也。如是發瑜伽心,二種入內,立三昧耶,獲得花鬘灌頂,為入壇之主體。餘者是彼支分。 前觀夢相若得聽許或未遮止,乃得發起灌頂儀軌,及於弟子預備之前,豈非亦善觀察?何須此處以投花相觀察可否灌頂?如是投齒木時,亦曾觀察修何悉地,此處何須復問空中所現?總觀能灌頂人與請法者可否灌頂,要在觀察師長與弟子之德相。然前觀察夢相,是為觀察有無留難。灌頂師資德相圓滿,與生留難,全無相違故須觀察。雖於灌頂無難,德相亦具,然非現在决定時至,故投花者,是觀現在可否灌頂,非總觀察。以由投花知不可者,說令悔罪後時入故。雖以投齒木相已。觀修何悉地。然以現色觀察亦不相違,非許一一便足,要以二事决定無相違故。 此諸儀軌嗢[A2]柁南曰: ᅟᅟ==[A2] 柁【CB】,陀【補編】== 裝入正加持  問答發覺心  教秘密入內  旋繞恭敬禮  立誓降智尊 問現色旋繞  諦語而投花  取鬘及開眼  開示天生喜  說入見誓言 最勝大樂解脫城  如法自入受灌頂  壇輪依怙為師長  獲得所許歌供養 後令善根弟子入  主要儀軌及支分  分別曉示諸方便  令彼教授極明顯 密宗道次第廣論卷十二終 密宗道次第廣論卷十三 宗喀巴大師著 法尊法師譯 明瓶灌頂儀軌次第品第九 (申二)[A1]入後灌頂分四:(酉一)瓶灌頂,(酉二)密灌頂,(酉三)慧智灌頂,(酉四)第四灌頂。初中又二:(戌一)金剛弟子共灌頂,(戌二)金剛阿闍黎不共灌頂。初中分二:(亥一)五種灌頂共同建立,(亥二)各別建立。今初 ᅟᅟ==[A1] 入【CB】,人【補編】== 此中能灌頂人、所灌頂業,及灌頂之作用方便,三種所緣當修何尊瑜伽。如答日迦跋云:「不動三靜慮。」義謂師長弟子及灌頂物三者,皆修為不動佛而行灌頂(此是第一水灌頂),除名灌頂,餘三各修為寶生等三種所緣。名灌頂則修為毘盧二種所緣。此論師等唯說弟子與灌頂物改易所緣,於阿闍黎未明顯說,意為可住主尊瑜伽。弟子為受灌頂故須請白師長,師長則須請白灌頂諸尊以為灌頂,是故有二能灌頂者。灌頂諸尊又二,有彩繪曼陀羅所住諸尊,及諸大成就者儀軌所說,師長別更新請諸尊安住虛空以彼灌頂。前者謂阿闍黎入所修曼陀羅,於彼主尊具受灌頂,得其聽許,以三三昧耶歌稱讚為先,為令弟子入內請求悉地,請於弟子灌頂作證,加持相續。彼曼陀羅諸尊,乃至弟子灌頂事未圓滿而住,非灌頂時入弟子身。新請灌頂諸尊,則於每一灌頂之後入弟子身。此是毳衣大師等說,故應攝入。於彩繪曼陀羅得瓶灌頂,其義極難安立。若謂由先入彼曼陀羅者,則上三種灌頂亦同。又非住彼曼陀羅內作瓶灌頂,亦非由彼曼陀羅內諸尊而為灌頂。若以彩繪主尊與師無二傳瓶灌頂,即立為於彼曼陀羅獲得瓶灌頂者。灌頂之時雖多宣說師長主尊無異,然有眾多堪據教典,亦說師長主尊各異而傳瓶灌頂者。又但以彼二者無異,亦不能立於彩繪曼陀羅得瓶灌頂。若不爾者,則彼繼續傳餘三灌頂時,理由相同,亦應許彼上三灌頂,可於彩繪曼陀羅得。 故所修曼陀羅諸尊,雖不如彼所請灌頂諸尊,親手執瓶灌頂唱吉祥等,然須信解於阿闍黎傳瓶灌頂作意聽許為灌頂事。如龍智云:「知自性行者,為弟子灌頂,恭敬請諸佛,勸其仍降臨。」此說當修曼陀羅時,為傳弟子灌頂請智慧尊。傳咒隨許亦須請白彼曼陀羅主尊而傳,最後復說師長將諸弟子供献曼陀羅主尊等。如是諸瓶灌頂,有彩繪曼陀羅諸尊作意聽許,故說諸瓶灌頂於彩繪曼陀羅中得,無相違過。修曼陀羅,為令弟子入內,阿闍黎耶亦須入受灌頂,故不可執修曼陀羅唯為弟子灌頂而作。 所請灌頂諸尊,或如毳衣大師說請勝樂分為五部之曼陀羅,餘尊亦可准彼理趣而請。或如《鬘論》所說,請通常之如來佛母菩薩及天女等。龍智意趣如《明顯雙運論》說,唯水灌頂時修弟子為毘盧,名灌頂時修弟子為不動,餘者皆同餘曼陀羅儀軌。《時輪》所說與諸餘經諸曼陀羅儀軌極不相同。以彼經乃特殊意趣,此處是說餘經之規。又弟子與灌頂物生為諸尊者,毳衣大師說五種勝樂以三段法生,或准彼理隨時別配。若自教中說有五佛即如是修,若無有者,則於主尊開為五部。雖此僅說生三昧耶鈎入智尊,未說餘事,然諸師長亦修灌頂以及部主印定《金剛幕》第四云:「想弟子馬勝,具多羅天女,手振金剛鈴,金剛主灌頂。」於鈴灌頂說弟子為不空成就父母,此是一例,餘時弟子及灌頂物之生起法亦應知。五種明灌頂時,(明灌頂、瓶灌頂皆弟子五種灌頂之異名。)弟子須白師長,正灌頂時須誦《灌頂大金剛》等,諸師皆同。唯此論師說內灌頂,寶鎧與毘布底亦隨此行。《鬘論》除於第一灌頂說內灌頂,餘未明說。然毘布底則說餘亦同前,是《鬘論》意趣,故餘亦准知。收攝灌頂諸尊及傳弟子水灌頂後部主印定并供養彼,《鬘論》唯阿闍黎灌頂時說。然毳衣大師跋嚩跋陀羅、答日迦跋處處皆說收攝灌頂諸尊。其收攝法,前二論師(毳衣、跋嚩)說入毛孔。由何方便攝者,毳衣大師說由師長心間種子放光召入。莊嚴頂者(部主印定),毳衣大師說第一想頂上為不動,第二右耳上為寶生,第三腦後為彌陀佛,第四左耳上為不空,第五額上為毘盧佛,皆由水成。若如此說,五灌頂後乃有五佛嚴頂,冠灌頂時則未有五佛嚴頂也。供養弟子如毳衣大師與答日迦跋所說,亦供花等。又答日迦跋云:「供養授清淨。」授清淨者,如毳衣大師說五種灌頂,以自性淨法性、染污末那、第六意識、前五根識、及阿賴耶,轉依所成之法界體性智、平等性智、妙觀察智、成所作智、大圓鏡智而為自性。《鬘論》亦云:「由五灌頂而能增長諸智種子,故應勝解為彼體性。」《律生經》云:「五灌頂佛體。」慧鎧亦說五蘊與五煩惱清淨為五灌頂。勝賢師於五明灌頂後云:「若如是灌頂,得悉地無疑,即當證彼尊,能作彼事業。」當令弟子了知彼義《金剛幕》第四亦於五灌頂後云:「彼所現一切,及主黑茹迦,諸法性清淨,應觀為佛智。」餘曼陀羅儀軌亦多宣說。天種慧師釋彼義云:「從鬘灌頂至名灌頂,凡有所現,即應觀彼為佛五智與淨法界,觀鬘灌頂即為第六。為何灌頂?曰為法性清淨無垢。謂自性清淨諸佛法及大圓鏡智等六法之垢,以彼諸灌頂而洗除。由與彼等自性無異,故應勝解為彼等也。曼陀羅主尊是彼一切之自性,黑茹迦者唯是一例。」此即釋觀五灌頂為五智之義。 其洒水等,頭上戴冠,鈴杵授手,與立名等,是五灌頂之因非是自體。其自體者,如水灌頂,所灌頂處生為不動,灌頂之物即以不動所化之水,灌頂之法由洒於頂上等作用,所修曼陀羅內諸尊作意傳水灌頂,祈白新請不動為主灌頂諸尊,正由師長作灌頂事,令於弟子身中熏成能淨治識蘊與瞋恚,及能現證法界體性智,並由不動門修行念誦,於修悉地獲得自在,此勝功能,即水灌頂。餘四以及花鬘灌頂,亦准彼理應知。故五灌頂中第一水灌頂,與他灌頂之後用水灌頂,義不相同。彼等皆名明灌頂者,如《鬘論》云:「花鬘與水等六灌頂,能令對治無明有大功能,故名明灌頂。」毳衣大師則云:「由五無明體性,轉成明了五智體故,一切皆以佛眼等明妃灌頂故。」此中二釋,前者謂修成明了之灌頂,後者謂由明所灌頂,故非灌頂自體為明。毳衣大師總說得此五種,修持真言,聞說經教,皆得自在。《鬘論》破云:「聞說事行二部經教,修彼真言可得自在,於聞說瑜伽與瑜伽母教,修彼真言猶未自在。」此如前引,意指未能自在聞修圓滿次第及說二教,非破彼於聞修生起次第而得自在。如是事行部中,唯增說法隨許,不須別傳阿闍黎灌頂也。 (亥二)各別建立分二:(乾一)水灌頂儀軌,(乾二)餘灌頂儀軌。初中又二:(坎一)祈請清淨,(坎二)傳水灌頂。今初 開示曼陀羅後,為受水灌頂,故隨所有物供養師長,雙膝著地,合掌請云:「如菩提金剛,大供養佛等,今為度我故,空金剛授我。」菩提金剛謂金剛持,如彼於不動等傳大灌頂以為供養。如是為於生死大海救度我故,我今歸依虛空金剛,即是等同金剛持之師長,唯願傳我灌頂。此是《明炬論》十六品所說。毳衣大師等多說爾時應頂禮。 師長次於根本曼陀羅外之東,浴水不致沾及根本曼陀羅處,繪方浴壇,一墻圍繞,其門西向對入壇門,內作雜色蓮華,若彩土繪或研米汁等繪。或作無牌樓之方壇,西向對入壇門。或造量等內曼陀羅半量之壇,四方四門兩重,不作牌樓。東方等處繪輪寶華釰,四隅繪四佛母標幟,中繪八葉雜色蓮華。前之兩種同是一門,初有牌樓,後者無之。言兩重者,謂諸尊處與蓮華處。上安繪有八葉蓮華木質之座,或繪有月輪之布等獅座,勝解安於彼曼陀羅蓮華之上,安彼上時勿觸蓮華。若無浴壇,唯作彼想,於木座等上修弟子為金剛持,向曼陀羅而住。黑行師與薩惹哈說修為主尊。 《鬘論》於此灌頂浴壇,指如曼陀羅開光時所說。如是《勝樂灌頂品》中亦指如前所說,然彼不應道理。以彼論前未曾說浴壇故,蓋是未能决定了解而錄《鬘論》,故知非是無畏所作。是一善巧《鬘論》者之所造(此辨〈灌頂品〉非無畏作)。 次誦甘露瓶咒:「嗡阿毘迦南達枳吽。」及誦吽字七遍加持芥子,兩拳握持,左繞二匝。口誦「嗡薩嚩跋榜答哈那班[嗈-邑+夕]耶,班[嗈-邑+夕]薩埵茜,薩嚩跋榜答哈娑哈」,投芥子入火中,右繞二匝。次以兩拳持水,亦如是修。次以四白瓦碗,四連茅草之牛糞團,四握食,四黃布,亦如前修作左右繞。然瓦碗等非投火中。 次應洗淨,念誦主尊真言,心間塗香,頭繫花鬘,前供閼伽,燈明,旋繞熏,以誦甘露瓶及七遍吽字之酥合芸香。《金剛幕經》所說驅除真言,依文應是淨罪之義。毳衣大師說除不淨。毘布底說除遣鬼魅。 (坎二)傳水灌頂 師長次於自心種子放光,迎請無邊處所諸佛明妃於前虛空中住,奉供養後,請為弟子灌頂白云:「金剛持於佛,為救眾生故,傳德生灌頂,亦如是傳此。」此義准前請白應知。《鬘論》僅說不動本性菩提心之甘露為體。未明顯說灌頂物之生法。二隨行者則說水生為不動佛,召入智尊。寶鎧更說彼化為水,故諸瓶水先,為洒淨,變成吽字,次後由彼變成金剛吽字莊嚴,再從彼生不動。次以自心種子放光召入智慧薩埵,奉供養後仍變為水。次《鬘論》說如來溶化為先,次將弟子召入口中而為灌頂。寶鎧所說次[A2]第雖異,然於實行為易,當如彼說而作。先召弟子入自口中,從金剛路出住明妃蓮華之中,次想弟子剎那空後,先生為吽,次為金剛,吽字莊嚴生為不動尊及明妃。由與智薩埵無別故,召入智尊。次諸如來明妃等至,大貪溶化,從毘盧門灌入頂中,隨金剛路出菩提心,而為蓮華之上,生為天身弟子灌頂,次想面臂圓滿天身由蓮華出安置座上。此處《幕經》所說之義。難勝月謂:「八瓶一切水,為明妃士夫,善修意金剛,金剛持灌頂。」此說兼水灌頂與內灌頂。天種性慧則未說內灌頂。水灌頂前觀想次第,謂想諸如來佛眼等明妃,充滿虛空。彼等於弟子上執持傘蓋幢幡衣服,歌舞作樂,雨眾妙花,手略傾斜執持充滿菩提心甘露之白瓶,為從佛母蓮華初出弟子灌頂。時色金剛母等唱吉祥云:「諸吉祥住眾生心,一切體性勝部主,生諸有情大安樂,今灌汝頂最吉祥。圓滿眾德若金山,三世依怙淨三垢,佛眼廣長如蓮華,汝今寂滅最吉祥。彼說妙法不動搖,徧揚三世人天供,勝法恆令眾生寂,汝今寂滅最吉祥。多聞正法多吉祥,人天修羅供養處,僧伽眾尊慚德本,汝今寂滅最吉祥。」《金剛藏莊嚴》第四云:「充滿如蔴壳,諸佛執持瓶。」故執瓶者非定由佛眼等明妃。作如是勝解後,自亦應先唱吉祥讚。爾時師長應手舉瓶,於弟子讚吉祥。《明顯雙運論》云:「執瓶應先誦,諸吉祥偈頌。」 ᅟᅟ==[A2] 第【CB】,弟【補編】== 次水灌頂略有三法,謂從尊勝等瓶各取少水,注於顱盃或螺盃內,作水灌頂。或先以尊勝瓶,次以四如來瓶,次以四天女瓶,隨所有曼陀羅諸瓶而為灌頂。若唯一灌頂瓶,則於尊勝瓶中不動體性之菩提心甘露,以右手執杵取瓶上華枝略取瓶水,隨金剛端流注灌頂。誦云:「灌頂大金剛,三界皆敬禮,金剛三密生,諸佛前授與。嗡啊班[嗈-邑+夕]鄔答迦,阿毘懇[嗈-邑+夕]吽,蘇惹達當阿吭。」若樂略者,如是即可。廣則更誦:「嗡摩訶蘇喀,斑[嗈-邑+夕]薩埵阿毘克格那當,阿毘懇[嗈-邑+夕]彌,薩嚩達塔伽達,阿底跋底得那枳朵跋嚩」龍智及《明顯雙運論》亦宣說此二咒。應釋授與於何人前,謂諸佛前。授與何事謂與灌頂,大謂此之殊勝,成三界王,故為三界之所敬禮。我今將此授汝,汝應於此善修,此是安慰弟子。金剛者謂不可棄捨。金剛三密不可分離即金剛持,從彼生者即是從此種性所生。此《明炬論》〈十六品〉說:如是灌頂之時,應想出生圓滿安樂,曼陀羅儀軌等雖未明說置瓶於頂。然諸師長皆如是行。《歡喜金剛羯摩次[A3]第儀軌》及瑜伽部說令飲水。如第十二《穗》云:「灌頂,謂以智水洗除一切習氣障垢。故以瓶水灌頂,能於頂上印定分別種性。」於現觀中(修法也)水灌頂時作如是說,此中亦同。 ᅟᅟ==[A3] 第【CB】,弟【補編】== (乾二)餘灌頂儀軌 次明餘四灌頂。冠灌頂者,祈請師長之後,想弟子由盎字及寶,什字及蓮,康字及劒,嗡字及輪,依三段法生為寶生乃至毘盧,皆如前修,灌頂之物亦爾。冠灌頂物,謂用金及布等所作之五佛冠弟子之部主居中。在首中央(額)兩側、頂心、腦後,如其次第,念誦:「嗡斑[嗈-邑+夕]達底穴曰阿毘懇[嗈-邑+夕]吽。」「嗡薩嚩達塔伽達薩埵班即阿毘懇[嗈-邑+夕]種。」「嗡惹那班即阿毘懇[嗈-邑+夕]阿」「嗡達摩班即阿毘懇[嗈-邑+夕]什」「嗡迦摩班即阿毘懇[嗈-邑+夕]掌」誦此五真言而戴於頭上。龍智與《鬘論》同。并結手印置彼諸處,誦諸真言。次誦「灌頂大金剛」等,及誦「嗡阿班[嗈-邑+夕]穆姑札阿毘懇[嗈-邑+夕]吽蘇惹達當阿吭」「班[嗈-邑+夕]都喀耶賀」令生歡喜。龍智亦說於此處修五佛嚴首。次誦「嗡吽[口*掌]什阿」真言,擊飄帶於額上。《明顯雙運》說於頂冠懸掛飄帶,而誦「班[嗈-邑+夕]都喀耶賀」,以平合掌令生歡喜。此是龍智意趣。 次金剛灌頂者,先誦「灌頂大金剛」頌。並誦:「諸佛杵灌頂,今為汝灌頂,此即一切佛,為修取金剛。」以金剛杵觸弟子心間喉處頭上,授右手中。《幕經》於此處云:「弟子世自在,九股大金剛。」《釋論》解此頌義,謂修為蓮華舞自在。杵雖五股,以上下八股及中股,故說九股。後二句文《金剛幕》作:「善修諸佛故,應受此金剛。」《真實光明論》釋此頌義,謂一切諸佛今為汝傳金剛灌頂,故汝應取受此金剛。以菩提心為杵,智慧為鈴,金剛灌頂即是金剛智灌頂故。以此金剛灌頂,即與空性不離之菩提心自性,故是一切佛之灌頂。應受之理,謂此金剛是一切佛之體,為得彼而修彼,故汝應受。 鈴灌頂者,將鈴授弟子左手中,令手持鈴杵作抱持印狀,先誦「灌頂大金剛」等,次誦《幕經》第四所說:「嗡班[嗈-邑+夕]阿底跋底當,阿毘懇[嗈-邑+夕]彌,底义班[嗈-邑+夕]三昧耶當。」次令誦云:「嗡班[嗈-邑+夕]根枳痾痾,世尊攝授我,願正親近我。」此出《幕經》〈第十四品〉。誦後真言及二句頌是龍智意趣。《攝真實經》、《勝吉祥經》許以「諸佛」等頌,而作金剛灌頂,「班[嗈-邑+夕]阿底跋底」等咒,作主灌頂。然燈賢與難勝月等亦如是說。答日迦跋改誦金剛杵頌為鈴,授鈴灌頂。其咒即主灌頂之堅固法。黑行師等文句稍略,以咒與頌傳金剛灌頂後,另以餘頌傳鈴灌頂。彼真言义,可通作金剛灌頂與鈴灌頂解,是故堪為量者有作金剛灌頂,有作鈴灌頂者。毳衣大師說以「嗡善具鈴金剛,極勇士灌頂,汝住金剛誓,受勝主灌頂。」傳鈴灌頂。其第三句,即「底義班[嗈-邑+夕]三昧耶」之義。主灌頂即「阿底跋底阿毘懇[嗈-邑+夕]」之義。毳衣大師之意總謂:「為汝住金剛三昧耶傳金剛主灌頂,汝應受取。」慶喜藏釋此咒與彼不同,於此金剛及鈴灌頂,諸大論師亦多同時傳金剛三昧耶,金剛禁行,鈴三昧耶之文。「跋嚩跋陀羅」於鈴灌頂後,名灌頂前,並傳印三昧耶。亦復以彼傳阿闍黎灌頂。然毳衣大師與答日迦跋並此論師,鈴杵與印三昧耶等,要於弟子灌頂以後阿闍黎灌頂時,方乃傳授。餘師意趣亦以作如是解為善。鈴灌頂亦名主灌頂,義如下釋。 名灌頂者,手執鈴杵置弟子頂,先誦「灌頂大金剛」等,及《幕經》第四品所說:「嗡班[嗈-邑+夕]薩埵當,阿毘懇[嗈-邑+夕]彌,班[嗈-邑+夕]那摩阿毘克迦達。」次隨投花所中本尊種性之名,喚瞋恚金剛或痴金剛等,傳毘盧遮那本性之灌頂。依於六部立男女名,廣如《鬘論》應知。如《攝真實經》云:「傑金剛,隨是何名即喚為彼。」傑是呼召其名。然燈賢等又說於彼用吉祥名,如云:「吉祥不動金剛。」此是稱德立名,非於名灌頂時,問先所得灌頂密名而云傑吉祥也。如答日迦跋云:「具吉祥金剛,師長三度呼。」此說以所立名呼召三遍。 此論師於餘四灌頂未明顯說傳水灌頂,可據之曼陀羅儀軌亦多未說。然毳衣大師於餘四灌頂後各傳一水灌頂,應如是行,此等皆有瓶事隨行而名瓶灌頂故。《鬘論》亦說一切皆有如來與明妃持瓶灌頂故,從水至阿闍黎六種同名瓶灌頂故。觀想如來父母持瓶灌頂,及色金剛母等唱吉祥等,餘四灌頂亦須爾故。以是彼時召請灌頂諸尊等之觀想,應如水灌頂修。餘四灌頂未說與妃俱生,准前應有。「灌頂大金剛」等,通五灌頂,毳衣大師亦然。餘諸水灌頂時,應以阿闍黎灌頂時所說真言而灌。如是傳與五灌頂時,須為說明各灌頂體,令其决定明解彼義而傳灌頂。 水灌頂嗢柁南曰:「供養敬祈請,安浴台清淨,奉請灌頂天,並生為天形,請白內灌頂,讚吉水灌頂,入身献供養,解釋灌頂義。」 餘灌頂嗢柁南曰:「白請灌頂天,二俱生為天,請白灌頂天,內外二灌頂,水後諸尊入,供釋灌頂義。」 (戌二)金剛阿闍黎不供灌頂分二:(亥一)阿闍黎灌頂建立,(亥二)阿闍黎灌頂者儀軌。今初 金剛阿闍黎灌頂與不退灌頂,正詮第六灌頂,假名亦通水灌頂等。瓶灌頂名,通六灌頂,故與前二義有寬狹。金剛阿闍黎灌頂之正行。如持祥云:「又不退轉灌頂,於金剛與鈴三昧耶,增身加持。」又云:「由此加持令成欲天體性大印,即是印三昧耶。」謂授印三昧耶時即授阿闍黎灌頂之正行。羅睺羅、吉祥友、常住金剛亦說授印三昧耶,作欲天父母抱持狀時為阿闍黎灌頂。為証如是印三昧耶,故引「智慧滿十六」等。毳衣大師亦云:「此中自欲天身金剛持性,以結合次第加持令作抱持狀,即大印三昧耶。」此說以印三昧耶頌令如是行。雖未明了分別何者為阿闍黎灌頂,然其意趣同前。《鬘論》意趣亦同《明顯雙運》及常住金剛說。若爾,《鬘論》為証餘經所說三三昧耶是阿闍黎灌頂支分,云何亦引「智慧滿十六」等?雖受印三昧耶時即得阿闍黎灌頂,然說彼三昧耶是彼灌頂支分,亦不相違。以修身為欲天父母,是阿闍黎灌頂之因支故。由證印三昧耶須修欲天父母,故引「智慧滿十六」等。意謂應修智印作如斯狀。「金剛鈴結合」者,謂持鈴杵修抱持狀。寂靜論師亦云:「金剛鈴結合者,謂由雙手。」「為上師灌頂」者,謂由抱持生妙樂三摩地。此中若是父母等至所生樂者,則與依止智印傳授第三灌頂全無差別。若是唯修與妃抱持所生樂者,則於五明灌頂修父母抱持相所生妙樂復有何別。初非所許。雖是第二,亦有差別。前者(弟子灌頂)僅是五佛父母一分種性。此中徧五部主第六金剛持與金剛慢母抱持,身境差別如是。又前者雖修父母抱持相,然非專於抱持攝心,不生彼樂俱三摩地,此中則生故。引生之法,亦由金剛意三昧耶及鈴語三昧耶,身為欲天父母之身印三昧耶,由依表示如來身語意業三殊勝三昧耶所生樂俱之三摩地,為阿闍黎灌頂。日生以授三三昧耶,示曼陀羅及天真實,並傳阿闍黎事業次第等,名為阿闍黎共灌頂。「智慧滿十六」等,目為阿闍黎別灌頂。唯授三三昧耶,瑜伽部中亦有,故立前者為共。其後灌頂非彼所有,故名不共。然無上部中授印三昧耶,即可有《智慧滿十六》等義,前諸論師意趣在此。 時輪本釋所許,水灌頂等七,不名瓶灌頂。七種俱有水隨行故,名水灌頂。隨許灌頂之後,《大疏》(《時輪大疏》)中云:「次將鈴杵授於弟子手中,而授某甲金剛之阿闍黎。」謂於瓶灌頂前,由三三昧耶門中傳一阿闍黎灌頂。如《略續》(《時輪略經》)云:「善授隨許攝。」此言攝者,謂即攝入隨許之中,非彼七灌頂所不攝之阿闍黎灌頂。又瑜伽部以下之阿闍黎灌頂,非能說無上續之阿闍黎。故於瓶等上四灌頂,為聽聞了知無上續道故,傳授上四灌頂,為能講說無上續故,傳上上四灌頂,分為二種傳法。如《大疏》云:「此上灌頂有二,一為令有情入壇為了知道及聽聞教得自在故。二為授大阿闍黎位及為講說故。」如是第一瓶灌頂者,如《略續》云:「初觸祥慧乳,即是瓶灌頂。」《歡喜金剛經》於「智慧滿十六」等,釋為瓶灌頂及以阿闍黎灌頂,是依真實明妃而說。第二瓶灌頂者,謂由抱持觸九明妃所生妙樂。唯多寡異,餘與前同。隨順餘經諸大論師說圓滿傳授瓶灌頂即成演說無上續之阿闍黎者,意指續之一分,以未獲得上三灌頂,其於聞說圓滿次第未得自在,彼諸論師亦共許故。圓滿聽聞及講說無上續之阿闍黎,須俱得四種灌頂故。然於得可圓滿聞教之第四灌頂中,餘經與《時輪》教有所不同。為講說故須否更傳第四灌頂亦有異同,至後當說。傳授水至隨許七灌頂法,與餘經不同者,謂由此七灌頂,成修生起次第法器,復以生起次第各尊,修治各事。在灌頂時亦順彼修。義謂由五佛母修治五界,故將瓶水與弟子五界生為五佛母傳水灌頂,洗諸器垢,乃有修五佛母悉地之分。由五如來修治五蘊,故將冠與弟子五蘊生為五佛傳冠灌頂,洗五蘊垢,有修五佛悉地之分。此上所淨二事皆是身法,故隨主尊能淨身面所向,即將弟子安置北方,生身金剛而為灌[A4]頂。由十能力母與主尊父母,修治十風以及左右二脈,由彼二門,傳冠帶與鈴杵灌頂,此是語法,故隨能淨語面所向,即將弟子安置南方,生語金剛。由菩薩菩薩母,修治六根六境,及明王明王妃修治五業根及作用,由此二門傳授禁戒與名灌頂。此由二種根轉二境之垢是為心法,故隨能淨意面所向,即將弟子安置東方,生意金剛。由金剛薩埵父母修治智蘊與識界,故由彼門授隨許轉法輪灌頂。由二所淨是為智垢,故隨能淨智面所向,即將弟子安置西方,生智金剛而為灌頂。其能灌頂之曼陀羅諸尊,亦皆各住所修曼陀羅中,故是能淨所淨,各細分別灌頂之法。 ᅟᅟ==[A4] 頂【CB】,項【補編】== 隨餘經者,所淨之事攝為六聚,謂五取蘊若別若總,或五蘊與真如,以六部佛修治彼等,故由彼門傳授灌頂,於修六部一切生起次第皆得自在。依此密意,故於水等灌頂安立不動等名。冠帶即是冠灌頂之眷屬,隨許即是餘灌頂之後依。除所淨事能淨灌頂微有廣略,其餘淨除能障修習一切生起次第法器之垢,則義無不同也。 (亥二)阿闍黎灌頂儀軌分二:(乾一)阿闍黎灌頂正儀軌,(乾二)彼後依儀軌。初又分二:(坎一)授三三昧耶,(坎二)受三三昧耶開示真實。今初 其次,弟子供養合掌,請白師言:「我從師長恩,何能利自他?金剛師灌頂,悲藏願授我。」稱師長曰悲藏,我從師長恩由得何種灌頂能利自他,即阿闍黎灌頂,願授與我。答日迦跋說當三請。毳衣師說若欲傳阿闍黎灌頂,應於預備時受阿闍黎戒,或此時受五部律儀,意謂欲傳五明灌頂,必須先具阿闍黎戒。又說若欲唯受五明灌頂,不受阿闍黎戒,可於五灌頂後,傳授隨許、禁戒、授記、安慰四法。如是弟子若欲更請阿闍黎灌頂者,則可唯於此處受律儀後而為請白。如答日迦跋云:「得弟子灌頂,為聞經教授,知道若能說,作金剛師故,以此語請白。」此是弟子灌頂與阿闍黎灌頂不一時傳之規,謂得弟子灌頂,若能為他作金剛阿闍黎者,乃可請白也。 次想弟子由吽字與金剛,以三段法生為第六金剛薩埵,想金剛杵是從吽字所生金剛,誦云:「無始終薩埵,金剛心大喜。普賢一切性,金剛慢主體,世尊第一士。」令以真實性持金剛,授金剛三昧耶。《鬘論》雖未說金剛杵生法,以說鈴之生法,故亦應修。毳衣大師與答日迦跋等亦說從吽生為金剛,並誦「嗡摩訶班[嗈-邑+夕]吽」令其受持。所說真實性持,《勝吉祥經大疏》釋云:「不離空性之菩提心如來心性,是為秘密金剛,持金剛時,即表彼義而持。」主謂一切眾生之主。餘無始終等文,如前請白天時所釋。由緣法界為生本尊大印之因,故立果位金剛持名,謂為世尊最勝第一士夫。此是慶喜藏師所釋。 次想鈴從痾字所生,誦云:「說此一切佛,鈴隨音而轉,佛許勝菩提,汝應恒受持。」令以真實性而受持。真實性受持者,謂搖鈴時念誦「一切虛空相」等。《勝吉祥經大疏》謂想鈴聲宣說諸法皆無自性而搖。前頌出《幕經》與《勝吉祥經》,後頌出《幕經》第四品。如諸佛大菩提體性之慧緣於空性,任運以種種音為他說法。此鈴亦爾,表示隨音而行之慧。以是諸佛許彼為勝菩提,汝亦應常受持。此是寂靜論師等釋。有譯「慧隨音而轉」者,較妥。如「勝吉祥經」說,爾時弟子搖鈴誦云:「三有自性淨,自性違三有,自性淨第一,薩埵受勝有。」毳衣與答日迦跋等說教弟子亦誦:「嗡班[嗈-邑+夕]根札痾」真言。論師多說前頌授鈴,後頌令搖。言三有者生死相續,彼自性清淨者,即彼自性遍淨。增益為我之性,即是違害三有,無損害中而為損害。寂靜無畏俱作「違三有」解。《勝吉祥經大疏》則作「離三有」解。第一薩埵,即是菩薩,彼受第一或最勝之三有。由何而受,謂由自性清淨,於彼無實,斷盡執著,通達無住涅槃自性。慶喜藏與寂靜論師所說如是。此上是授鈴三昧耶。 次告彼云:「意身堅固性,名印三昧耶,由堅一切身,是故名為印。」又告知云:「加持智印[A5]已,受用諸欲塵,修一切悉地。」令以金剛薩埵身與智印結合次第加持,作抱持狀。此未明說金剛薩埵與彼佛母身色面臂,餘曼陀羅儀軌亦未明說。若有經中說有金剛薩埵或金剛持父母相者,即可如彼而修。若未說者,可修藍或白色,一面二臂,執持鈴杵。佛母亦爾。《明顯雙運論》說彼佛母是金剛界自在母,亦說是金剛慢主體。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== (坎二)受三三昧耶開示真實 次若能辦,當如上說造沐浴壇。若不能造,修如是壇,安置弟子,修為金剛薩埵之相。《鬘論》說此是受三三昧耶,其上是授三三昧耶。分別授受三三昧耶為二時者,謂前開示受三三昧耶法,令弟子生定解。此時明想為天父母,以真實性持鈴杵手作抱持狀。從如是修生三摩地,應告知為瓶灌頂故,許於受三三昧耶時得阿闍黎灌頂。 次如水灌頂時所說,從自心間種子放光,迎請灌頂諸尊,乃至以金剛端注水,誦「灌頂大金剛」等頌。及誦「嗡啊薩嚩達塔迦達,阿毘克迦三昧耶室利耶吽娑訶」而為灌頂。說於彼時傳內灌頂與水灌頂,故此論師亦許此處傳內灌頂。水灌頂時,說持瓶上華枝以杵端注水者,謂右手執杵及瓶口莊嚴,由華葉端洒水頂上,作水灌頂。 次想水於頂上成不動佛而為印定,作成寶冠。智體灌頂諸尊入弟子身。念誦:「嗡蘇波羅底叉班則娑訶」而為加持,供花香等。《鬘論》引《第二觀察經》「智慧滿十六,二手正抱持,金剛鈴結合,許為師灌頂」之文,證於印三昧耶作天父母狀時,得金剛阿闍黎灌頂。若未了知如上所引經文,即證於印三昧耶時得阿闍黎灌頂,則不善知阿闍黎灌頂之正行。以隨許說法等,僅傳弟子灌頂,亦可作後依故。又以開示二種真實,告知本尊之後亦可傳故。 次應告云:「總此宮殿即毘盧自性」等,此是說曼陀羅真實清淨。又云:「五蘊應略說,即五佛體性」頌等,說天真實清淨。亦應示阿闍黎事業次[A6]第,謂於曼陀羅及眷屬,繪修供養以及入內受灌頂等,是阿闍黎事業。次第又應告云:「如是了知曼陀羅真實等,於修三昧耶及律儀,成就功能。不可違越之性,是三昧耶,防止應作不作,作不應作,故名律儀。」能依所依清淨,瑜伽部於信等功德之法宣說清淨。無上部中俱說道清淨與蘊等清淨。為遮妄執能依所依,如未淨之情器,體各異者,故說宮殿清淨。為遮妄執諸尊體各異故說天清淨。如是唯依主尊智慧相分,現起種種能依所依曼陀羅相,離彼更非有體。故彼一切皆以智慧為體。廣說清淨如《穗論》第十八應當了知。此不退轉灌頂儀軌,又名為阿闍黎灌頂。 ᅟᅟ==[A6] 第【CB】,弟【補編】== (乾二)彼後依儀軌 傳咒儀軌,次誦主尊心咒等一百八遍或誦三遍,次云:「世尊我傳授,願近此弟子」三遍而授。弟子亦誦:「世尊我今受,維願哀近我」三遍而受。爾時作何觀想,此論未明,應如毘布底說,想從自心出自口中,經弟子右耳而入彼心中。《佛頂》等經與鈴論師說此名咒灌頂。鈴論師許於五明灌頂後傳授。《金剛鬘經》亦說名咒灌頂,如云:「弟子欲故傳咒法,真言灌頂第一智。」彼四句出《蘇悉地經》。 眼藥儀軌,次於金銀器中,安置酥蜜眼藥。想弟子眼上有𦺡字,誦云:「嗡班[嗈-邑+夕]內達羅阿跋哈惹跋札朗什。」次以金針塗藥,誦云:「如醫王神鍼,除世間障翳,諸佛今為子,除無明眩翳。」此文出《大日經》。除者,謂修有除去之功能,餘師多說針從𦺡字所生,加持令成般若波羅蜜羅多自性,想眼𦺡字總攝一切無知眩翳,用針除去或塗眼藥而得消滅。誦咒以後塗眼藥時,當念咒為除金剛眼障覆之義。「什」是般若波羅蜜多蓮華部之種子。 示鏡灌頂儀軌,次取明鏡,阿字加持示弟子云:「諸法如影像,明淨無濁穢,無取亦無說,正從因業生,金剛心如鏡,彼明淨無穢,是諸佛體性,入於子心中。無自性無住,知諸法如是,無等利有情,生為諸佛子。」除第二頌餘是《大日經》說。第一頌明自性清淨,第二頌明離垢清淨。彼謂諸法,明謂無煩惱障,淨謂離所知障,無濁穢者謂離彼二習氣。入者謂得加持,及緣彼為所證,並成就彼功能。由眼藥針除無明翳,慧眼能見諸法猶如影像。故於彼後說鏡灌頂。如《鬘論》云:「示鏡儀軌說二次者,是未見龍智曼陀羅儀軌。有許為釋灌頂法者,示二次之儀軌。」藏師謂此是破慶喜藏師示鏡二次。然後句許有示二次儀軌,故非破彼。故破二次示鏡唯令了知法相如影像者。此唯示一次如龍智所說,然龍智曼陀羅儀軌無第二頌。慶喜藏與答日迦跋、寂靜師等許示二次,謂於前示鏡後,作鈴以及弓箭儀軌,次誦第二頌示第二次鏡。頌文非一,詮義亦異,前者唯令了知諸法猶如影像,後者令知入自心中金剛薩埵之體性故。答日迦跋亦云:「金剛薩埵尊,自由彼文知。」非破以此理趣示鏡二次,故說許為灌頂法者示鏡二次。此師所許,將彼頌文雜於前頌之間,二事同作,然亦不須定爾。 射箭儀軌,次從賀字生弓,誦賀字而授與。誦云:「薩嚩達塔伽達那阿奴惹伽耶娑。」或云:「願一切如來皆歡喜。」弟子射時,師長亦如是說。此論未明顯說箭從賀生。然答日迦跋云:「賀字淨弓箭,授弟子手中。」故知俱從賀字生也。弟子應誦:「薩嚩達塔伽達那阿奴耶彌」以射魔碍意樂,作射四方四箭,上下各一,共射六箭之狀。 此瓶灌頂是於繪畫或於身曼陀羅中得,如《結合》第七云:「繪畫與身業,壇中而得此。」能於初加行等三三摩地及護摩等支分,而得自在。即前經云:「三加行及支,正為彼宣說,色等諸境界,達現有遠離。」此能清淨先造及防未來身垢。即前經云:「殺生等前後,清淨不生罪。」《明顯雙運》說修治身金剛。《結合》第七亦云:「彼之自體性,謂身金剛性。」日生亦如是說。日生謂瓶灌頂為化身體,安立化身殊勝種子。為立彼功能故,應勝解為化身。瓶灌頂之三昧耶者,藏地智者,謂護十四根本及八粗罪。釋名如《結合》第七云:「成器瓶灌頂,注洒淨自在。此是續次第,以教所訓釋。」此謂成就法器,及如灌注、洒淨、洗淨之狀,故名灌頂。是於「阿毘克迦」之聲而加以訓釋也。 阿闍黎灌頂及彼後依之嗢柁南曰: 請白生為天  授與三昧耶  安浴台受誓  水灌頂攝入 灌頂天供養  說真實業次  咒眼藥鏡箭  釋瓶總清淨 六如來性六灌頂  善淨弟子心相續  以屬六佛生次第  修勝化身之所依 無垢以瓶灌頂體  及彼微細諸支分  如諸咒師之所許  以易解音無雜顯 明上三灌頂後依及結行儀軌品第十之一 (酉二)密灌頂 先供物請白者,以幔帳等隔成屏處,弟子勝解師為金剛薩埵,以具足三昧耶之智慧母,生處無壞,年滿十二等之童女,奉獻師長。如《大印空點》第二云:「賢首纖長目,容貌妙莊嚴,十二或十六,難得可二十,廿上為餘印,令悉地遠離,姊妹或自女,或妻奉師長。」論說:「彼若無者,餘者亦可。」是說年華容貌等德,非說具三昧耶或可例外,以說「喜依不具足三昧耶明妃」犯粗罪故,次當合掌請云:「由師足下恩,我得無上事,是故密灌頂,願依怙攝受。」修密灌頂物者,次由師長具主尊慢,將俗女身觀空之後,生天女身,先應加持金剛蓮華,而入等至。念誦:「嗡薩嚩達塔伽達阿奴惹迦那,班[嗈-邑+夕]娑跋嚩,阿摩郭吭。」此出《幕經》與《集密經》。想以心間種子放光,召請毘盧佛與佛眼等入定,從毘盧門入自身中,大貪溶化,經阿嚩都底至金剛摩尼,堅固俱生。如《集密後續》云:「金剛蓮華合,集諸有金剛,身語意加行,彼悉攝心中,由金剛路出,降於弟子口。」傳密灌頂法者,次從蓮華取其金剛,以大指無名指取摩尼寶。勝解如來化汁與自菩提心無二,恐彼持語金剛彌陀慢之弟子,見而不信,故遮其面,非彼手眼所及,誦:「《金剛鬘經》所說之過去金剛持,為佛子灌頂,以妙菩提心,今為子灌頂。」又誦「嗡啊班[嗈-邑+夕]枳吽」等主尊咒,置彼口中。弟子亦應想是毘盧佛等一切如來總集體性,念誦「阿賀摩訶蘇喀」而咽。咒義為希有大安樂。次明妃從定起,不著衣服,於蓮華中取甘露滴,如是置彼口中,彼亦如上而飲。言如是者,謂非眼手之境,亦以大指無名指取,如前誦咒及頌。言如上者,謂以總集一切佛心而飲,亦如前誦「阿賀摩訶蘇喀」。月稱論師、答日迦跋《持祥》等說,雖一弟子亦須父母俱傳秘密灌頂,缺一不成。從父邊得密灌頂理,如《明炬論》〈第八品〉云:「師長將菩提心安置螺盃等中,和以香水,唱吉祥頌為先,而為弟子灌頂。」如世尊於《月密點》云:「由出寶然菩提心,一切諸佛悉憔悴,清淨金剛生智水,以無垢寶為灌頂。」如是《五次第論》及《攝行論》亦說將菩提心安置瓶內或螺盃中而為灌頂。《明顯雙運論》說師長以大指無名指授弟子口之後,仍將菩提心放螺盃等中,和以香水,唱吉祥頌為先而為灌頂。引《月密空點經》為證,拏熱巴於《集密後續》釋說。前者是第一密灌頂,後是略密灌頂。難勝月與《明顯雙運》說修弟子為毘盧而傳密灌頂。秘密灌頂之體,如《大印空點》第二云:「由大無名合,受用入內身,爾時生正智,猶如童女樂。」謂以師長父母空點安置舌上,由嘗彼而生妙樂三摩地。答日迦跋師云:「或是以語業,授解脫體性,唱阿賀蘇喀,妙樂充滿身。」此說唯以言語灌頂,故令觀想明顯,於修得三摩地,明密灌頂。此灌頂於世俗菩提心曼陀羅中得,是語金剛自性。於修金剛念誦等風瑜伽而得自在。《結合經》第七云:「增上菩提心,曼陀羅中得。」又云:「彼之自體性,即語金剛性,妄語等前後,清淨罪不生。」又云:「金剛念誦體,明如幻三昧,眼等諸內法,達現有遠離。」拏熱巴於《後續釋》中說得密灌頂後,開示幻身教授。《明顯雙運》雖說:「為表自加持故表示慧者,謂即智慧灌頂,是為第三。」然《五次第》說於密灌頂後,讚歎幻身教授開示幻身。《口授》(智足造)亦云:「由彼淨剎土,當通達諸法,幻等十二義。」故若得密灌頂即成幻身法器。羅睺羅、吉祥友許此灌頂俱淨語意。日生說為報身自性,義如前說。此之三昧耶者,《結合經》說依五甘露,不害眾生,不捨女寶,不毀師長。名義,是以父母菩提心密物灌頂故,名密灌頂。 秘密灌頂嗢柁南曰: 供明妃請白  生彌陀弟子  師長及佛母  二密物灌頂  授灌頂清淨 密宗道次第廣論卷十三終 密宗道次第廣論卷十四 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明上三灌頂後依及結行儀軌品第十之二 (酉三)慧智灌頂分二:(戌一)明慧智灌頂,(戌二)明第三灌頂之智。今初 秘密灌頂之後,弟子先以《菩提金剛》等文,請白師長。師長次以前所供養,具三昧耶與律儀之明妃,或其餘有妙色像者。告云:「此悅意色像,佛觀汝應依,輪次第[A1]結合,當受勝妙樂,由金剛跏趺,心入摩尼中。」令其了知而與弟子。前所供養雖是師長明妃,然可還與,如《集密後續》云:「淨信慧廣大,色妙恆樂修,一加行修習,具三昧耶者,弟子將供事,供養於師長,師長加持彼,應授與行者。」毳衣、持祥、日生等說明妃須住三昧耶及律儀,善巧四種瑜伽三三摩地。故若不具律儀即不堪為明妃。輪謂毘盧等與明妃之輪,次第「結合」謂鈎召攝入及從金剛路出等。此六句義出《口授論》。「由金剛」等二句,顯示由受安樂而明第三灌頂。明妃以紅花等妙香塗飾,裸體水生示弟子曰:「希有妙蓮花,具一切安樂,若如法依止,我常住彼前,親近諸佛等,如作蓮華事,自在大樂王,恆於此中住,奔[嗈-邑+夕]木义賀。」此頌及咒出《口授論》。彼中問答此處未用,儀軌中謂自與明妃生為本尊,加持金剛及蓮花等。毳衣師云:「承事佛等事,謂在蓮華行。」文顯易解。木义義謂解脫,即離一切戲論本尊色身。《鬘論》言由師長說者,謂彼明妃所說諸義,師長為之解說。或由師長說此咒語。奔[嗈-邑+夕]謂應依止,即應依止解脫。 ᅟᅟ==[A1] 結【CB】,給【補編】== 次修弟子生為天身,慧母生為天女,《鬘論》未明生為何尊父母。難勝月說生為彌陀,意為是貪金剛。《明顯雙運》說為寶生,意為《集密》中說由寶生門持隨貪慢。寶鎧師說生為勝樂父母。若如此者,則可隨時生為該尊父母。除密灌頂,此及以下,《鬘論》與隨行者皆未說須繫縛遮面。次修吽字所生金剛,嗡字所生摩尼。金剛口邊有黃泮字,啊字所生蓮華,蓮華鬚有啊字莊嚴。釋云應正策發。策發何事,謂於左之左脈。左謂此中明妃,彼身左分之脈,名金剛界自在母脈。如《大印空點》第二云:「蓮華藏中央,金界自在母,乃至未獲此,餘事無菩提,彼性歡喜色,細中細最勝。」《口授論》云:「當求三那利,金界自在脈,離取婆伽中,由師教授力,須以指了知。」尋求之法,謂食指端及於舌端,想有紅色什字,先誦「希達」,而正策發。至有所說相時,念誦「嗡希希希哈哈哈娑訶」及「嗡薩嚩達塔伽達阿奴惹伽拏班[嗈-邑+夕]娑跋嚩阿摩郭吭」真言。由師長教授力了知四喜差別。由自心間種子光明,請如來等加持自身,入於身中。師長亦令毘盧及佛眼等無量諸尊入內等同一味,發起歡喜。 (戌二)明第三灌頂之智分二:(亥一)正義,(亥二)斷諍。今初 若謂此處須以師長教授了知四喜差別,四喜云何?如《穗論》第五云:「此從波拉根本,從密蓮華、金剛摩尼,生前歡喜等三。於摩尼中生俱生喜,此是一種建立。」又引時輪宗云:「液始從髻處,至毫蓮為喜,勝喜與妙喜,從喉心處生。臍處起離喜,乃至密蓮華,至密金剛寶,俱生喜不出。」前者從金剛根本起,未至摩尼中央,隨處所別,生三種喜。由斷上上品及上品中品三粗分別,安立歡喜勝喜妙喜。雖有微細下品,由無粗者立俱生喜。(分五品分別)教誨了達諸教授者,亦是前論所說。四歡喜中安立何者為第三灌頂耶?如《鬘論》云:「由慧合吉祥,正表示真實,從金剛跏趺,心入摩尼中。」又云:「真實,謂一切法不可思議。順彼影像俱生歡喜自性慧智,說為真實。」謂四喜中立俱生智為此慧智。生起之時,謂菩提心至金剛摩尼未出之際。有許俱生喜為第三,妙喜為第四者,此為《教授穗論》所破。此所破是寂靜論師所許。毘布底師亦說菩提心至金剛根本為喜,至中央為勝喜,入摩尼時發俱生喜,於離喜前及勝喜後,中間而生。金剛跏趺,謂住摩尼,二鼻孔內停息之時。毳衣大師說生時與體性同前,四歡喜中,說於勝喜離喜中間而生。薩惹哈師亦說俱生智為第三灌頂。若傳女子灌頂,於金剛處當知為蓮。此如妙吉祥、《口授論》第三灌頂時云:「由虛空界金剛荅,具正眼者生大樂,若於正喜離欲喜,見二中間遠離堅,蓮空金剛摩尼寶,蓮藏二合金剛趺,若時見心入摩尼,知彼安樂即為智,此是圓滿次第道,最勝師長共宣說。貪離貪中皆無得,剎那妙智於彼顯,八時一日或一月,年刼千刼受此智。」正灌頂時受須臾頃,正修習時長時領受經八時等。 第三灌頂之俱生智若安立為証真實者,則與第四灌頂樂空無別之俱生智,全無差別。若未証者,則與多論所說為於弟子欲以殊勝方便表示真實義,故傳此灌頂。及說由修第三灌頂所表詮義能証真實,皆成相違。茲當解釋,例如二次第道,隨彼補特伽羅根性次第,說有勝劣多種。如是灌頂詳細分別,隨根性門亦有多種得法。然總經論要旨,第三灌頂之俱生智要能通達真實。如《口授論》開示從色乃至一切種智法性真實。法雖本來如是,然為有情障過之所覆蔽,流轉生死,故須通達真實。通達彼之方便,以多道理說是明妃。於傳密灌頂後,次云:「次為知自覺,喜法身徧空,名曰增上天,故授彼童女。」以此等傳第三灌頂。其次乃說生俱生智,如前所引。故為表詮真實義,故傳授第三灌頂最為明顯。此非但由菩提心至摩尼,以泮字等阻令不出,住須臾頃,息滅眾生粗動分別,發生安樂無分別心。以唯彼心,雖無通達實性見者亦可生起,以彼未達真實義故。《口授論》云:「法身喜徧空,死悶絕睡眠,呵欠及噴嚏,剎那能覺知。」此說死等五位亦能覺受法身。此於息滅粗動分別,假名通達真實,不則應諸有情不待功用得解脫故。故俱生智是於通達真實得正見之弟子,先由師長曉示第三灌頂之智於何時生。次於傳灌頂時,由依明妃,於摩尼中持菩提心,息滅粗動二取分別,憶其正見。說此念住正見之智,名曰俱生,非唯身心略起樂受,亦非唯由彼力令心無分別住。然於未善了解真實見者,則須於生樂無分別而明第三灌頂。以是住正見上第三灌頂之俱生智,是否現證真實,是最大妄分別生處。以想爾時通達真實須無分別,離分別智,何故不能現證自境,由此故起邪執。若無正見則於無我心未趣向,故計彼智即為現見無我義智,其執反少。如《穗論》第五云:「彼是見道耶?曰非爾。」此破印度有諸智者,串習密咒,許以第三灌頂之俱生為見道。故此應知表示實義之智,與彼現證無我與總相通達之差別。現證真實之時,是無作之俱生。未現證時,但以勝解作意悟入真實,是有作之俱生,後即第三灌頂所說。如《穗論》第五云:「暫受樂時未見真實,但由增上勝解,修習一切勝事相應不離大悲之空體性。証真實時,是出世間無諸功用,由無造作,故名俱生。未證真實所領受者,有漏非堅,未能增廣不徧諸支,猶如電閃剎那即滅,是世俗性有諸功用,雖是造作亦名俱生。」第三灌頂之智內有二分,謂證空分與安樂分。前者又名為金剛持安慰,後者又名不動安慰。即前論云:「真實安慰說有二種,以大樂智與真空體互相印持,是不動性與金剛持性故,決定出生如來與金剛持。」由得彼道,故能出生如來安慰與金剛持安慰。如云:「方便彼生別,第四義二種,一如來悉地,餘為金剛持。」第四謂第四俱生喜。總謂自與師長所授具德相之明妃,生為本尊父母。預備金剛蓮花為先,了知發生慧智之界,及明爾時安住正見有樂之智,即為第三灌頂。若唯依智印灌頂者,亦須明了觀想自與明妃成為欲天父母,持天慢等,勝解父母等,至生菩提心至摩尼中,從此生樂。次應令憶正見安住其上,曉示灌頂。由修如是灌頂時所曉示之俱生智,能生果位俱生,故灌頂時必須悟入真實義之俱生。如《穗論》第五云:「此俱生所起真實菩提心,空性大悲無別。離於慧智為別有餘法耶?答曰非餘,即唯除彼慧智所有逆品說如是相,此是自性最極明顯。」此明顯說唯由修習第三灌頂身中所生俱生之力,令離垢障,即是果位俱生自性。《珍珠鬘論》亦云:「然諸如來所有自證法身俱生量等虛空,此之等流報身俱生,第一殊勝最極清淨堅固樂相,彼俱生喜,是此中所修者。彼非餘事,即於世間俱生歡喜,如其教授勝解修習,修習圓滿即得現証,唯自能知而非先有。」又云:「由彼了知俱生歡喜更是餘者,以是果性之俱生故。」由彼行相隨順菩提性轉,故說生為果性。此等於依明妃生四歡喜時說。由此中曉示弟子與業印明了觀為本尊父母入於等至,生起俱生喜時安住正見,則亦當了知行者與業印,或行者與智印,或行者與空色明妃,明了想為本尊父母入等至中起俱生智。以彼同於明想本尊父母入等至時所生空樂,獲定解故。如於白牛决定牛相,則於彼類一切皆斷疑故。如是依止明妃發俱生者,是由依於和合作用上下弓形業風,吹燃臍部猛利之力,溶化頂上之菩提心,由風下吹,安住摩尼而生。《口授論》於第三灌頂時云:「精律動弓形,三义智火熾,界化十六分,猶如拘摩陀,由風加行催,自性善寂靜,唯法身寂滅,樂住摩尼中,剎那無念動,即是大修行。」故說以脈息空點等無量瑜伽,令風吹入中脈。由彼作用猛利熾然,溶化頂上之菩提心,引生三摩地門,然彼皆由曉示灌頂宗要,於俱生現起時,憶念通達真實義之正見,將護修習。不應妄執唯滅粗分二取分別所生之三摩地,即為俱生之義。 (亥二)斷諍 《第二觀察經》說:「是大種安樂,故非真實樂,由俱生所生,說彼為俱生,名自性俱生。」此說依止大種之樂,非是真實俱生。又《智成就》亦云:「二根所生樂,惡說為真實,勝佛未曾說,彼是大安樂,凡因緣所生,皆不名真實。」若第三灌頂之俱生通達真實義者,寧不與此相違。答云無過,彼諸經文,是破道時之俱生智,為自性或自體之俱生智。非說第三灌頂等之俱生,不達真實。或說彼中無俱生智,此如《智成就經》後云:「以彼樂一切,皆非自性有,諸善逝正智,是了知自性,一切樂中尊,故名為大樂,大樂非無常,大樂恆常住。」破彼非真實樂,真實樂是佛地之所有故。故若引彼經文以破通達真實之樂,則應許一切有學道,皆無彼樂。故真實樂,及名自體俱生或名自性俱生,義謂不待功用因緣,盡未來際任運相續。《珍珠鬘論》解釋:「名自性俱生。」云:「俱生自性,謂此自體生起不待餘緣,依止前因一剎那心,生起諸餘剎那。有如是自性者,是名俱生,與心剎那展轉增上,乃至虛空未盡而生。」又云:「俱生有二,謂暫時與常住。其常住者最為第一,以是最勝真實無盡,及無壞故。」此於相續不斷及無窮盡說名為常。若謂即初剎那,於二剎那安住名常,是為外道惡見。種者,是出生義,由是因緣和合所造故是無常。大是極義,總謂極力所修之無常樂。上是《珍珠鬘論》所釋,《教授穗論》解「大種樂非實」之義,亦謂非一切時恆起俱生。 若謂第三灌頂是樂空無別之俱生,則與第四灌頂無差別者,是未了解第四灌頂之談。至下當釋。 《時輪本釋》說於出家唯以語表傳授第三灌頂,故可智印以傳灌頂。《鬘論》說若勝出家身無餘遮緣,可實灌頂。若有遮緣及非勝出家身,應以智印而傳灌頂。准此道理,以出家身作密灌頂之阿闍黎,亦當了知。如是第三灌頂之時,隨力所能持菩提心,不能持時,徐徐放捨,從水生中持味取起,由真實見飲三昧耶自性大菩提心。 於何曼陀羅中得此灌頂,《七加行》云:「於清淨婆伽曼陀羅得此。」謂於婆伽曼陀羅得。自性如前經云:「彼之自性者,意金剛自性。」日生說為法身自性,意為[A2]已得証彼之勝功能。所淨亦如《七加行》云:「貪心等前後,清淨不生罪。」三昧耶亦如前經云:「遮繪壇塲等,授最勝律儀。」答日迦跋說見女人左繞三匝作請白等,為三昧耶。於修何道得自在者,如前經云:「方便殊勝故,正住如金剛,修勝悉地故,漸依禁儀軌,達諸法遠離,能取所取體。」謂於二取空之光明,又名金剛喻三摩地。《集密後後續釋》中云:「弟子依於內外,現証菩提次第,以貪離貪及中庸貪,漸次現証光明智慧,修成大印。故應先得慧智灌頂。」說此灌頂,表示第四光明修習大印。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,己【補編】== 慧智灌頂嗢柁南曰: 供請授明妃  生天加持密  等至發俱生  飲心釋灌頂 (酉四)第四灌頂分二:(戌一)餘經規,(戌二)時輪規。初又分二:(亥一)明第四灌頂,(亥二)第四灌頂之語云何表示。今初 《鬘論》未說請白,當如答日迦跋所說,三返白云:「由師足蓮恩,得主三灌頂,今日第四寶,願垂恩救護。」《結合經》云:「若信解深廣,語授寶灌頂。」謂觀弟子於深廣法有無信解,若信解者,可以語言傳授第四灌頂。毳衣大師引經文云:「由烟知有火,依水鳥知水,菩薩具慧種,由諸相了知,面淨若蓮華,歡喜諸毛豎,智者見彼相,攝為勝弟子。」以此方便觀察,即能了知弟子意樂。次釋應可授與第四灌頂,以何授與唯以語言。此中遮詞,意謂非如第三灌頂可領其義。以語傳授之規,如云:「即彼慧智菩提心芽,由善修習,令彼增長。成就無障真實一切諸法不思議性,具足七支大印大金剛持自性,說為第四灌頂。」義謂第三灌頂所說之俱生智,猶如勝義菩提心之苗芽,由修習彼展轉增長,成就一切障盡不思議之真實自性。總謂由依明妃,得表實義俱生之智,相續修習乃至障盡,法界明了無別之智,現起具足七支大印天身,即是第四灌頂。此中所明第四灌頂,寶鎧與毘布底亦說,亦是毳衣大師所許。如彼《曼陀羅儀軌》引教云:「第四灌頂由師口授知者,如說即彼圓滿諸義,由離分別垢濁,不異無上正知,諸能仁眾無量光明曼陀羅體,如如意珠,以自性語而為授與。」言即彼者,即《鬘論》說「即彼慧智」之義。離分別垢濁不異無上正知者,謂不異離垢真實之如所有智。諸能仁眾無量光明曼陀羅者,即是色身。持祥於《紅黑(大威德)曼陀羅儀軌》亦如是說。七支,如語自在稱云:「滿報、結合、樂無性、悲滿、不斷、及無滅,我許所修七支義,遍修正量智者讚。」圓滿報者,謂是相好莊嚴之身。亦攝法身及化身,以三身無異體故。結合者,謂與同等明妃而入等至,若唯報身波羅密多中亦宣說,以此結合即勝彼義。何為須爾,唯以徧一切身歡喜自性,即能成辦一切有情利故。佛為攝受欲界增上貪行有情,故現等至。幻師所化男女稠密不生大樂,從此則起,故云大樂。領受身樂為樂,領受心樂為喜。大謂最廣、無漏、殊妙、盡未來際。為顯彼佛是無自性非執實有,故云無性。《般若經》云:「佛亦如幻如夢,設更有法勝涅槃者,我亦說彼如夢如幻。」《七加行》云:「行者於諸法,善遮顛倒故,當說四加行。」又云:「一切諸法中,說無性為主,以諸法王子,由修此成辦,一切佛圓滿。」其無自性是具一切種最勝之空性。空華兔角之空,是無所有不可現証。《寶頂經》說不離布施乃至佛法之空,是具一切種殊勝之空性。故報身等與布施等諸相,是為最勝,以彼等相勝出瓶等,諸餘相故。具足彼諸相者,是具一切種之空性。如無身相則不能饒益有情,如是若無大悲,亦不能利一切有情,故云悲滿。無緣大悲如如意珠,無分別中利益有情。言不斷者,謂受用身,具足如上所說功德,恆相續轉。由是不住寂滅與三有之大涅槃故,常恆無斷,非有時轉,有時不轉,間斷之法。言無滅者,謂彼報身非暫時住,即便斷絕,盡未來際,隨大悲轉,及諸有情無間斷故。具上七支,語自在稱許為咒道所修之果。非但如是,亦是遍修正量正慧清淨智者之所稱讚。若約非是轉止有間釋不間斷,則與無滅之非暫住即壞,全無差別,應成六支。然不間斷亦通化身,無滅則謂盡未來際不入涅槃,故有差別。《七加行》說無比安樂圓滿報身,大樂法身,及大悲體性之三身相續,為前不斷之義。又云:「無比樂報身,遮止捨離故,宣說七加行。」於後者說盡未來際而恆安住,義理全同。《教授穗論》破他,謂前五支不共波羅密多,自許初三不共,後四支共。 (亥二)第四灌頂之語云何表示 七支為無上道所修,雖實是汝所許,亦他智者所讚。然立彼為第四灌頂以何証?知如《七支論》中云:「具如是言故,具亦言義故,作爾言義故,我許四如是。」此義謂諸經云:「如是四亦爾。」謂於第四灌頂之時,以彼慧智為喻,表顯第四灌頂。解釋彼文「如是」、「爾」、「亦」三義,成立第四灌頂即為七支。是故我許第四灌頂如前所說,餘人所許缺二支等故不應理。言如是者,顯示第三第四相同。此如《七加行》云:「大金剛持身,觀視無厭足,現三面六臂,具勝抱明妃,如慧智灌頂,安住如是相。」謂如第三灌頂之時,自為本尊父母住等至相,第四灌頂亦如是住,此明第四灌頂具足報身結合二支。《七支論釋》解如是言,雖說是由金剛蓮華觸所生樂。然葯足師所許應是如前所說父母等至之相。以此二師於此等義意趣同故。亦者,顯示非唯第三有樂,第四亦有,復勝前者是為大樂,故說第四具大樂支。勝者,謂有廣大、無漏微妙、無斷、盡未來等殊勝。此非第三灌頂所有,以彼是由業印所生,唯剎那頃是有漏法,以有業印猛利抱持等苦故非微妙,唯住摩尼不遍諸支,故非廣大。唯住短時故非無斷,羯摩印行是無常,故亦非盡未來際。要由修行現證之時,方能成無漏等。《七加行》於說是否大樂後,又云:「然於慧智中,住大樂相似。」又云:「雖不住無欺,故亦名大樂。」說住第三灌頂能示大樂體相,雖不久住,然由具足彼支修習於得大樂果無欺誑,故亦立大樂名。大樂支者,諸支中主,餘是彼分。是故《七加行》云:「應知餘加行,皆此加行分。」爾者,謂如第三灌頂,從善巧三三摩地之業印,與方便等和合而生,如是第四亦與彼同,從於方便智慧和合而生,非餘能生。語自在稱未明顯說第四灌頂具足餘支之理,意謂已說第四灌頂具足報身結合盡未來際大樂三支,具餘支分亦易了知。《七加行》中於後三支,配於第四第三灌頂,惟未配第四支。亦多有作「第四彼亦爾」者,亦應善知彼等,第三第四灌頂法喻配合具足七支。 第三灌頂之時自身現報身相,此後不離佛母,現為父母互抱持相。於彼定中心住了達諸法真實之俱生智。取彼二者為喻,決定第四灌頂之理,謂由修方便支,最後自身成就相好莊嚴報身,及以結合二支體性,非唯勝解修為佛之色身。此心亦非暫住真實。謂是盡未來際所有大樂與無自性二支體性,明此雙運即是第四灌頂。 以是修成圓滿次第法器,須由三種灌頂之理,亦可了知。以圓滿次第之宗要,定須自身加持世俗如幻,四空次第勝義光明,以及外身如幻金剛薩埵之世俗身,內心達真實之勝義光明二無分別,和合雙運三種圓滿次第。自現本尊父母,於除庸常慢念之中,由內阿吭等至,引生歡喜及勝喜等,修俱生智,第三灌頂[A3]已盡决擇。第四若無異前决擇之法,則仍不免相符極成。若爾,不許道位有第四灌頂耶。不爾,謂傳第四灌頂之時,如前曉示,唯以語言令生了解,即為弟子傳彼灌頂。弟子亦唯由於語言立為得彼灌頂,是為成法器之第四灌頂。如是第四灌頂,須為曉示第四灌頂之要,故如上引多是曉示果德。然非道位全無,如《集密》中有學雙運,及《時輪》中三摩地支,准彼道理餘亦應知。第四灌頂順分生起次第,亦有以咒所修七支而為第四灌頂,生起次第道中,亦須修彼七種支故。云何名有順分?此如《七加行》云:「無比樂智身,吽等生天相,四成住二身,亦無二加行,加持天女身,明儀軌清淨,是大樂體性,大悲增長體,餘軌中顯示。所說勝空性,是無性加行。於最勝業時,不住上四故,是無斷無滅,如是《集密》中,分別瑜伽師,依生起次第,受行第四義。」言四成者,謂以四支修行所成。儀軌清淨,謂隨貪行。餘執,謂最勝曼陀羅。言《集密》者,唯是一例,於餘修法亦當了知。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== 若具七支雖是第四,以彼灌頂云何應理?譬如水灌頂等,由能淨垢立為灌頂。如是所修七支能令畢竟無垢,故為灌頂。如《集密後續》云:「灌頂分三種,瓶灌頂第一,密灌頂第二,慧智為第三,如是四亦爾,此續中善說。」彼豈非說三種灌頂,云何引為第四灌頂之據?豈謂聞說「如是四亦爾」耶?雖聞,是說慧智灌頂亦名第四。豈世尊語而有欺誑?如何即以第三說為第四?語雖無欺,以諸憍慢自謂智者,欲離師教解金剛句,為令愚蒙故於第三說第四名。佛豈不具大悲?愚蒙有情自作師慳,云何應理?總諸續中隱語雖多,是為令依師教,非令有情心生愚蒙,故破應理。若謂由修慧智現証之時立為第四,是則證與未證二事各異,非即第三立為第四。若謂佛意四異三者,云分三種與義未合。以灌頂有二時,未現證時有三,証時有一,故無過失。然成就法器之第四,雖非現證,而是以語傳授第四,非實第四,故無過失。有謂語自在稱論師許以住金剛端俱生喜,為第四灌頂。此是未解彼論師教而作是說。《七支論》自釋云:「彼離七支,我不說為第四。」謂作如是說者,不解我意。由諸續說第四灌頂猶如第三,唯說與彼相同,未明顯說相同之理。故在印度凡十七家,有說第三住摩尼樂,從彼出菩提心即為第四。有說第三灌頂無間舌嘗菩提心為第四。有說第三無間用餘明妃為第四等。觀察彼等分別臆計,故說我不許為第四,以彼離七支故。其中有說慧智無間,通達一切諸法虛妄之見為第四者,及許專修空性大印為第四灌頂者,以說慧智無間,故於樂上有空印證,意為即是樂空無別。如斯等類,現見實多。或以樂空無別,或以二諦無別,或以方便智慧雙運目為第四灌頂。彼於無別雙運之理,未能決斷,妄於量所不成增益,許為經義。破彼執已無倒顯示第四灌頂之義,造《七支論》本釋,《真實寶光明論》本釋,以及《七加行》等明了决擇。毳衣、持祥、無畏師弟,皆如上說决擇第四灌頂。此理與《時輪》合,下當解釋。 (戌二)時輪規 《時輪本釋》,如前所說瓶等四種灌頂有二傳法。二瓶灌頂前已說訖,為聞經等所傳前密灌頂,除說由覩業印婆伽獲得歡喜,餘皆同前。為講經等所傳後密灌頂,謂由師長與自十二至二十歲九明等至,俱種金剛注弟子口,依彼灌頂。如是第三灌頂前者,與一明合受妙歡喜。後者,隨與九明等至,即由彼彼所生妙喜。第四灌頂前者,由菩提心住摩尼中,不外漏注俱生歡喜,是謂世俗第四灌頂。此於其他咒曼陀羅儀軌,說是第三灌頂。若但得彼未得後者第四灌頂,聞說一切經等猶未自在。由《時輪》中得此灌頂,雖可聞一切經,然以未得上上第四灌頂,仍不能講一切經故。能俱講說一切經者,須得第二瓶灌頂、密灌頂、慧智灌頂、第四灌頂。前三餘經儀軌未曾宣說。須得後者第四灌頂,則與一切經同。餘者易知,勝義第四灌頂或名出世,難了解故今當解說。如《大疏》云:「笑視執手交會四種灌頂,非真實義。此中真實義者,無互抱持,觀從業印之所生者,非無二智。」所說真實義或勝義第四灌頂,為無二智。所無之二,多次說為樂空。經云:「從彼無轉涅槃樂,俱生不變為第四。」此說不變之樂,名為第四。故非任何安樂皆可,要是三摩地支以上安樂。與彼安樂無別之空,亦非任何空色即可,要三摩地以上空色。第四灌頂之樂,總有勝劣二種,勝者如《大疏》云:「大印般若波羅密多不變大樂最後剎那,現証大菩提相無有間斷,此是世尊菩提樹下所證,即得第一灌頂。」此說果位第四,為第四灌頂之主要最勝。如是果位樂空無二第四灌頂,無二之理又復云何?經云:「身淨無諸塵,等空相圓滿,種種徧三世,離障如夢見,語無斷非一,餘語他心轉,心樂滿無動,諸時俱生持。」此明果位身語意時,說身空色離微塵聚,清淨無礙,等同虛空,相好莊嚴,心為不變大樂。身空色自性之智身,與通達諸法真實之樂心,自性無別雙運俱轉,成為無二。以是道位烟等空色上上轉依,成一切種,相好莊嚴之身。經云:「地入水中水入火,火入風中風入空,空成十相相轉成,一切無盡勝安樂,不可摧壞智慧身,由智成就妙悉地,士夫能於此生得。」此宗樂空之空,多說空色,故多說彼名有所緣,以現顯色形色相故。不變樂者,謂達真實義慧,故多說彼名無所緣。故不應執於安樂上有見印持,便為樂空無別。此與餘經所說空樂略有不同。如《大疏》云:「雖有行相而無相,世尊慧母所抱持,具離生滅不變樂,笑等安樂永遠離,能生諸佛具三身,正等覺了三世法,遍智最勝第一佛,無二世尊我敬禮。」此說空色明妃抱持行相,固具結合大樂無性等支,不論報身有無其名,其義已具。是故果位第四灌頂具足七支與餘家同。劣者道位第四灌頂,從隨念(《時輪》中位次專名)後,現無分別空色欲天父母之相,故於三摩地(《時輪》中位次專名)位亦有。說自彼等位後,由空色大印成辦不變樂者,非謂任何空色皆可,要是現為空色雜母明妃。爾時,雖非真實成為空色天身,然於不待觀察,心中即如是現,故於如斯空色不變大樂同一智體,二無分別,名為第四灌頂。是故不應偏執安樂,或空印證等為第四灌頂。以《大疏》解俱生不變即第四云:「離羯摩印與智印因,空一切種最明顯相。」多次宣說空色合故。其身能不分別現為空色之天,與心生為不變樂體,從得三摩地支乃有。依此安立道位第四灌頂之理,如是應知。由善分別曉示彼諸關要,乃得第四灌頂,其於唯不變樂或空印持,曉示為第四灌頂者,是未能知經釋關要。如是勝義第四灌頂,不論取否第三為喻,總須身心雙運,則為此宗餘經所同。然《時輪》於第四灌頂多諸特說。 如是師長若於弟子善能如前所說曉示,由能略獲彼解,即從語門獲得第四灌頂。此於勝義菩提心曼陀羅中得,能淨三業微細障垢,堪能修成三種金剛無分別身,於修雙運圓滿次第而得自在。諸灌頂中,須說清淨,乃是答日迦跋所說。此灌頂之三昧耶者,如答日迦跋云:「汝可殺有情,受用他人女,不與汝可取,一切說妄語。」 嗢柁南曰: 於請白弟子  以慧智為喻  七支果灌頂  定解授清淨 (申三)灌頂後法分二:(酉一)禁行授記,(酉二)隨許慶慰。今初 此中授三禁行,授明妃禁行者,謂第四灌頂後,將明妃手置弟子手,以自左手執彼二手,以右手持金剛置弟子頂。教云:「諸佛為此證,我將伊授汝。」謂以諸佛作證。「非他法成佛,此能淨三趣,是故汝與伊,終不應捨離。此是一切佛。無上明禁行,若愚者違越,不得上悉地。」授與明妃禁行。除三趣句,《集密後續》亦說,唯文稍異。如《集密後續》於第三灌頂授弟子明妃時說此,諸梵論中亦多如是。唯此論師別造傳授明妃禁行儀軌。捨去具相明妃,以他方便不能速疾成佛。答日迦跋說能清淨三趣,義謂三趣由此清淨,故汝不應離此明妃。由具相明妃修行大樂三摩地,是一切佛無上明妃禁行。若有愚人違越如是欲塵修道,彼於現法無上悉地。以彼是近因(是《集密》中位次專名)故。 授金剛禁行者,次生弟子為金剛薩埵身,令持金剛,告云:「此彼一切佛,在金剛心手,金剛手禁行,堅固汝應持。」弟子應誦:「嗡薩嚩達塔伽達,悉地班[嗈-邑+夕]三昧耶底义,伊喀當,答惹耶彌,班[嗈-邑+夕]薩埵,黑黑黑黑黑吽」接而執持。此頌及咒出《攝真實經》〈第一品〉及《幕經》〈第四品〉。此者謂在自手,彼者即指金剛。如云:「彼菩提心即金剛」故。彼為何事,謂彼金剛是五佛之自性。以此一切佛自性金剛,在金剛薩埵手中,為證彼故,汝亦恆應守持。是佛禁行,是金剛手禁行,非他能壞,故名堅固。禁行之義,謂為得一切如來悉地,故決定應作。如《真實光明》云:「不棄捨金剛。」金剛灌頂,是以生為彌陀所出金剛,交與生為彌陀弟子之手,安立妙觀察智與彌陀之功能。金剛三昧耶者,是令憶念金剛真實,將從吽字所生金剛,令生為金剛薩埵之弟子執持。金剛禁行,是於生為金剛薩埵弟子,為令了解證得金剛薩埵方便,持不離五智之金剛,彼三差別如是應知。弟子持時所誦咒義,謂此一切如來所成之金剛三昧耶,入於我中,金剛薩埵應當受持。天種慧師說五黑字表鏡智等五智。吽字表示清淨法界。 行禁行者,以佛頂或勝樂或歡喜金剛等隨一心咒,加持喀敞迦、絳得鄔、蓮華器等三遍。告云:「金剛薩埵印,外內皆正住,故授杖鼓器,勇士應受持。」令其受持。器謂顱骨。如是授與,是鈴論師《灌頂儀軌》中說。此金剛薩埵印顱器等有內外二印,為憶念彼,故應守持。除彼三物,餘經說有餘行支者,亦以爾時主尊心咒,加持三遍,如前令持。此如《集密》十六品云:「色持頂髻冠,廣大同白色,如法作一切,咒律遍防護,諸莖根果實,受一切嚼噉。」此說由受明禁行而作行禁行。於彼第四第五句間,說身語意金剛行者,各與自部明妃同行,意即在此。隨是男女凡請行禁行者,女應生為金剛亥母,或無我母,或投花部之天女身,男可生為勝樂歡喜等身,從自心間種子放光,召入智尊。如《第二觀察》云:「輪色為不動,耳璫體彌陀,項鬘寶自在,手釧念毘盧,腰縧住不空。」頂輪、耳璫、項飾、釧鐲、寶縧、如其次第,剎那想成不動彌陀寶生毘盧不空佛身,於彼召入智慧薩埵。由不動等轉成輪等諸印,信解為不動等體性。三誦「嗡答惹答惹,答惹耶答惹耶,摩惹答摩惹答,班[嗈-邑+夕]枳泮娑訶」真言,加持寶輪,誦金剛薩埵頌置彼頂上。三誦「嗡班[嗈-邑+夕]達摩三昧耶當,呼嚕呼嚕,阿熱利泮娑訶」加持耳璫安雙耳上。三誦「嗡班[嗈-邑+夕]蘇耶達末毘答摩那,三昧耶當,阿杭惹那枳泮娑訶」加持項飾,帶於項上。三誦「嗡夏穴達跋惹摩夏穴達,厄訶耶黑,唧那唧吽泮娑訶」加持雙釧,帶二手上。三誦「嗡樸樸黑黑黑般若枳泮娑訶」加持寶縧,繫於腰間。授女眾時,頌中「勇士」改為「天女」。正住句後如其次第改為:「輪為不動色,雙璫語金剛,項鬘即寶生,手釧常住體,腰縧不空成。」誦金剛薩埵頌而授。五真言出《金剛幕經》第九品。即餘經所說行支,亦令受持之義。 次說男女修得顧視等力。為利他故,授受勇士行禁行時,勝樂法門可授顱鬘,虎皮等勝禁行。彼是勝樂特法,於總軌中,且置不論。 言授記者,次阿闍黎作如來相,左拳平心握袈裟角,右手結為施無畏印,誦頌咒云:「出三有惡趣,為滅三有故,金剛薩埵佛,我為汝授記,𠹳某甲金剛達塔伽達悉地三昧耶當,布惹布嚩娑。」此師與毳衣大師說,為修投花所中如來相之弟子授記,故於此時應生弟子為投花本尊相。答日迦跋說無畏印或勝施印。薩惹哈云:「爾時黑茹迦,空行母及師,想同聲授記。」謂二俱修《勝吉祥經疏》說應信授記,是此印咒功力。此頌與咒出《金剛幕勝吉祥經》。其明妃金剛行禁行與授記等,有經與曼陀羅儀軌,亦名灌頂。 (酉二)隨許慶慰 於此處作隨許是依《結合經》意。彼其第四亦爾後云:「菩提心灌頂,於離罪弟子,次授與隨許。」此復有二,總隨許者,[口*種]字所生法輪,授於弟子前或座上,而誦「嗡班[嗈-邑+夕]黑都芒」「班[嗈-邑+夕]黑都」是金剛因。瑜伽部說由此令轉法輪。以痾字所生螺,念誦「嗡班[嗈-邑+夕]跋喀讓」,授於右手。咒義謂金剛語,依瑜伽部說由此能說法。第一母韻所生經函,最後母韻所生鈴,誦彼二字,交與左手,令彼振鈴誦云:「一切虛空相,虛空亦無相,等虛空和合,一切勝等顯,從此略發心,法螺最無上,遍滿一切處,善轉正法輪。」猶如虛空唯遮一切障碍所顯,無實自性。如是一切諸法皆無自性,於勝義中本無生故。等虛空者,謂即真如。彼和合者,謂瑜伽師心及心所,等同真如一味。故由瑜伽師智,一切最勝平等真如普遍顯現。此是《勝吉祥經大疏》所說。《鬘論》則謂一切法之最勝。由離垢故悉無自性。顯謂由修現證,汝亦應如是行。鈴表由彼信解應轉法輪。彼鈴聲音表說法蘊。授經函者出《幻網經》。《大日經》於示鏡後云:「次於二足下,安放正法輪。次於右手中,授給妙法螺,法螺最無上,吹徹一切處,今後於世界,轉諸佛法輪,汝以無疑心,不應懷猶豫,行密咒最勝,善為此世說。由如是善作,方名報佛恩。一切持金剛,悉皆守護汝。」次授諸部別隨許者,弟子修為毘盧等相,誦云:「為利諸有情,遍一切世界,如種種調伏,當轉正法輪,慧方便自性,高如如意珠,無厭離疑惑,如是利有情。」於正法處改誦:「金剛、珍寶、蓮華、事業。」以此五頌,傳授繪說五部曼陀羅之隨許。此五頌出《攝真實經》。其第三句,毳衣《曼陀羅儀軌》作:「如種種所化。」所譯為善。次弟子應頂禮,白云:「如主尊所勅,我當如是行。」 《慶慰儀軌》次云:「頂上掌傘蓋,令弟子旋繞,向壇門合掌,降傘作是言,奉獻此弟子,當受持諸續。」啟白曼陀羅主尊後,傘放餘處,當說弟子心所樂語:「汝今成壇師,受持諸咒續,諸佛及菩薩,諸天悉證知,悲愍諸有情,汝應如壇軌,精勤善繪建,令行者學續,由進入及見,勝密曼陀羅,解脫一切罪,汝今安樂住,依此大樂乘,後死汝永無,汝出三有苦,到三有邊際,諸佛執金剛,今傳壽灌頂,三界法王位,汝定為其主,如離貪欲罪,三界更無餘,如是離貪欲,汝終不應為,汝受用欲事,但行無所畏,食五肉五露,亦護諸餘誓,不應害眾生,不應棄女寶,不應捨師長,三昧耶難違,由慧方便心,無少不應作,汝無罪莫畏,如如來所說,心意淨信金剛性,自誓依止無盡樂,少樂諸趣汝當到,金剛薩埵常住性,又諸如法得灌頂者,一切諸佛菩薩令增善故,以清淨心恆常憶念猶如愛子,法爾如是。」頂上掌傘蓋等六句,及「汝今成壇師」至「令行者學續」出《總續》中。彼前所作,如《總續》云:「如是灌頂已,令披新淨衣,供養花香等,供索及釧鐲。」此義如毳衣師說誦一切諸尊心咒咒弟子心,於右手上繫守護釧。其掌傘者,毳衣師說業金剛於頂上持傘。《總續》則云:「其次由師長,於頂上執傘,令其善合掌,旋繞曼陀羅。」此說師長擎傘,二說隨一皆可。答日迦跋師說,次於東門全身著地頂禮,俯首不起,以身供養師長。勝密曼陀羅者,[A4]入何曼陀羅中灌頂,隨時應加其名,於彼曼陀羅投花後為見,以前為入,由入彼中,即離一切殺生等罪。故從今後乃至未證菩提,於人天中得歡喜住。如《鬘論》云:「由定不造罪業脫惡趣故,說決定受善趣安樂。由入彼而見故,汝等以後定無有死以汝已入此大解脫自性大樂金剛乘故。」此處《勝吉祥經》說云:「不入及不沒,全無畏受用。」希求餘乘意樂不能侵據名為不入,由此不墮餘乘而不退沒。受用,謂當修得金剛薩埵悉地,於三有苦悉無畏故。理謂由見壇及入壇,欲色有等無邊眾苦汝悉斷故。如《鬘論》云:「出三有苦,謂得法身,到三有邊,謂無邊有,即受用身,恆相續故。」榜師譯為:「為修三有際。」則是為彼灌頂之意。三昧耶者,《勝吉祥經》說眾多三昧耶。曼陀羅儀軌亦多有說者,《根本罪釋》[A5]已廣解說。由一切佛,今為汝灌頂故。已得欲等三界法王之位,故名為主,即是自在欲界之主。定者由生不退種子,現成佛故。如《勝吉祥經》云:「今[A6]已勝諸魔,入最勝城邑,汝等於今者,成佛定無疑。」於此所欲名欲,即金剛薩埵位,貪謂希求彼欲。「如離貪欲罪,三界更無餘。」謂捨菩提心也。是故教云:「汝終不應於所欲境金剛薩埵,捨離貪欲。」是《攝真實經》說。此處餘曼陀羅儀軌中說「摩訶三昧耶」等。義謂大誓,即是菩提心相貪欲金剛薩埵。「訶那」者謂摧壞,以彼三昧耶摧小乘菩提意樂。「泮」謂破裂。汝受用欲事者,慶喜藏說受用所欲金剛薩埵,餘師說是善巧方便受諸欲塵。「不應害眾生」乃至「三昧耶難違」出《結合經》。彼說依五甘露是密灌頂之三昧耶。此師說彼及食五肉則是共三昧耶。於成就殊勝智慧方便之瑜伽師,有眾多開許故,說「由慧」等兩句。此餘前後諸文,並出《勝吉祥經》。意淨信者,謂對師長諸佛心善淨信。金剛謂不可壞。自誓謂自諸尊。依止能授無盡安樂諸尊,謂當修習。汝雖生於少樂多苦趣中,亦能常得無罪安樂。此是《鬘論》所說,此上所釋,多依《勝吉祥經大疏》而說。慶喜藏說由何能令所化發生歡喜,即名慶慰。毳衣大師說名讚慰。如是弟子已得灌頂慶慰歡喜,應當依教奉行。 ᅟᅟ==[A4] 入【CB】,人【補編】== ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== 次如《結合》誦云:「我今生有果,我生具果利,今日生佛家,我今成佛子。」若馬若寶及可愛妻子等,隨力所能供養師長。亦可施食護摩及歡會等。 密宗道次第廣論卷十四終 密宗道次第廣論卷十五 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明上三灌頂後依及結行儀軌品第十之三 (申四)釋灌頂分二:(酉一)解釋灌頂及後依義,(酉二)以灌頂義配道次第。初又分二:([A1]戌一)釋初瓶灌頂及後依義,([A2]戌二)釋上三灌頂及後依義。今初 ᅟᅟ==[A1] 戌【CB】,戍【補編】== ᅟᅟ==[A2] 戌【CB】,戍【補編】== 瓶灌頂中,由彼投花所中如來自性,顯現決定弟子性淨種性。師取花鬘繫弟子首,弟子與彼本尊相見,本尊即當攝受弟子,故傳花鬘灌頂。由能淨除弟子無明垢故,名水灌頂。為以如來部主印定,及為引生頂髻,故於頭上傳冠灌頂。為除煩惱等怨敵故,繫勇士飄帶,是冠灌頂之眷屬。有經說此離冠灌頂別作灌頂,復有未說繫飄帶者,意謂由冠灌頂彼事亦成。令生不異真寔,故傳金剛灌頂。主灌頂者,如《鬘論》說:「空悲無別之無上智,名為法生。表示此者,謂鈴及聲灌頂。為彼主所灌頂,故得主灌頂名。」此謂能生八萬四千法蘊,故名法生。出生無上智慧之主,即名法主,體即出生一切諸尊之金剛持。表彼宣說諸法蘊故,以鈴及聲而為灌頂。為得彼主而灌頂故,名主灌頂,即鈴灌頂之異名。由種未來能得佛名之種子故,為名灌頂。由此六種灌頂,能令弟子成何勝緣?第一令彼所化是此如來種姓。第[A3]二令順彼佛種姓,名此如來,安立堪成彼佛名之功能。第三令知彼佛部主,安立能成彼佛相之功能。第四安立成彼佛心無二智之功能。第五安立成彼佛語說八萬四千法蘊之功能。第[A4]六安立能除障碍成彼如來種姓無明之勝功能。《鬘論》此說最為善哉。 ᅟᅟ==[A3] 二【CB】,六【補編】== ᅟᅟ==[A4] 六【CB】,二【補編】== 阿闍黎灌頂中,為令弟子從今時始決定了知,為證清淨雙運菩提應精進故,授金剛三昧耶。三昧耶者,是金剛持決定應行,執持金剛不可違越。為令證悟真如,定能宣說八萬四千法蘊,故授鈴聲三昧耶。為令成辦最極堅固方便智慧大樂體性正等覺性,故授印三昧耶。印,謂天身大印,即是金剛薩埵父母。三昧耶者,謂自身為彼尊不可違越。印三昧耶能令佛身堅固,故《幕經》中唯以印三昧耶,說為正覺灌頂,以餘二三昧耶為其眷屬。如彼經第十五品說初名水灌頂,至第五名名灌頂,第六名為正覺灌頂。第四品中名灌頂後,唯說鈴杵二三昧耶,未說印三昧耶。故知正覺灌頂,即是印三昧耶。不說餘二三昧耶為灌頂,故知經意謂是彼眷屬攝。餘諸經中總說三三昧耶為阿闍黎灌頂眷屬,如前所引「智慧滿十六」等。然此非謂印三昧耶《幕經》中說是阿闍黎灌頂,餘經說為彼之眷屬。此《幕經》說阿闍黎灌頂時,曾說「瓶灌頂第七」故。故此是說《幕經》於彼印三昧耶說為正覺灌頂,餘經說為阿闍黎灌頂之眷屬,未說灌頂之名。由洗垢義立為灌頂印三昧耶,不妨立為正覺灌頂,與三昧耶為阿闍黎灌頂眷屬,不立灌頂之名,二俱無違。說此灌頂名阿闍黎灌頂與不退灌頂者,譬如十地不退菩薩,十方諸佛為授灌頂,如是此及三三昧耶,亦是諸佛與自師長,為令與諸有情說無量法成就阿闍黎故,於三界法王位而授灌頂,故名為阿闍黎灌頂,如彼不退菩薩灌頂,故名不退灌頂。非但就此同義,亦以能生殊勝不退種故,名為不退灌頂。故是得不退之灌頂及具足不退之灌頂。依上所說,故或有云:「金剛密智三,此名阿闍黎。」許金剛阿闍黎,秘密慧智三灌頂為阿闍黎灌頂者,唯是劣慧惡見之宗。 誦真言者,為令無障碍故,為令熏成息災、增益、愛敬、降伏悉地種故,為令清淨勝義真言,無二妙智悉地器故。傳眼藥者,為除無明眼翳生天眼故。鏡者,除無明後為令觀察通達,此種種法如影像,故定解諸法皆無自性如影現者,先須破除法執無明開發慧眼。故此二種能於相續立中,觀見殊勝種子,即生通達如幻妙慧,須先破除實執通達無明所執治品。授射箭者,為勝四魔,穿徹法界最細鵠的。眼葯與鏡灌頂,雖能熏成殊勝堪能,以聞思慧通達空性,但由總相通達真寔,非善透徹。為令究竟達其底裏,以箭灌頂復令熏成殊勝種子。 (戌二)釋上三灌頂及後依義 祕密灌頂,為令成為信慧之田,守護三昧耶及清淨語。成信田者,謂於密咒、密行不生邪疑,信心堅固。令成發生彼信法器之理,謂將明妃奉献師長,及嘗師長明妃等至二界,由師長與本尊力故,生殊勝樂遣除不信。如鈴師云:「住蓮花正行,希有大安樂,啟白於大師弟子滅分別。」成慧田者,《口授論》云:「由彼清淨田,通達一切法,幻等十二義。」謂由密物著口入心蓮內,成為通達幻等,諸喻所顯幻身義之法器。或成為慧智灌頂之法器。守護三昧耶者,如鈴師云:「集一切勇識,會一切天女,世俗菩提心,祕密物灌頂,彼勇識天女,大妙三昧耶,具五界妙味,當嘗彼安樂。」謂集一切勇識、勇識母體脈中精髓,由食二種世俗菩提心故,當依五甘露等食三昧耶,於前所說守護之三昧耶而得自在。五界,如《金剛鬘經》云:「五界生精華。」謂身中地界等所生精華。或如《集密後續》所說:「住空界中央,具香水及髓。」拏熱跋說髓為種子。配餘甘露,故是五種甘露。空界,拏熱跋謂師長、父母、金剛、蓮華交合空界。此中實具二界以及香水,餘者集其淨分精華。清淨語者,謂不異主尊父母之師長父母等,至所生俱生喜之密物,與請十方一切諸佛菩薩所化體性無可分別,具大力故,嘗彼能生《大印點》中所說如童女樂。如是彼樂下至舌喉等處,能淨彼彼諸處脈風,故能淨語。由舌嘗受菩提心味能淨語者,是密灌頂之力。由身領觸二界觸塵能淨意者,是第三灌頂力。如是由彼勝物因緣,加持脈風及菩提心,故成修脈風猛利等瑜伽之器。由修彼等,成自加持幻三摩地之器,故於修習彼道獲得自在。 第三灌頂,慧謂勝智,於此有故,是為外印。智謂從彼所生離分別心,清淨俱生歡喜,廣如前說。由修第三灌頂所示之俱生智,最後離一切障,周徧清淨,即第四灌頂。此等由大樂味洗淨意故,亦名灌頂。可知除彼安立功能,以及自在彼道立為灌頂,尚有其他安立之理。 為令了知般若明妃是圓滿最勝無漏樂之正方便,故初發業者,及彼等字所攝智增進位,皆不應捨,故授明妃禁行。如《金剛空行經》云:「若時無分別,方便行諸業,修無分別故,諸禁行中勝。」已具最勝禁行何用餘禁行為?為令專修五智自性菩提心行,故授金剛禁行,終不應離。若離諸行,亦不能證彼菩提心,為令學故授行禁行,此有三種,第一行者,謂於內三印中,愛樂修習。如《遍行》云:「顱杖為天身,觀小皷即慧。」「咒謂飲器顱。」天身謂身,阿那哈達或那達者,謂不可壞自性猛利之聲,領受無二大樂所依,謂世俗菩提心。為表此三,明自身為天身,及猛利火,安樂所依拘陀,是為內印,餘二易知。其表樂者,謂別釋迦跋羅,其崗字與跋羅,可作護樂解釋,第一明父,第二明慧,第三所誦真言,是為外印。第二行者,受持五種莊嚴,謂由與瑜伽母具足禁行,引發淨法界等五智。第三行者,若得四種視法神通等力,為欲饒益諸有情故,離世間行諸瑜伽師或瑜伽母,由修一切內莊嚴力,出生悲空無別大菩提心。 授記,謂授記稱讚云:「汝能通達三界無分別之法性。」此是授記時之咒義。故應釋彼咒義,補謂具足風輪等眷屬之地下,補嚩即是地上世間,娑謂天趣乃至有頂,彼三皆是汝(所通達)故云。當三地自性之真寔三昧耶,謂極喜等漸次能證。此即「三昧耶當補補嚩娑」之義。《金剛幕》第四云:「嗡我今授汝記,脫三有惡趣,金剛心如來,善成諸有故。從今以往,汝於地下地上超地,成為某甲金剛如來。」最後句即達塔伽達悉地之義,《釋論》釋第四句謂得無住涅槃故,第三句謂所記之可事。 隨許,謂如儀軌修成就已,當說法等利益有情。 慶慰,謂汝受用欲塵亦能成佛。由入壇灌頂等,增長堪成佛之功能,慶慰弟子,令知彼義。 (酉二)以灌頂義配道次等 若善了知四灌頂體,及傳授彼於修何道能得自在,并成彼果之理,則於經中廣讚灌頂,能獲信解,即以灌頂而為最勝教授。若具此解,即奠咒道之基,成就之本,開啟甚深二次第門,能於灌頂珍重,授受皆極清淨。傳第四灌頂者,師告弟子作如是言,汝今此身修為報身父母結合等至行相,於真寔義引發等至俱生妙智。然僅勝解身為天身,非實成佛。汝心安住諸法真寔,亦僅須臾勝解作意,由總相門而為通達,非於真寔如水注水,心無分別,及能常住。然如是修是等流因。若具方便支分修習究竟,非但勝解,其身寔成佛之色身,心與真寔亦無分別常時安住,此即名為咒所成果。七支具足,亦名第四灌頂。是為曉示雙運已廣說訖。 此中所明果位雙運,是無上部不共所成。即是道位修自身,為欲天父母行相,由收放二種菩提心,修俱生樂為道之力。此果親因,須離身為天身,心與勝義不能合為一味,及心能時身不能住天身之失,而能二者同時俱轉。此即安樂為道勝方便之有學雙運。爾時自身雖未寔成佛身,然異初次第及幻身以下,須別修一殊勝天身。《集密經》中詳說,恐繁不錄。有學位中二諦雙運,須先別生世俗幻身與勝義光明三摩地。以無單者,則無雙故。此二漸次,世俗於前,光明於後,現證心與光明一味三摩地後,次即能發雙運故。修習此道須傳第三灌頂,以彼表詮光明。第三灌頂雖依二印隨一而生,然依二印引生四喜,不必先得第三灌頂,唯得瓶灌頂者,堅固修習生起次第,亦得生故。初次第時,說與智印等,至引生四喜有多種故。龍智菩薩於生起次第初加行時,俱說真寔修成二明妃故。《明炬論》中亦說生起次第有三行故。若修生起次第得堅固者,依止智印不能引生四喜,則彼無間傳受四種灌頂補特伽羅,先未曾修諸天瑜伽,依止智印而傳第三灌頂,應有不能生四喜失,許依智印而得第三灌頂,則成矛盾。如是修習祕密灌頂道時,亦依明妃生四安樂,以密灌頂成為幻身教授之器,如前已成。幻身之前,須生起心遠離三空之智。彼等諸智亦說依止明妃乃得生故。如《五次第論》云:「一切幻事中,女幻最殊勝,三智之差別,此中明表示。」若謂既云三智,故是不發俱生喜者,如前所說,全未修習生起圓滿道者,傳第三灌頂時,尚生四喜,而說生起次第已達究竟,由語遠離於風得自在者,依止明妃不生四喜,寔為可笑。以是此中觀察四喜生或不生,係指如彼第三灌頂時所生者,是菩提心至摩尼中未外出時,俱生歡喜。豈有如此俱生,心遠離時,而反不生。彼論說三智者,意謂即彼三智究竟清淨,滅盡微細二取,智與真寔同成一味之勝義智,是為俱生,爾時無彼智生,故未宣說一切空光明智。故於初灌頂時四喜,瓶灌頂道生起次第時之四喜,密灌頂道風及猛利等時所生四喜,第三灌頂道光明時所生四喜,第四灌頂道有學雙運時所生四喜(或名四空),應善分別。如是唯修由風瑜伽以及猛利然注之力,溶化諸界,令菩提心住摩尼中不出外時生俱生喜,不須定傳第三灌頂。如修瓶灌頂道第一次第,及於密灌頂道修脈息等瑜伽,不安立為瓶密灌頂。如是修習如彼第三灌頂所生俱生,亦不立為第三灌頂。所說得此灌頂,能於此道得自在者,意謂得彼灌頂無間,於彼諸道聞思而得自在,非說得彼灌頂無間,即可修彼諸道。如得時輪灌頂無間,不能即修三摩地支,具得《集密》灌頂無間,未能即修雙運轉道。然至能修彼時而修,亦無修彼不得自在之過。 如是發起勝義光明圓滿次[A5]第,須先發起如幻之世俗幻身三摩地。此復由修風猛利等瑜伽令風與菩提心堪能調柔,引發四喜智德,故須先修秘密灌頂諸道。所言幻身,非謂由達一切諸法皆無自性,後見所現皆如幻化。是由現證三空智力,行者自身轉成幻身。此如集密應知。一切脈息及菩提心上行下注等諸瑜伽,非謂皆是密灌頂道,以修光明以上亦須多修彼等,故是最初調柔彼等之諸瑜伽。 ᅟᅟ==[A5] 第【CB】,弟【補編】== 發起如是圓滿次第殊勝智德,先須以瓶灌頂第一次第成熟相續,故由瓶灌頂道,成為生起次第法器。 說瓶灌頂成就化身,秘密灌頂成就報身,慧智灌頂成就法身。此中所說報身,雖可作幻身解,然依密乘通義,多指佛語。如是化身謂佛色身,其等流因,謂由修習生起次第及彼所表圓滿次第,天瑜伽等所成。法身,謂常住真寔之佛意。其等流因,謂由修真寔義俱生智之所成。如來語(報身)者,謂由修習密灌頂道,於彼語根本風獲得自在所成。故說彼三灌頂能成就身語意三種金剛。如是身語意三不可分離,即是第四灌頂。此復由前二道成道位之第四灌頂,由修有學雙運,成就無學身語意三不可分離。是故四灌頂中能攝一切二次第道。 入曼陀羅,預備等時,亦說歸依發心,受二大乘共不共戒,及諸學處。故若善能觀擇灌頂諸法,即了一切咒道宗要。若善了知二種次第漸次,以及雙須二者之義,能滅眾多妄計。受持瑜伽自在毘囀跋教授之藏地智者,說一切咒道宗要,皆在灌頂中求。誠為善說。 (申五)釋後法理灌頂開合 金剛禁行乃至慶慰五法,有謂若唯受明灌頂便滿足者,或唯受阿闍黎灌頂以下而滿足者,即於彼後傳授。毳衣大師唯除行儀禁行,亦說餘四可如是傳。若未傳阿闍黎灌頂,而教說法利生隨許,云何應理。無失《大日經》中唯傳水灌頂後,亦說有說法隨許故。雖不可說無上部經,事行部經已可說故。故若作彼兩部阿闍黎者,可於傳受五明灌頂之後而作隨許,不須更得阿闍黎灌頂也。咒灌頂至射箭等四,明灌頂後亦可傳授。眼藥與鏡,《大日經》於水灌頂後說故。其咒灌頂,鈴論師等多於五明灌頂之後說故,弓箭亦可如是行故。 明灌頂之後依,如《寂靜》論師云:「傳明灌頂,决定得共菩提,非得正等菩提。為令久後定得正等菩提,故於明灌頂後可傳少許禁行,不傳授記慶慰,以此二屬不退地故。」此說彼後不作授記慶慰,唯傳金剛禁行之理。然於少數殊勝所化亦說可傳,如云:「有時傳受明灌頂後,觀器殊勝,亦可授與禁行授記,及以慶慰。」意謂令彼憶念我得授記及以慶慰,由此增上勝解力故,久後決定得大菩提,義與授禁行同。又有經說第三灌頂亦傳明妃禁行;有經未說咒等四事及行禁行;諸總隨許,三三昧耶,具善根等,意謂如彼諸義隨應攝入餘灌頂中。具善根者謂慶慰或授記。云何攝者觀察即知。 有經論說隨許慶慰,不退灌頂中攝。《鬘論》說彼一切皆異。《幕經》第十五云:「初謂水灌頂,第二冠灌頂,杵灌頂第三,第四謂自主,第五名灌頂,六謂正等覺,瓶灌頂第七,第八密灌頂,第九謂慧智,以金剛加行,授金剛禁行,佛為自授記,是灌頂次第。」此中未說花鬘灌頂,以是水灌頂等之因。傳授咒等,如其所應有時說為阿闍黎灌頂之眷屬,有時說是第四灌頂眷屬,有時說是餘灌頂之眷屬,如餘經說應當了知。天種慧論師說第六灌頂為鬘灌頂,以花鬘及咒灌頂等,於四灌頂隨一所攝。《集密後續》故作此說:「三灌頂各異,此經所觀察,瓶灌頂第一,第二密灌頂,第三慧智定,其第四亦爾。」《結合經》云:「灌頂有四種,初謂瓶灌頂,密灌頂第二,第三謂智慧,第四亦如是。」二《觀察》中說四灌頂,以阿闍黎灌頂而為第一,於中分水冠杵主名及阿闍黎之六。一切皆名瓶灌頂者,以諸如來及佛眼等明妃執瓶而灌頂故。 若彼皆是瓶灌頂者,云何又說瓶灌頂為第七,為欲顯阿闍黎灌頂較諸水灌頂等最為超勝,故說瓶灌頂為第七,非說水灌頂等非瓶灌頂。「以金剛加行」釋中未解,察其含義雖可釋為第四灌頂,然有具聲(即三囀聲)應連下文,蓋即金剛禁行別名。四灌頂中若以阿闍黎灌頂為第一,則攝水灌頂等入於阿闍黎灌頂中,意謂彼是阿闍黎灌頂之因故。故或攝為瓶灌頂等四種灌頂,或離瓶灌頂與阿闍黎灌頂而別說水灌頂等,皆不相違。又說十四灌頂各配一地,是於瓶灌頂中開為十一,亦無四灌頂中不攝之過。《大印空點經》云:「四灌頂次第,由果說三種,初謂師灌頂,第二密灌頂,三慧智灌頂,第四亦如是。師灌頂十一,密灌頂十二,慧智為十三,如是為十四,每灌頂一地,是諸地自在。」此經說瓶灌頂分為十一,每一灌頂別配一地。《金剛鬘經》亦同此說。復云:「三為因灌頂,第四果應知。」十一種者,鈴論師云:「由師業差別,說四種灌頂,水灌頂等別,四開為十四。」此中最初說水灌頂,故知不數花鬘,從水灌頂開為十一。彼師明說五明灌頂與咒灌頂,不退灌頂正行等七。餘四當是授記慶慰二合為一,金剛禁行、行儀禁行、及隨許法別說為三,莫如《律生》別說禁行、授記、慶慰、隨許等四為瓶灌頂。若如彼者,唯說五明灌頂,與說彼四以及不退灌頂為瓶灌頂。無咒灌頂,僅有十故。若不爾者,則鈴論師《灌頂儀軌》應未別說十一種瓶灌頂,彼離授記未說餘慶慰故。故是略攝慶慰,略不礙廣,廣開亦可。 (未二)依止餘曼陀羅灌頂斷疑 於彩繪曼陀羅灌頂如是,若於餘曼陀羅灌頂為同彼不?語自在稱、無畏論師、羅[A6]睺羅、吉祥友及常住金剛等,合說布繪彩繪曼陀羅灌頂法,故依布繪灌頂,當如前說。 ᅟᅟ==[A6] 睺【CB】,喉【補編】== 所繪之曼陀羅,亦由意修曼陀羅法,成可灌頂之曼陀羅,故唯意修,最為第一。以是灌頂開光及護摩等,此論師許皆可意修,如《鬘論》云:「此繪儀軌,亦由意修儀軌方能有果。故唯意曼陀羅儀軌,最為第一。是故以曼陀羅主身,攝受地等,像等開光,弟子灌頂,送諸聖眾,以至息災、護摩皆應意作。」何時方可依靜慮曼陀羅傳灌頂等,即彼論云:「若時無有資財,不能俱辦此等一切,或非道理,或無可得,爾時應修。雖有外物,亦唯靜慮為主。」不能成辦繪曼陀羅等資財者,《時輪經》於徧捨弟子作如是說。非道理者,意謂縱有資具,然於是處繪曼陀羅有大遮難。無可得者,意謂非但現無資財,後時求亦不得,或是離此資財無可得處,餘處莫能獲得灌頂。若可依於意曼陀羅,何用更繪曼陀羅為。若有資財可繪壇者必須繪壇,以於此事供捨資財增長無邊諸資粮故,即前論云:「然世間見,信樂施等,為增福故,許外儀軌。」榜師譯為:「世間見及信施等。」又可依靜慮曼陀羅更有餘證,即前論云:「諸先師說若無資財可依,唯修成辦一切儀軌。」是故初發業者,由心堅固,可於意變曼陀羅中,如前開光,弟子灌頂。又如《佛頂經》云:「慧蓮華中壇,億踰繕那量,於三層壇中,傳弟子灌頂。」又云:「唯由意於彼,佛許為壇場。」引此文證,謂若非由靜慮,不能成立十萬踰繕那等。「初發業者,由心堅固。」謂須殊勝本尊瑜伽。龍智亦說弟子灌頂共有八曼陀羅,第八即是意曼陀羅,前七是就彩繪曼陀羅之質料而分。 身曼陀羅灌頂,鈴師論中除注誓水,及降智尊,開示壇場三法,未說餘入曼陀羅法,然亦應作。以鈴論師灌頂儀軌,多依釋續《金剛鬘》故,此經通說身曼陀羅及彩繪曼陀羅灌頂,於入壇時,亦唯說彼三法。以是身曼陀羅,若許棄捨餘入曼陀羅法,彩繪應同。彼既不爾,此云何然。彼經於行禁行後云:「次將經螺等,弓箭與劒輪,如前咒清淨,漸授弟子手。」故亦可傳此等。授記慶慰,彼亦合說。總之鈴師身曼陀羅灌頂,顯依釋續《金剛鬘經》。故應順彼經義而釋。 (午二)犯三昧耶還淨法 如是獲得一度清淨灌頂及三昧耶律儀,然由無知、煩惱熾盛、放逸不敬、犯戒四緣而有毀犯。除根本罪,餘罪可往有咒戒者之前,以出罪法而出其罪。犯根本罪壞三昧耶,須以灌頂還淨,應從師長重受灌頂。若無可重受處,則可如阿闍黎入壇儀軌,自入曼陀羅受諸灌頂,及三昧耶律儀而為還淨。如《鬘論》云:「若自犯三昧耶,此諸灌頂如阿闍黎入壇受法,應如是受。然是師長在極遠處,或道難行有諸危害不可往處,非在餘處。」如《憍薩羅莊嚴論》云:「弟子入時,師長應先自作入壇儀軌。何者有由忘念越三昧耶?故阿闍黎應先自入。」此說為他灌頂,亦須先自入壇,淨三昧耶。是故若無殊勝阿闍黎處可受,若自己善承事,了知清淨儀軌,可修自入壇法。除正行時,所有受戒清淨儀軌,及餘唯預備時有者,阿闍黎於自入壇時須善修行,並於爾時傳授弟子,如前已說。律儀還淨灌頂之前,應如何行,如《鬘論》云:「若犯毀訾師長等罪,隨力所能先設歡會而行供養,次於師前先正懺悔,如前受戒。」謂應先於師長,三昧耶友,作大施會多修懺悔,次乃受戒。黑三昧耶金剛、《札拏經》釋亦云:「於師長及金剛兄弟,轉資粮輪,說犯某罪而行懺悔。」《根本罪大疏》等說唯除第一根本罪出諸餘罪方便不待灌頂,不可憑信,以《時輪經》,寂靜論師、《札拏經釋》、《律生疏》、《鬘論》等多說隨犯何根本罪,皆須重受灌頂而淨治故。《札拏經》第十七亦云:「若由放逸故,違師三昧耶,彼當繪壇場,對佛而悔罪。」繪曼陀羅,正為灌頂。黑行論師別分師長與三昧耶,三昧耶者,謂佛語等,說違彼等為罪。如是灌頂還淨,務須至心悔前防後。若無彼心,以為先犯後受無過失者,決定不可。如《時輪大疏》云:「言犯根本罪為還淨故,仍入此曼陀羅者,謂若爾時住七灌頂,或瓶灌頂,或密灌頂,犯根本罪。爾時為淨罪故,繪此曼陀羅已,為不更犯故當重入。言次得隨許仍在眾會者,謂住於種性中。言前名為長今成幼小者,謂令謹防不復犯故。言如來決定者,謂諸弟子決定應如是行。」此於防後不復造心,殷重教悔。犯戒後還淨者,較前學位須降下座。答日迦跋《時輪灌頂品釋》有云:「此說誓不復犯,非無防後心者,如人中毒,醫為除故,令服藥已,仍服其毒。」此等廣如《根本戒釋》中說。 恆修自入壇法,如《鬘論》云:「常修行者,可以智慧方便一味本尊加行,修靜慮曼陀羅,從曼陀羅自在,受水灌頂,乃入秘密、慧智、第四究竟、慶慰究竟。」此謂不能常依彩繪及畫像者,可於靜慮曼陀羅中,受諸灌頂。 (午三)曼陀羅後法 次為息滅增減儀軌過故,應作息災護摩。為滿足諸天故。應作增益護摩。此如不能寔作,亦可意修,如前已說。《光穗論》云:「或彼一切護摩皆以意修。」 先自供曼陀羅,次教弟子隨力所能供如來等,而行供養。諸入壇者,亦以嚼噉飲食等物,供曼陀羅令皆飽滿。通夜不臥,與弟子眾作歌舞等,及菩提心正供養已。告云:「汝等入壇者,不應為他說。」次如論云:「應受弟子供,彼皆當敬献,珍寶可愛妻,自身及田地,總以如是事,令師長歡喜,師喜得悉地,佛說非從餘,由供金剛心,作者無上師,何福不能辦,何難行未成。」此中令師歡喜,是最勝因,諸梵論中多有宣說。所施福田亦最無上,《集心論》云:「佛等諸福田,行施有差別,二千首陀種同一婆羅門,二千婆羅門,等同一苾芻,二千諸苾芻,同一離塵垢,二千離塵垢,同一具智者,二千具智者,等一阿闍黎,如是供養田,智者恆供養,瑜伽根本法,如種植良田。」毳衣大師、黑行論師亦如是說。 次安置諸弟子,自往室外,施諸護方神食及供養等。回入室內禮曼陀羅,供主尊閼伽等,回向善根。其次繞曼陀羅三匝,坐壇東門面向本尊,為息增減之過,誦百字三遍。 次手握花合掌當心,為息不全等過,請容恕云:「由我心愚蒙,所作多過罪,為救眾生故,依怙皆忍恕。由未得無知,或由無能力,此中所犯罪,主尊皆容恕。」所求之事,由請白得成就。次復誦云:「嗡,尊利益眾生,隨順賜悉地,今往佛境已,仍請時降臨。」又誦:「嗡啊吽班[嗈-邑+夕]穆,奉送智曼陀羅。」攝智所現三昧耶曼陀羅入自身中。言佛境者,慶喜藏說義通利益有情,及以法界。 次誦:「嗡阿迦熱穆康,薩嚩達摩南,阿得奴奔那朵答,嗡啊吽泮娑訶,嗡啊吽穆。」勝解一切法皆無生,左手振鈴,右手持杵,從東門起,順梵線路,拂拭至主尊處。略取少土置自頂上,次拂拭蓮花等,次以杵端,毀拭諸門諸角。諸師長先收諸尊相,次乃用杵毀拭一切。次誦四吽真言:「嗡班[嗈-邑+夕]格羅,鄔答格羅耶,薩嚩格羅那,班[嗈-邑+夕]答惹阿若跋耶吽吽吽吽泮訶。」拔出諸橛。此處不同他經以「松跋尼」為四吽咒。次誦:「嗡茹茹薩樸茹,左拉底叉,悉達羅[嗈-邑+夕]內,薩嚩阿塔薩答尼娑訶。」加持牛乳一百八遍,洗滌諸橛。誦彼真言而洗滌者,《集密》說由彼咒死者能活,義謂悉令諸碍復活。奉送橛上諸尊,若橛釘地,應填孔穴。若有為治疾病等故,而乞彩土可給少許。諸餘彩土置尊勝瓶或餘新瓶,用衣莊嚴,安置象上或車轝上。又用施主衣莊嚴瑜伽母,以手扶持。若阿闍黎或令弟子,乘車振鈴,唱吉祥歌,奏諸妙樂,具足傘蓋幢幡諸供養具,持至河岸或大海岸,或深水邊,於彼牛糞塗地,白香作曼陀羅。蓮華中央修金剛薩埵或本尊。於諸葉上四方從東方起,四隅從自在起,右旋依,次想由自心種子放光,鈎召無邊、蓮花、安立、財盛、大蓮、螺護、迦廓札、種性等諸龍,安立彼處。次誦:「嗡啊阿難陀雅吽娑訶,嗡啊北摩雅吽娑訶,嗡啊達卡迦雅吽娑訶,嗡啊跋蘇格耶吽娑訶,嗡啊摩訶北摩耶吽娑訶,嗡啊香喀跋羅耶吽娑訶,嗡啊迦廓札耶吽娑訶,嗡啊姑利耶吽娑訶。」以此諸咒而供白花。次以左手作蛇頭狀,伸展右手念誦:「嗡阿難陀跋蘇格,達卡迦,迦廓札迦,北摩,摩訶北摩,香喀跋拉,姑利迦跋拉,得嚩底,摩訶得嚩底,娑摩希克,摩訶娑摩希克,敦札答惹,摩訶敦札答惹,阿跋羅羅吽盧札難陀,鄔波難陀,薩迦惹,摩訶薩迦惹,禱達,摩訶禱達,希根底,摩訶根底,惹那根底,蘇茹跋,摩訶蘇茹跋,跋札希迦摩賀答惹,希利摩訶希利,嗡跋卡跋卡,阿伽剎,阿伽剎,摩訶那伽,阿底跋底,薩嚩布希嚩,明明娑訶。」以此真言施食供養。次將加持彩土付授諸龍,注入水中,想彼諸龍以大供事迎往地下。若於餘食施龍食者,中央想跋茹惹,餘處如前,即可施食。以裝彩土之瓶,滿注淨水持回,為息災故,遍洒曼陀羅室。次於牛糞所塗曼陀羅室,與諸童女共作乳糜歡會。如云:「次由阿闍黎,普集諸財物,唯應自受用,弟子勿少用,奠基及善住,護摩壇輪財,彼唯屬師長,勝金剛持說。」奠基《四百五十頌》等譯為「滿穴」,必是灌頂一分儀軌之名,意謂灌頂所得資具。《總續》亦說:「一切曼陀羅中資具,唯屬師長,弟子若分壞三昧耶,若師不欲,則傘蓋拂鈴等當供養佛,座及燒香塗香等物當供養法,衣與鉢等供養僧伽,若無僧伽,可施苾芻苾芻尼或鄔波索迦。」又云:「諸嚼噉飲食,隨意施貧人,惟於狗烏等,不應施少物。」於阿闍黎及諸門阿闍黎事業金剛,諸瑜伽母,隨力所能,奉施諸藥,淨牙物等,令生歡喜。作僧歡會及資粮輪。毳衣大師等說未送聖前供資粮輪。此等任何時作皆可,亦於貧苦皆令飽滿。 從後依法至後結法,嗢柁南曰: 三禁行授記  隨許慶慰六  護摩供受施  施食供旋繞 忍送收所化  收彩土拔橛  送彩瓶水淨  資粮輪歡會 眾多密教,數數稱讚如是灌頂,為修諸道與修二種悉地之本,最為重要。故依無畏生護大阿闍黎、《金剛鬘論》為本,隨順諸淨經論,一切大小儀軌觀想次第,皆廣宣說。嗢柁南曰: 由瓶灌頂恒河流  洗除身垢庸現執  由嘗密智甘露味  語處風動現真言 第三俱生歡喜鈎  鈎導意夫入勝義  第四曉示雙運義  直達究竟斷眾疑 除斯勝解四灌頂  當說更無勝教授  將自所知詠為歌  供養師長及妙音 或謂灌頂諸次第  唯是修道前加行  棄本逐末意冥闇  為除彼過如是說 明須二種次第雙運修大菩提品第十一之一 (巳二)為天灌頂善住儀軌 (子二)灌頂支分儀軌次第 此二科中,飽滿諸天修妙悉地之方便謂護摩,毀犯還足令空行母歡喜之方便謂資粮輪,受持不失行儀之三昧耶支謂金剛鈴杵、大小油杓、六莊嚴具、手皷顱鉢、喀敞迦等依量而作。如是作[A7]已守持,皆是咒行清淨方便,極為重要。恐繁且止,別如餘處應知。 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,己【補編】== 總攝一切教義為一補特伽羅成佛支時,為令知彼何處攝故,令此道次第中已以略義攝彼等竟。 (辛二)淨三昧耶律儀 [A8]已得灌頂補特伽羅,當先修習何等?先應如灌頂時所受律儀及三昧耶精勤守護,更善修習曼陀羅輪等二次第教授,乃得悉地。若不守護律儀,縱復勤修多劫,亦無成就。如《律生》云:「若如所教示,勤行三昧耶,由成法器流,修輪等漸次,圓滿正教授,乃成就非餘。」《平等結合經》云:「未入曼陀羅,及捨三昧耶,不知密真實,雖修不成就。」《金剛頂經》亦云:「假使經百劫,精進勤修習,世有四種人,雖修不成就,未發菩提心,具足猶豫念,不如教正行,無信不成就。」此復灌頂成就法器未久,即應教諸學處。《師長五十論》云:「次授真言等,成為正法器,十四根本罪,應讀誦受持。」《律生經》云:「若求上成就,寧捨於命根,縱至於死歿,當護三昧耶。」《幻網》第二品云:「次說三昧耶,告子汝今後,縱至命及骨,不應毀正法,菩提心師長,承事金剛兄,汝終莫離欲,勿慈愍惡人。」如說寧捨身命,當護律儀及三昧耶,應如是行。尤以犯根本罪,損壞身心功德難生,故當勇猛策勵莫為彼染。亦應勵力不犯餘罪,設有毀犯應當懺悔,防護如法出罪。若得圓滿灌頂,勵力守護諸三昧耶,未為罪染。雖未深修諸道,七生以內亦能獲得上品成就。若不守護學處及三昧耶,雖復勤修餘法,終墮惡趣。善趣尚不可得,況悉地乎。薩惹哈於《佛頂經疏》引《神密庫經》云:「若正授灌頂,生生得灌頂,由此七生中,不修亦成就。若具足修習,住三昧耶戒,業故今不成,後必得悉地。若犯三昧耶,人生且難得,況云得悉地。」又三昧耶第五亦云:「若未犯諸罪,十六生必成。」解說月師亦云:「無罪縱未修,十六生必成。」 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== 此上所說,凡阿闍黎開講經論教授為他灌頂,與諸弟子聽經教授,俱應修學。雖或未作彼事,凡是得灌頂者,皆不應違。以是現修上悉地等上中下品三類補特伽羅,共所行故。經論數數宣說師長即是悉地根本。依此,昔諸先覺說修師長瑜伽,是為修道初門。廣說第一根本罪類,攝入《師長五十頌論》三昧耶中,此即諸學處中最重要者。故若了知諸咒學處是勝教授,則如是等一分修持,道前行者,悉皆攝入護三昧耶及律儀中。是故智者,當知二次第之前行,即是灌頂護三昧耶。名稱幢師說此義云:「未經成熟信密乘,縱修深法感惡趣,佛說不得餘上果,故當依師受灌頂。灌頂而求深教授,縱於世間遍尋求,主要教授三昧耶,無此便同頹廢屋。若善成熟護誓願,二次深教縱未修,十六生中必成就,眾生親友利者說。我雖寡聞無慧眼,由見淨教最善說,當受灌頂護誓願,恭敬合掌普勸請。」此是了知續部宗要之言,我今亦當如是勸請。令知如是學處是師長事,若不教示師長犯罪,教而不行是弟子過。此於《師長五十頌釋》以及《根本罪》中《三昧耶品》已廣宣說,如彼應知。總於一切學處,諸於根本三昧耶中,唯師長三昧耶最為重要,應善了知,隨力所能策勵防護。以請師長及勇識瑜伽母作證,守護所受律儀,不可少故。 (辛三)住彼如何修道分二:(壬一)聞思了知其道,(壬二)修習所知之義。今初 如是[A9]已得灌頂,如理護律及三昧耶,次修何事?《解七莊嚴論》云:「先應由聞慧,聞知於文續,次乃以思慧,學文義相屬。」謂若自修及教他等,皆須先以聞思求無謬解,自若未知不能教他及自不知無可修故,隨自所知而如是修,知若謬誤修亦錯失,修無錯失,必須正知無倒謬故。《歡喜金剛》釋《難珠鬘論》云:「無慧而無聞,無聞亦無思,離二無瑜伽離行無悉地。」又《五次第》釋《難顯義論》云:「聞圓滿生慧,思惟亦如是,具二善修習,成無上悉地。智者思擇[A10]已,先勤求聞義,恒常精進者,悉地在其手,若於文猶豫,焉能達其義。」又《五次第論》云:「若敬信師長,恆勤修承事,能受持所聞,是為勝弟子。」此說弟子德相為持所聞。《平等》、《結合》亦云:「不知密真實,雖修不成就。」若是具足大慧大精進等,可學續部。不爾,應學隨一智者所造密論。最低限度定須聞思具顯,生起圓滿宗要之論。若作金剛阿闍黎者,開示他人咒教授等,尤須於彼二種次第與曼陀羅儀軌應得善巧。若視諸大經論,唯是依據斷外增益,更執別有甚深教授,為彼所未說者,是於諸法究竟全無愛護,及是於大咒典發生恭敬並彼現為教授之障,是令密教速滅最大因緣。當依師長教授,於諸經論現為教授方便,勵力修學。如《五次第論》云:「《勝集密經》中印封此諸義,當隨釋續行,從師語了知。」此說究竟教授五次第之真實,佛於《集密》根本教中,以印封護,須從師語乃能了知。此說究竟深處謂諸續部根本教典,了知彼教須依師長。師長非可隨意而說,須先了知隨諸釋續,解根本續。故教授者,即是隨行釋續無倒宣說根本教義,易令弟子相續,發生了解之勝方便。從師語知,準是應知。非謂經中隱而未說,唯從耳根次第相傳。故凡最勝教授,須於彼義久修習已,次觀續部定量教典,於多教義能與定解。若持教授觀察教義,全不能與定解,則是慧劣或義有失。隨於顯密何宗,皆須先以聞思了知所修,次乃修習所決擇義。如彼乘馬,先示所行之地。現時至心欲修行者,於學諸大咒典視為可笑,彼於續部學與未學,二者修行全無差別。諸有樂求真解脫者,於是等處應審觀察。 ᅟᅟ==[A9] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A10] 已【CB】,己【補編】== 密宗道次第廣論卷十五終 密宗道次第廣論卷十六 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明須二種次第雙運修大菩提品第十一之二 (壬二)修習所知之義分四:(癸一)破離二次第之妄說,(癸二)不離二次第之修法,(癸三)增進二次第之方便,(癸四)彼等為三士道之理。初又分二:(子一)破離圓滿次第說唯生起次第成佛,(子二)破離生起次第說唯圓滿次第成佛。初又分二:(丑一)述宗,(丑二)破執。今初 如《心莊嚴論》云:「毘穴彌多羅仙、童軍持明大阿闍黎,勝足論師與寶論師、賢友婆羅門等,說修諸法自性清淨,但為破除分別,佛果係由福德所成,以生起次第道,斷庸常事,以妙色身饒益有情成正等覺,故應無倒修行天相勝行。」此是妙吉祥稱論師敘述外計。彼等意謂饒益有情是大乘人所欲作事,能作此者乃妙色身,得色身時即成正覺。故當無倒修習諸天瑜伽與三昧耶律儀諸行,以修生起次第,能斷凡身,而成相好身故。經說應修諸法自性清淨之空慧者,是於真實義中為破邪執分別而修,非成佛因,佛是福德資所成果故。以是若得無倒空見,於真實義能斷顛倒邪執,即於實義無所迷亂。若有彼見與天瑜伽以及諸行,是則方便智慧二不分離定能成佛。彼等雖許生清淨見,然不許修彼見倍復增長,意謂《中觀論》等決擇空性,是為破除內外道之邪執,若得無謬正見,彼執即遣,更無餘執可遣,何庸更修空性,所依教證即前所引《金剛幕經》之文,意謂破斥空見為成佛之方便,佛說空教唯為遣除顛倒分別。若修壇輪諸天瑜伽,速得成佛,故當以此方便而修。彼等非是未習續部,諸續部中亦多說脈息等瑜伽,修或不修雖未明說,意謂彼等攝入行中。 (丑二)破執 此等不須令其更修諸餘咒道,即彼所修空性當令倍復增長。親能饒益有情之佛誠是色身而非法身,色身實由福德所成。然若未得法身即亦不得色身,以是法身亦應證得。汝若修習福德資糧,何故不修智慧資糧?理無別故,若謂亦修智慧資糧,以有通達無我真實見故。此不應理,以汝不許修無我見倍復增長,唯具正見不能圓滿成佛之智慧資糧故。若不爾者,則應生起次第,已得了解能依所依曼陀羅義,不須更修即能圓滿福德資糧。若謂修習正見為於實義遣除邪執,獲得無謬見者,即彼相續更無於真實義顛倒妄執邪分別故。此是未辨分別俱生邪執之別。若時正量所引真實義見作用未失,爾時雖無宗派所計虛妄分別。然無始來,不待宗派所轉俱生我執猶未遣除,若不爾者,則得真實正見無間,一切見修所斷皆應頓斷,生起次第亦應不勞修矣。以是非唯了解無我即可斷彼諸障,須於見所決擇真無我義數修現證。應知《中觀論》等決擇無我義時,破內外道,非唯破除宗派邪執。障解脫者是俱生我執故。若唯宗派妄計而為障碍,則諸未為宗派轉者應無解脫之障。然若欲破俱生我執之境,必須破斥妄計實有諸宗,以彼成立實有性故。故《中論》等破內外道計實有者,是破俱生我執境之支分。彼論決擇之無我義,亦是破除俱生我執所顯。僅得彼見雖不能遣俱生我執,若更修習則能遣故。 (子二)破離生起次第說唯圓滿次第成佛分二:(丑一)述宗,(丑二)破執。今初 《心莊嚴論》又云:「又空慧婆羅門、迦濕彌羅光明論師、慶喜金剛、悉曇迦惹居士,吉祥獅子論師,光明金剛,大乘祥苾芻,善施賢、青裙大師、勝足論師、寶論師、賢友波羅門、歡喜苾芻尼等,說修生起次第及諸行等,是為破除斷見,及明以緣起因成緣起果,並為方便攝受世間怖畏甚深義者而說。正等覺者是無二智不可思議,非從不順因生。此中空性不可見相,不可思議斷諸戲論,諸瑜伽師由自意樂說於世間具殊勝果。」此出他宗。勝足等三前派已說而今復說,疑書有誤,應更考察。彼等棄捨生起次第及諸行品,說欲成佛唯應修習圓滿次第。由何所見而作是說。實無正理,僅依相似道理及昧經意,唯依於文而作彼說。所依理者,彼謂所得正覺,是無分別無二妙智,故得彼之方便,理亦唯應修無分別。由修生起次第行等有分別事,不得彼果,以有分別是所斷故,修有分別唯生隨順分別果故。若爾佛說生起次第及諸行品應不中理。彼答宣說彼法所為之機,盖是怖畏甚深空義世間有情,此為方便暫攝受彼眾生而說。又此宣說諸行,為除毀謗染淨因果之斷見故。宣說生起次第為顯由天瑜伽、誦咒、護摩、及藥物等緣起,成就息災等法,劍丸等悉地諸緣起果故。一切垢染對治,是證空性離諸戲論。諸瑜伽師唯由修此修至究竟,得殊勝果。是故唯應修此,何勞修餘法為。所依教者,如《金剛空行》〈第五十品〉云:「如世諸仙人,造諸聲明論,自心所動轉,士夫假造事,唯隨相續轉,策勵而生苦,是故勤勵行,壇等事儀軌,遠離於解脫,士夫唯煩惱。」《結合第二觀察》〈第四品〉云:「能引共悉地,修及三昧耶,身像并慢心,咒印復何為,由本尊加行,即能証所證佛果最究竟,三地如虛空。」前經破生次第,如《律生釋》所引。又修生起次第,且不能成正三摩地,况能成佛?以此由多分別擾亂身心,三摩地是心一境故。雖多修習稍可明顯,如多貪者愛女之相,是一剎那非能長久。假立瑜伽,較諸世間假法尤為虛幻,如修骨鎖。故錯亂想於勝成就全無所益。此是寶鎧述敵方意。此有二派,一謂修勝成就,全不須修生起次第。一謂利根不須,鈍根須修。 (丑二)破執分二:(寅一)正破,(寅二)斷諍。今初 通達真實離戲論慧,雖是成佛無二智之親因,然唯修彼,任經幾久終不能至最極究竟:以離方便支故。譬如種子雖是苗芽親因,若離水肥等緣終不生苗。以是通達空性之慧能到究竟要待方便,方便能到究竟要待空慧,此是大乘共軌,尤於密咒大乘二身之因,要修空性與天瑜伽二相之道,前已數說。 又修分別若定不能入無分別,則修分別,所修之境,應定不能明顯。以彼境相明顯與緣彼境為有分別,二相違故。正理王(法稱論師)云:「分別所隨逐,則義非明顯。」以是若極明顯不雜時處,不能成立為離分別,則諸外道許諸根識為有分別,應不能遮。若修分別不能明顯,則多貪者數數作意可貪境界,應不能見彼相明顯而起捉觸等事,及於鬼等極恐怖者數數作意,彼亦不應顯見彼相。正理王云:「不淨遍處等,非實而修習,說修力如化,無分別明顯。」論謂經作是說,則應誹謗如來經典。又對不許有解脫之外道,成立可有瑜伽現量因之同喻,外道尚不否認而今否認,則對外道成立有聖者之能立,失壞無餘。故於修境令其明顯,不論境之真妄,唯隨修習而轉,正理王云:「故隨其實妄,凡能善修習,至修習圓滿,明顯無分別。」《遍行》第十一云:「隨於何種法,諸人正作意,由此成彼體,同雜色摩尼。」若許久修分別境能明顯,則已成立離分別義,縱不安立無分別名,亦唯言說有異。若謂境相明顯雖離名義分別,然猶未離二相分別,非無分別。若從二相分別,定不能生離分別心。乃至未得聖果[A1]已還,一切心意皆是二相分別,則從資糧加行二道,定不應生無分別智。如辯中邊論云:「三界心心所,是虛妄分別。」又聖菩薩諸後得智,亦有二相,彼等亦應非成佛道。又說不從不順之因生不順果,因果隨順義何所在,若謂無分別果定須先有無分別因,則應許從無始生死,即有無分別因。若謂佛無分別智因,是於道中即須先有通達真實無分別智,修習生起次第之心未証真實,故破除者。許生起次第位全無通達真實之心,極不應理,至下當說。若以修顯色等相狀生起次第不証真實,故非修勝成就之方便者,則應未証空性全無成佛方便,是為大失。又說生起次第不能成就三摩地者,凡有善性心一境性,無論久暫,皆是三摩地攝,故許全無三摩地者不應道理。若謂不成奢摩他者,設以彼理破是成佛之道,最為錯亂。如於慈悲及菩提心,亦以多相觀察而修,斯類非一。然修生起次第非皆觀察而修,俱有止修觀修二故。此及發生明顯久住之理,至下當說。《金剛空行》五十品云:「為証真加行,當修假加行,及以假念誦,若証真加行,假行為外事,証真加行已,不應修假行。譬如乘船筏,能度河彼岸,到彼則應捨,假行亦如是。曼陀羅等業,由假心所造,於初發業者,讚顯諸外事,非於明佛者,悉地皆住此。」其後乃云:「如世諸仙人,造諸聲明論」等。此是未得堅固圓滿次第,必須修習生起次第,堅後乃捨之據。引為修勝成就初發業者,皆不須修生起次第之據,等同囈語。即以筏喻亦可了知,到河彼岸雖應棄捨,未到彼時須依止故。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 圓滿次第是無造作堅固証德,非如生起次第造作修空及天瑜伽。安立生起次第「非於明佛者」,謂非唯以風息猛利瑜伽便名圓滿次第。經於初發業者稱讚生起次第,故於初發業者,彼極重要。《五次第》與《攝行論》說生起次第未到究竟,一切皆名初發業者。前說勤修壇場等業遠離解脫及說士夫唯煩惱者,是說不修空等圓滿次第,唯修能依所依諸天瑜伽,唯增疲苦,終不能得最勝成就。《結合》與餘類似諸經,皆應作如是知,經中多說修習生起次第一尊功德,如《結合》第二云:「行者如是修,等金剛薩埵。」修生起次第能給勝成就,教證無邊。若唯依教成立,如前諸經可廣引說。 斷彼不須修習生起次第疑[A2]已,次應明了顯示,第二《觀察》第二品云:「說滿次瑜伽,其樂為大樂,不修滿次第,生次第何為?薄伽梵告曰,希有大菩薩,由信力失壞,無身有何樂,不能說安樂,如所遍能遍,樂遍諸眾生,猶如香在花,無花不知香,如是無色法,樂亦不可得。」此問初發業者不修圓滿次第,而修生起次第何所利益?以彼大樂俱生,即圓滿次第瑜伽故。答云:汝由修解圓滿次第之力,失壞生起次第。次乃成立生起圓滿如花與香為能所依。心證真實是修圓滿次第而成,身成色身是修生起次第而成。身是心之所依,故說彼二為能所依。即在道位亦有隨順能所依也。即如上根補特伽羅現世成佛,若不許有初發業位,應如支那堪布,許有頓悟眾生。若許有者,說彼成佛不須生起次第,則違一切密咒教典。若謂往昔多生已修密咒之機為上根人,說彼不須修生起次第者,是失時處之談。以此是明入咒初業漸修道時須否初次第故。又於彼機,亦可捨置多種圓滿次第道故。此如觀察成佛是否須從資糧道起,而答證初地者不須始從資糧道行。提婆菩薩特破此執,如《攝行》云:「金剛弟子問曰,我等異生從無始來貪著種種外事,執有執無,非有非無,執一執異,執俱非俱,及常斷等,由習氣因執著分別,學習圓滿次第三摩地時,為當如次漸修學耶,為唯以師教授,一剎那中皆頓學耶。金剛阿闍黎答,當漸修學,非能頓學。」次引多教證成漸學。又說先學佛乘意樂,次乃學習生起次第。總之若說第一次第非是成佛必經之道,則亦應說下三密部全無殊勝咒道不共波羅密多大乘。誹謗下三部教與無上部多分教典,如是咒師實屬罕見。凡說波羅密乘上根所化,不須修學施等波羅蜜行,而有成佛之道,與說咒乘上根所化,不須修學第一次第,而可成佛,此大邪執二無差別。善能融貫佛經前後文義智者,皆當遠離。以彼下至諸大論師於修法等名為勝樂修法,歡喜金剛修等立名之義,亦未知故。語自在稱與寶論師於彼《七支論疏》及《律生疏》,廣破彼等邪執,恐繁不錄。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,己【補編】== (寅二)斷諍 如《無垢光疏》云:「如來所宣說,種種分別道,十六四差別,離道不能得。生次第說吽,泮等離分別,即次滿瑜伽,彼非餘修法。」又云:「修色等分別,曼陀羅輪等,成世間悉地,豈有大成就。」此說離於圓滿次第,無餘成佛之道,及說生起次第唯成世間悉地,無勝成就。又說修主尊時無東方等諸尊,如是亦無面部幖幟等相,次云:「故瑜伽師為修大印悉地,不應修諸分別。」以由分別心無曼陀羅輪為因,故說為成佛故,不應修學生起次第。若謂生起次第是成佛道,則與上文有相違失。答云是汝未解教義妄說。其第一頌,是說若離十六歡喜圓滿次第大樂之道,唯修生起次第不得成佛。非說成佛不須生起次第。第二頌說無餘修法,準是應知。所說生起次第不成大悉地者,是破唯修能依所依諸尊身色首臂等相展轉增長,修至現顯堅固,即為成佛之計。謂此僅能成共悉地,不成最勝,非說成佛不須生次第。如《無垢光疏》云:「若現證遍處界或一曼陀羅輪,即能現證三界及一切智等者。爾時不應為得一切智果,而再現證一切智、道智、道相智。以現證遍處或一曼陀羅,即能成正等覺,更不求得聲聞獨覺及諸成就。」又云:「諸瑜伽師,若除福德智慧資糧,唯修蘊處界等為曼陀羅輪相,由修分別增上力故便成佛者,則應餘少福者,除福資糧,但自思惟我是國王,即能成就。然無此事。」此破不修福智資糧,唯修生起次第證曼陀羅便為成佛,最為明顯。故若不修餘道唯修生起次第,僅能成共悉地,不能成佛。《大疏》之中亦數宣說,故不應說時輪教中破生次第為成佛道。言便能成佛者,義謂汝許爾時為佛,非破依彼而當成佛。如《大疏》云:「有作是念,由修習力蘊處界等成曼陀羅輪相,豈非佛說彼即成佛?」又云:「然彼失壞一切智道,彼由邪慢所覆,自謂我是具足十力金剛薩埵。此非十力,此是十力違品極大愚痴。此瑜伽師所得佛果,從來未有最極罕見,以具一切障故。」謂於爾時便得佛果,是大愚痴成佛違品,具足諸障而許是佛,誠為昔所未有,是可笑處。《大疏》中說為得大印悉地,不應修習生起次第分別,以修主尊時無東方諸尊等相為因。藏地諸師即以此理謂一心中不能俱現諸尊支分,不能全修曼陀羅輪,故說非修勝悉地之方便。此極非理,純相違故。若果爾者,則別攝等諸支,隨修一時無餘可修,應亦不能俱修六支。應非為得大印悉地所修。又自安立彼理而復破他,說所立時無因可立,理相等故。又彼所許,與《般若經》及彼教授《現觀莊嚴本釋論》中,敵者所說前發心時無後白法,後時亦無前時白法,得大菩提不應道理,同一宗要。以是應知彼因之義,疏說若何剎那修主尊相,則彼剎那不能修東方等諸尊。是說修右面時不能即修左面,非說現起右面之心不現左面。正理王云:「二分別心不頓見。」謂二分別不同時生,然一分別有二相現,現量極成,如觀雜色之心。若不爾者見眼之時見鼻相違,見眼中時與見二邊亦應相違,則分別心應無所見。七支《論釋》中說,見人前時,不見後及內藏,應不能見女等。又屋柱等亦然,應無房屋可知,以如是等眾喻而破作是計者。《律生釋》中亦廣破斥。修右面時,縱許不能修習左面,然依彼理云何成立生起次第為勝悉地所不應修?答曰:實爾,然彼經論意趣,是破通達諸法真實,非破是修大印悉地方便。作是破者,以前疏中所述敵者,謂修天輪明顯現證,以五蘊為五佛,諸界為佛母等,便許成佛。彼宗不許別有通達諸法真實之道,然復不許未證真實即能成佛,故許唯修天輪即是修真實義。今破彼執,如汝所宗,為得大印悉地,僅以分別而修曼陀羅輪,實非能修勝義真實。論出「無一切故」因者,謂於所修,唯應漸修不能頓修。成立彼時,謂修主尊時無東方等尊,修右面時不能修左面等。成立決定,謂修無我真實諸所修義可頓時修。 若說如是許者是時輪宗,則與大疏所說諸品次第成相違過,與明所為究竟所為亦犯相違。與釋七灌頂果,現證曼陀羅輪此身即成七地自在,未得此果離十不善,死後餘生當證彼果,是由福德資糧而證,亦成相違。如是教證文繁不錄。 若謂無二無分別智,不從異類分別因生,生起次第分別瑜伽,非成佛因。《金剛藏釋》亦作是說。如汝所破云何應理。如云:「從同因生果,一切皆共見,非從憍札跋,能生粳稻果,從有分別因,生有分別果,從無分別因,生無分別果。」答云:無過,彼義蓋謂如憍札跋種子,不可作粳稻種,唯修能依所依天相生起次第,非是無分別智親因。非破生起次第能為無分別智助緣。譬如水肥土等雖非麥芽親因,然生麥芽定須彼等。即前《釋論》亦云:「初為修治田,下憍札跋種,後於所治田,種粳稻種子。」此以先下憍札跋種善治彼田後下稻種為喻。次云:「於人清淨田,下無緣悲種,由是故能生,空性如意樹。」謂以生起次第清淨田[A3]已,次修無緣大悲大樂圓滿次第,果易發生。故彼文是定須先修生起次第之據。如是分別非說任何分別,其無分別亦非全不思惟。謂得佛無二智,須先修不分別二種我相,了達無我真實之道為同類因。故與彼釋:「於深廣諸法,捨離善根性,我宣說可意,印壇及咒等。未來諸論師,有是魔眷屬,說印壇咒等,是佛金剛心。」亦不相違。以初頌義,謂於暫離圓滿次第善根咒所化機,為說生起次第。非謂凡說生起次第之機,現世定無發生圓滿次第善根可能。第二頌義謂如前引《無垢光文》,唯修天輪瑜伽,至彼明顯便為成佛。說此論師是魔眷屬。《金剛藏釋》引《喜金剛根本經》云:「由見三類人,墮入分別網,如如能度脫,說彼彼方便。分別習氣縛,先說分別軌,知分別自性,方入無分別。所說壇輪屋,及生起諸天,召智與灌頂,如是輪及脈。界性諸風息,為令愚夫入,故世尊宣說,了義觀餘處。壇軌及諸天,召智與灌頂,觀所修身界,不知喜金剛。」此明了說先修生起次第,次修圓滿次第。若不知此,偏依一二宣說生起次第是不了義與戲論法之教,便捨彼而不修。則如此說「界性諸風息」乃至「不知喜金剛」,有多經論亦說脈息空點瑜伽,是不了義是戲論法,彼等非為上根補特伽羅而說,則應彼等亦非咒道成佛必修之道。若爾究竟可修之道,唯是心不分別枯寂而住,便當棄捨一切佛經。是故有說波羅蜜乘所說行品是不了義,是戲論法唯應修空。及說密咒生起次第修持念誦是有分別,是戲論法,是不了義,若知了義則不須修。如是二說全非真實,諸有智者應遠應捨。應於方便智慧雙運轉道,生起圓滿雙運轉道,漸次修學。了知永離戲論中道深義,依止諸三昧耶,趣入雙俱二理大車軌道。故《心莊嚴論》云:「暫見一分而趣入者,非於正等覺道能獲定解。應於彼分離見而住。正見之理,謂當通達離諸戲論,於生起次第圓滿次第三摩地漸次修學。依止諸三昧耶,了知漸修諸行,即於大乘發生定解。金剛持道證真實[A4]已乃具欲塵修道次第。應正受持如此二理。」此是敘述如前二派敵者,次出自宗之義。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,巳【補編】== (癸二)不離二次第之修法分四:(子一)二次第之名義,(子二)二次第之數量,(子三)二次第之次第,(子四)二次第之修學。今初 藏中先覺有謂龍猛師資正以凡常生死為生起與圓滿,彼由次第而成次第而滅,是為次第。故所淨事是實生起與實圓滿。如次而修能治之道,是假名生起與圓滿。此如《攝行論》云:「生名世俗諦,死名勝義諦,師恩得二次,此是未來佛。」 彼非龍猛師資所許,生起次第之生,不許即凡夫身由自因而生故。《攝行論》文之生,亦非說是生起次第。當如《明炬論》說:「別說施設與圓滿次第之方便。」生起次第多次說名施設次第。故是由心施設或是由心生起,非以大種生起得名。又彼《攝行論》文之前,說若究竟生起次第,已得圓滿次第未及修行,則當於正死時證勝義諦,死後生時起於幻身俗諦,隨其願力如是成佛。是知彼頌所明,追述前文釋二次第,非說生死為二次第,若不爾者,讚二次第由師恩得是未來佛則為無用,以諸有情已得如是二次第。故若引彼教,證瑜伽師死時與光明合,生為幻身,應許彼二俱是圓滿次第。 有云:「《菩提心釋》說圓滿義謂無增進,即勝悉地,修此之次第名圓滿次第。由能漸生勝悉地故,於共悉地說明生起,修此之次第名生起次第,是由果法立名。」 彼諸論中,雖多宣說圓滿次第修勝悉地,生起次第修共悉地,然彼生起圓滿之名,未見作如是釋。依毘嚩跋與種毘跋專就道上立名,最為善哉。以釋生起次第,道位圓滿次第之義,唯就道立。如寂靜論師云:「次第、行相、分、品是諸異名。是誰次第,謂瑜伽者。」確定二次第名所詮之事,以及確定釋名之義,後者尤難。以若定解此中深義,則能分辨生起圓滿不共差別。諸大論師皆未明了廣釋名義。又二次第,《金剛空行經》中亦別名假瑜伽與真瑜伽。《春點經》云:「捨假曼陀羅,諸假護摩業,及諸假修道,諸假念誦法,此一切假法,由性瑜伽捨,善行外假事,為證自性故。」並說筏喻。是故生起次第,或曰施設次第,或假瑜伽,皆是第一次第之名。圓滿次第,曰非施設次第,曰真瑜伽,皆是第二次第之名。生起等三,謂是由心生起施設虛偽,所待圓滿,即非由心施設圓滿成實。 若爾,何為由心假設非假設耶。答云:此二次第,雖各自依方便,修成完具天身,然其修法不同。生起次第,從音韻諸字及所生日月,或從種子及標幟等方便,自身生為完具天身。唯是由心生起假設。圓滿次第,則依音韻諸字及日月等所表法義,由於二界及風息等調柔之力,現證明相增長近得三智,由此增上唯從風心現起幻身。如此完具天身,非是由心施設假造。以是生起次第,完具天身方便是心假造,從此方便所生天身亦是假造。圓滿次第完具天身方便(脈息空點瑜伽等),非心假造。由此方便所證空性及彼所起天身亦非假造。《攝行》依此密意說云:「始從生起次第,至身遠離三金剛等,亦唯增上勝解其相,故身遠離亦無天身。」此謂未得幻身以前,三種遠離與生起次第時,唯除由心勝解天身無餘天身。以是三遠離之天身,雖是圓滿次第所攝,非實智身。設作是念,若爾,則應唯以字等所表法義及風點等瑜伽圓滿次第,方便生起天身?何用字形標幟與日月等方便而生假天身。為若云非爾,若未修習假立方便,不能圓滿真實方便,故若未修假方便生,亦不能證真方便生。依此密意宣說如前筏喻,譬如彼岸有施主家可受飲食,有水間隔不能往受,當乘船筏而往彼岸。如是欲受圓滿次第飲食,有凡常境執水於中間隔,不能受用,當依生起次第船筏,度越凡常境執彼岸。又如船筏但是能往彼岸方便,辦飲食等須餘方便。如是生起次第唯能成熟相續引生圓滿次第,其能成辦圓滿次第空與天身諸受用事,別須風息點瑜伽等方便。此中顯示生起次第須到究竟,然唯生起次第猶非圓滿。生天身之瑜伽,雖皆有以字形標幟及月輪等引生方便,然若以彼方便表示引生猛利空點等諸瑜伽而作成熟相續最勝因緣,唯無上部乃有此義。若於如此方便說名生起次第,生起次第即非下三部中所有。彼根本經若時說有生起次第,則於彼金剛句,可作了不了義二種解釋,故亦應許俱有生起圓滿次第。此是《集智金剛經》規,如《明炬論》應當了知。 二次第之名義《歡喜金剛經》釋《珠鬘論》云:「由真言幖幟等次第,生起天相,謂瑜伽之生起,何處有彼,彼即生起次第。圓滿者謂俱生,行者本性俱生,信解為真實性,諸瑜伽師何處修彼,即是圓滿次第。」前者如上所說,後者但是圓滿次第一分,以亦有天身故。其次第者,如彼《釋說》:「行相或分或品。」非說時間次第。善根金剛雖云:「言生起者,由月等生故名生起,餘謂次第。言圓滿者謂大空智,由於方便圓滿有彼或由圓滿彼故功德圓滿,名曰圓滿,餘謂次第。」然以前釋為善。 (子二)二次第之數量 如《集密後續》云:「諸佛說正法,皆依二次第謂生起次第,及圓滿次第。」說道決定為二次第其理云何。二次第中各有現品天輪及空性法,故非由天及空而定數量。此二次第決定之理,如《集密後續》云:「由共勝差別,許二種承事,共由四金剛,勝由六支分。」謂所得果現前究竟有二悉地,故能成彼果者決定有二次第。「共」有二義,一者因共,謂初次第,於修勝成就及八大成就皆須生起。二者果共,謂八大成就等悉地,通為二種次第之果。彼續文義,如《明炬》云:「上說由四加行次第,已令金剛薩埵歡喜,今當說以六支次第圓滿大金剛持。」謂令金剛薩埵歡喜圓滿二事決定,故二次第決定。初義如《明炬》云:「如是恆常四座修學,成熟善根,證金剛喻三摩地已,即於現生獲得大印悉地。」謂如上說成就眾多殊勝因緣成熟相續。四加行者,即是四支承事。 (子三)二次第之次第 要由生起次第成熟相續,乃生圓滿次第,若未以此成熟,圓滿次第雖有少分可生,然必不生能入勝道圓滿次第。故經多說先修生起次第,次修圓滿次第。如《金剛空行經》說如筏喻,《解脫空點》與《春空點》亦如是說。二《觀察》後《觀察》亦云:「由生次瑜伽,行者修戲論,知戲論如夢,彼成無戲論。」《五次第》云:「善住生次第,欲得滿次第,佛說此方便,次第如梯隥。」《攝行》亦云:「諸初業有情,轉趣於勝義,正等覺說此,方便如階梯。」種毘跋云:「善慧先應修,生次第手印,音咒悉清淨,定不離正念,具足一切甲,善慧次應修,剎那具一心,修圓滿次第,以此離三有,恒思俱生樂。」是故未教第一次第,便以第二次第引導,顯違一切聖教。故若至心欲修大瑜伽道,先應生起第一次第。然於修時,為未堅固第一次第,第二次第全不修耶,為上半座修第一次第,下半座修第二次第耶。龍猛師資許如前義,《攝行》論云:「若時已學佛乘意樂,爾時應於新乘學一念三摩地。若時[A5]已於新乘學一念三摩地,爾時應學分別瑜伽。若時已學分別瑜伽,爾時應住初發業三摩地。若時[A6]已住初發業三摩地,爾時應入百部差別。若時已由百部差別知身遠離,爾時應住身金剛三摩地。住身遠離,應由阿利迦利入語遠離。若時已由金剛念誦次第了知命力,爾時應住語金剛三摩地。」此中扼要宣說已學第一次第,乃學第二次第。第二次第之中學前前已,次學後後。鈴論師與毳衣大師《勝樂修法》亦說:「如是殷重相續修習令心堅固,應修滿次第三摩地。」然燈賢師分初發業作四位學,故可了知亦如是許。藏地大咒師中如果譯師及其徒眾亦如是許。然苗原論師與瑪跋譯師善學密部之流,則許上半座修生起次第,下半座修圓滿次第。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== 此道次第最為重要,若有錯誤,任何勤修全不生果,或於所生相似非真,虛廢時日。若能善知次第無亂,則隨所修皆達扼要,正修之道易生,由彼力故果亦易成。總之修習圓滿次第,初發業者,或能不能。其能修者,若未堅固生起次第而修,雖非不生隨順功德,然不能生如彼已以第一次第成熟相續之所生者,若見棄捨生起次第,亦可生起風息及猛利等隨順功德,即捨生起次第專行彼等,失道宗要,實為不可。若於第一次第未堅固時,修此為主,兼修風息及猛利等,則無大過。若唯修於空性,則共波羅蜜多大乘。若兼修天瑜伽則下三部亦有。然彼等中皆無圓滿次第。故說唯修空性,即修圓滿次第,誤之甚矣,故於第一次第亦須修習空性。 觀慧精進船筏小  復無知識智商主  未見密咒教法海  欲一分道而度越 破彼光顯智者喜  龍猛大車善妙規  二種次第漸生起  以具足道往佛地 密宗道次第廣論卷十六終 密宗道次第廣論卷十七 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明生起次第品第十二之一 (子四)二次第之修學分二:(丑一)學生起次第,(丑二)學圓滿次第。初中有二:(寅一)總立生起次第,(寅二)別釋現觀次第。初中有三:(卯一)生起次第之對治,(卯二)生起次第之差別,(卯三)爾時云何修空性。初中有二:(辰一)明所斷事顯破彼理,(辰二)明修顯了及安住規。今初 生起次第不共所斷,謂於能依所依現凡常相,及於彼執凡常之慢。如《幕經》十四云:「為破凡常相,故說當正修。」《攝行論》云:「諸蘊處界,從無始來住凡常慢,為顯彼是一切如來微塵所成體性。」此述經說由無始來,於五蘊等住凡常慢,其能對治謂修蘊等為佛。此雖是說身遠離位,然與生起次第不共所斷相同。為遮如是境執,故於能依所依,修殊勝相,唯是咒乘勝法,波羅蜜多乘之所無。對治凡常境執,說修生起次第,所依為宮殿,能依為諸尊。是故應修所依宮殿,能依諸天之相,遣凡常相。應修自是不動,或毘盧佛之見,遣凡常慢。除凡常慢成天慢者,如於降智尊時,忘自我執,起是天想。次應改不動毘盧等假想,轉成天慢。此時有生真實天慢而能所依不明了者,有能所依明了而無真實慢者,有俱有者,有俱無者,共有四類。如《總論》云:「初發業者,入曼陀羅得三昧耶律儀灌頂,為離凡常慢故,修四座天瑜伽。」餘論多說「除凡常慢」。故對治凡常慢,以修能依所依曼陀羅慢為主,遣凡常境修能所依殊勝之相,是彼支分。所斷之凡常相,非五根識所見情器,是於意識之所現者。言以生起次第,斷除彼相與凡常慢,非如出世間道,永斷種子,亦非如世間道,損害種子,伏其現行。若爾,云何謂若無餘違緣?住能依所依曼陀羅慢時,便能轉成如所說慢,明想彼二曼陀羅時,如所明想能極明顯。於意識前遣除凡常境相,即是伏除凡常境執。然非片時略伏,要極堅固。 如金剛阿闍黎以如是理,先善承事,於修地規勅魔等時宣說「我勝金剛持」等,以自修金剛持等慢,乃生彼彼真實天慢。若非爾者,唯成語言慢耳,故先承事極為重要。非唯語言之殊勝慢,要由先修唯言假造之慢而生,是故先應於彼勤修。多修習住天瑜伽時,眼等諸識不現餘境,是由意識專趣彼義,令眼識等退失等無間緣之力,而暫不生,故暫不現青等餘相。非由生起次第破彼等相。此如正理王云:「由識著餘境,無力取他義。」故若於意識前,能以勝相滅除凡常等相,即能辦所為果。雖於事實未成本尊,若能發生真實天慢,所為之果亦能成辦。 (辰二)明修顯了及安住規分三:(巳一)修幾現觀,(巳二)修顯了法,(巳三)修安住法。今初 修學生起次第,為如修學圓滿次第,修一一緣前堅固已轉修後者,為於一座前後一切俱時修耶。於一修道補特伽羅,就生道位別為四位。彼四各修幾許,及如何修,皆應了知。然燈智云:「早起皆如前,善誦為初業。已略降少智,具咒戒禁行。加持眼身等,中間善策誦。一切種圓滿,能為收放者,得少智自在,晝夜修瑜伽。正得智自在,剎塵三勝輪,天身如影像,作利眾生事。」此中初發業者,乃至得少智自在之一分,是生起次第位。正得智自在者,[A1]已達圓滿次第高上之時。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,己【補編】== 第一位時,須圓滿修修法所說生起次第,一切儀軌。如寂靜論師云:「善誦為初業者,謂初業者,應依一切儀軌,而正持誦。」持祥論師亦分四位,說第一位俱修四種瑜伽。《穗論》第十二云:「初發業瑜伽師,乃至本尊粗支,如現見事,於三座中修四瑜伽。」如《四百五十論釋》云:「粗分身曼陀羅須臾現前,略降少智而住。從最初修,乃至粗分身曼陀羅未能須臾一切畢現,一切皆是初發業者。」《五次第論》與《攝行論》,乃至究竟生起次第,一切皆名初發業者,是待圓滿次第而立。此中是就第一次第分位立名,初發業者,故不相違。次略降少智者,如《四百五十論釋》云:「粗分身曼陀羅若能須臾現前,而微細地藏與身金剛等猶未現前,具足咒戒及諸禁行。由得彼力,名於智慧略得自在。」此與本頌「略降少智」義同。此中粗分,謂彼曼陀羅中所立諸尊。細者,謂彼諸尊眼等處內所立諸尊。所言粗分,須臾現前,非如初發業時,要由次第明想彼等,乃能明顯,不爾不現。隨所想時彼尊一切支節皆能頓現,此非暫現及有時現,即為滿足,要得堅固。如穗論十二云:「若得如所說,相於初瑜伽令心堅固,即於少智略得自在,應修須臾變曼陀羅。」修現觀時,粗細二尊,雖非修有多寡,然粗者易現而細者難現。例如主尊曼殊金剛之眼,與彼眼中地藏全身,明顯有其難易。此處雖未明說宮殿,然亦要能須臾現前。 若乃至地藏等未能現前,皆立為略降少智者,則與《札拏經釋》所說乃至能見細身有相違失。彼說「若時已見粗支,乃至現見微細身金剛等,名略降少智。」故答云無違,說微細身漸次明想雖能顯現,未得堅固頓時明顯,即立為略降少智故。若爾,此與初發業者,修現觀法有無差別,答曰有別。如《四百五十論釋》云:「彼於一切座間,令曼陀羅須臾現前,加持眼等身等,隨令歡喜,供養稱讚嘗受甘露為先,應慎念誦。」此時亦須分座而修,故云「一切座間」。於每座中如何修者,論云須臾,謂能依所依曼陀羅現前及加持諸處等。修法自體雖與初發業者相同,然如不動,三面諸手及足目等一切支節,不須漸誦漸想,皆能頓時憶念,是故語中所誦,與彼隨言所修,其量多寡有大差別。然修微細天身,仍須次第明想徐徐而修。言隨令歡喜者,謂修父母等至勝曼陀羅。論雖未說召入智尊,實亦應修。若如此者,云何《札拏釋》云:「從護四座,至最加行須臾明想,於大瑜伽恭敬修習。」答云此由曼殊金剛修法,於生果位金剛持後加持眼等。《札拏》修法,於生最勝曼陀羅後加持諸尊眼等,故有差別。然於細天殷重修習則無所異。 得少智自在者,如《四百五十論釋》云:「若一切種由能圓滿收放加行,令曼陀羅須臾現前,故名得智自在。此亦由得降智乃有,未得則無,故名為少。」此通二次第位,始從細身須臾現前,乃至未得正智自在。皆此位攝。「此亦」等者,謂初業者,必須先修前前,乃生後後。即破天竺有說利根修行不須此等次第之執。《律生》第三雖云:「修生次第壇,鈍中根應思,利根剎那相,唯心曼陀羅,剎那相瑜伽,修圓滿次第。」然釋論意,約彼先須漸明想時,名為鈍根。次能一時圓滿現時,名為中根。次能俱修圓滿次第曼陀羅時,名為利根。猶如一人幼壯老位。依一行者,修習淺深次第,作是安立。如云:「此鈍根等差別,可明一人修行次第,如約一生分少壯等。得亦多人明此差別,如待他人有幼壯等。」於此等文,若不善解彼義,則執初業利根,不須生起次第,而即棄捨。是故就修勝共悉地所立諸根次第。及於一一補特伽羅,就生智德分位所立諸根次第,應善分別勿使雜亂。雖諸細天支節等事,能須臾現,若未堅固,仍是第二位攝,至堅固時,為第三位。如《穗論》十二云:「若於所修諸曼陀羅心得堅固,即是得智自在。能由收放廣利眾生,以菩提心為先隨證法性,應除微細諸垢。」此說得智自在須心堅固。《札拏釋》云:「若自在見身金剛等,如掌中果,彼即於智獲得自在,不定時限,應修下說圓滿次第。」此說得智自在,須自在見。前說證菩提心,除微細垢,與此說修圓滿次第,二義相同。說至此位不須定分界限,故不更須日夜別別新修現觀。然於此位,仍須修習生起次第。如《四百五十論釋》云:「此瑜伽師為欲增進究竟果故,應當日夜修彼瑜伽。」謂應修習粗細天身須臾現前瑜伽。非至此位生起次第,便到究竟,此後尚應究竟生起次第,次乃修習圓滿次第。 正得智自在者,《四百五十論釋》中說,自利究竟,唯以靜慮能利眾生。《穗論》十二說證此大印悉地,能作無邊利益他事。此如《札拏釋》云:「次住空性,從定起已能如所欲加持現境。是名於智正得自在。又名解脫自在,成所作事士夫。」 如上所說,生起圓滿須漸次生,理極明顯。餘諸定量經論宣說此義,文證非一。故二次第定應如是而修。 (巳二)修顯了法 生起次第於身生起之理,藏師有說:「先於一尊修成堅固明顯奢摩他已,次乃圓滿修習現觀。」有說:「先圓滿修四座現觀念誦,再緣一尊一份,漸次修令明顯。」然諸修法唯說圓滿修習現觀,無彼二說。就此第一次第,有修明顯與修安住二法,應別了知。若令境相明顯,但於彼境數數作意,即能成辦,正理王云:「欲畏憂惱逼,及賊夢等害,見諸虛偽事,宛如現前住。」謂多貪者,數數作意可愛境相,現見彼境如在目前。是故引生明相,不須先修安住。亦不以未分分俱修而即不生。又生明相不必定修真實,隨所修習倒非倒義,皆生明相,法性爾故。正理王云:「是故正非正,隨其善修習,修習圓滿時,明無分別果。」續中亦說隨思何事,即成彼相,如玻瓈喻。 初發業者,始從加行積集資糧,乃至收攝而修,於一一事皆修明顯,然非唯現彼相,當起有力執持,行相明顯任持天慢俱須修故。最初如其所應於短時中,始終心不沉掉,令所修心無間運轉,勵力學習,次漸延長。後每一座從始至終,無沉掉碍,漸次學習。爾時因修未久智力未宏,多不明顯。故以增上勝解為主而脩。如《四百五十論釋》云:「此三瑜伽增上勝解為主,非以明見為主,以時短暫或力弱故。」此明顯與天慢,要以觀慧觀擇修習,漸次生起,若由幻境忽爾而生,不可憑信。生起次第獲得堪能,當隨自心所想而現,非未想者,如想而現不越彼量,若雜幻境則於彼量不忍觀察,故若先作是念當如是修,次觀想時,即於彼量能不增減,是為修行已得堪能。此於初修縱依彼量亦難成辦,後久修已,當如是觀。修天慢法准彼應知。必須如是修者,如修無常與悲心等,若於各各所緣行相,由專修習漸生領受,則能隨心所欲,明顯所緣行相,皆能生起,若雜幻象忽覺彼心似甚有力,然自欲時則不能生。總之若修生起次第但是緣自為天,令成明顯殊勝天慢,則下三部,皆有生起次第宗要,但修一尊亦能成辦,則修曼陀羅輪悉成無用。故將所修凡常情器,修成能依所依曼陀羅輪,應如智者所解經義圓滿而修,由此能成眾多能治所治殊勝因緣,成熟善根引生圓滿次第殊勝智德。成熟相續之力,須修四次曼陀羅輪,故於修法應數修學令其明顯。生明顯法,當如諸大論師教規,於一切分,平等修習,一切明顯同時引生,此力最大。如是學習圓滿脩法,縱於各別支分,未得明顯,然由儀軌圓滿成熟相續,亦甚有力,得明顯時,必於一切粗分皆發明顯。梵典多說生天法後,次於所修修習疲乏,應修念誦。此為觀修,為於天身心專住修。堪依教典皆未明說。彼時尚修令天明顯,故以觀修數數明想為主。此復初修天法,與念誦前脩法完畢,及於彼能所依行相明想之後,當起是慢「此實是彼」。由說此時,是將果位、剎土、眷屬、佛身等事,持脩為道,即是最勝念佛。故非於毘盧不動等,略憶身色首臂等相略起彼慢。應須勝解實是斷一切障,具一切德之佛。由如是脩殊勝明相天慢,任運皆生,如熟誦經。《珍珠鬘》云:「悉地謂心堅固,自身天相天慢於日日中任運而得。」以是由脩彼二,每一大座從始至終,以成殊勝相慢之力,已能滅除凡常相執,爾後當脩令心堅住。此就身心無新違緣而說。爾時不須自是彼尊之念,全不間斷,但由前生真實天慢之力,能滅我慢即足。譬如有人非人所附,雖或意散未起我是非人之心,然彼勢力未退失時,亦不還生,是彼本人之想。 要脩幾久諸尊乃能如現前事。《攝真實經》疏云:「三三摩地為先,若脩六月或脩一年,乃至金剛界曼陀羅,如現量見,應日日脩。」此中所說脩習時量,餘處亦未宣說長於一年,故若善知脩法,住三昧耶及以律儀,發大精進無間勵力,不勞太久,曼陀羅輪諸尊,便得具顯。譬如鑽木,若不長恒猛進,中多休息,終不生火,故當相續而脩。如吉祥勇攝波羅蜜多論云:「由無間瑜伽,應勤脩靜慮,若數數休息,鑽木不出火,瑜伽法亦然,未得勝勿捨。」 (巳三)修安住法分二:(午一)於初二位修微細點,(午二)於第三位修微細點。今初 有作是念,初次第時,於粗細能依所依曼陀羅,數數作意,成明顯相,即爾便足,不須修奢摩他。以第二次第時,宣說脈息及猛利等瑜伽,多種脩定之方便故,又若此時脩奢摩他,應以細點等瑜伽脩。《總論普賢脩法》堪依誦典中,說於勝曼陀羅後念誦之前脩行彼等,須以數數作意行相雜觀擇而脩故。然彼等不成奢摩他,如前所引《脩次第論》與《後靜慮釋》等,說彼已得奢摩他者,若過觀擇退失住分,爾時尚應修止,何況未得奢摩他時。吉祥勇師亦云:「應於一所緣,堅固意思慮,展轉多所緣,意反生散亂。」此說若脩靜慮不專一緣令心堅固,展轉多緣,不能成故。 茲當正釋,若唯數數作意修習行相,雖生明顯,然不能得堅穩安住,如脩愛怖所起明顯。故唯轉成殊勝明顯以及天慢猶非滿足,須能堅固安住。以無堅住,則不能得滅除凡常境執真對治故,正為滅彼修生起次第故,其於粗細能所依曼陀羅圓滿明顯心得調柔,定須獲得奢摩他故。以是初次第時,次定當脩正奢摩他,及以細點瑜伽而修。於微細標幟或微細點中,脩能所依圓滿曼陀羅者,非初發業略降少智二位所修。第三位中始能修此,以於眼等所立諸天能須臾現,立為第三位故,於微細曼陀羅能令收放,說為得少智自在故。如云:「一切種圓滿,能為收放者,得少智自在。」點瑜伽者,智足師弟說於自身智薩埵心中標幟上脩三摩地薩埵,初發業者亦修彼事。修彼所為,如祥米金剛論師云:「如是精勤修瑜伽師,若時心掉或復沉沒,應如是脩點瑜伽等。」謂於勤脩勝曼陀羅等時,為遣心隨沉掉轉,故修點瑜伽。是故初發業者修點瑜伽,非為修奢摩他,是破修習生起次第,心生沈掉,於所緣境不能堅固相續而轉之失。爾時雖未得三摩地於一所緣相續久住,然於修觀滅心沈掉最為殊勝。此時又由持心細點,能遮風息向外散動令於內住。如如來金剛云:「由於臍處修細音韻瑜伽,或於心等修習點等瑜伽靜慮,能遮命向外轉,故名命力。」故於上下二鼻或臍或心等處,修習細字及細點等強攝心者,由修習處與所緣事關係,漸為向內住息之緣。雖雜眾多觀擇之境,然由漸次調息之力,能速滅前掉舉等過,故不同於餘論所說修學三摩地法。 若爾,初發業與得少智位,修微細點其法云何?《四百五十論》云:「心光所化佛,斷自邪分別,令眾生成佛,迴入心種內。住心標臍中,於月心點形,修自意光明,由光鬘醒覺。善修智薩埵,意語身金剛,想光入心中,降自智甘露。次一切內心,毛孔放光明,普照一切處,圓滿利眾生。」此說修點瑜伽次第,謂於自心智慧薩埵心中,標幟臍內月輪上有種子,從彼光明化生諸佛,斷除有情邪執二障,皆成正覺。次召請彼與種子合,彼種子點不異自心,具大光明。次由彼光漸照標幟內外,智慧薩埵及彼住處,身語意三金剛及彼住處內外。次想如光顯照次第,仍復收回集前點中,降智甘露。後想自身悉皆光明,一一毛孔放淨光明,照觸眾生。若心沈沒,想彼光明,乃至沉銷應如是修。若心掉舉,即緣細點令心專注,乃至掉息應如是修。此是祥米金剛所說。彼師又說除沉沒已,數十次出入息,由彼收放次第,能覺智慧薩埵。此如教授穗論所說出息時修放光,入息時修收光。他伽那說:「咒變為點。」或即修咒點之瑜伽。如《總論》云:「生一切壇已,安住輪中央,次修細瑜伽。」此說修勝曼陀羅訖,復於主尊鼻端修細瑜伽。《明炬論》謂於上鼻端修細標幟,及於秘處鼻端修微細點,并於後者之內修能依所依曼陀羅。此復初二位時,但修微細標幟及點。第三位後,兼修細相之內二曼陀羅。《攝行論》說學一念後,當學分別瑜伽。《明炬論》云:「於此芥子學習分別瑜伽,當思動與不動金剛薩埵。」此說於細標幟及細點內,修有動情界諸尊與不動器界宮殿,是在[A2]已學一念之後。龍猛派之[A3]已學一念,與智足派之第三位,其義相同。龍猛派於初二位時,若於上門修細相者,謂於鼻端,想主尊標幟藍色五股金剛杵,量如芥子,緣彼專注。若於下門修細相者,觀想父母等至,溶菩提心成微細點,於鼻端處量如芥子。此復沉沒增上修上鼻端,掉舉增上修下鼻端。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== 已說令心堅固方便點瑜伽法,別有於心修習之法,想三摩地薩埵光明順於阿嚩都底,溶化頂上大樂輪中之菩提心,仍由彼道入心間吽字等三摩地薩埵之點中,緣此攝心。餘於臍間修習點瑜伽法,謂於臍心項頂四脈輪中,脈結孔內,依次明想闇吽嗡杭四字。次由秘處脈輪之風,吹動火輪。猛利自性阿字熾然放光,溶上三字,降入臍間闇字,成無分別。當觀俱生歡喜自性細點而攝持心。釋迦護師亦說修細點形。毳衣大師說四輪字形色,由下依次,雜色向上,青色向下,紅色向上,白色向下。又說修彼脈輪諸字最極明顯,許為生起次第支分。 次云:「如是修勝解成熟已。」釋迦護云:「修習圓滿。」謂於上說所緣,能攝心已想從彼點放微細光,成一燄聚。次由彼光溶滴甘露,充滿空點,光燄隨息。次於空點令心專住,乃至見堅固相應如是修。若得見堅固相,想彼光燄照種種色,則觀一切如掌中果,亦能速滿妙三摩地。 心間臍中修點瑜伽,是無畏論師說。智足派於細點瑜伽,亦通母部,是第一位,第三位者,依《三補扎金剛空行》等經,於四脈論不立諸字,唯四主尊。 (午二)於第三位修微細點 如是於初二位,修習細點瑜伽心堅固[A4]已。次修曼陀羅諸尊,及彼眼等處所立諸尊,善令明顯。後於細相之內,具修曼陀羅法。《四百五十論》云:「又修自細相,住明妃鼻端,自證能仁輪。」謂於明妃鼻端觀想主尊標幟量如麥許,於中具修曼陀羅法。祥米金剛說於父母隨一秘處鼻端。藥足論師說於金剛摩尼瓶中,標幟之內修曼陀羅,若心沈沒應於上鼻端修,是為教授。若於明妃蓮花標幟中,修心生沈沒,想自五股金剛中股變成鈎形,鈎至明妃鼻端而修。是故修處無定。此中藥足論師說由自心種子放光,鈎召諸佛,溶化成菩提心降至秘處變成標幟,於中而修。《教授穗論》亦說彼義,及前所說臍間細點降至秘處,於中修曼陀羅。彼二細相瑜伽處所,說金剛與蓮花鼻端,隨一即可。《明炬論》文雖明顯說於細點修,及於明妃蓮華中修。然彼二者秘處相同。祥米金剛說修細點瑜伽圓滿,於標幟內修微細天。藥足論師亦云:「又者,謂修點瑜伽已,為令心堅固故復修細相。」此說第三位所學習,及於細點瑜伽串習得心堅固乃修細相。故龍猛派亦從彼後,乃學上門細相,令心堅固。此堅固[A5]已,乃學細相收放。學習此後,相生為天學天收放。此後乃於密處鼻端俱修微細諸尊。又可先於上細標幟令心堅固,及於下門具修微細諸尊,此堅固已,次於上門收放標幟及於下門收放諸尊。生起微細曼陀羅法,《教授穗論》說須臾生,是為頓生。此若未堅固時,不修開放,若得堅固相[A6]已乃修收放,一切皆同。相者,寂靜論師、藥足論師、祥米金剛、他伽那等,說見陽燄及輕煙等五相。《明炬論》說堅固,謂所修金剛等安住不變。《攝真實經》亦謂先修粗顯諸尊瑜伽圓滿,後修細相。量者,《真實光明論說》細相堅固應修兩月,收放應修一月。此約緣微細相修奢摩他而說。以是於初發業及降少智二位修細點者,正為修現觀時,斷除沉掉。其於串習細相,令生堅固修安住者,是第三位所修應善分別,以修細點所為界限、如何修法,是初次第中最勝教授故。釋迦友說上門細相堅固,即得身心輕安。《瑜伽》等論多說彼在獲得奢摩他時,故於爾時成奢摩他,次以觀慧數修收放,如餘論中緣盡所有性修毘鉢舍那。由如是修,能得止觀雙運勝三摩地。如是瑜伽已得堅固,即立彼為究竟生起次第,《集密》二派共作此說。 ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== 無上部中緣微細點善持心時,左右二息不向外轉,於內安住,依此諸界由頂降注,引生大樂,心離沉掉,安住所緣生三摩地能久住等,恐繁不錄,當從師知。 (卯二)生起次第之差別分二:(辰一)明四支與四種瑜伽之總頌,(辰二)明六支與三三摩地之總頌。今初 能攝生起次第總頌,《集密》中說承事修行四支差別,如《集密後續》云:「一切瑜伽續,瑜伽師恆讚,承事法第一,第二為近修,修行是第三,大修行第四。」初承事支又分四法,如《集密》云:「應修承事定,勝菩提加行。」所說二次第中承事之義,如《明炬》云:「由是承事樂解脫者。所應學故,名為承事。」藥足論師說是近義。承事支中別分四法之承事者,梵文訓詁,含有所近與所緣義。《明炬論》中於總標時說是真如。但《廣釋》中緣菩提心說名承事。故是「由此而緣」,非「緣此」義。菩提心緣真空性故,是為承事。定者,由心於彼專一安住,名三摩地。 勝菩提者,謂修觀察「虛那達」咒所顯真如諸大菩提,即名承事。緣真實之承事,悲足論師說護輪後修習空性,故非唯於勝解諸尊收入光明始脩空性。 善加行者,從生智地乃至勝解諸尊收入自身,是承事三摩地與善加行。《明炬論》意承事及三摩地並如前說,中間諸法收為彼支,故立為承事支,如是從生智地乃至勝解諸尊收入自身,立為承事支者,是《後續釋》與悲足師所說,即《明炬論》意趣。准此例餘,從修空性至生宮殿諸座,為承事支。 近修支者,《集密根本經》云:「近修於勝成,觀察金剛處。」《明炬論》說始從修日輪等,至身圓滿生大印形,為近修行。拏熱巴師亦作是說。所以名近修者,悲足師云:「近謂近前,能近清淨大印,要待最初依怙清淨,故是大印。」所近之處,謂清淨天身之大印智身。能近彼者,謂最初依怙身,此能成就圓滿次第時,風心所成之受用身。故清淨者,謂圓滿次第之智身。不清淨者即是咒身。唯淨不淨之別。若爾,不立餘法為近修耶。善根稱等雖有餘解,然悲足說乃至最善瑜伽,一切皆是近修。妙符《明炬》總標之意。若爾,餘法云何釋為近修?答云:「最初依怙正為近修,餘法是彼支分,或近修之眷屬,攝為近修。成者,謂成大印之身,悲足師謂於彼成就而安立等。言金剛者,謂從毘盧乃至妙害明王三十二尊。處者,謂從色蘊乃至足心。悲足師謂此明安立字處。言觀察者,謂知安立身曼陀羅因果而安立之。一往似說安立於最初依怙身,實須安於轉成化身之身。准此釋餘,謂從五相生起主尊,乃至加持諸處。」 修行支者,《根本經》云:「由修習咒主,說修時策發。」咒謂嗡等,主謂三重薩埵。由修習彼及為加持三業策發身語意三金剛,自與金剛平等一味之三昧耶,名為修行。由此能令三業與三金剛互無差別,及成三重薩埵,故為修行。 大修行者,《根本經》云:「作大修行時,自咒金剛形,於冠想部主,當成智金剛。」智金剛者,謂具本尊瑜伽咒師,彼先加持金剛蓮華而入等至。「班[嗈-邑+夕]枳」等自咒所生諸尊,名有金剛。彼等形者即修大印,想以各部部主印定,當得悉地。《明炬論》說勝曼陀羅與勝事業,由能修成廣大利他,名大修行。據此,當知勝業亦是大修行攝,亦顯彼前三支為初加行與修自利。如是龍猛派說唯除積集資糧與修護輪二種加行。其餘一切能依所依瑜伽,須以承事修行四支總攝。但於能依若於一尊,則不別配四支,智足派於主尊明妃勝曼陀羅諸尊,別配承事修行四支。許彼如次,名為下中上品四支。勝事業時亦配下中上三。承事者,謂生三昧耶,近修者,謂加持諸處。修行謂加持身語意,大修行謂灌頂部主印定。此復如藥足說,由近三有寂滅無住故名承事。由近修行故名近修。由修三門成三身,故名為修行。由灌三界法王頂,故較前修行尤超勝故名大修行。如此諸師所說,則一一尊生起次第,皆有承事修行四支。然圓滿修承事修行四支,則須具足三品,須修曼陀羅輪生起次第。 此等是瑜伽續總攝生起次第差別。隨順父續《札拏經》中亦作四聚總攝生起次第。如云:「初修謂瑜伽,第二隨瑜伽,第三善瑜伽,第四大瑜伽。」其《廣釋》亦如彼經云:「金剛薩埵滿,此說名瑜伽,彼等流天身,稱為隨瑜伽,一切輪圓滿,許為善瑜伽,加持身語意,及諸尊眼等,召入智慧輪,大供養稱讚,名為大瑜伽。」《紅大威德》第十九品亦如是說。總釋瑜伽之義。《集密後續》說為方便智慧和合無別。此中則謂由五相證菩提,所成法界智性,因金剛持之三摩地。隨瑜伽者,寂靜論師釋為相似,與前瑜伽相似,即是果位金剛持之瑜伽。若天瑜伽較前最為廣大,名善瑜伽。謂由父母等至,放蓮華內所生天輪,各住己處,壇輪圓滿。其次加持身語意等,召入智尊灌頂印定,供養稱讚,甞甘露味,從脩念誦至送智輪收攝三昧耶尊,為大瑜伽。持祥師說如此,此中未攝中間瑜伽,修習資糧護輪加行及生所依,亦非四瑜伽中所攝。童月論師從請福田至因位金剛持,攝為瑜伽,《總論》依《金剛鬘經》,意於初加行分四瑜伽。此等不於一尊作論,依修曼陀羅輪而說。 (辰二)明六支與三三摩地之總頌 母續總攝生起次第差別,《金剛幕經》攝為六支,彼第七云:「圓滿佛住處,修普賢實法,五相成本尊,如是修壇輪,供讚甘露等,由此次第修,謂六支加行。」義如難勝月論師云:「修金剛隨貪,別修佛宮殿,灌頂嘗甘露,供讚修六支,修六支瑜伽,速得妙悉地。宮為毘盧佛,灌頂不動佛,嘗甘露彌陀,供養即不空,稱讚為寶生,貪為金剛心。」謂由六部分為六支。第一支者,謂從毘盧修生佛處宮殿,如《幕經》云:「當修習法生,想彼為佛處。」又云:「大勝毘盧佛,從法界字生,由彼生佛處。」義謂色是身心所依,毘盧亦是諸佛色蘊自性,故以彼生所依宮殿為第一支。第二支者,如《幕經》云:「應修五種相,先想為士夫,次放空行輪,乾闥婆善入,墮化後隨念,四隅天女請,勸已輪導師,眼等立痴等,三金剛三處,次金剛隨貪,善入智慧法。」第六支中從五相證菩提,生起因位持金剛父母已,加持二尊秘處,起隨貪慢,後出壇輪天女安立各處,以歌勸請,令從定起,召入智尊加持眼等。非謂不許彼等隨貪支攝,故自修五相證菩提生能依天,乃至生起圓滿三昧耶輪,召入智尊,加持諸處,一切皆修金剛薩埵及彼隨貪之慢。從自出生壇輪故是第二支攝。此處金剛薩埵修隨貪者,係由父母菩提化為壇輪諸尊,當以主尊而修隨貪,此許主尊即金剛薩埵故。餘四支者,《幕經》一句明一支云:「八明妃灌頂,亦當嘗甘露,八天女供養,稱讚輪導師。」由不動尊作灌頂者,以此灌頂是水灌頂,彼是不動體故。由彌陀尊甞甘露者,以彌陀佛是語金剛,由嘗甘露飽足語金剛故。由不空尊修供養者,以不空佛是羯摩部,供養諸佛益有情事彼自在故。由寶生佛修稱讚者,是讚功德,以分身語意業德五法時,寶生屬功德故。此五無別即是金剛薩埵,由彼六部能攝一切能依所依瑜伽。餘念誦等例,彼亦能攝故。瑜伽與母二續所共《金剛鬘經》說,以最初加行勝曼陀羅及勝事業三三摩地,總攝生起次第。如云:「瑜伽隨瑜伽,善與大瑜伽,略為初加行,如是勝壇王,勝業王瑜伽。」二種勝王為二瑜伽,加四瑜伽是六瑜伽。初四攝為最初加行,故名三三摩地或三瑜伽。諸母續中,亦多以此三三摩地作修法總頌者。此依父續母續共續直列彼名而說,實則承事修行四支之義,與六支等,非不更互相攝。 若依無上部釋三三摩地,初加行者,謂化起曼陀羅諸尊之主尊父母三摩地。生於餘二之前,故名為初,方便智慧和合無二故名加行。此隨勝說,據實從起所依至生父母,一切皆此中攝。從彼二尊菩提心,化出曼陀羅諸尊,乃至安立各處,由於曼陀羅中安立壇輪圓滿,名勝曼陀羅王。其後諸尊作諸事業淨佛土等,為勝業王。若龍猛派,於初加行以上,有廣生三身法,說為自利圓滿。攝彼承事修行四支之前三支。二種勝王,是成佛後所作事業,即大修行。故依果位佛土身業,取修為道,由三三摩地與承事修行四支,而作總攝。其待所修治事,與修圓滿次第安立要旨,《建立次第論釋》[A7]已廣說訖。寂靜師等,多依三三摩地次第,配自性、受用、變化身。意謂初加行者,初成自利,能化天眾,是故立為自性身或法身。彼所生者,利他色身之最初故,勝曼陀羅王立為受用身。彼住本處而各放出諸天,往十方界饒益有情,故勝業王立為化身。若如此義,則是修彼三身為道,故修三三摩地。為令了知第一次第瑜伽不出六部,故作六支總攝。一切生起次第根本瑜伽,攝為四瑜伽者,初二瑜伽修主尊父母為下品,第三瑜伽於上加修圓滿天輪,立為中品瑜伽。最後修與智尊平等一味,加持眼等,立為上品瑜伽,是為了知第一次第,破除逆品有上中下三品能力。智足派安立下中上三品,亦於前前增加後後,依除逆品粗中細立。或與藥足所說相同。 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,巳【補編】== 智足派依七支為道,而作生起次第差別,最為重要,如前已說。彼等皆是第一次第希有總攝。若本彼義,而審觀察生起次第要旨,是否圓滿,即可了知。 密宗道次第廣論卷十七終 密宗道次第廣論卷十八 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明生起次第品第十二之二 (卯三)爾時云何修空性 是否初次第時,唯修現品天輪,第二次第方以修空為主。答曰:初次第時亦須修空,以是成熟相續,引生圓滿次第、圓滿智德之方便故。若不修空,則不能如是成熟故。又密咒乘《無量經》中,於生現品天輪之前,皆說先修「娑跋嚩」等真言,真言,即無我勝義故。又於初次第時,須修三身為道,法身為道,須修空故。又於生有死有中有三所淨事皆須淨治,淨治死有須修空故。又有無邊經論多次宣說,能依所依瑜伽須於幻中修故。如《五次第論》云:「咒及印加行,曼陀羅等事,護摩施食事,常應如幻行。息災與增益,自在并降伏,及鈎召等事,一切皆如虹。受用嬉戲事,習近歌樂等,及行諸藝術,皆當如水月。若於色聲香,并於味及觸,眼等轉趣時,當觀如幻事,金剛乘行者,凡諸所緣事,皆當觀如幻,何須絮絮說。」尤於此道,若獲正見而不相續憶持,智祥《除二邊論》說犯意三昧耶。《十四根本罪》中亦云:「於離名等法,分別名十一。」故非不修亦可,若不修者,則為犯罪。又初次第,須修曼陀羅輪行相顯現,與達無我義慧和合無別,以此故能滅除我執三有苦本。此義,智足論師明了宣說,如《普賢修法》云:「非離庸常分別外,更有所餘三有苦,與彼行相相違心,即是所當現証事。所有甚深廣大性,分別於彼皆不現。」此所斷疑,如他伽那釋云:「前[A1]已廣說修天瑜伽之理。有作是念,若此精勤一切皆為解脫生死,則修所說初次第道,應不能脫生死,以未修無我故。為答彼難,故此論明初次第道違彼生死根本之理。」藥足亦云:「今為總結此品,故說以上所說曼陀羅輪不思議性,即是對治三有眾苦。」智足派諸師釋,皆同斯義。此中庸常分別,藏、印諸師或有說為不現天相唯現常相之分別在,絕非智足之義。如他伽那釋云:「庸常分別,謂分別我我所。」《四百五十頌釋》亦云:「寂靜亦說,此中庸常分別,謂我我所,所取能取行相意言。說名三有自性苦者,謂是三有自性苦之正因。」祥米金剛與藥足、普賢等,亦皆顯了說為我執。即由其時亦能了知。我執庸常分別由是三有苦本,故亦假說名三有苦。與彼相違心者,諸釋皆指曼陀羅輪行相之心。相違義謂行相相違,即是二心取相正相乖違。即此壇輪行相之心,為修行者所當現證。《普賢修法》所說「所有甚深」等文,即明與彼相違之理。意謂正起壇輪行相之心,庸常分別即不現起。若有難云:非彼生時不見我執,便由彼力能滅我執。應修空無邊處亦能滅故。寂靜論師答云:「由曼陀羅行相之心,於破一切虛妄分別轉故,非唯由彼不俱時現。」又云:「空無邊等,不於無我相轉,以彼不遣我見,故亦不遣以彼為因之苦。又此多生展轉所受老病死等,是謂苦諦。苦因之我見等,是謂集諦。集之對治曼陀羅輪,是謂道諦。為令畢竟苦不起故,心相續相轉依,是謂滅諦。彼即此中勝義。」此分別說空無邊處之心不趣無我,修習彼定無損我執,故雖修彼終不能脫三有。壇輪行相之心,則破我執,於無我轉,是故修彼能遣我執。又通達無我慧,由行相相違門,破除我執,亦因是否倒心而定。成立此義,須觀有無所依正量。如正理王說云:「彼等誰有量,即能損餘者。」智者起疑之處,謂若無有與彼繫縛根本我執行相相違之無我見,則失能得解脫生死道中心要。此等問答之理,是二次第之所共須,智者應知。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 由如是門,若能一次觀見彼為能治所治,修能治品。其所修事,如如增長,所治品即如是減少,最後乃能根本拔除。如《普賢修法》云:「若有於諸相違事,觀見一次此進展,由所學習極增長,便能滅除所治品。」《釋量》論云:「滅及增長依,皆有不順品,修成彼體性,故有漏盡者。」即是此義。寂靜師說轉依不退,引《釋量論》「無害」等文證成。祥米金剛則引「有我知有他」等,成立我執為生死本。故他伽那、祥米金剛多引《釋量論》文,决擇《普賢修法》所說正見。密宗論師餘亦多據《釋量論》教而善成立。故有起如是見立如是論,二正理王(陳那法稱)所有諸論,總於內明,別於密咒,全無用者,彼是順正理慧力用劣弱,故於難思大慧所趣正道淨理,建立無所堪任。而對精審正辨教理智者,出此狂言。 如祥米金剛說壇論行相之心,轉趣無我真實瑜伽,是三三摩地之通規,當知亦即智足意趣。故初次第雖以修習現品天輪為主,然於諸法無自性義,亦當引生猛利定解,令一切法皆現如幻。修習天輪之後,緣天為境,修無自性行相,發勝解慧轉入空性,其慧相分現為能依所依天相。如是甚深明了無二瑜伽,每次修時皆當修習。《歡喜金剛》由見此義,故云:「由生次瑜伽,行者修戲論,戲論悉如夢,即戲入無戲。」釋續《金剛幕》云:「譬如水中月,伴虛妄無實,如是曼陀羅,明淨為自性。」故二次第皆須修空,非謂咒中所修空性,一切皆是圓滿次第。所修天身,如水月現或空中虹,然無自性猶如幻事,生起次第亦有如此瑜伽。此與自加持之幻身,亦應分別。《攝行論》云:「若修經義(顯教)或住生起次第諸修行者,雖亦宣說增上勝解,一切諸法如幻如夢猶如影像。然以彼喻不能了知自加持教,唯由智慧之所圓滿意性天身。」 如是智足所說定解空性相現為天甚深明了無二瑜伽,印度諸大論師並多依據,如持祥論師《札拏修法》云:「除此更無餘。」智足大師等,明了說此義。 (寅二)別釋現觀次第分三:(卯一)修時之瑜伽,(卯二)中間之瑜伽,(卯三)安立彼瑜伽為廣大之理。初中又三:(辰一)瑜伽加行,(辰二)瑜伽正行及其支分,(辰三)結行。初中分二:(巳一)成順緣集積資糧,(巳二)除違緣修守護輪。今初 如《普賢修法》云:「暇滿極動搖,世善友難遇,故當修最勝,慧方便作意。」此說暇滿難得復極搖動,值遇善友修清淨道,尤為難得,若知此[A2]已當修心要。諸修行中最殊勝者,謂金剛乘,此復當從第一次第而修。修行處所如前論云:「若具清淨水,妙樹善莊嚴,於此山應修,妙音薄伽梵。」此說當於悅意遠離之處,修曼殊金剛等。房內先塗栴檀等香,散諸奇花,預備鈴等用具。修初座時,若因洗浴能助三摩地者,則當洗浴,否則不浴亦可。當先施食,海生、黑行論師俱說先施食故。若毀犯三昧耶,為圓滿故(還清淨也)諸先覺說應修金剛薩埵誦百字咒,當如是修。身者,《幕續釋》說居靜慮室,於安樂具結跏趺坐,手結定印。枳迦卡惹說目注視鼻端,齒合微啟,身不傾動。面所向方,修《集密》者藥足說向東方,《勝樂》向南方等,當依經說。次於心中安種子字自生為天,未明說者雖多,然亦多說安立爾時主尊種子,故當生為爾時主尊。《教授穗論》并說先淨為空,次俱明妃剎那頓生。毳衣大師則說心間種子放光,充滿身中乃至毛端,自住欲天之慢。是故隨修一尊即可。祥米金剛說從心間放出標幟種子莊嚴,餘師所說多唯種子,隨一皆可。祥米金剛次說從種子光化為福田。毳衣師等說由光明顯現福田。無畏師等說以光明召請福田。故非定一。召請,十二《穗》說從色究竟如燈分焰,鈎至近自前虛空中,攝自光明收入種子。福田,毳衣大師與《教授穗論》等說如所修曼陀羅論行相。智足師等則說如佛菩薩常相。故亦無定。《金剛幕》云:「供佛金剛持,當修七清淨,發大菩提心。」謂於福田修集資糧。此說師長亦在福田中攝《幕續釋》等多說師長與曼陀羅主尊無別。毳衣大師則說於曼陀羅東方尸陀林中帝釋天前,坐寶蓮座,以如金剛薩埵莊嚴之所莊嚴。七清淨者,《釋論》說是悔罪、隨喜、迴向、皈依、請住、說法、修道。予此等前先修供養,多論說從自心種子,化生眾多天女,奉內外等供養。歸依。多論說是二種大乘所共歸依。毳衣大師與海生之《修法》,則說曼陀羅主尊為佛寶,佛所說咒即為法寶,眷屬諸天等為僧寶,於此歸依。《金剛空行》十二、《結合》第三《觀察》第四品中,於此說受五部律儀,故當別受共與不共二種律儀。佛密說是[A3]已受律儀,以此方便令得堅固。次如《二觀察》說當修四無量心。毳衣大師說:「後誦百字咒,思諸尊加持。」次持祥等說送福田。毳衣大師說想皆不可得。餘師多未明說。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== 《教授穗》云:「應令彼義,明了持誦。」謂初勿隨沉掉流轉,唯除當時分別相續而轉,不使其餘分別間斷。又於彼義當令明了,莫落空言。能如是者,先須決定所修數量次第,發猛利心不令改動。若隨意修終無所成。時間宜短次漸增長,餘所修事皆如是知。寂靜《札拏》儀軌,《教授穗》等皆說此等是集福德資糧,次修空性是集智慧資糧。智資糧者謂修「虛那達」等或修「娑跋[A4]嚩」等咒義。此處咒師當緣見網所縛諸有情類,如是想修勝義菩提之心,嗟此有情,本自具足涅槃體性,然由癡闇所覆而不自知,當以如何方便令彼自覺。如《普賢修法》云:「悲緣此世間,普為見網縛,無等菩提心,咒師如軌修。」「虛那達」即空性,以一切法永離自性,因果空故。「若那」謂與空無相無願之空性等,同一味之心。「班[嗈-邑+夕]」謂空性境與能緣智二無分別名曰金剛,以非逆品所能壞故,能摧所治品故,無始終故。猶如法界無始無終,緣彼之心亦得彼名。以緣真如為彼相故。「娑跋嚩」謂自性,由自性淨即住離垢之體性故。「阿達摩迦」者謂體性。「阿杭」謂我,謂自性清淨之體性即我。以是空性智者,表自雖係通達空性總相,然能增上勝解法性究竟自相。金剛,表勝解彼為究竟淨。自性,表至究竟於自性淨亦無所增。體性及我,表彼清淨於自成為自性清淨。此依寂靜論師意說。嗡字含阿鄔摩三字,是自己身語意三業。謂於三業空悲一味自性安立為我。《普賢修法》亦云:「離自性故空,離因故無相,由離諸分別,故諸法無願。」釋三解脫門後說前真言,此頌即明彼真言義。「虛那達」等咒義,有修三解脫門義者,如藥足師說空無相無願三者,就名增上安立為異,若就勝義唯自性空便攝餘二,此與龍猛菩薩《普提資糧》所說相順。如云:「無性空故空,以相復何為,滅一切相故,智者何所願。」雖說有三,空解脫中亦攝餘二。藥足祥米金剛說以離一異理,決擇諸法皆無自性,即是彼空。故於此時,當憶諸法決定皆無自性之見。境即「虛那達」,心即「若那」。由無明力別現心境,破除此力令無分別,如水注水即是「班[嗈-邑+夕]」。通達諸法自性無別,離戲論智雖須新生,然彼心境真實無別之自性淨,於因果位原無差別,即「娑跋嚩」。彼於自身本性安住,離彼之外自亦非有,即「阿達摩迦」與「阿杭」。此上釋咒義為三解脫門。又可釋為三種金剛,嗡字明身金剛,空智金剛自性明意金剛,此義易知。安立我為語金剛者,我無實體唯依言說而假立故。又可釋咒義為五部,謂嗡字表大圓鏡智,空性表示平等性智,智表妙觀察智,金剛表示成所作智,自性表示最清淨智,後二表自為五智體大金剛持自性。後二種釋,即於初釋緣空性智,就義別開。《教授穗論》謂此三釋皆是世尊續中自說。又《結合經》與《四座》云:「先思性空性,洗滌眾生垢。」於此皆說抉擇十八界無自性。印度論中亦多於此說,無我見。故有人說不須通達無自性見,但得粗顯二取如虹消滅,即是修彼「娑跋嚩」等咒義,全非經論真實意趣。當如寂靜論師所說:「諸餘加持真言,凡有『班[嗈-邑+夕]娑跋嚩阿達摩廓杭』等文,義皆准此應知。」謂「娑跋嚩虛答」等顯示空性之真言,文雖不同,然當如前所說憶念其義。寂靜與藥足等說此真言為能堅固及能加持。故誦此咒加持先應明想咒義。又以妙觀察智抉擇生死涅槃一切諸法勝義空時,其所現境雖未除二取相,然所定解已滅二取,是故不須別修滅除二取相之所緣。如是定解一切諸法,遠離二邊無性為相,是真法界永離一切諸戲論相。此如《入行論》云:「若時性無性,皆不住心前,爾時無餘相,無得最寂靜。」謂一切法無得為體皆入空性。若爾,為何修空。如「扎拏修法拘摩陀開敷論」說:「由前福資糧與後智資糧,出生主尊。」迦摩羅惹其達師說,防護魔碍最為第一。彼等皆是所為一分,正所為者,謂如下說所修一切皆為任持色身天慢,彼慢由證法身之力,乃能任持。種比跋大師云:「先修自性空,行者憶宿願。」此說入空性已,隨念宿願而起定故。海生《修法》與鈴論師《歡喜金剛修法》亦作如是說故。又為將一切相收入光明起諸天故,又由先發猛利定解正見之力,後修諸相乃能顯現如幻事故。《歡喜金剛修法斷謬論》說:「入空性中無現相者,是無分別智性,從彼起相修護輪者,即是清淨世間智性。」此說護輪僅是一例。凡能所依一切現相,務當勝解是無二智相分,現為彼彼行相。以是此處修習空性,所為非一。是故非唯短時修空,乃至獲得猛利定解,當勤修習。 ᅟᅟ==[A4] 嚩【CB】,縛【補編】== ([A5]巳二)除違緣修守護輪 ᅟᅟ==[A5] 巳【CB】,己【補編】== 於修空後,未修護輪之間,有修不修表中有字兩派,修者復有三說。如《穗論》十二云:「於二紅色賀字中間,或修種子,或修三字,或有唯修那答三種,皆為生成身語心故。」謂於二賀中間,有修吽字,有修嗡啊吽三字者,有唯修那答者。若於此處不如是修,於後生主尊時,隨其所應說修彼彼諸字。羅伊跋之學者,說於未生護輪下基之前,唯修那答。 共護輪者,謂從囕字出生日輪,彼上吽字生羯摩杵,杵臍吽字莊嚴。從彼放光猶如劫火,其杵各股體皆熾然。《幕續》等說同此。無畏、普賢論師說所放光變成金剛墻等。普賢說彼一切皆是羯摩金剛,與《二觀察》相合,如云:「日上有吽字,出生羯摩杵,想即由彼杵,結為墻與幕。」無畏論師說為五股,結成一片全無間隙。上至色究竟天,下至金剛地基。毳衣大師則說墻形四方,寬量隨諸行者所樂。幕下、墻上(即幕與墻交合處)懸金剛盖。頂上四周,圍有箭網。慧鎧論師說修五股杵形箭網,作箭鏃形。於彼等外應想火鬘。 殊勝護輪,謂修十輻黃輪。於輪轂中間修作吽明王,於十輻上修十明王。無畏師說此係多法通用。此於輻轂內修護輪主尊。如《穗論》十二云:「自住十輻轂之中央。」又云:「於輪轂內自身之下。」謂於彼中修四大種。故轂有中空處。轂內上下二端,為上下輻,於彼安立上下二大明王,餘八明王安於方隅八輻,稍離未觸。無畏師說黃輪向右急旋,火光四射。種比跋師雖亦許護輪主尊為作吽,然未說輪旋轉。於破魔時則說頂轉輪王以為主尊,輪向左旋,誦「那摩三曼達」等咒。臨睡修[A6]已,誦咒七遍,是《十真實》中說。若無大障可修共法,若障大者,則修十大明王以及黃輪,鈎諸魔碍,用橛釘之。若彼魔碍有大神通,更當殷重修於空性。將所護者,安護輪內,義同將所繪曼陀羅安於護輪,如前已說。 ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== (辰二)瑜伽正行及其支分分三:([A7]巳一)生所依宮殿,(巳二)生能依諸尊,(巳三)圓滿之支分。今初 ᅟᅟ==[A7] 巳【CB】,己【補編】== 十輻護輪有修不修兩派。修者,龍猛派於修護輪後,淨為空性,生起風火水地四輪,彼四合為一體,生起金剛地基,其上有𠽾𠾐字出生宮殿。《總論》中云:「虛空界中央,二吽從漾字,當修為風輪。」虛空界謂法生,中央者謂蓮花,及由四大合一生羯摩杵。此如《鬘論》所說。於法生及蓮花臍上,從四大種生羯摩杵,唯於此上出生宮殿。龍猛父子多未說此,唯龍智云:「牌樓金剛端,其外謂輪圍,金剛鬘有光。」此顯然說有金剛墻。故亦當生幕葢金剛地基及光鬘等。於彼中央修法生等。 《穗論》十二中說:不收十輻輪及明王,而生所依,有於轂中生起四大與須彌山,或有自從護輪主尊變金剛持,再變法生,於法生中生起蓮華,華上生羯摩杵,杵上生起宮殿。 不修勝護輪者,如羅伊跋於《勝樂法》,說修共護輪後,修習空性,起定修習風火水地須彌,羯摩杵上蓮華,次於彼上修五相證菩提,頓生一切所依能依。無畏論師謂彼於蓮花上,生金剛杵,然無法生。阿底峽尊者則說修法生。羅伊跋及弟子說能所依同時而生。《集密》兩派與毳衣師、海生、種比跋等說前後生。又種比跋與海生師於無我母及歡喜金剛修法中,雖說於共護輪內修法生,於彼次第生四大種,彼與自心和合,生為宮殿。然非不許修蓮華與羯摩金剛,以種比跋弟子難勝月師於《六支論》亦作是說,而《賢攝論》則說於法生中,什字生為蓮花痾字生為羯摩金剛,於上修四大種,此上修𠽾𠾐字變為輪故。又此與《斷謬論》亦說四大和合修為宮殿。則化大種生為宮殿,非唯限瑜伽部,即於瑜伽部中,亦但一分,非皆如是。 於護輪中不修四大層次,唯於法生蓮花羯摩金剛之上生宮殿者,是《集密》智足派與持祥論師(大威德)派。 修法生法,智足論師等說,由金剛持或名普賢,變化而生。毳衣大師等說從鄂字生。《斷謬論》等則說由金剛持體性,頓生為法生相。隨一皆可。又《教授穗論》等,多說為白三角下細上寬中有空處。是故當於三角豎立之內修生宮殿。 《集密》、龍猛菩薩派與毳衣師等說宮殿從𠽾𠾐字生。智足論師等說𠽾𠾐生輪,輪變毘盧遮那,次生宮殿。此二唯是詳略不同。說由四大和合而生,與說能依所依俱從五相出生,如前已述。 如是生宮殿法,有生不生四大層次兩說。生四大者,有在不在十輻輪轂中生兩說。不在轂中生者,又有四大化與不化兩說。化四大者,又有順次修逆次修兩說。四大化後又有生起羯摩金剛與生宮殿兩說。生不生須彌山亦有二說。其生宮殿則係頓生,漸觀令顯,並諸座位,皆令顯現。 (巳二)生能依諸尊分三:(午一)正生天法,(午二)以所淨事配能淨道,(午三)攝諸要義。初又分二:(未一)依止五相生起法,(未二)化後歌勸生起法。今初 五相證菩提者,謂從真如證於菩提、從月、種子、標幟及從身證菩提。此聖父子所許,如餘應知。諸餘論師多如《結合》第三說從五智現證菩提:「月為圓鏡智,如是平等智,本尊種子幟,說為妙觀察,合一成所作,像圓滿清淨,智者說儀軌,當修五種相。」然從父音生日輪。否,則無决定。即前經云:「於月輪中央,有二月菩提。」於《修金剛薩埵法》中說修二月輪故。《結合經》於此處但說十六母韻與三十四父音。須否加倍修習,智足論師未見明說。然燈賢論師云:「韻字具妙相,伽等隨好光。」加倍修否亦不明顯。寂靜論師所造釋論,舉他不加倍修,成立自宗應加倍修。持祥論師說加倍修。毳衣大師與羅伊跋所造母續修法亦說加倍修。寂靜論師《歡喜金剛雙身修法》則說從不加倍之音韻等生起本尊。種比跋《無我母修法》與難勝月、《歡喜金剛修法》加倍修否俱不明顯。加倍修者,羅伊跋說各各皆應左繞右繞。祥米金剛說韻白色在內,音為紅色在外。藥足則說韻下音上。此皆先安音韻次乃生起之派。持祥論師說於母韻所生月上,安布父音。故知隨一皆可。智足派與持祥及羅伊跋,說從父音出生月輪。《歡喜金剛雙身修法》等與毳衣大師勝樂十三尊修法中,說生日輪。持祥與無畏論師說第二月為紅色。無畏又說修滿月相。《給合》於說月輪時云:「三角廣大性。」此謂月如拘摩陀色,阿字莊嚴,生為三角法生。是於果立因名(法生三角。非說月形三角)。 倍修母韻之理,《教授穗》說十六母韻表示身內諸處之十六界。此分方便智慧成三十二,故於韻字亦加倍修。引契經云:「如世尊說:阿字拇指根,啊字在脛上,伊字於兩股,吚字處隱密,鄔字在臍根,鄔字居臍中,日字於乳間,[口*日]字在雙手,利字於項處,唎字居唇上,厄字於兩頰,呃字在眼中,鄂字居耳根,諤字住於頭,昂痾在頂上,智者如是想,白分如斯住,黑分則反爾,女性金剛心,男性一切時。」《律生經》等亦同此說。《律生疏》云:「左者謂於白分,拇指至頂,依身左分漸向上昇。於黑分時從頂至拇依身右分漸次下降。」此說菩提心十六分。於分方便智慧二品,引《二觀察》證云:「界相謂世尊,其樂謂欲母。」此謂母韻所表之十六義,可分方便智慧二品,故十六字亦分兩聚。《教授穗》說由遮非界非樂各有十六分故,分三十二。亦就上說彼彼身位而分。次從迦至羼字有三十四父音,於上再加「楂答也惹拉嚩」六字共為四十,再加一倍。三十四上所添之字,有多不同。父音分八十者,《教授穗》說:「父音攝為五界,每界有四,共為二十。地至風界各有四者,如云凡有一界即有四界。空界表喜,有四喜故。此二十界各具塵分,故成四十。此復各有智慧方便空樂二分,故成八十。」意謂父音正表塵分,此分五界與塵差別,故能表字亦如是。分《教授穗論》又云:「此阿字等,如餘處說當觀能詮所詮無別而立,如云阿字虛空界等。」此就信解能詮所詮無異,亦當了知。 總攝諸字為五界者,如迦俄孃拏娜摩訶羼是表空界字。伽哈雜哈擇答答薄也也霞是表風界字,伽雜楂楂陀婆惹惹卡是表火界字,喀剎叉叉頗嚩嚩是表水界字,[嗈-邑+夕]查達跋拉拉薩是表地界字。 持祥與藥足說次由音韻所生二月合為一體。《教授穗》等多未說此。 次想二月或日月中,從種子字變成標幟種子莊嚴。生標幟中,難勝月與寂靜論師於《歡喜金剛雙身儀軌》說生父母兩標幟。《普賢修法》等則但說生一。 次從標幟種子放光饒益有情,復收為一。多有不說收放光明,但說合為一者。此後當觀身相圓滿。 此中安立五智。《教授穗》說:「母韻父音之異熟果與等流果,如其次第是即大圓鏡智三十二相平等性智八十隨好。標幟上有種子莊嚴即妙觀察,放收合一即成所作,身相圓滿即法界體性智。」許第二為日輪,多同此說。持祥說二月為大圓鏡智,彼二合一為平等性智,種子為妙觀察智,標幟為成所作智,身相圓滿同前。藥足師亦說二月合一為平等性智。若無化後勸請,前四立為因金剛持,第五則為果金剛持。若有勸請,則前五相皆是因金剛持。然於因金剛位,不從表中有字,修於圓滿種子。 (未二)化後歌勸生起法 如是因金剛持化後,以歌勸請生起果金剛持。餘論多於此處宣說化後勸請。《總論》則說於最勝業時修。其化亦非化表中有之字,復是化入光明。於此初加行位化者,如《幕續》云:「乾闥婆入[A8]已,墮後憶溶化,四維天女請。」謂表中有之字入[A9]已溶化。智足派與持祥、難勝月等說三種子字入二賀字中。有說種子及那答等入彼中間,如前已說。羅伊跋意於前證菩提時唯那答入。入內之法,如祥米金剛說直入佛母蓮花,藥足則說入本尊口由金剛道入母蓮內。又有說從頂上入者,故非定一。由此入為緣故,父母俱被大愛所化,成空點形。由佛眼等天女,以歌勸請。多說從空點生種子標幟圓滿天身,此是三段生法。《教授穗》云:「兩返修習五相證菩提者,為令了知於因果位,皆有大樂。」謂於此處亦修五相而生。 ᅟᅟ==[A8] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A9] 已【CB】,巳【補編】== 生眷屬時,難勝月說由因位金剛持父母入等,至[A10]已生八天女。是隨《幕續》而說,如云:「當修五種相,先想為士夫,次放空行輪。」《斷謬論》等說於果金剛持,從胎出生。《歡喜金剛法》中亦無定準。智足派等亦多說由果金剛持父母,從胎中生眷屬。 ᅟᅟ==[A10] 已【CB】,巳【補編】== 金剛持身於因果位,如歡喜金剛法,難勝月說前者白色(因位),後者藍色(果位)。《斷謬論》說二位色同。曼殊金剛有說身色標幟不同,面臂相同,其說非一,不可定執。《教授穗》說無所化時,唯住大安樂身,有所化時,則現色身作利他事,順此義故,化後以歌勸請。又於利他其身常現,剎那不滅,依此義故無化請也。 (午二)以所淨事配能淨道 《時輪本釋》與《建立次第論》明顯建立順所淨事,生起諸尊,餘經論中未明說此。如前所引《幕續》略說中有入於因金剛持佛母胎中。《教授穗論》廣例餘所淨事,當如彼說。此如先造受胎生業,死後成辦中有。次彼中有入母胎中,後產生[A11]已娶妻生子女等。隨順此法而修生起次第。先緣福田多集資糧,如造生三有業。即此亦可配資糧道,《教授穗》云:「如是即菩薩資糧地,猶如過去有支,造因同故。此修施等福德,前造善不善業。」此中願心行心等道,共波羅蜜多乘。義同《攝行論》說「先學佛乘。」即須先修共道之義。雖羅伊跋說於修護輪後方緣佛田修集資糧。餘諸論師多說於彼前修,此依多說。又修空性,《總論》與羅伊跋雖說於守護輪後修,此在前修亦依多說。次修空性,如同死有,决擇我我所執五蘊無性,彼相悉滅,如捨舊蘊。此後乃至未入表中有字,所有一切配加行道。《教授穗》云:「趣向死歿如加行位,勝解行地,是决擇真實之加行性故。後由過去有滅,生中有位,如是由加行位臨最後剎那滅,即最後剎那性極歡喜地無間道位。」初地之無間道,即加行道最後上品世第一法。以下十地配胎中諸位故。《莊嚴經論》亦云:「爾時速當證,無間三摩地。」於世第一法作如是說故。從入表中有字,乃至天身未滿,是見修道,配十地位。《教授穗》云:「其後如中有生,色滅之後成入胎位。當知菩薩無間道滅後為十地,以此諸地有障在故。」此中有二,如無乾闥婆入化者,則從那答等表中有之字,入二月輪中間,是住胎位,乃至種子、標幟,收放光明。其未別說表中有字入月內者,則於二輪中間初種子字,即中有生。第一月表界,第二月表塵,此從女性月經出生,猶如日輪,故餘處說從父音生日輪,月輪紅色亦即此意。表中有字入彼中間,猶如中有入於父母赤白二渧混和之中。次從種子生標幟五股杵。《教授穗》說一端五股表四支及頭部,餘端五股表手足有五指,及頭部有五根,各攝為五聚故。標幟,如歡喜金剛為頂骨。紅大威德為棍。但能表示胎中成就業體即可。 ᅟᅟ==[A11] 已【CB】,巳【補編】== 若有乾闥婆入化者,則由五相現證菩提,圓滿生起因金剛持,猶如父母。次中有入內至身未圓滿,以配胎中諸位。 其那答者,為攝三字自性,三字義即廣大,同表中有。入二紅色賀字中者,《教授穗》中敘述二派,一表中有貪增上覆,二表父母所生方便智慧自性之貪。亦有論說表為甚深廣大所縛。表中有字趣入之相。《教授穗》云:「依此密意,或有修法說乾闥婆從金門入,有說從口,有說從餘門入。如世尊續部中,應當了知。」金門謂頂,與《建立次第》說中有從毘盧門入者義同。言餘門者,如《對法》說從胎門入。共有三門。從此諸門入胎之理,謂欲吻其唇者,須從口入。欲執其髮,便從毘盧門入。有說貪男性者從父而入,貪女性者則從母入。有說唯從母入。雖有多說最後皆入胎中。此是《教授穗論》所說。《金剛鬘續》與《大印點》則說從父口入。《律生》密意亦如是說。 由中有入胎有種種不同,故諸經論亦說種種修法。又當中有入胎,父母俱為樂所悶絕,為順彼相,故於中有種子入母胎後,父母俱現溶化。化後以歌勸請,若依果德而釋,是由四無量心,發動利他,於諸有善根者現起色身。若約所淨之事,則四天女謂四大種,中有入胎之後,羯羅藍由地持、水攝、火熱不腐,由風增長,如《緣起經》中說。迦摩羅惹其達說歌勸後,歌勸之天女亦攝於彼點。先雖未修曼陀羅四天女,至溶化時,諸大論師多說彼四勸請,故不相違(臨時觀想也)。 主尊父母身相圓滿,如出胎位。由父母生勝曼陀羅諸天,如生兒女。如《教授穗》云:「果相圓滿受用諸境界者,如出胎後受用一切諸境界故。次生子等,喻放化身諸尊之位。」此配無學地說。如是果金剛持如所生子。前初二證菩提說為因果金剛持者,猶如父母與子,與此相同。中間二相證菩提者,說為因金剛持,其因果理與此稍異,如文易知。 《教授穗論》為證彼義,引《結合》云:「十月即十地,有情十地王。」釋此意趣,謂從入胎,至未出胎,配十地位,故此中間即見修道。出胎以後配無學道。未入胎前為加行道。然於福田修集資糧是資糧道,似須從修空性,方立為加行道。祥米金剛說為對治生死中有,故造《普賢修法》,應順彼三而修,然亦此中攝也。 (午三)攝諸要義 生起次第,須明所淨能淨之理,即如生死中有三事而修,故此應說受生之相。能受生者,謂修道之咒師。彼受何種身者,謂受果金剛持主尊父母之身。於何處受身者,謂從金剛墻至宮殿諸座,正謂宮殿中央座上。由修何業而受生者,謂緣殊勝福田,修集禮拜供養發心受戒等諸資糧。如是勝妙天身,若不棄捨庸凡五蘊不能受生,故當修空性滅庸凡相執。捨前凡蘊未得後生殊勝天身,其間若無中有不能生起天身,故於修空性後,果金剛持未圓滿前。須住那答等行相之瑜伽。祥米金剛於此設問何故不於修空無間受取天身利益眾生而修賀等五字,答謂以此修法,對治三有,故亦須順中有而修。此說善哉。次由五相所成因金剛持父母入定,中有行相由見彼故而入母胎。此亦如祥米金剛云:「由見金剛薩埵入大樂,定拔濟一切眾生,故往彼處,為得上妙境故起欲樂心。當生如是勝解,有情雖具煩惱所知二障,然一入此法生印中,即得成佛,我為獲得普賢尊故,亦當入此。此念堅住,表中有之五字,猶如燈滅,入智慧秘密蓮花中。」此說由見何利,如何入胎。 次溶化後以歌勸起,是圓滿生有位,如前已說。若善了知溶化歌勸之理,則能了知說佛地中不須色身,唯以法身利有情者,不應道理,及知正利眾生色身不容或少。故大乘人以修色身因之方便為主。 受此生後所作事者,即下所明,謂生勝曼陀羅諸尊,生已各作事業利益眾生。 若不溶化,唯由五相生主尊父母者,應知亦取彼喻配合而修,易解不說。是故應捨僅知配合諸所淨事,便謂已知能淨所淨之見。當起如前所說定解。此於曼殊金剛、勝樂、歡喜、大威德等,皆不容少。聖龍猛菩薩派,明順生死中有所淨能淨最為無上之理,如龍智論所說,前於《建立論釋》已廣說訖,茲不繁述。 又捨凡蘊別修天身,須順生死中有次第而修。修習此門,圓滿次第諸道最為殊勝,故圓滿次第時,當知依於脈息空點等瑜伽力,身生智德通達空性,猶如死有。次從彼起,如月輪標幟等,以三智及息為因故,生幻身及雙運天身。若不爾者,圓滿次第則缺淨所淨事之義。故當順所淨事,了知二次第之宗要。而於初次第為第二次第作因之理,更當發起堅固定解。《集密》、龍猛菩薩學派說此最顯,如彼當知。 密宗道次第廣論卷十八終 密宗道次第廣論卷十九 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明生起次第品第十二之三 (巳三)圓滿之支分分二:(午一)召入智尊印證供讚,(午二)嘗甘露味修念誦法。今初 若知修習主尊儀軌要義,修眷屬法則易了知。當俱修三昧耶薩埵,此中滅庸凡慢,自心現為面臂端嚴之天,即三昧耶薩埵。《教授穗》云:「有亦說種子,有唯說種子。」此述二派,有說天身及種子字為三昧耶薩埵,有說唯種子為三昧耶薩埵者。三昧耶者,梵語「三梅底」為正往,「彌拉底」為攝還。如《教授穗論》云:「以此體性中具無二智性,智慧薩埵能正往還,名三昧耶。」此是三昧耶之訓詁。言薩埵者,如前論云:「能饒益有情故,是清淨有情名所詮境故,名為薩埵。」云何種子得有薩埵之義?即前論云:「種子如羯羅藍亦名有情。」此舉雖無頭臂行相,亦可名為有情之喻,雖曼陀羅諸尊容有多少,然最少者,亦須加持諸處或身語意等尊,堪為定量諸曼陀羅現觀,亦皆順所淨事具足,能淨諸尊之數。故若不修堪為定量之曼陀羅修法,則難具足生起次第,修上悉地之扼要也。召入智慧薩埵,如《攝真實經》說:「三昧耶尊之眼等,與智慧尊之眼等,下至極微皆應合雜無異。故當堅固勝解平等一味。」《教授穗》說:「如是勝解與如來一切同體者,是為信解其平等性。有時勝解與一切眾生同體者,是為通達自性清淨真如相同。故於自心相續出生之智薩埵,應信解為一體,於他身之智尊,應起平等性之信解。」 召智尊後灌頂,諸論多說是水灌頂。多說從瓶取菩提心自性之水而行灌頂,亦有說從髗缽取水而灌頂者,謂以智水洗除一切諸垢習氣。故灌頂水集於頂上為印證者,是明種性之差別也。又海生之《修法》與羅伊跋《現觀》之覺窩釋,亦說受四灌頂而後印證。若知「教授穗論」所說印證之理,則能了解印證總相故當解說。恭敬頂戴是為印證,為令滿足,非令苦惱。以部主印證者,子隨父行,為令了知從彼生故。六佛互印證時,以不動佛印證毘盧等四佛者,是以自性印證有性,不動是心,為令了知彼四亦是心性,色受想行體唯心故。無畏論師不許外境,受等三法亦許但是心之分位。菩提心從空性生故,以不動佛印金剛持是為以果印因,以金剛持印不動佛,則是以因印果。說金剛持,為五部之冠者,是表五智皆彼體攝。如痴金剛與地藏等六部以外餘尊,是五如來三摩地之一分,故以五佛印證。若爾,地藏等五與色金剛等五,佛眼等四,皆應以毘盧佛印證,彼等皆是色一分故。此亦無過,雖立五蘊為五如來,然於一一蘊皆有五佛故。故於色蘊,以餘蘊如來為部主,亦不相違。印證十二處者,以毘盧佛印眼處天,最清淨故。不動印耳,與虛空相等故。寶生印鼻,若中有位或諸餘位,於緣香受生歡喜故。貪性彌陀印舌,緣味之貪最有力故。不空印身不空成就,體性為風,徧全身故。不動佛印意根,意隨諸根轉故。《普賢修法》說隨諸根印證色等。《總論》更作餘說。以毘盧佛印色天色金剛,色是痴所依故。寶生印聲,由稱讚等聲引生慢心故。彌陀印香,由緣紅花等,香生貪著故。不空印味,滿一切肢遍於諸肢轉故。不動印觸,徧諸根故。於法亦爾。於四界中以毘盧佛印地界天,由堅硬性為大愚痴之所依故。不動印水,等同虛空,能斷能穿亦彼攝故。彌陀印火,以有光故。不空印風,能徧動故。痴金剛等印佛眼等,彼是痴金剛等之明妃故。印諸明王之理,從東方起至東北角與上下二明王,每二明王,如其次第而以毘盧寶生彌陀不空不動印證,是於愚痴我慢貪著嫉妬瞋恚五惑,受用斷盡為體性故。《集密曼殊金剛》之八明王,則以不動印證,以是從心出生勝德為體,及是忿怒性故。然害獄主明王與蓮邊際明王則同前說。或有論說攝五部主入菩薩中,為顯彼等體無異故。餘經代替兩部集密(以不動為主之龍猛派,與以曼殊金剛為主之智足派)之五佛與四佛母者,在《勝樂》法,則為主尊與四空行母為五并能隨母等四尊。在《喜金剛》,則為主尊與白色母等四尊並補迦茜等四尊。在《大威德》,則為害獄主等五尊及[嗈-邑+夕]茲迦等四佛母。代地藏等(《集密》法中諸菩薩)者即痴金剛等,其印證及清淨,如理應知。 次獻內外供養稱讚,應如各法所說而行。尤於供讚之境,作者、供讚應以無性如幻之心而行。 (午二)嘗甘露味修念誦法 次嘗甘露修天瑜伽,至疲倦時,當修念誦。念珠之料,《結合經》〈第三十品〉云:「泥珠母珍珠及餘白界等,於息災羯摩,數珠殊勝相。金銀與諸銅,以及蓮華珠,增益法殊勝,知者應數用。紅花等妙香,一切香和丸善,為製造[A1]已,許為愛敬用。金剛子槵子,如是男子骨,用修降伏法。」白界謂骨,等者謂白石及餘白珠等。《四座經》云:「紅花或餘香,各別或一切,作丸復染色,許為愛敬用。」《金剛空行》亦說用珊瑚及紫檀。男子者指人。通一切法皆吉祥者。如前經云:「息增愛降伏,菩提子皆通。」念珠之數,即前經云:「修咒用五十,愛敬彼半數,息災用一百,增益再加八。降伏用六十,持配諸羯摩。」言修咒者,謂隨順諸羯摩,即修一切業咒。念珠之索,《金剛空行經》說用金絲或童女所捻棉線、九股為索。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 次自住於金剛持慢,觀想右手五指剎那變成五股金剛,從痾生日輪以痾字加持。又想左手五指剎那變成蓮花葉形,從痾生月輪以痾字加持。兩手所持珠索中線想為金剛薩埵本性。方維八線想為蓮花手。彌勒虛空藏普賢金剛手、妙吉祥除蓋障及地藏本性,珠粒想為毘盧佛等五佛體性。想佛頭珠剎那變成力無畏等法蘊之塔。次從心間種子放光召金剛薩埵等各入自體,誦咒加持:「阿喀茹迦茹那茹,阿莎黑,阿門達,毘薩茹伽尼阿,阿桑枯阿利茹悉[嗈-邑+夕],伊當達毘薩茹,嗡跋得跋得,摩訶若那薩嚩補答,摩訶跋北,吽吽吽賀賀賀啊康娑訶。」次用瓶水灌頂供養。「嗡跋得」以下出《結合》第八。《鬘論》、《教授穗論》皆說彼咒,即《結合經》與《四座經》之善住法。若略修善住者,如《鬘論》說修語金剛,鈎召智尊合一,變彼像成念珠之相,散洒瓶水,供養、誦語金剛心咒一百八遍。 數珠之法,《金剛空行經》云:「息災放食指,增益置中指,愛敬用無名,小指作降伏。大指作鈎狀,想召一切天,善住定誦咒,定成就無疑。」《結合》亦爾。又《結合》云:「由真實成就,不明顯則遠。」釋論謂若想兩手為金剛蓮花,修為空悲不離,右手數珠及能了知天身無性真實則能成就,餘則不成。想大指為鈎狀,由彼鈎召諸天降念珠上。《結合》與《四座經》亦如是說。善住定者,謂心不亂,眾多經論殷重說此,故心不亂極為重要。念誦快慢等者,如祥米金剛云:「明顯者,謂不離韻量,不急不緩,出息入息,聲勿太猛,致妨誦咒,令咒不顯。」寂靜論師、蓮鎧論師亦說當如是誦。量者,謂字音韻長短之量。 出不出聲誦者,如《歡喜金剛修法斷謬論》與鈴論師、毳衣大師《勝樂修法》,俱修金剛念誦忿怒念誦。寂靜論師、蓮鎧論師、《札拏修法》,唯修忿怒念誦無意念誦。此是大威德之別法。二種念誦如祥米金剛引文云:「金剛語念誦,金剛語離聲。如《集密》云:忿三昧耶智,自金剛壇宣,咒字句可聞,名金剛念誦。」《明炬論》云:「忿怒謂大威德等咒,三昧耶智謂知驅逐等法,壇謂自身,金剛謂舌,由彼所宣,意謂自他可聞念誦。」 念誦之所緣者,鈴論師與毳衣大師說想所誦之咒,從自心間種子分出,自金剛端入明妃身,由天女口入自口中,迴轉如前。想一切口及一切瑜伽母皆悉念誦。海生師說:從天女口入自口中,如前迴轉。《教授穗》說四種念誦,安住一切平等性慢,先想咒鬘入自口中,從金剛出入蓮花中,緣中脈向上行,從妃口出入自口中,迴轉修行諸字緩誦鬘咒,是為迴曲念誦,若先自妃口入如前迴轉,字音粗壯,是為忿怒念誦。若猛誦心咒等,是為明王念誦。若誦心咒及心中心,想從心間種子出曼陀羅諸尊,利益眾生,次隨入息與咒同時入心中種子,如引珠繩然。誦各尊咒,收放各尊,是三昧耶念誦。此說初二是誦鬘咒粗柔二相。第三乃是鬘咒、心咒、心中心咒念誦,第四是心咒或心中心咒念誦。又第四種,《普賢修法》亦說并說放出諸天遍虛空界。燃燈智云:「放智身念誦,誦由命放出,咒由力收回。」謂出息時放出諸天,入息時則收回。寂靜論師立自宗云:「隨順咒量,誦一或二或復多咒,呼出長息為命,彼所攝者,謂即誦及放出之時,如是誦者,心不散亂。」并說每誦一咒,即放出時,後即收回,為他師宗。若鈴論師、毳衣大師所說,想彼諸尊諸口(面多者)皆在念誦,眷屬諸尊亦皆念誦,則此念誦成爾許倍。《斷謬論》云:「當勝解一切口及一切天女口皆悉誦咒,此由一切天女誦故,本尊念誦便成八倍。」如是想本尊口與明妃口迴轉念誦,及觀想從咒鬘放收諸天念誦,總有三種觀想。又如寂靜論師、與三昧耶金剛《歡喜金剛修法》所說,想於心間種子咒鬘繞圍,咒向上立光明,晃耀猶如燈鬘。若心緣彼念誦如意寫字,若與一切口及一切天女口念誦(前者默誦後者出聲)為二念誦,共成五種(連前三種觀想為五)。又[嗈-邑+夕]倫答日跋說前者各圓體念誦,後者名三昧耶念誦,《教授穗論》與慧鎧論師等多于此時說緣風修三字金剛念誦,恐繁不錄。 如是於正修時,離念誦過專心持誦,入念誦數,中間所誦不入數中,然可念誦亦無有失,如不動金剛《札拏修法》云:「起座以後,應緣佛身持誦密咒,而不入數。」 咒之色者,海生論師說由羯磨色分。此謂息災、增益、愛敬、降伏如次色為白、黃、赤、黑。或如修承事時,諸尊身色不變,如是咒色亦隨諸尊為種種色。或如藏師所說為於諸尊自在當修紅色。如善根金剛云:「念誦之時,方便如旋火輪,如擲索槍,或如翎束,或如結繩,或如鈎連,隨時應知。」藏地師謂初是息灾,次是降伏,三是增益,後二愛敬。彼是咒字。咒光之相。餘師未見明說。從口至口旋如火輪,海生說分四羯摩色。般若因陀羅茹資於《寶熾然論》亦作此說,次智者誦咒,從父母口中,旋轉如火輪,色由羯摩分。 如是從入智尊乃至念誦,是為所生諸天圓滿之支。憶清淨者,多如難勝月說,至不能入定時憶念清淨,故於修天瑜伽疲倦時行。此又多如寂靜、難勝月、種比跋所說。於正修時憶念。海生與[嗈-邑+夕]耶茜那說於施食後憶念清淨。此則於中間憶念也。多依慧鎧師等所釋、羅伊跋《修法》之意趣、及海生之《修法》所說,漸次收入光明,許為即《五次第論》所說之隨壞。若修此時,應憶正見而修,微細空點隨各各法所說時修。緣彼修習堅固住心。滅除沉掉,守護正念正知,并得奢摩他之量等,顯密所共,如共道次第中廣說,當閱彼論而求定解。修天及修空時,如來金剛云:「此中從上午至中夜,唯應修天而住,次應修空。」此約別修空性而說。 (辰三)結行分二:(巳一)養身修食法,(巳二)修天供食法。今初 修行疲倦休養身心之法,然燈賢以《集密》所說方便修養,如云:「頂月嗡潤澤,降注勝心水,滿足身語意,當如法降注。」此法當想頂上一張手處空中,有一月輪嗡字莊嚴。彼注甘露,充滿全身,乃至足下,一一微塵悉皆潤澤。祥米金剛說:「想由出息入息,導引鈎召甘露,從頂下注。」寂靜師云:「由嗡字光召自十方,次以命力,令入身內於筋脈轉,周遍全身。」言命力者,謂以入息令降身中。又說休息之後,仍修念誦,是故隨疲倦時,皆可休息,非唯限於座末。 次下座時,《普賢修法本釋》中說:「復當供養讚曼陀羅,嘗甘露味,送曼陀羅。」此是將曼陀羅諸天攝歸主尊,說為送遣,非往他處。 若能於四座後皆施食者,即如是行《現說經》云:「以此法漸次,四座間行施。」若不能者,則當於座末後施食。海生師說:「將曼陀羅攝歸己身而後施食。」《教授穗》說:「先施食已,將曼陀羅攝歸己身,故於末座或一座後,隨宜而行。」施食儀軌雖有多種,然《結合經》及《四座經金剛空行》意趣相符。茲如《教授穗論》解釋《結合經》意而說。施食法者經說為息障碍與修悉地,初後最要,故定應行。施食之時,《結合經》第九云:「下半月十四,尤應於八日,及上月初十。」此是特勝之時,餘說日日應施。施者之天瑜伽,如《集密》不動佛說,若俱修現觀,或以四支儀軌漸修,或剎那頃頓生金剛薩埵。隨修一種即可,餘准應知。施食儀軌有廣中略三法,廣者修甘露食之器。《結合經》說「蓮花器」謂顱器,《教授穗》說盤等亦可,《紅大威德經》說於台或於銅盤。《鬘論》說瓦盃盤亦可行施。故可隨宜。食物,《鬘論》與《教授穗論》說用麪、豆、肉、魚、粥、餅、酒、水、蔥、蒜、牛乳等。若不具者,唯麪與水亦可。陳設供物法,《結合經》云:「閼伽等供物,魚肉諸食品,酒為左所需,能醉品亦可。右側設水器,閼伽器陳前,此一切供物,以五甘露淨。」第三句文釋論作「酒能令歡喜。」若有肉與魚肉所作食物,分陳左右。以五甘露淨者,《教授穗》說或放甘露丸或修為甘露而淨。食物修法,《鬘論》所說即《結合經》意趣,《教授穗論》亦說。如《鬘論》說集密、勝樂、歡喜金剛三部修法亦同。法謂想從漾字出生風輪,上有囕字生為火輪,從痾字生白色顱器,安於三種子字所生三頭之上。於中吽等十種子字,出生五甘露及五肉,以彼種子加持莊嚴。種子謂吽嘣鄂什康,仲吽尚掌。於何方隅而生(謂何字在何方生為何物)。《鬘論》、《教授穗論》俱未明說。《結合》與《四座經》亦爾。《紅大威德經》說:「名為廊姑答哈那之五肉。如其次第即毘盧等體性,自東方至中央,從仲鄂藏康吽五字而生。名毘惹虛摩穆之五甘露,如其次第即佛眼等性體,自火(東南)隅至中央,從朗芒邦當旺五字而生,即以彼等莊嚴。」 《鬘論》、《教授穗論》說五甘露以及五燈,雖作如是次第(先說甘露後說五肉),然《教授穗》又云:「勝解如是行相五智體性,即五如來,謂五燈與五鈎。」此說五燈、五鈎為五如來。又云:「不動毘盧寶生彌陀不空,是為五鈎。」次第又如此說(先說中央後說四方)。故前五種子字生為五肉,從中央起右繞乃至四方,吽等五字如其次第生大肉等,彼字莊嚴。從火(東南)乃至自在(東北)仲等四字如其次第生大香等,彼字莊嚴。大肉共(通肉與甘露),故僅說四種,亦有說五甘露為五佛者,如《大印點經》云:「寶生說為血,液為無量光,不空為大肉,不動即香水,毘盧為大香,此是五甘露。」鈴論師之《勝樂修法》亦如是說。如云:「吽嗡康鄂掌,小大香大肉,菩提心妙華,又朗芒邦當,牛犬象馬肉,皆有種子嚴。」毳衣大師亦如是說。此說四方左繞,四隅右繞,種子顏色,中央與四方藍白黃赤綠,是毳衣大師說。又說風上有幡,火上有燄莊嚴。顱器為整塊者(顱有一塊兩塊等別)內為紅色。此二師說,甘露為如來,諸肉為佛母,由種子即可知。梵本之《修食法》多從五佛佛母種子出生十物。《紮拏釋寶炬論》、阿底峽所造、羅伊跋《釋論》、并[嗈-邑+夕]耶茜那說十物各從自名第一字生。[嗈-邑+夕]耶茜那更說從東南隅右繞乃至中央,從白藍紅綠黃色,從[A2]廊姑答哈那五字,生為牛犬象馬大肉,彼字莊嚴。從東方左繞乃至中央,從白綠紅黃四色,從毘穆摩惹阿五字,生大小香大肉血液,彼字莊嚴。前二論師亦於彼物安立五佛種子。從自名第一字出生之規,此為最善。總之施食器用顱器,食物生為十種物品。就種子論,有從五佛佛母種子字生,及從各物自名第一字生兩派。約生處辨,如《扎拏疏寶炬論》說:唯於中央四方五處安布十物五佛種子莊嚴,及於方隅皆安布之兩派。後派又有中央四方安布五肉,四隅出生甘露及與彼相反之兩派。又有肉為佛體,甘露為佛母體,及與上相反之兩派。然彼皆是不動佛居中央之規。五甘露者,大香小香赤白二界前四相共,第五有多異解,拏熱跋、藥足等說為大肉,跋嚩跋札、《四座經釋說》為痰涕。《律生》中說肉中脂肪、骨中髓肉,頭中腦膜為下中上三品。五肉亦名五鈎五燈,以能鈎召及光顯悉地故。次想食物有訶賀什,如其次第,淨除尋常之色香力,變成勝妙色等。《教授穗》與《鬘論》於修食法,未說生為三佛。《結合經》與《四座經》說修訶字為彌陀,賀為毘盧,什為不動。《四座釋》說誦阿訶貨什三遍,淨除過失,色香味三生為三佛。 ᅟᅟ==[A2] 廊【CB】,廓【補編】== 次當觀想風動火燃,溶化諸字變成液汁色如日出。由彼蒸氣變成吽字,生喀敞迦金剛莊嚴;由彼溶化三次落顱器中,變成甘露。其上嗡字變成月輪,月上有嗡啊吽三字重豎,從彼放光鈎召十方佛菩提心甘露,大海等中甘露,入三字及月輪,三字月輪溶入顱中。次誦三字三遍,加持清淨成水銀性。此是《鬘論》所說。《教授穗論》說從阿利迦利變成三字。毳衣大師與鈴論師所說同前,是依《律生》意也。 嘗甘露之儀軌,毳衣大師與鈴論師亦如是說。如是生[A3]已,想諸天舌根有吽字所生白色金剛,量如大麥,從彼放光如管,吸飲甘露,悉皆飽足。次以大指與無[A4]名指彈洒供養。《四座經釋》謂齊舌端、眉尖、頂上三處彈洒。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,己【補編】== ᅟᅟ==[A4] 名【CB】,明【補編】== (巳二)修天供食法 如《結合》等三經,說三角壇,外白內紅,量廣一肘。《釋論》說以紅花紫檀塗內令紅,其外應用白檀等塗,或用顏料染作彼色。於彼中央彈四線成九格。於中格中剎那生曼陀羅諸天。《鬘論》於《集密施食法》亦說香壇。故知《集密》亦如是修。其餘八格,《教授穗》說有護方神女神圍繞,此中當說諸護方神,東方琮字,生帝釋天黃色千目,乘護地白色象,手執金剛。南方岡字出生閻羅黑色,伸展右足立水牛上,怒髮上豎,結恐怖印及執骨杖。西方啖字出生水天白色,乘七頭龍,手執蛇索。北方碑字出毘沙門黃色,乘人,其身肥短,手執鼬囊及幢。火方囕字出生火天紅色,眉鬚髮髻烈焰熾燃,忿怒肥壯,騎山羊上,作歸依印及執念珠水瓶棒杖。離實方𠹍字出羅剎黑色,躶體乘屍人骨莊嚴,開口獠牙手執彎刀顱器。風方漾字出生風天綠色,跨黃色鹿,手執風布。自在方阿字出生自在天白色,乘牛王上,結髮髻著骨飾,手執三尖杖及小鼓。帝釋右側吽字生遍入天,黑色乘鵬,手執輪杖法螺及憍都跋。毘沙門右側穴字生碍神,白色象頭,乘鼠,執蘿卜杖食團珠鬘。上方啊字出生日天紅色乘車,威光赫赫莫敢仰視,手執蓮花。日之左側昂字出生月天白色乘輪,執夜開花數珠。嗡字出生大梵,黃色乘鵝作歸依印,執蓮花及珠杖。下方啖字出生善織(阿修羅)黑色乘車,手執利劍,郎字出生地神黃色,坐蓮花上,手執蓮花。除上已說莊嚴,所餘一切皆著寶冠,面帶笑容。帝釋、水天、風天、碍神及毘沙門(藥叉)、月天、大梵、地神,坐月輪座,餘坐日輪。大梵天地神是身部(毘盧部),唯日天是寶部,毘沙門自在天、水天皆是語部(彌陀部),風天是不空成就部,所餘諸尊皆不動部。帝釋天等皆有相等明妃,地神具有相等方便。各從三昧耶生。彼等之外,想有諸龍王及一切有情。 次以各法迎請儀軌,請世出世諸天與三昧耶合一,獻閼伽與浴足水等為先,供養食物,後為令曼陀羅諸尊歡喜及除增減等失,并成就一切事業故。搖鈴誦百字咒,次旋繞手印令諸天歡喜,收束手印作抱持相,次以左手當心作金剛拳,伸展右手按九格地,作執諸天足想,次對樂為成辦所作之智尊及眷屬,而誦「嗡阿達磨底叉吽娑訶」,想從格地昇起。次隨入息入自身中成為一味,復當供養。次以抱持印三彈指,復誦「嗡薩嚩都喀札,格哈那格哈那,伽剎吽泮」,想諸護方神回自處。此是廣施食法。 若諸格中不修三昧耶尊,但請智尊,餘事如前供養,是為中法。 若想諸護方神皆為本尊形狀,隨宜而住,各施所愛食物,是為略法。爾時不須作三角壇,及修三昧耶尊,召智尊等。 此是生起次第施食儀軌,圓滿次第,不動智慧方便,唯略思維,即請智慧方便為體性之本尊與帝釋等,供献智慧為體性之食物。寂靜論師說於供養或献食後,誦普賢願文等。有多論師說於座後誦百字咒,當如是行。此是初座次第。 《歡喜金剛現說尊長》等經,《合經》等論,多說日修四座。四座修法,[嗈-邑+夕]倫答日跋云:「言四座加持次第者,謂於早晨、日中、下午、夜間。」葯足亦作是說,故當如是而修四座。早晨初座應如前修,餘座廣略有無別耶?毳衣師說初座廣修一切儀軌。日中下午座間,自化光明變成吽字,由此變成能依所依曼陀羅已,灌頂以下全修。最後一座,廣修一切儀軌。鈴論師說亦爾。《珠鬘論》說餘座自修無我母已,從於心間種子放出十四天女眷屬,各安其處。清淨,加持身語意業,灌頂以下,圓滿修習。黑行論師與三昧耶金剛亦說餘座從自心間種子放出壇輪,安立其處,召入智尊,灌頂以下圓滿修行。諸師許先未收宮殿,故彼修法與守護輪集資糧等,皆可省略。憶念第一加行,最勝曼陀羅輪唯從心間放出。《四百五十論釋》亦云:「言座間者,謂於日中、日邊、夜半、剎那現起圓滿曼陀羅輪,供養稱讚等如前修,至睡眠時,應當眠臥。」此說《集密》亦如是修。故與前同。《穗論》第十二云:「若怱忙者,隨餘座儀軌行,若有暇者,應修一切。」此說初座暇修一切,忙則略修餘座儀軌。葯足師說:「忙者初座俱修,餘座於自座上住本尊慢,以三字放出曼陀羅諸天,灌頂供讚嘗甘露味,隨住某一細點而修念誦。」略法如前。此處似須召入智尊。如《三昧耶金剛》所說。 如是初末兩座廣修中二座略,與初座廣餘三座略,非關忙閒,是常修法。於事忙時,或初座廣餘三座略,或第一座因忙暇而廣略,餘三座略,是《教授穗論》之修法。若有暇者,可如毳衣大師等說而修,長時修天,易於增進,淨所淨事生起次第之要,亦無所缺。 (卯二)中間之瑜伽 如是前座[A5]已畢,後座未修,中間亦應作諸善事,此即清淨受用瑜伽,謂自憶持主尊天慢,根緣境時,當觀諸境體為諸天,由彼供養。若依總清淨者,當觀一切皆以無二智為體金剛持為相。若修各別清淨,當觀色為毘盧,聲為不動,香為寶生,味為彌陀,觸為不空。此是方便清淨。若依慧清淨者,當觀五境為色金剛等五天女,而修供養。復以三輪不可得慧任持。若能一切時中依止正念,即是速能圓滿二種資糧方便。如《普賢修法》云:「由離邪分別,圓滿一切事,供養諸佛輪,此為最殊勝。」如是知[A6]已,隨自受用何境,及施他等,皆應如是而行。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,己【補編】== ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,己【補編】== 清淨業瑜伽者,相續依止明想主尊之念,行住坐等諸身語業,皆成結印誦咒修集資粮。如《普賢修法》云:「身等彼彼業,當知常住定,由具彼相心,身語意諸業,諸佛咸說彼,成印咒行相。」《金剛心莊嚴經》亦云:「若住平等性,隨身所動作,語中所宣說,悉皆成咒印。」此謂先將無記身語,化成善性。迨後力漸增時,雖於餘人為不善者,亦能變為增長廣大資糧方便。 清淨犯三昧耶之瑜伽者,如《普賢修法》云:「犯三昧耶想心月,心咒變成雜金剛,三昧金剛瑜伽師,想諸眾生本性淨,當於雜色蓮葉中,由前次第受灌頂。」祥米金剛釋此義謂:「想自心間地輪,上有雜色蓮華,彼上月輪中央,由吽字變成羯摩杵,上有慷字,變成寶劍,再變為不空成就,佛智慧方便為體。次想一切諸法本性清淨,智慧薩埵心間種子放光勸請,虛空諸佛放光,出佛眼等天女,手捧寶瓶甘露充滿,為自灌頂,一切微塵悉皆潤澤。」此立自宗,修天為先,依止五甘露等,對治毀犯續中所說,護密咒行諸三昧耶。破他派說溶化自身為不空佛三昧耶形而受灌頂。又《四百五十論》云:「犯三昧耶還出者,微妙不空金剛輪,心間想業金剛慷,一切皆為自灌頂。」寂靜論師釋云:「自修不空成就,想曼陀羅主尊心間,有羯摩杵上有慷字,自受灌頂。」此二隨修一種,能淨輕毀師長等罪最為重要。 食瑜伽者,謂受飲食等時,憶自為天,加持食物生為甘露,作供天想而食。 浴瑜伽者,如前灌頂時行。 眠瑜伽者,如《教授穗論》說:「增上勝解空性為俱生喜自性,我是光明自性,故以智慧方便自性而眠。」如此說者最多,當如是行。 起瑜伽者,想由小鼓聲或天女歌聲,勸請而起。 (卯三)安立彼瑜伽為廣大之理 通達自心真實,修習增長,若時一切無明都盡,內心真實所依色蘊等相,悉皆不現,變成佛身,則知凡身是雜染因所起客法,佛身乃是盡虛空際永不離法。如《口授論釋》引《集智金剛經》云:「秘密主,繩蛇非有,然由眩翳如是妄現。若諸士夫斷除眩翳,則唯見繩不見餘事。秘密主,如是於常等,上誤為色等,亦非是有,然由貪著色等,習氣故現。若諸士夫修真實道,遣徧計執,唯見常等,不見餘事。」常者是毘盧佛異名。《解脫點經》亦云:「離翳則於繩,不得餘少事,離戲論於壇,全不得生死。故由深明壇,我常般涅槃。」是故心性所依尋常諸蘊,唯是無明染污之力。若一切時心入真實成無二智,則尋常身畢竟隱沒非彼所依,相好莊嚴之身乃彼所依。未為無明染污之法,即是毘盧等身。故以抉擇一切法空之慧,修習「娑跋嚩」等咒義,後時當起毘盧等身。 如是隨順未染有法與法性理,咒師所修天輪,即安立為廣大。《四百五十論》云:「所施等無得,仍是凡常性,無我不壞凡,勝壇無彼事。」寂靜論師釋云:「彼所施等雖無所得,然布施等仍是尋常體性,以時處相所限局故。雖證無我不壞有量。」又云:「若不限局時處相者,是廣大性,故名廣大。若法體有時。處定相,即狹小性,故名尋常。」(尋常亦即凡常、庸常等)謂波羅蜜多乘能證無我有甚深義,然無違反尋常境相之天輪故,仍為狹小,咒有彼法故為廣大。 由於時處有量無量,安立名為大小,義謂若達諸法實性一味,依彼未染有法修天瑜伽,則諸如來色身等德,不為時處分量所限,普緣一切而修,故名廣大。若無此天瑜伽,雖有甚深瑜伽,通達一切諸法無異真如,然就有法猶未能越限量,故為狹小。如寂靜論師云:「由修自體諸法,為最清淨地與波羅蜜多自性之力,則以一切諸佛波羅蜜等,令自所修波羅蜜多等行,於心一切剎那皆悉圓滿。」供養自他,亦即供養一切諸佛。以微劣物,亦成勝妙供養,是故易得菩提,此即菩提道之自性。言是故者,顯唯由此法,能速證菩提,如云:「唯由此瑜伽,速當得佛果。」此說若如前配能淨所淨,及勝解為無邊佛法體性而修,則能成熟一切圓滿次第善根。故下三部雖亦修空與天,然有極大差別。此最勝之廣大,圓滿次第時之所有。波羅蜜多乘中,雖修隨順法身之道,不修違反尋常境相隨順色身之道,故於圓滿色身因之資糧時極久遠。密咒乘中俱有彼等,故易圓滿資糧。 若善了知依未染法,修習甚深光明無二之理,則知說心一一剎那皆能圓滿。無量資糧等理。 餘乘要歷無數刦  方具廣大福資糧  此以少力便能滿  色身眾因善方便 生起次第淨所淨  云何能於自身起  今依淨教及正理  全無臆度顯了說 密宗道次第廣論卷十九終 密宗道次第廣論卷二十 宗喀巴大師造 法尊法師譯 圓滿次第總建立品第十三之一 (丑二)學圓滿次第分二:(寅一)圓滿次第總相建立,(寅二)圓滿次第最初所修。今初 無上續道二次第中主要者,謂圓滿次第。若知諸大論師種種釋彼修道之法,則於續義獲決定解,不為似道所引,緣此即能令彼善說久住。詳明所緣以及引導次第易可了知,故今當說總相了解生起方便。此中分二。 (卯一)父續圓滿次第之建立,(卯二)母續圓滿次第之建立。初中又二:(辰一)龍猛派圓滿次第之建立,(辰二)智足派圓滿次第之建立。初中又二:(巳一)明二諦別之圓滿次第,(巳二)明三遠離之圓滿次第。今初 凡能具足進趣圓滿次第,須有堅固生起次第,此則諸師皆同,如前廣說。《集密本續》十二品云:「承事智甘露,一切應觀察,此即能修習,一切咒真實。」《明炬論》釋須以六支甘露,修勝承事,如《後續》云:「由六支瑜伽,修勝承事事,若以所餘法,不得勝成就。」六支與五次第,義無差別。如龍猛菩薩云:「由得風真實,漸入咒真實,了達咒所緣,學習金剛誦,金剛誦行者,能得緣自心,住如幻等持,以實際修治,從實際起定,當得無二智,住雙運等持,更無可學者。」金剛誦或名語遠離,緣自心或名心遠離。加持幻身或名世俗諦,實際光明或名證菩提,無二智即雙運,故成五相。《攝行論》亦說身遠離,並說始從生起次第,乃至雙運,須學前已方學後,後若無前,前身遠離等,後則不生,次第定爾。如是即成三種遠離,及於二諦別修雙運三種圓滿次第。 此若未知何為所修不共之果,則於生起圓滿諸道易於肴訛,知則以彼為例,即易了達諸能修道。如《五次第論》云:「正學大瑜伽,已修習雙運。」雙運雖有學無學二,然是一類,故合說之。所雙運事,雖多異說,要在世俗勝義二諦。如《五次第論》云:「世俗與勝義,了知各別分,何者正和合,說彼為雙運。」雙運之理,彼論又云:「此如彼次第,自加持光明,唯此二和合,是雙運次第。」此謂身現自加持之清淨虹身,心成勝義真實一味之智,此二非是一有一無各別存在,謂得同時和合智身。此於無學位時,心既恒住真實,身亦成就相好莊嚴之究竟身。有學位時,則與彼異。然二俱是心從三相(明增得三)、身由五色光息所成。雖以[A1]己修治故非異熟身。然於此時猶應暫現任持異熟身相,此與幻身之差別等,若盡抉擇篇幅繁長,欲於餘處廣說,故今且止。 ᅟᅟ==[A1] 己【CB】,已【補編】== 有學雙運心身,是彼佛位心身最勝親因,即是殊妙圓滿次第。故他諸派若於將近果位有學位中,不修同此或復類此最勝圓滿次第,則必不能趣證究竟所得之果。此有學雙運位,如云「了知各別分」。故若先無二諦各別圓滿次第,離隻無雙,即不能成,故別修幻身以及光明。幻身是三空後所成,雙運則是於四空後唯從逆起風心而成。如《五次第論》云:「具自性諸光兼具足六識,自加持次第,現起利眾生,如從淨河流,諸魚疾躍起,如是一切空,現起幻網身。」《攝行論》、《明炬論》亦數宣說,故於雙運之前,須入四空以後,微細二相畢竟淨之光明。此復數說須淨三心境相乃能入此,故是現量親證。能得此者,先須得自加持幻身之世俗諦。如《五次第論》云:「自加持正定,及以光明處,以因果差別,宣說為二諦,由加持次第,乃得真光明,是故金剛師,先說自加持。」 其幻身者,謂三空後,唯由逆起三心與風,自身現為金剛薩埵之身。如《五次第論》云:「真實與風俱,經於三識後,仍生行者身,說彼為幻身。」《攝行論》說此如夢中意身。是故但就行者,心前似得此身,說為智身,而非實得。此與有學雙運實身,雖同由彼風心而成,然有大別,此與夢身相同之理,餘處當說。故《五次第論》云:「由鏡中影像,應了知幻身,諸色如虹霓,周徧等水月。」此義是說前述唯從風心自身,現為金剛薩埵之身,如彼諸喻。非說僅覺自身非骨肉等粗體,明了顯現清淨無礙如水月等。以於生起次第亦能如是修故,即於生起次第未堅固時,亦多明了顯現勝於眼見,清淨無礙猶如虹色。又《攝行論》說從生起次第至三遠離,皆無幻身。以是生起次第究竟,於細點位,雖能於一芥子量中,圓滿現起能所依曼陀羅,明了堅固,然非幻身。是故此等,全無幻身之義。如是天身猶如虹霓現起清淨無礙身,時憶念正見,雖覺全無自性如幻相現,然亦無幻身義。以《攝行論》說生起次第人,以幻等喻勝解一切諸法皆如幻事,然不了知自加持義,論於執彼為幻身者特破斥故。彼文前已引說。又生起次第位,漸收情器入空性時,滅顯色等一切粗境,明了安住唯心,後從定起,雖不作意,亦能顯現天身及現清淨無碍,然彼亦無幻身之義,以幻身者,要由究竟第一次第及身遠離,於語遠離風得自在,修心遠離引生三空智後方得生故。此派成就幻身之法,最為難解,故若未知心遠離位於三空後成幻身法,則於光明及光明後成雙運身之理全不能知,故於通達彼義當勤修學。 幻身收入光明,論說由整持與隨壞靜慮,頓將一切境相收入光明及漸收二種方便。其入光明必須幻身之理,有說若未了達有法如幻,則不能證法性光明。有說於幻身上有幻執垢,要由光明修治,故須收彼幻身入於光明。此是全未了知幻身之言,以無性而現,雖是如幻義,然彼全未涉及幻身之義。提婆菩薩說波羅蜜乘與生起次第,雖能如是抉擇修習,然未了知自加持義,特破執彼為幻身故。由見幻身是入光明不共方便,故令生起。幻身非幻執垢,亦復非由幻身增上而生幻執垢故。 是故幻身是三空後唯由風心所成之身。未證三空智時,則必不能入第四空。證三空已,若不能修風心所成之身,則於第四空後,亦必不能成就彼身。故光明前須修三空及幻身者,俱為光明雙運而修,非但為光明而修也。(此說雙運之前要有光明,光明之前要有幻身。) (巳二)明三遠離之圓滿次第 修成如是幻身,須先生起心遠離三空智。如《大印空點》第五云:「說歡喜即明,明增為勝喜,知妙喜為得,俱生即光明。」《教授穗論》亦如是譯,最為善哉。此說四喜同四空者,約通義說,如以增上勝解收入空性,亦即說名收入光明。譬如但修光明與五次第中之光明有大差別,如是應知通說之三相與心遠離之三相亦有大別。此三相是究竟第一次第與身遠離,修語遠離風自在後之所生故。《攝行論》說身遠離等六支,若無前者後不生故此(說幻身之前,要有心遠離)。 心遠離智之外緣,雖如前引「一切幻事中」等,要依明妃乃能生起。然須先依內緣,修調柔脈與空點之殊勝方便。此於續部雖亦說有多種,但依龍猛父子所許,修風調柔最為切要,故未說餘猛利(火)與空點等眾多所緣次第,而唯說風瑜伽。如《五次第論》云:「一切有情命,謂風作諸業,此即識所乘,五性亦是十。」此中意說因位眾生為風自在,是故於風若得自在,則易發生諸道功德。(此說心遠離前,要有語遠離)。 能自在風之瑜伽,續部雖亦說有多種,此處唯取金剛念誦。依是密意,金剛乘中多次宣說,諸修行者,當以自身三業與如來身語意,和合無別而修諸道。能於自身遣庸常慢成佛身者,謂初次第與身遠離。其從修種子等生為天身,即是第一次第。其能通達諸法性空真實一味,即由與彼無二之智現為天身大密金剛持之一部,從此出生身語意三部五部,乃至百部,以此身遠離三摩地淨庸常慢而修天身即身遠離。依此密意故說身遠離,為身金剛三摩地。此與生起次第,所斷庸慢雖同,而能斷則大異。(此說語遠離前,要有身遠離及生起次第)。 如於所修天身,能修之三摩地雖有無邊,但至究竟唯是大密金剛持之一部,如是所誦真言雖有無邊,念誦勝利亦無量種,但辨咒有了義不了義說。了義咒即是金剛念誦,故於語根本風能得自在,亦唯稱讚金剛念誦。為語金剛三摩地,一切念誦此最究竟。如《攝行論》中說,如是從生起次第乃至身遠離修成天身,乃成究竟能誦咒者,即以彼身持誦究竟念誦,於發語風獲得自在,即由風力而能任持引導界等,故若結合外印然猛利火溶菩提心,即能任持不墜滅八十種自性分別,生三空智證得意金剛三摩地,此後乃得生起幻身。由生圓滿大空智力,乃能入光明一切空。由大空後唯從風心圓滿生起幻身之力,乃能於入一切空後現證雙運轉身。次由修習雙運轉義,以彼等流而往佛地。此即龍猛父子諸論要旨。 此等皆以生死三有,為二次第所修治事,故於三有現為三身之理,務當獲得清淨定解第一次第能治所治之理,《建立次第釋》中已廣宣說,故不繁述。惟是聖派(龍猛派)教典,辭義古奧,極難明了。若能不以淺嘗略修而自矜足。能久祈禱師長本尊,依智者論精勤修習,自能窺見彼諸教典為教授也。 由是諸入此法修心要者,先當勤修第一次第,生身遠離。次當善巧命力金剛念誦,要以修風為主。以餘派風點等瑜伽之所為者,此亦能成辦故。 (辰二)智足派圓滿次第之建立 文殊菩薩攝受智足大阿闍黎口授甘露,名為《曼殊室利口授》。此論師依菩薩聽許所造《解脫點論》,即廣抉擇圓滿次第。此派在天竺曾出無量有智行者,故成大車軌道光如日月。此派圓滿次第建立,今當略說。如《解脫點論》云:「故深顯菩提,證無二解脫,非唯證甚深,亦非但明顯。如是甚深空,解脫非我信,故證無二性,現世定得果。離一切分別,超越思議境,如空淨出生,離執名甚深。任持大印色,如幻如虹霓,修治自他身說,名真明顯。」此說大印如幻天身與入真實之心,和合不離深顯不二之智,為圓滿次第之主旨,生起次第之天身為咒身,圓滿次第之天身為智身。此又有智身清淨身之二。即前論云:「二次第差別,分咒身智身,智身中有智,與清淨二身。」釋云:「智謂略得智自在者,所證略清淨之幻身。清淨中有住德相之不欺誑身,與如實之果身。」前者與幻身同,第二即是有學雙運,第三正同無學雙運。此如《口授論》云:「諸法從色等,至一切智性,清淨如虛空,深顯無二智。」又云:「遠離諸分別,勝因難測量,顯現為大印,光明熟自他,無二性最勝。」初遠離等二句,意說甚深,其次二句意說明顯。是故圓滿次第究竟要旨,或名二諦無別,或名深顯無別,樂空無別。無別之義,即能成佛之親因。此於諸大論師圓滿次第,皆當了知。由此因緣,亦於生起次第說,由「娑跋嚩」等真言入空性中,次起天身。諸餘圓滿次第,亦須修辦雙運智身。故當思惟云何修習,乃能攝持圓滿次第宗要。如是建立咒身智身,亦是聖派之所共許。 如是最後圓滿次第,是已究竟生起次第細點瑜伽,於第三瑜伽略得智自在之瑜伽師,修習圓滿次第之所成辦。彼所修之圓滿次第,是由四歡喜門收為四義之道。其依俱生喜之圓滿次第,《口授論》說當於心間智慧薩埵行相標幟中央,如前生起次第所說修圓滿曼陀羅。從彼主尊心間不壞空點,放諸光明,漸收器界有情及曼陀羅諸尊,後於空點盡力而持。次依收攝次第,漸令明顯,修習現品之三摩地。由數修習此二法故,便有地入水等五種相現,此後乃成深顯無二智身。次修諸行即得成佛。 收入光明之理,如《五次第論》云:「從頭乃至足,直至於心間,行者入實際,說名為整持,先攝動非動,令入於光明,後自身亦爾,是隨壞次第。猶如鏡上氣,一切盡消滅,如是瑜伽師,數數入實際。」此二靜慮中之隨壞次第,與《口授論》所說相同。然以不壞空點光明收攝之理,則多差別。《口授論》說從光生心,從心生風火水地等流轉次第,與地入水等之還滅次第,與聖派同。不壞空點如《口授釋論》云:「無二智謂甚深光明,無二正智淨如虛空。彼云何住世俗色者,謂住五色空點,量如[嗈-邑+夕]那迦粒,言彼堅固已者,謂從彼生風等。」本論亦作此說,故是與五色風無分別轉表心之空點也。生時既從彼生風火水等,收時亦復還入於彼。順所淨事修三層薩埵已。入三摩地薩埵光明之理,此與聖派所許相同。此是發生情器之本,故於第一次第亦說此點安立字形。《口授論》云:「住三昧耶印,心間行相上,諸佛最勝智,於初次第者,顯現為字形,不可壞本尊,種子五光明。」是故應知咒乘生起能所依時,多修一字為因而生,要旨唯在於此。餘不能壞,故名不壞;不舒散故說名空點。此住心中,如《口授》云:「若人不可壞,乃至住身中,業非業差別。」其《釋論》云:「乃至住身中者,謂此空點住於有情心蓮之中。」由此亦當了知於心中修字形或修空點之義。如是生死流轉還滅不共次第,及如死時漸次入光明法,俱由多修收放,後從不壞空點五色光風之因,修成深顯無二智身。是故此派圓滿次第究竟要旨,與龍猛派最相符順。於此深顯無二俱生歡喜圓滿次第之前,當修變化空點,即是修風金剛念誦。此與聖派有多差別,說由修此之力,能達一切諸法皆如幻等。於此之前當修密點,即降心間空點下至密處摩尼任持,於此點中修能依所依圓滿曼陀羅。於彼主尊心間空點任持其心,及有多種收放差別。又說此時有五相現,云何五相?如《口授釋論》云:「空點光明,明不明顯之喻,如陽燄起。」又云:「言如烟者,謂較陽焰明顯,然非青色或白色等。」此中非說生陽燄等,是喻後後明顯於前。 心成無性處者是為取支(六支之一)。其後放出標幟與天身等,是隨念支(六支之一)。於空點持心,說是滅息支,謂由於彼持心則風入於中脈。在此之前,於如上說圓滿曼陀羅中主尊心間,依於不壞空點多修勝收放已,說於空點持心。論文恐繁不錄。圓滿次第所修空點瑜伽與彼生次第之細點,亦大差別。故或有說智足派於他派第一次第,細點說名滿次第者,實是未知此派而妄宣說。 修心中不壞點與摩尼中密點,及上鼻端之變化點三者,如其次第,是依歡喜、勝喜、離喜而修。又修不壞殊勝點已,如彼隨壞次第修收放者,是俱生喜。總之,由前二修空點瑜伽,第三修風瑜伽,以風與點堪能之力,順逆收入生起光明,數數修習,成辦深顯無二清淨智身。次即由此等流進修其果。 (卯二)母續圓滿次第之建立分二:(辰一)時輪派之圓滿次第,(辰二)諸餘派之圓滿次第。初又分三:(巳一)明所得之樂空無別,(巳二)决定修彼道之數量次第,(巳三)別釋不變之樂。今初 所得究竟樂空無別之果,即前第四灌頂所謂大樂心與空色身,二法體性無別、盡一切垢之無二智。此於《第五品》之《大疏》多返問答而善成立。如彼疏云:「如來豈不宣說,若無蘊處界離二根和合,則不能生慧智自證,以無流注事故。諸瑜伽師云何能於自心所現,自心起貪淨自心障,受用不變大樂之智,以無微塵所集身故。故此誠大顛倒,如說天授乘自肩上而往聚落。」此敘他難,故當且說敵者之意。此是攻難前說(時輪中之前段文)以水銀喻繫菩提心,無蘊等障,由修自心所現空色手印而得成辦。難云:若修大印無諸微塵合集之蘊,諸瑜伽師唯與自心所現空色入定,而能受用不變大樂妙智,不應道理,以無微塵合集身故。成其决定(無不定過)。故言如來豈不說等,引教顯示。意謂佛說若無微塵合集之蘊,則無二根交合不能流注諸界,若界不能流注,則應慧智不能了證自境。前時輪說「無蘊等」時說,於果位遣除微塵合集之身,故是所許。 總之,彼謂若無微塵合集之身,唯現空色父母受用不變妙樂理應相違,故興攻難。《疏》中答時,不答已許及因不成,而答不定,故是果位之諍。乃至未得果位樂空,未能永盡蘊處界等之粗色故。 言汝此語,如說乘自肩而行者,是難心所現之空色,還以能現之心為體。以於此難之前,經說鏡影喻故。又經與疏處處皆說「知與所知同一身」等,多說彼二同一性故。永盡微塵合集身時,空色明妃抱持空色方便,若許彼二同一性者,則說天授自乘肩行亦應無過,此出齊頭過失。 《大疏》答此難云:「諸愚鈍者說離微塵合集為體之蘊處界,唯心慧智不應自證,實非如是,以由客心習氣力故。此云蘊處界者,謂由客心習氣,由此力故心有苦樂,若以勝義觀察,非唯此身而有損益。」如是廣說。義謂他說若無微塵合集之身,唯心不應能受樂者,不應正理,唯由內心習氣之力即能受苦樂故。此言「微塵合集為體之蘊處界」。故前文中雖但總說「無蘊處界」,理亦應加此簡別也。所言「若無微塵合集之身,不能受慧智」者,此文可顯微塵身受與受苦樂,二不相違。然此非許蘊處界等為心習氣,是說由心習氣之力所成蘊等。言「勝義觀察」者,若解為二諦之勝義而答外難,義不相關,故是就正理觀察之義也。如在夢位,雖微塵身安臥牀上無所損益,然似夢中身往他處遇損益事而受苦樂,故受苦樂不須微塵合集之身。義謂若總成立受諸喜樂不須微塵合集之身,則亦能立別受不變妙樂不須彼身。如是力勵成立之所為者,是為成立永盡粗界果位,以空色身為受最勝不變妙樂之身。三部疏中多次稱讚修空色者,其稱讚之密意,應知亦爾。既說空色唯是自心,故許離心是別常法,亦是臆說。此如〈第五品〉云:「身淨無塵如虛空,一切相好皆圓滿,種種一切三世間,清淨離障如夢現。語音無斷俱多音,能於他人心中轉,心滿妙樂不傾動,一切時中俱生持。」此明永盡微塵清淨無碍等,同虛空之空色身相好莊嚴,不變妙樂為心。故此品說由烟等諸空色,上上轉依最後成彼智身。如云:「地入水中水入火,火入風中風入空,空成十相相轉成,一切無盡勝安樂,不可摧壞智慧身,由智成就妙悉地,士夫能於此生得。」如《集密》龍猛派讚自加持、幻身、俗諦,為彼雙運虹身之不共因。三部疏中稱讚空色以代彼義,應知亦爾,《勝樂上疏》於《幕續》中:「復應自加持,以隨順軌次,外表示諸相。」作是釋云:「自加持者,謂由別攝(支名)見世俗諦。相者,謂如烟等相現,此是初見燈炬究竟。」此中說自加持與世俗諦。拏熱跋師亦說:「其所修者,謂以別攝與靜慮支(六支中之支名)善堅固已,三界明顯體性即世俗諦,由隨念支(六支之一)正開放彼瑜伽。彼瑜伽者,謂世俗諦瑜伽。正開放者,謂當觀察徧諸空界。」空色究竟即是相好莊嚴佛身。故彼空色之無性空雖是勝義,空色仍是世俗諦攝。故或說為自在常住,乃未了知為何修空色也。 如上所說烟等空色上上轉依,乃至第六支時空色欲天父母之相,即是果金剛身不共親因。爾時唯現如是相身,身實未成空色之身,以粗色界猶未盡故。故欲修成彼身,必須滅盡塵聚色身,如以變金之汁點鐵為金,如是由繫身中菩提令無漏洩,而能盡諸粗色。〈第五品〉《大疏》云:「如由火力繫縛水銀,化一切鐵皆令成金,如是由以法生加行繫菩提心,令蘊處界皆成無障。」又云:「如鍊水銀能化鐵石,任持彼等大色(即其精華)而住,然非粗界,以彼大色着諸鐵石,鐵即離垢,石變成寶。如是修菩提心,能化蘊處界等及諸命根,任持彼等大色而住,然非粗色。」此處不變之樂,即當龍猛派中所說心為光明。此中樂空之空是世俗身,樂是契入勝義之智,與餘經中所說樂空略有不同。由繫身中菩提令無漏洩,不變妙樂最圓滿時,一切粗界悉皆永盡,界亦無存,爾時界與妙樂,能所依之關係,皆[A2]已滅故。如《灌頂略標》云:「能依所依係,乃至不變樂,得心不變時,無能依所依。」乃至頂中界未充滿,有能所依。既充滿[A3]已得不變時,則無彼依。故於空色金剛身如虹霓,莫起如乳滿腹之執。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== ([A4]巳二)决定修彼道之數量次第 ᅟᅟ==[A4] 巳【CB】,己【補編】== 何故圓滿次第安立六支非多非少?以所證佛果有身語意三,故能修之圓滿次第亦唯六支。謂由別攝靜慮二支,於前所說空色,未生令生已生令固,成相好莊嚴之佛身。由命與持二支,於語根風獲得自在,成一切種相之佛語。隨念是樂近因,三摩地是妙樂自性,由二成不變妙樂之佛意。以是經論於彼彼三,說名金剛身、金剛語、金剛意三摩地。有學位中能俱時有三種金剛三摩地者,要得三摩地支以後。 六支數量决定如是,次第决定理復云何。謂如上說果位樂空無別,要等流因乃能成辦,此即自身現為空色欲天父母,由隨愛力自心趣入,能取所取二空真實得不變樂,身心雙運三摩地支。如《勝樂上疏》云:「三摩地者,謂由隨愛欲天所得不變妙樂,即此一心離能所取,諸佛說名三摩地支。」發生此支要依隨念,由隨念時猛利火力溶菩提心,從頂降注摩尼中間引生四喜,其第四俱生喜,即不變妙樂三摩地支故。爾時現無觀察空色之天。如《勝樂上疏》云:「次修天影像者,由任持力,於臍輪間然猛利火,修瑜伽師自見大印離一切障猶如鏡影,放無邊際佛光明雲,光輪莊嚴,說此名隨念支。」又〈修法品〉明隨念云:「若抱虛空慧,安住俱生樂,自心即解脫。」主尊修法隨根分三,其大印母,非指隨一空色,是須現為如雜色之明妃。若此不能增長妙樂,亦可用餘方便,如《大疏》云:「若由色門不能歡喜,爾時於蓮華中以金剛聲或徐修習。」 生如是隨念者,要由執持,於中脈中持風不動,要由此力然猛利火溶諸界故。 如是執持要賴命力瑜伽,攝令左右脈風入於中脈,以未入彼不能持故。其左右脈入中脈者,復有賴於別攝靜慮修治中脈,是故次第决定應爾。修治中脈之義,謂由別攝修成十一種相,次以靜慮堅固,於風略得堪能,左右脈風自動欲入中脈。此後,修諸加行遮左右風,最為切要。若在此前雖修不入,故初二支即明修習命力之量。故若未生十一種相,生或未固,應善策勵修初二支。若已堅固其力圓滿,齊此應修命力。若仍唯修彼二則是未能判於界限。如是遮左右風,趣入中脈堅固不動,命力功能由此圓滿,此後應修執持,以於中脈堅穩安住非命力之果,要由執持方成辦故。若風入中脈,入已安住,次以隨念猛瑜伽力,然猛利火溶解諸界,[A5]下降至金剛端不向外洩,成辦俱生不變妙樂。 ᅟᅟ==[A5] 下【CB】,▆【補編】== 總之,由初二支成辦金剛身之因色,修治中脈。由第三支令左右風,入於所淨中脈。由第四支持所入風,不令出入。由第五支依執持修三印隨一,溶菩提心任持不洩而修不變妙樂。由第六支於初二支所修成色,自成欲天父母空色之身,隨愛大印得不變樂展轉增上最後永盡一切粗色蘊等,身成空色金剛之身,心成不變妙樂,一切時中住法實性,證得雙運之身。當知此是總攝三部疏中心要之義。 此派空色身與不變妙樂,等於龍猛派之幻身光明,已如前說。有謂此派別攝見境(別攝之身相)與龍猛派幻身相同,不應道理。以別攝是風瑜伽之加行,而幻身是語遠離得風自在已,於三空後,唯從風心所成之身,體性時位俱不同故。如是此派之不變樂,可於見道前得,光明則從現證聖諦方得安立,以說清淨三心,微細二相亦清淨故。然續部中諸金剛語一一可作多種異解,故非定須說為相同,然亦决非更互相違。故拏熱跋解說《集密後續》之六加行,如《明炬論》解。於《灌頂略標疏》中六加行,又依《時輪》釋也。 (巳三)別釋不變之樂分二:(午一)明由不變妙樂證無我理,(午二)破以全無思取為時輪軌。今初 不變妙樂,名不變者,非說因緣所不能生,上曾屢說界向外洩名為變壞,故是繫界不漏名為不變。從此所生之樂,非謂於身繫界從身內可意觸起身樂受,亦非以此為無間緣意適悅相所有樂受,又非依於樂受為因所發無分別定。是以通達諸法無性正見為親因緣,繫界不漏為增上緣,所生通達真實之妙樂也。是故此經說樂為無得,空色為有得。如〈第五品〉《大疏》亦云:「空謂諸法無生無滅自心所現,智謂證彼之不變樂。」此說通達空色於真實義生滅性空,無性之性,為不變樂。 任於何派,凡許通達修習彼義,能永清淨繫縛生死根本及習氣者,則皆安立通達彼義為甚深義與無得義。此派亦許我執能為繫縛生死之本,故應許達無彼所執我義,淨治生死繫縛及習氣故。此如〈第五品〉《大疏》云:「若由貪愛習氣流轉生死,則違經說由無明力流轉生死。答云:經言無明,此中說為有情無始貪愛習氣。」此說餘經所說無明與此續說貪愛習氣為生死本,其義相同。〈第二品〉云:「由幻愚迷諸有情,於諸苦事執為苦。」《大疏》釋云:「此中由於生死幻事執我我所,愚迷有情,於彼地獄餓鬼旁生諸苦,執以為苦。」此說由我我所執而愚迷,故許彼為薩迦耶見。以彼即是貪愛種子。故亦說名貪愛習氣。 許我執為生死根本,大小顯密諸乘所共,故許證無我慧,能斷生死繫縛根本亦最明顯。以是〈第四品〉《大疏》云:「次當憶念三種根本,謂發大菩提心,清淨意樂,斷除我我所執。」此說能斷我執之道,以證無我慧為道之根本。又說中觀諸師修不變無二智,亦由二無我門而修。如〈第五品〉《大疏》中云:「諸中觀師修習如幻不變無二智者,謂人無我與法無我。」其破人我如〈第二品〉中說,破法我者亦如〈第二品〉《大疏》云:「故中觀師說,若識勝義有,亦非智者許,由離一異性,猶如虛空華,非有無非俱,亦非二俱非,遠離四邊性,中觀師所知。」此說離一異理。又云:「故果非從自生,非從他生,非從共生,亦非無因。」此說金剛屑等正理,皆如《中觀論》等所說。又《續》及《疏》略說無我性已,亦說廣如餘論應知。如〈第二品〉《大疏》中云:「成無我等,此但略說,於諸大論應當廣知。」又《大疏》云:「金剛者謂不壞不斷,即此是乘名金剛乘,謂即咒法與波羅密多法,果與因性合為一性。」如前《灌頂略標》所說,咒法果謂不變妙樂,波羅蜜多法謂决定境無自性之空。故有說時輪派不許正理决擇之空,不許隨順中觀理聚之正見者,顯是倒說《續疏》之義。故具慧者,當知多次宣說空色離於有無常斷,如幻夢等之義,等同龍猛父子《中觀論》中所說,於勝義中離一切邊,於名言中雖無自性,然縛脫等一切作用皆悉應理,以如幻理斷邊執縛,往解脫位。莫於法我實執轉深轉固。 (午二)破以全無思取為時輪軌 若未如是求解無我,無有正見决擇引生定解可資修習,而說隨取何義皆是分別,是故全無所思為時輪軌。此是倒解《續疏》之義,以〈第五品〉《大疏》中特破彼執故。彼復先敘敵者所宗,如云:「如是《般若波羅蜜多經》中,為令證得正等覺故,世尊宣說如來無思維智,非有思維,以有貪與離貪性故。若時有情有思維轉,爾時於勝妙所欲事而起貪著,於不欲事而離貪著,由此生死。若時無思維轉,爾時於所欲事無諸貪著,於非欲事亦無離貪,如是則無貪與離貪。由無彼故則無生死,無生死故成等正覺。以故能成佛者是由如來無思維智,非由諸餘有分別定。」略釋此義,謂世尊說。說何事者,謂修如來無思維智。為何故說,謂為成佛。何經說者,謂《般若》說:「若於有無空非空等而修行者,是行諸相,非行般若波羅蜜多。」於此經文而起誤解。若有所思即非能修甚深成佛之道,以有思者即是分別,分別或於所欲相轉或於非欲相轉,發生貪與離貪之瞋,由此即能繫縛生死。故由全不思維能遣欲非欲相隨轉分別,由遣此故即滅生死而得成佛。是故成佛之道,唯是全無所思,非餘有分別定。 此言如來智者,指成佛道,非果位智,以是能修如來智故假立彼名。《大疏》於彼,有破執與釋難兩段。初中又二,先以理破,如《大疏》云:「若無思智能成佛者,一切有情何故猶未成佛?彼等於極重睡眠位,亦有無思智轉,於諸欲事無有貪著,於非欲事亦無離貪。」此說若全無所思維,唯止住修能成佛者,則於重睡眠時有彼現起,彼復是從無始即有,故一切有情當皆已成佛。總之,若無正見所抉擇之無我可修,唯以不執諸邊而住,謂即能成佛之無分別者,則重睡眠亦復相同。若就不執一切邊義,重睡眠中亦容具有,若約安住正見,彼中則無。此是不執諸邊,與遠離邊二義不同,以此關要,彼有所說過轉。蓮華戒師破和尚時,敵方亦如是許,破時亦以悶絕位之無分別破,與此義同。 次以教破,如云:「此中寶炬若無所思或無所現,云何得名寶炬三摩地耶,如是餘三摩地亦非無思,以是自證相故,非色與空性故。」此引《般若經》破。若謂此說自宗之三摩地有所現相,破他無所現相之無分別,若有空色相現而全不取,則雖不修决擇無我義之正見定解亦是修甚深義。此不應理,以彼敵者所許謂全不起執取唯修住心之無分別。《大疏》中說若如是住一日之內即現空色,汝亦自許,亦可修驗,則彼敵者所許之修,亦應是修甚深義也。故知《大疏》之意趣非爾,在釋難時所說極顯。 以教破後即釋難云:「若諸愚夫作如是問,若謂如來智是自證,云何如來說一切法皆無自性。答云:如來智者通達一切諸法無性,非無事相重睡眠心。(境非全無事相名曰無性,智非如重睡眠心,全無知覺名通達無性也)。」此以前說非無思維,因云:「以是自證相故。」他即出過破云:「若如來智是自證者,說一切法皆無自性,則犯相違。」如來智指為成佛道修甚深義,如前已說。所言「是自證相」,若指唯明了性,或就了別自體而言,則不可作「非全不思」之因。故是「於所修義决定有所了別」之義。他說「若有如斯了別,則違無自性」者,蓋彼心想「其所修義若無自性,則都非有,應無少處可執是此。若如是者,則於所修深義,心無所了」。以是乃起諍難。 答彼難云:「無自性義,非無一切事相。」此破說「無自性是全無事」之宗,即「執性空緣起相違」之空,故自宗是「雖無自性,然縛脫等一切有事作用皆應道理」之中觀宗。又說:「修甚深義之智,是能通達一切法無自性,非重睡眠之心。」是說:「若無自性都不執取,如重睡眠之心,不能安立為修深義。」以是若無定解無自性義正見可修,說唯現起空色全不思惟而住是修深義。或由智慧惡劣,於無自性執為全無,於有便執實有,而說全無可執之處。餘復有說「為轉法輪故說有等,凡所說有,皆是實有,中觀正理聚等則說斷空。」此等(指上三說)皆出《時輪》宗外謗清淨教。 若以教理抉擇無自性義而修定解正見,是為修甚深義。則於略標正見,云何乃說「觀察蘊性空,如芭蕉無堅,具一切勝相,空性非如是。」汝若許修教理决擇善除妄執之義,為無堅實之修,誠乃昔所未有。是故彼教,非說不可修習觀察蘊無自性之空。若不爾者,既說通達一切諸法無性而修,一切法皆無性之决定解,若不能以教理觀察尋求,唯作彼宗(作如是想)而修習者,是愚夫之修故。論說「諸中觀師以離一異之因及空花喻,觀察識蘊無有自性,了達真實」,亦相違故。 若爾,彼義云何謂所說之無自性空?於諸有法雖無差別,然與彼(無性空)俱修之有法,非復微塵集合之蘊,乃是空色之相。謂以定解空性之慧,與彼所現空色,修習身心無別,乃能成為智身。其微塵集合之身,不能成為智身故。如是破空,非破一切空性,是破不善觀察,執為一切無事之斷空也。此如〈第五品〉《大疏》云:「微塵集合為體之法,觀察之空遠離斷空。」此於蘊說別蘊(非一切蘊,指一種特殊者),於觀察空亦說別空。 如是若不以修不修决擇無我之見而為判別,則亦不能破除敵宗為修深義。總之,若於我執未少除去,許為現證無我義者,是諸智者耻笑之處,故於異生,無我非現。若不許由總相定解無我,則所修道如何能害我執,汝當審思彼大乘加行道上品世第一法,尚許由總義門定解無自性義,而謂初修業者發起無我定解而修,是分別執非修真實,究何居心而作此說。 若謂「《中觀論》等說無分別智前,一切二取相悉清淨,然此《續疏》說於無分別定前有種種(《時輪》明妃之名)空色相現,故二相違。」此亦非理,以空色相與證無性之智體性無別,能緣所緣各別現者,現相與體性非如實相符。故異生地境智各別現時,能知所知有別係屬。現證無自性時,則滅係属成平等味。如〈第五品〉《大疏》明顯說云:「於無生滅自心所現,合智為一。智與自心所現平等一味,非有能知所知係屬。」然此是說於聖無分別智,不現空色之相,非說爾時全無空色。如《集密》云:「從真際起已,當得無二智。」說雙運位如虹之身與入光明之意,自體不可分之為二,於入光明智前,三相皆淨故無二取,然於爾時非無身相。若不爾者,說空色為有得,不變樂為無得,不應道理。要有種種相現乃名有得,在得聖者不變樂前,亦要有種種相現故,以是當知,爾時雖有,然於無分別智之前為無,義不相違。 此中雖有眾多邪執,當引《續疏》詳審决擇,恐厭文繁,不復廣顯。 若說瑜伽、瑜伽母續與智慧方便無二續為相違者,〈第五品〉《大疏》中已破。〈內品〉自說《時輪》教為母續。彼以三年日數,說明瑜伽母續之天數時,《大疏》釋云:「三年分別,是瑜伽母續之定義。」此等極顯。 總之,凡入此法修心要者,當以守護三昧耶與律儀為本,堅固意曼陀羅生起次第,次如上說次第引發六支。如《大疏》說道有三種根本,故於清淨無我定解,堅固大菩提心必不可少,當俱此二,善為修習。 密宗道次第廣論卷二十終 密宗道次第廣論卷二十一 宗喀巴大師造 法尊法師譯 圓滿次第總建立品第十三之二 (辰二)餘派之圓滿次第分二:(巳一)勝樂金剛之圓滿次第,(巳二)歡喜金剛之圓滿次第。今初 羅伊跋大師云:「前想音韻字,大瑜伽休息,修圓滿月輪,住於臍根處,最勝字轉依,應於彼中修,身語意金剛,當修諸天身,此超越諸色,是無事法性,想彼不思議,不應觀心性,由想不思議,當得陀羅尼,顱杖為天身,慧是小鼓聲,晝世尊金剛,夜為瑜伽母,涅槃出諸勇,第六心變化,清淨法所化,現為亥母身,室利無二智,黑表離因等,茹字離集合,迦表無所住。」此為生起抑為圓滿,《現觀論》中雖未明說,然毳衣大師云:「如是殷重心堅固[A1]已,當修圓滿次第之三摩地。大瑜伽休息,前想音韻字。」乃至「當得陀羅尼。初現如鹿愛,第二相烟色,第三如螢火,第四明如燈,五相無徧計,如虛空離雲。獲如斯相已,當得大手印」。次云「室利」至「無所住」。 ᅟᅟ==[A1] 已【CB】,巳【補編】== 黑行論師亦云:「次欲以圓滿次第三摩地堅固其心,先想音韻字。」乃至「當得陀羅尼」。故於生起次第堅固之後,亦應配修圓滿次第。阿底峽尊者《疏》中亦以音韻判別;前為生起次第圓滿,後明圓滿次第。慧鎧論師及如來金剛之《疏》中,未明說彼為生起抑圓滿。但如來金剛造羅伊跋《修法疏抄》中,以配圓滿次第。並說此於四座生起次第末座時修。彼文所說之義,雖是隨壞漸次,二次第中皆可修習,然此處如毳衣師說,是[A2]已堅固生起次第,於圓滿次第時所修。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== 鈴論師攝勝樂圓滿次第為五次第,其第五不思議次第,即此所說,故是圓滿之主。阿底峽尊者解釋彼義云:「月是金剛薩埵之座,最勝字者是三摩地薩埵,身語意金剛是智慧薩埵超越諸色謂心三種識相依次收入。此之體相謂是無事。想彼不思議謂修習光明,不應觀心性是住心方便。其教授謂:為令世俗因入勝義果故,從三摩地薩埵放光,遍照一切有為化成五種光明,護輪、宮殿、守門八尊、身輪、語輪、意輪、四方四維天女、主尊四面,次第攝彼前前入於後後。主尊父母,智慧薩埵,三摩地薩埵亦如是收入。次想漸細,當於細點策勵住心而修。此心當離三種識相,住於光明。從是不思議光明中現起幻身。名為得陀羅尼,以得如幻天身之念故是無二雙運。顱杖等四句是修行教授。廣說前義,謂涅槃是光明,彼所出生謂二十五勇識。支分(即頌文中第六二字)謂諸慧天。總即方便智慧六十二尊。此等皆從三心及風之所變化。本頌作『支分心變化』,清淨法勝義諦所變化者,謂現亥母身形,世俗諦所化者,謂主尊等。為顯無二,云『室利無二智』,即是雙運。因等謂離自生他生共生及無因生。集合謂雖住壞(成住壞空)之聚。無所住謂雙運大印。其教授謂隨力隨能心住光明而修。次從彼中剎那頓起如幻之天,於彼當以智慧觀察而修。」於初二句未加解釋。慧鎧釋云:「想彼阿利(母韻)迦利(父音)咒鬘具五色光,隨右息出,放出三輪(身語意輪)諸天,令諸眾生皆成三輪體性,與無始成就之勇士勇母,合成一味。次從左鼻孔入,成為臍上月輪。前者謂初。於彼月輪中央,想從最勝處金剛持種子吽字,出生勝樂金剛,白色伸展右足,一面二臂,手執鈴杵。猶如虹霓。金剛亥母紅色,一面二臂,手執金剛顱骨,等持而住。以幻化聲,召三界入尸林,彼入外輪,外入身輪,身入語輪,語入意輪,意輪四方諸尊入於空行母等,四維諸尊入於有色母等,彼四復入四面,主尊父母入於一面二臂及智慧母,彼等亦由大愛所化,成一吽字色如黃丹以及赤珠。吽之鄔入訶字,訶入字頭,頭入半月,月入空點,點入那達,當觀那達如髮端百千分之一,是為超越諸色之義。利根見彼亦無可得,謂即無事心性。不可思議即明前義。不觀心性者謂於不思議亦不應觀。明觀彼者謂『由想不思議』。陀羅尼即大印悉地。天身即黑茹迦之身或觀脊骨為顱杖之體性。智慧空性,當了知小鼓聲猶如谷響。由有所得名晝,由無所得名夜,涅槃謂死,從彼出生,謂神通相好莊嚴之中有智身。勇識者謂世尊,即修為世尊身。或涅槃謂法界,為利有情從法界起智身。第六謂彼能量法界之心,依所化機各別現故,名心變化。清淨法等二句如前。若入光明心疲倦已。當起天身修金剛念誦等。」如來金剛亦同此說。 從「前想音韻字」至「當得陀羅尼」出《徧行經》第十二品,顱杖等四句出第十五品,其室利等四句出第九品,涅槃等四句出第十七品,此後四句《徧行經》作「次黑茹迦因,說心為無垢,清淨法」等,義同。 黑行論師、毳衣大師並於生起次第圓滿之後如前而說。鈴論師與毳衣大師雖說生起次第末座依次收攝,然亦別說生起次第堅固以後當修圓滿次第。故生起次第時所修收攝次第,與圓滿次第之收攝次第種類雖同,然說前者便是圓滿次第不應道理。 鈴師雖未引《徧行經》收攝次第之文,但義則如是修,此師之《俱生修法》云:「彼作意廣大,有為戲論流,如是常修者,當隨念光明,雜色蓮及日,作怖與時相,愛母主空寶,五如來以下,身及最勝支(頭也),月點那達等,令此漸隱沒。如鏡上吹氣,一切皆消滅,如是瑜伽師,數數入實際。」此如《集密五次第論》所說,謂以隨壞次第廣大天身入光明中。此中如佛所說,加持身、觀察身、不思議身三種圓滿瑜伽差別,彼說不觀種子,剎那頓生圓滿勝樂,為入俱生光明之所依者,非生起次第身,是圓滿次第之天身。是故第五不思議次第云:「第五圓滿次,無漏俱生者。」亦非唯修光明。其《五次第論》云:「由色等引攝,自性散動心,於心間堅固,與慧俱自在,由離能所取,心離諸所得,不思議性故,全不應思惟,令心入空性,令空入於心。」心入空者是如上說收攝次第。空入心者,是從彼現起之次第。修習智慧薩埵父母之處,無畏論師《勝樂修法》,說臍上或心間是羅伊跋師意。鈴論師與毳衣大師之《修法》中,說從心間放諸光明漸收攝[A3]已,仍收於彼。故與「於心間堅固」文,全不相違。 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,己【補編】== 如是攝[A4]已由入光明任持其心,說有地入水等五相現者。義同毳衣大師所說「初現如鹿愛」等。 ᅟᅟ==[A4] 已【CB】,己【補編】== 總之以隨壞靜慮法,漸收清淨未淨情器,於光明中數修入出,成雙運身,是羅伊跋及鈴論師、毳衣大師、黑行師等所許。故阿底峽尊者所說入光明法,從彼起時由三心及風力成就天身,室利字義之無二智即雙運位,皆可善知。 如斯圓滿次第,為於生起次第堅固無間而修,為於中間尚須修餘法耶?若以隨壞次第而修,則雖初修生起次第亦可修習,如前已說。然於圓滿次第時修彼者,則非生起次第堅固無間而修。中間須修餘法,以是不思議次第故。如鈴論師於修彼前說四次第。黑行論師亦說咒次第等。 《勝樂五次第釋》,有本傳為鈴論師造,然於自加持次第時,說從五空點生勝樂五尊,漸入光明。又羯摩金剛次第時,說從吽字生勝樂等,與鈴論師所說不依種子剎那生起,及令彼入光明之理,皆成相違。又彼說五次第時各修一生起次第,亦與鈴師《五尊修法》所說生起次第堅固已,後修圓滿次第,及《金剛空行經》說如筏喻,圓滿次第善堅固[A5]已不復更修生起次第,皆成相違。如是說者,由執凡修天身皆是生起次第,未能分辨二次第修天法之過。又彼論說具別解脫戒者,發菩提心,其戒即轉成菩薩戒,若犯密咒三昧耶時,即失三戒,此亦乖理。若受後戒須轉前戒,則無同時具三戒者。又若由受密戒,身中餘二戒即轉依,故說密咒之根本罪,是壞餘二戒之因者,違汝自宗,以說諸戒得因捨因各不同故。故有餘本說是不空金剛所造,當是彼所造也。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,己【補編】== 圓滿次第時修二靜慮者,如兩派集密說,是於眾多風點瑜伽獲得能力時修。若風與點先未堪能,其收情器世界入光明中,較之生起次第所修,全無增上力故。以若勝解作意而修,則於生起次第已修習故。故自加持次第,羯摩金剛次第,滿摩尼次第,[嗈-邑+夕]楞達惹次第,此四次第,是由風點猛利瑜伽,調伏脈風空點,令入光明之勝方便。其由隨壞次第,數收情器入光明中,如死漸次入光明者,要攝左右命風於中脈內以猛利熾然力,溶菩提心,依彼引生四喜,此是[嗈-邑+夕]楞達惹次第所作。鈴論師云:「臍與膀胱界,修五色空點,表示五佛性,三角輪赤白,遮命而修習,剎那即熾燃。」由此能令猛利燒然,故名持然([嗈-邑+夕]楞達惹)。又彼論云:「從餘孔而出,界由餘速入。」此說鈎召諸佛甘露從頂而入,是為持然次第。頂上之孔,《四炬論釋》說是七萬二千脈網出生之處。若如此說則是「持網」之義。其先依印引生四喜,即滿摩尼次第。此有四印、三昧耶印,謂依所修智印引生歡喜,是前加行。業印,謂依真實明妃引生妙樂,是為正行。法印,謂憶所受守護其樂,是為結行。大印,謂依彼等修真實義。 此之前行,第二羯摩金剛次第,即是空點瑜伽,無種子之自加持者是風瑜伽。若由此二令風點得堪能,乃能與印相結合故。有種子之自加持者。是於心間等處空點,強攝心之方便。 如是生起次第先堅固已,次鈎五境散動之心,於心間處任持。此堅固已,當於鼻端緣風出入,修風瑜伽。次於四輪臍中堅修空點瑜伽。次依內外二印溶菩提心,修習四喜之後,漸攝情器入光明中,及從彼現,由多修此瑜伽之力,即成前說無二智身,即此相續近果加行。鈴師之《五次第》與黑行師之《真實炬》及《春點論》多說圓滿次第。若於彼義總攝為四次第,獲得定解則於餘師所造勝樂圓滿次第要義皆能通達。引文廣說,誠恐太繁,故此不錄。 (巳二)歡喜金剛之圓滿次第 歡喜金剛圓滿次第,收為三灌頂道,修習之理,如毘嚩跋大瑜伽師所造《道果宗要》,及持彼教授之歷代智者,皆已顯了宣說,當於彼知。此中是於諸大論師所造圓滿次第總軌,未顯了者欲令顯了,有邪執者欲除邪執,以彼教授無此二故。 種比跋大師所造《甘露光修法》,宣說春點圓滿次第猛利瑜伽。如彼弟子難勝月云:「此所生悉地,由於六近支,第一見如雲,第二見似烟,第三為電相,第四如燃燈,第五普光明,猶虛空無雲,最後同幻相,夢相一剎那,臍間然猛利,焚燒五如來,亦焚佛眼等,由焚抗出兔。」此說由修六支引生如雲等相,此六支非生宮殿等之支,是《甘露光修法》所說六支。如彼論云:「先當修黑色,第二當修赤,第三修黃色,如是第四綠,第五為藍色,第六白色相,行者修六支,後遠離諸色。」寂靜論師《斷謬論》中亦云:「次以六支瑜伽修平等性,黑赤次黃色,綠藍白漸次,唯於俱生喜,想壇輪諸尊。」 修法,如海生論師之《修法》,及[嗈-邑+夕]楞達日跋所造《釋》說,想由主尊心間吽字黑色,變成空點,此放光明從主尊毛孔出,一切能依所依,皆成黑色。餘色亦如是說。《論》中雖不明顯,《釋》中具修六支。壞色雖有二法,由說此是入光明之方便,故知此是由修六色,後入光明任持其心。而生如雲等六。 壞色入光明之方便,如海生論師《修法》云:「次從世尊心間日輪月輪中央吽字,放出阿利迦利光聚,由出入息收放,入自真實,成為一體,於月與日結合之內,住種子身。爾時應如是想,無始亦無終,非生死涅槃,非他亦非自,此是最勝樂。如是種子字與月日合成,甘露自性光聚行相,及如燈燄漸滅,乃至無所得時而修。」此所標義,《釋論》廣說。《釋論》解此義謂從自出息之道,放出阿利迦利,以彼光明照三世間合為一體,入曼陀羅,如其次第曼陀羅八天女,收入八面,佛母收入主尊,後住月日中間種子之時,誦無始等,漸修彼義。次收主尊入於光明,字及月日三合為一,是為明顯增長近得三智清淨。甘露自性者謂光明,猶如燈燄漸滅,大光明聚展轉攝入,最後識入如虛空之光明。次說現起次第,如《釋論》云:「乃至證菩提,如是修出入。」圓滿次第出入光明次第如是修[A6]已,如前於《勝樂》與智足派時所說,於彼持心則現如雲等相,亦是種比跋及難勝月之所許。此如前引種比跋說,先堅固修生起次第,後以隨壞次第而修圓滿次第雙運。此前所修圓滿次第,謂修猛利春點。故由專修第一次第及猛利時,堅固生起次第以及調柔風點,或名壞色次第,或名越色次第,是以隨壞出入光明之宗。如是兩派《集密》,與勝樂歡喜之圓滿次第,最後要以二靜慮之隨一收攝情器入光明中,要以出入次第而修雙運智身,及於生起次第先須究竟,諸派相同。要由風點堪能乃能出入光明,亦復相同,然令風點堪能之法,則有多說。如龍猛派攝入金剛念誦。智足派與《勝樂》則說多種空點瑜伽及猛利風瑜伽。種比跋等則以專修猛利為主。 ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,己【補編】== 此外雖有多種圓滿次第,然若能於上述獲得定解,則皆了知,故此不錄。嗢柁南曰: 吉祥集密與時輪  勝樂輪及喜金剛  圓滿次第道修法  總建立規一切說 審觀深細諸教理  善能究了諸正義  辭句詳盡明顯說  三處空行垂悲恕 明最初修圓滿次第與諸行及道果之次第品第十四之一 (寅二)圓滿次第最初所修分三:(卯一)明修行所依之脈風,(卯二)如何專住,(卯三)依此修空性法。初中分二:(辰一)釋脈,(辰二)釋風。今初 身脈總有七萬二千,其中主要有百二十,其尤要者有二十四,最切要者則有三脈。如《律生經》第七品云:「七十二千數,為身隨行脈,脈與隨脈等,各依處而住。一百二十脈,說為脈中主。脈處與諸境,數為二十四。此中有三脈,為所依遍行。」《釋論》說脈為風所乘,為識所依之主要者,心間法輪八脈,喉間受用輪十六脈,頂上大樂輪有三十二脈,及臍間變化輪六十四脈。其中能為爪等身中二十四界增長安住之因,故說頂等二十四處諸脈為主。《律生》第七品云:「拉拉那等脈,一切脈中主,故為他所依,如餘(水)入恆河。」此說三脈為主之理。 《結合經》第六云:「心間蓮華脈,八瓣及中蕊。」又云:「諸瓣中四瓣,有四大種脈,猶如燈自性,安住於四方。又有四支脈,安住於四隅,常降五甘露,供養住自色,故說彼自性,名為四供養。又於身心中,有五脈安住,由身語意別,說為二十四。」此說心間八支脈輪,四大種脈安住四方,四隅則為四供養脈。 脈在胎中生起次第,如《教授穗論》云:「在胎位中,先生心間五脈,其後生三脈等,謂有八脈。」然此非說先生三旋母等五脈,後生主要三脈,以《律生經》說彼三脈為餘一切脈所依故。故應是說先生心間主要三脈,以及五脈次生家等諸脈。 於三十二脈中,除三旋母等最後五脈與左右中三脈,所餘二十四脈,住頂間等二十四處,是為身語意脈。所言有八脈者,謂餘八脈。 破魔母脈,共中脈雜住於中央,如《教授穗論》云:「三十二脈中之破魔母脈,共中脈合雜住,上自舌端乃至臍部,是為時脈,諸瑜伽母遮遣為相,流注正法。」又云:「三旋母脈為色,欲母為聲,家母為香,猛利為味,破魔母脈為法。」又云:「其中四瓣四脈,立為諸大種脈,以四方脈是四大種注彼自性。」《律生》釋云:「此五脈謂法輪,如其次第是地界等自性,故表從此曼陀羅往餘曼陀羅。」經論皆說破魔母脈依止中脈,三旋母等四脈是四方脈。心間四隅四脈,如《教授穗論》云:「四隅四脈各別流注大香小香痰及精血;為大種脈作增上緣,由能流注色香味觸,故是供養自性。然此體性實即大種,大與所造無異體故。」此說大種與大種之所作無異。故許四方大種脈以及四隅供養脈,皆同流注大種或色聲等。此是三旋母等四脈,各分二脈故成八脈。次由八脈轉成二十四脈,如《教授穗論》云:「謂與中脈俱生五脈,其後三脈,次謂二十四脈。」《珠鬘》論云:「心中蓮蕊以及四方華瓣,如其次第,即是三旋欲家母,猛利破魔母。」說此五為心間五脈,是否即四方及中央,應更觀察。《孤穆枳論》亦以五脈配色聲等。跋嚩跋陀羅師亦說流注五種甘露,故許八脈皆能流注彼等。 若說三十二脈流注三十二菩提心,是依通相。若說流注齒爪等者是依別相。然破魔母不能流注,《歡喜金剛經》云:「策勵斷諸餘。」說脈為瑜伽母之體性時,說除彼脈。故由彼脈雖令世間生為樂性,然以不見彼輪終歸死亡。此就有障時說,若離障時,《教授穗論》亦說彼中菩提心得充滿。 《結合經》云:「菩提心自性三十二勝脈。」《珠鬘論》云:「有許彼說係依華瓣之數,而實不爾,無依華瓣數之文故,亦說心間蓮華中之脈故。」此破三十二脈非是頂脈,以彼經中無有三十二脈為脈支數之明文故,及說是心間蓮華中央之脈故。後義如前引《結合經》於說心間八脈之後,又說由身語意差別,分為二十四脈,共為四八三十二脈。說初八脈為心間脈,故非頂上脈支。以是彼經所說「由處等差別,安住處隨處,頂上所生脈,說名為頂生」,亦非頂上脈支。若不爾者,則應處隨處等二十四處,一切皆成頂上脈支。故知是約同一脈系而說。三脈齊何而住,如《教授穗論》云:「脈謂阿嚩都底,從頂髻至摩尼及足心際,然於頂髻、頂、喉、心、臍、密輪、摩尼中央,如其次第有四、三十二、十六、八、六十四、三十二、八支,於蓮華及薄伽輪中,作脈結形。」又云:「拉拉那與惹薩那等諸脈,上自頭輪乃至密輪,結如鐵鎖,纏繞阿嚩都底而住。」此說於六輪臍中纏中脈而住,此亦上自頭頂,至摩尼端及足心中。《結合經》云:「從項左邊脈,為受用身母,於臍間休息,口下流能醉。從臍上右脈,如是口上流,於項間休息,說名注血脈。能醉說名月,說血名為日。」《釋》云:「言於臍間及項中休息者,非說彼後脈不流通。」《教授穗說》江摩(左脈名)少雜血分,多注身分、心力、月分,故名身脈、心力脈、月脈、方便脈。亦名彼等之道,熱摩(右脈名)少雜精分、多注語分、塵分、日分,故名語脈、塵脈、日脈、慧脈,是依多分而說。中脈多注精血、意分、暗分、羅𬑟,故名心脈、暗脈、羅𬑟脈,不定脈。《結合》亦云:「二脈生處中,及於左右處,左脈名精識,右脈名為血,由彼互相攝,是攝為法界,心力身塵語,暗意為自性,能生心力精,寶塵及暗分。」 《教授穗說》自臍輪以下,江摩降大香,熱摩降小香,中脈降精分。又說右脈降精分,左脈降小香,中脈降大香。 熱江二脈各有上下二孔,而說江摩向下,熱摩口向上者,如《律生經》疏云:「言下孔者,雖二孔皆是口,然由下臍間脈,能作取捨,如口作用,故說是口,故名下口,上口亦爾。」謂由能不能取捨精血而說。《律生經》云:「入道從左脈,右脈是出道。」說左脈為入道及右脈為出道,如疏所說應知,彼云:「入者,從右脈出取境無間,乘風之識,由拉拉那脈入。」 此身在胎位中,係由精血轉變而成,諸餘身分是彼變相,故說赤白二分,乃是身界之主。又頂蓮華白分增上赤分微少,臍間相反。《教授穗論》云:「中間諸位,頭蓮華中白分增上塵分微少。密蓮華中與上相反。」應知密為臍間,此類甚多。白界或亦暫居餘輪,於一切時多居大樂輪中,如《教授穗論》云:「常者謂一切時,意謂暫住餘輪非一切時。」臍間赤分亦准此理應知,故應於彼二處觀想燃注。 又有師許熱江二脈與中脈相連接,如是左右風點入中脈中尤為便利。《教授穗》說四大種漸收[A7]已,風入明了,明入明增,增入明得,得入光明,一切空光明即死有,從此起大空得,是尋香心;從此生起方便明增,是欲取心。生起智慧明了,是受生心。次由中有隨入三門,從人中結生相續而起風,從風起火,從火起水,從水起地,從地起五蘊等。為證此義,引《大印點經》云:「由依識體性,先於四大種,由决定自性,爾時入自位,從識出生風,從風出生火,從火出生水,從水出生地,從此等生蘊,從此生諸處,從此生識性,一百六十種,如此生次第,今滅亦如是。」提婆菩薩亦云:「地等四大種,如是四種空,當知是八事,為生滅之因,光明生大空,從空出方便,從此生智慧,從此出生風,從風出生火,從火出生水,從水出生地,有情生如是。地界入水中,水界入火中,火亦入風界,風界入心中,心入於心所,心所入無明。此入光明中,如是三有滅。從無始時來,流轉三有輪,乃至如幻定,未見此本性。」 ᅟᅟ==[A7] 已【CB】,巳【補編】== 論說斷此生死,當以二種次第修如幻三摩地。 總扼由脈等成身之要理,如無著菩薩說:「中有心識最初入處即成心藏,故由識入赤白中央,圓滿蘊等,最後死時,亦漸收攝仍入彼處。如死次序而修道時,亦由心間之三摩地薩埵,或替此之空點,放光收攝情器世間,最後漸入光明,如死光明,現起地入水等諸相,入光明中如水注水。次成虹身,如彼唯由心風所成之身。」此於瑜伽續中所說最多,母續《大印點經》亦說。如上所說,於母續之圓滿次第隨壞靜慮亦最切要,意趣相同。復有要義,謂若了知三脈住相及於彼處上下有赤白菩提心,如臨終時赤分上昇,白分下降,由會合力明了等相漸次收攝,乃至於死。如是行者當知赤分火增,白分下引,由會合力引生明了等相,漸入光明圓滿次第,後起幻身。 (辰二)釋風 《金剛鬘經》說有百八種風,《密意授記經》云:「命下遣上行,周徧平等住。龍龜及蜥蜴,天授與勝弓。」此說十風。《金剛門經》說持命等五風及行、徧行、正行、善行與决定行為十。彼以行等名字說龍龜等。 此等住處如「攝行」云:「心間、密相、喉內、臍中、一切身節,如次即為持命、下遣、上行、平等、周徧之處。眼等五根為行等五風處。此等作用有二,各別作用。如云:由根門相續,有命力遊行,一切時中行,故說名為命。風小香大香,如是諸精界,導下為下遣,行者恆應知。嘗噉及舌䑛,徧飲與吸吮,若常時等住,是名平等住。上行及收攝,食諸嚼嘗等,與識俱和合,當知上行用。周徧與任持,若往及回還,由徧一切節,故說名周徧。」《攝行》所引是五根本風之作用。《教授穗》云:「由命與力長遠廣大,為命為息,故名為命,成十種風。」又云:「住臍飲食等,等引故等住。」又說上行者,謂從鼻孔等上行。收攝者,謂入息與識和合者,謂流注十風。 《教授穗》說五支分風之作用云:「依止眼根引生色識,是行風用。」餘四亦如是說。如《五次第論》云:「諸風微細色,與識合雜已,從諸根道出,緣慮諸境界。」《攝行論》以五支分風說為五境,其密意亦如是應知。 如《五次第論》云:「一切有情命,名風作諸業,此是識所乘,五性亦十性。」先於風能作業之理獲得定解,次當修令風自在之瑜伽。故風與三字共不共之用,於《攝行論》應當了知。由論說「五性亦十性」,故就自性唯有五根本風,其支分風,是彼分位。此如前引說,持命風於根門轉,故知多是彼風。如是攝為五根本風,謂上鼻孔遊行四風,與唯死時遊行上鼻之風。此復左右二鼻各行一風,二鼻共行二風。此五風配五部之理,如《金剛鬘經》云:「安住五佛種,從鼻端孔出,五風於上行,徧行一切身,於世俗鼻行,從此門而出,左右與二俱,徐行為四種,從右所出界,是火曼陀羅,最勝赤紅色,是蓮主遊行。從左所出界,是風曼陀羅,現為黃綠相,是業主遊行。二鼻所出界,現見如金色,是大自在輪(地輪),即寶主遊行。徐緩無動界,清淨如水晶,剎那為水輪,金剛主遊行。出生一切界,取能依所依,是毘盧佛身,死時乃現起。」「從鼻端孔出」等二句,義謂從男性金剛與女性蓮華鼻端,出風光明向上遊行。《攝行論》說是從上鼻門出之義。 目風界自性為度母之主而論,應先說不空風,此中先說彌陀風者,《律生疏》謂依金剛念誦語金剛而說。修行次第亦應如是。《律生經》說四風遊行,亦同《金剛鬘經》。 所說左右行與俱行,藏師有說為每鼻孔之左右者,不應道理。以《攝行論》說是從左鼻孔,從右鼻孔,從二鼻孔中遊行之風故。從右鼻行者謂上行,左鼻行者謂平等住。此色《攝行論》說是黃綠色黑光為性。二鼻所行之黃色者謂下遣風。徐緩無動界者,《攝行論》謂遊行緩慢。《律生》亦如是說。《結合經》云:「火性與風性,地性及水輪,心之所行處,上側平下行。」謂火在上,風在側,地直出,水在下行。《攝行論》云:「周徧,謂徧四界輪風,不動而有普徧光明,謂毘盧遮那佛,虛空平等體性。然於一一光明生時亦有五光俱生以一界輪徧四界故。」此中說周徧風,現在不於鼻孔中轉,普徧四輪為虛空風。此周徧風,雖不徧於鼻孔中遊行時,然徧身內所住四輪亦不相違。第五大種虛空界之風者,即於四輪行時而行,故未別說。又說此為引生安樂之風。《教授穗》說中脈所行之風,離四輪風無別風體。又《教授穗論》云:「《密意授記》於說二十四半座時,未別說有虛空之風,《金剛鬘》中由攝於虛空風內,亦唯說四輪。《無二尊勝》亦於四輪各說一主要作用及三副作用,辦二種事。未別說虛空風成辦何用,故無別虛空風。《時輪》中別說者,為引外道令入法故。」《律生》、《結合》、《金剛鬘經》、《無二尊勝》、《密意授記》同說離四輪風無餘輪風遊行。其四方便主風,一一風有四慧妃風,各經二百二十五次,畢已,移動一尊,此是九百一換之規。如《密意授記》云:「白衣等念誦,二百二十五,四種善配合,四行攝九百,所說九百風,二十四漸次,彼各別現起,二萬一千六。」白衣等者,謂蓮華主風中,火中之火謂白衣母,火中風謂度母,火中地謂佛眼,火中之水謂摩摩格,各有二百二十五風。餘三准此應知。《教授穗論》說此有二十四半座。如是方便四大種風,各有智慧四大種風,於一日夜,如說數有二萬一千六百次風。是瑜伽續所說,然從何脈輪轉則未明說。瑜伽母續則說四脈輪中,一日夜間風行次數。如《律生》云:「說梅齊為座,四座為一日,夜四座亦爾,轉支十六風,是一日夜數,常於鼻孔中,每半座而轉。」又云:「說脈三十二,一座之四分,亦名脈及時。日夜杖桿數,共為六十四,半脈時名杖,為一座八分。風出入鼻孔,說名為一息。」此說出入二息合為一息,於一日夜有二萬一千六百息遊行,臍間脈輪六十四脈,一一有三百三十七次半,是為一杖之息。頂上脈輪三十二脈,名有杖息兩倍,是為一時之息。喉間脈輪有十六脈,各有時息兩倍,為一改換之息。心間脈輪凡有八脈,各有改換息之兩倍,是為一座之息。《律生疏》說此與歡喜金剛派同,此是改換十六次之規也。「時輪」亦說換十二次。 《教授穗》云:「一切共許,三脈之中,一日夜有二十一千零六百息。」此謂諸氣息調和者,就三脈門一日夜有二萬一千六百次息,是所共許。 (卯二)如何專住分二:(辰一)風瑜伽,(辰二)火瑜伽。今初 《結合》與《律生經》說四輪風之動相與差別,雖未明說金剛念誦,然諸《釋論》亦說修習金剛念誦。金剛念誦瑜伽續中明了宣說,如《金剛鬘經》云:「如是四壇輪,住定常念誦。」咒師數念誦,晝夜恆持誦。《密意授記》亦說於風念誦。《攝行論》云:「此說圓滿次第,謂從阿利迦利,以女男不定相出生三字,三字决定配入住出,由四壇輪次第,修命力自體之金剛念誦。」又云:「此中蛇等諸咒,皆從阿利迦利而生,此等真實謂從不壞所生三字。」此說咒之真實。所說不壞如彼論云:「謂俱生字,如《金剛曼陀羅莊嚴經》中為顯阿字故云,心中不可壞,明了等同燈,不變最微細,阿字最殊勝。」如是了知金剛念誦扼要,應修瑜伽。此於三字為一切咒之主,及彼三字從不壞生之義,又彼三字與風和合本性已成,唯令明顯,此等皆當了知。金剛念誦建立。說者雖多,然說一切要旨為《攝行論》,惟彼文極古奧,故為師者,應為弟子廣解其義。 由此念誦能調柔風點者,如《教授穗論》云:「修金剛念誦者,遮止左右風動,令入中脈爾時猛利本性熾然,溶化諸界,證大樂輪。」龍猛父子論中所說要義。餘處應知。 數息念誦亦能摧壞非時橫死。《律生經》云:「住定瑜伽師,乃至億等數,無聲恆念誦,無聲誦十萬,圓滿修行者,雖年壽已盡,五年活無疑,恒應於晨起,數風一千遍,是故風瑜伽,常應安住定。」先修本尊瑜伽,每於晨朝數一千遍,曾無間斷,定能摧壞非時橫死。 下中上品修瓶相風亦能免死,即前經云:「或瓶相加行,皆能勝於死,自了至心足,一切風遍滿,由依於瓶相,三品能摧死,下品三十六,兩倍是為中,三倍為最上,瓶相皆能勝。先了知瓶相,自結跏趺坐,手摩搓三返,次應六彈指,乃至三十六,而修瓶相風,三倍最上品,數為百零八。」此亦先修本尊瑜伽,而後修習,餘經說此是發功德大風瑜伽。 先修本尊瑜伽,次於心間蓮蕊月上白色吽字,令心堅住,修上下風結合,亦能免死。《律生經》云:「心間華上風,等同白吽字,思維而住定,不為境界縛,生死風上行,涅槃風下遊,無住大涅槃,安住心華蕊,上下遊行風,由意令結合,修習此瑜伽,當得堅固位。」 《疏》說彼三是依「鈍中利根差別,修不死之方便」,非唯免死,亦是引生功德最勝之風瑜伽,故當修習。如《律生》云:「不知風瑜伽,或知而不修,彼為眾苦逼,生死可憐蟲。」師長亦應為諸弟子詳說此等。 密宗道次第廣論卷二十一終 密宗道次第廣論卷二十二 宗喀巴大師造 法尊法師譯 明最初修圓滿次第與諸行及道果之次第品第十四之二 (辰二)火瑜伽 《結合經》於「八瓣及中蕊」後又云:「到此中之脈,以燈為自性,猶如芭蕉花,伸展口向下。勇識住彼中,粗細如芥子,不壞吽種子,滴注若珂雪,有情心歡喜,故說此名春,以馬火形色,無我母名點。由業風行動,於臍輪熾然,由得春知足,由安住等至,勇祥黑茹迦,此名春及點。」略標廣釋春點二文,即是猛利瑜伽根本教典。初四句說中脈,到心間脈輪蓮華之中者謂住彼中。於猛利火燒然之時,色如油燭,光明為性。如芭蕉花微開之狀,入脈結中之口,向下伸展。其次四句,說中脈內之字,住中脈中能摧逆品分別故名勇識,即是吽字,量如芥子。不壞謂作所樂他不能壞,此是依猛利生樂之種子。滴甘露光清凉如雪。由此能令有情喜樂熾然,故名為春,與春相似故立彼名。其次二句說點譬如馬口(海中出火處之名)之火,能竭一切海水,如是臍中火色能盡燒五蘊薪,即無我母離一切戲論之空點。此由臍下風吹生長廣大,臍輪熾然。業謂由修猛利所生內心作用,即由此力策風。《釋》中解為由業策風所動。得春謂滴注菩提心,知足謂生歡喜,彼二相合名為等至說彼名春,亦名為點。 《結合經》廣釋春點云:「臍間阿字形,說是最短音。心中有吽字,長有二摩莫,喉間嗡字形。三摩莫懸遠,額上杭字相,聲點不可壞。」《春點》論中譯為:「心中有吽字,長及於二量,喉間嗡字形,量誦三字長。」(摩莫當是量字也)短長懸遠(即最長)三者,義謂有一二三短音之量。此是內誦時量非語中誦,修猛利時無語言故。 所書四字,是入圓滿次第方便生起次第所修。圓滿次第時者,《教授穗》說短阿謂塵畫體,吽謂心,嗡謂語,杭是連接杭字形脈之菩提心,初後二字表赤白分。故是身攝,及餘二字即身語意三業。此是四字所表之義。 《結合經》云:「甘露形滴注,晝夜恒安住,以此發聲音,火能令歡喜。」疏解此云:「杭字明顯及不明顯體性猛利,殷重無間修習,下品修習流注甘露,中品大注,上品無間極注。由修方便續體性圓滿次第曼陀羅,若意堅固,猛利决定熾然,由此炙迫,持兔亦注,爾時真寔杭字流注,那達猛利塵畫,增長超勝。」謂圓滿次第時修道,要由猛利火溶化杭字樂為道而修,諸說皆同。 此雖有多不同次第,今依《結合經疏》,依於補特伽羅增上,分四及二,四中初者如前細點時說,由心修習堅固之力,其俱生慧猛利塵畫,本性熾然,量同髮端百千之一,猶如電光,修治諸脈。溶菩提心充滿其中。《結合經》云:「彼慧為俱生,是故安住形,由業風所動,臍輪遍熾然,說明無我母,亦即名春點,髮端百千分,等同電光明。」若不勝解此者,當以金剛念誦,堅固命風,將下遣風提於臍間,緣慮大印令風迴轉,猛利熾然,大樂由此亦能顯了。此若亦不能者,可修息上行時,塵畫上炎,風入內時,想滴注杭字月作空點形,流注臍間。此亦乃至左右二風,內外行時,數數修習。若又不能如是修風出入,則當唯以增上勝解,修然滴之觀想。 增上勝解而修字者有二,若樂略者,當自臍輪乃至頂輪四輪,修習紅昂向上,黑吽向下,紅嗡向上,白杭向下。先令昂字體性薄伽梵母猛利熾然,由此炙上二字,杭字溶化向下流注,與中二字等同一味,當如上說安住臍中。若樂廣者,當想臍間向上,紅蓮蕊中月上有昂,東方等葉右旋依次而有阿迦[嗈-邑+夕]札達跋耶沙八字。有謂安布八字是隨所化而說。臍內輪有四字,其次有八,再次十六,再次六十四字。心間向下,紅蓮蕊中月上有吽。東方等葉上有啊伊鄔鄂四字,自在等四隅有耶惹拉嚩四字。喉間向上,白蓮蕊中月上有嗡。東方等葉啊咿𭋒[口*鄂]四字,自在等隅有㖿㘃啦嚩四字。頂上向下三十二脈雜色蓮華蕊中月上有杭,東方等葉各隔一葉,如其次第有十六韻。想阿迦等諸字,皆有半月空點那達,猶如降雪,令昂字體猛利熾然。彼漸上行,想一切字悉皆溶化等同一昧,向下注時,住於正見如前休息。 生起次第學者,亦應緣上所說四相之一,修令一切瑜伽母輪自性猛利熾然,此熾然火由中脈向上昇,遍諸毛孔毛端乃至額際。[A1]炙迫三輪以及諸蘊,從右鼻孔眉毫孔出,猶如電光遍十方界,照解生死有情聲聞獨覺與諸菩薩,皆悉成佛。想彼等與已成諸佛入左鼻孔,照大樂輪。彼等一切由大貪愛火光發動從自眉際毫孔入內住大樂輪,與菩提心同時溶化,等同一味向下流注成為智慧方便一味大樂自性,安住臍中。由如是修當得諸佛圓滿加持。《教授穗論》以此配於生起次第,諸餘論師以配圓滿次第。 ᅟᅟ==[A1] 炙【CB】,灸【補編】== 此諸猛利瑜伽,未說持結合風而修,僅說所緣堅固然火之法。餘教授中亦說持瓶相風而修。 此諸主要猛利瑜伽,《結合經》與《金剛空行經》等明了宣說,唯一二點以餘教授而為補充,黑行論師等梵本論亦多顯說,故是最可信處。如是風與猛利瑜伽獲堪能已,猛利燒然,溶菩提心,繫縛不墮,依此引生上降下固四喜證德。於此之後當起天身,以由空性起天身者,總於二種次第,別於圓滿次第最切要故。師長應為弟子詳說此等。 (卯三)依此修空性法 如是了知脈風空點生成要義,若以專注彼等瑜伽,令風點得調柔,雖能依界流注回返引生四喜之三摩地,復有安樂明了無分別而莊嚴,然尤當依彼方便而修决擇無我義之清淨正見。若不爾者,唯修彼三摩地,不能度脫三有。如「菩提心釋」云:「若不知空性,終非解脫依,愚夫常流轉,六道三有獄。」以是當入靜室修無我義。《結合經》云:「次住靜慮處,當正隨觀察,一切法無我。」又此經《後續》云:「又於此中何為空性,謂人及法無自性空。」此攝所修空性為二無我。「金剛藏莊嚴續」云:「了知一瑜伽,往靜處勤修,罪淨今成佛,善修法無我,能證一切智。」此說往寂靜處修一瑜伽即能成佛,其一瑜伽謂修諸法無我。經中如是說者無有邊際。身中生起此見之法,要依教理以觀察慧觀察乃生,如「菩提心釋」云:「諸行菩薩密咒行者,發生願行菩提心已,當由修力發勝意菩提心。故當說彼體性。」後以正理破外道所計之人我,與內道兩部所計之法我,而决擇無我義。由修習力引勝義菩提心,先當如是求無我見。此由解釋《集密》六如來各說一菩提心中,毘盧所說「捨離一切事,斷除蘊處界,及能取所取,法無我平等,自心本不生,空性自性者」之義,故名《菩提心釋》。 如是龍猛菩薩,說以正理破除二我,修所决擇無我之見,名為修勝義菩提心,諸行密咒菩薩亦應修此。故亦善破有說修觀察慧觀察之見,是顯教規非密宗者。《金剛莊嚴續》亦云:「心觀六分塵,析為十方[A2]已,此明了法義,心淨最無垢,過去未來心,如是無所得,無二無無二,虛空亦無住,如是觀察已,一切眾生空,是無垢瑜伽,想自心無體。」此說觀察微塵分析十方為修空性。跋嚩跋陀羅於《金剛空行釋》中,如《中觀莊嚴論》分成十方觀察微塵决擇空性。持祥師云:「一切法無實,遠離初中後,如是於壇輪,斷真實分別。蘊界皆無我,所修妙樂形。」此說分初中後三時修所决擇無我。《寶鬘論》云:「如剎那有邊,當觀初中後,成三剎那性,世非剎那住,又初中後三,如剎那思惟,即初中後性,亦非有自性。」又說此法,「智足等大師,明顯此等義」。謂智足論師於《普賢修法》與《入修我方便》如《中觀》所說離一異等理,咒乘中亦如是决擇。下三部續亦須如是於身生起,前已說訖。故學金剛乘者生無我見,當如顯教而修。 ᅟᅟ==[A2] 已【CB】,巳【補編】== 又彼正見雖已了知諸法真實,然由無始二種我執熏染之力,心境不能如水注水平等一味而轉,由二取力各別顯現。故以猛利火溶化菩提心任持不令外泄,由此力故,粗分二取收攝寂滅。爾時若能憶持正見住見而修,能令彼慧漸近真實,心境當能一味而轉。又若其心未了無我,則都非修無我實義。若心[A3]已了達者,則不出於現不現前二門。若謂異生現證無我,誠屬荒謬,故是不現,爾時彼等通達無我,但由總相(影像)通達,故若說異生以離分別心修真實義,非應正理。當知此心是後無分別智等流勝因,故非未趣向真實之分別。由總相門觀無我義,故亦非是都不分別,如《集密釋掌華論》云:「雖觀真義,然非分別,非無分別,何故名非分別,以能隨順引發無分別故。何故非無分別,以分別真義故。非從無分別生無分別智,以諸凡夫無彼智故。亦非從於自性分別而生,以此是彼真對治故。然是安住真義觀慧,由心隨所修轉,故能無功用心安住無戲論之法界,即此名無戲論無分別智。」如《無分別陀羅尼》云:「又此正行,隨教示轉,隨修習轉,隨多作轉,隨作意轉,故無功用任運觸證無分別界。」《决定量論》亦云:「於思性慧若多修習,當能現証遠離錯亂無垢無壞真勝義智。故世尊說諸欲通達無分別菩提者,當修觀察真實,是此所宗。」寂靜論師說若無分別智,必須以無分別為因,凡夫無彼,則應成過,並引法稱論師所立,由多修習思所成慧而生無分別智。《教授穗論》亦云:「觀察雖是分別,然能隨順無分別智。隨順者謂親因。」《第二觀察經》云:「以分別分別,以諸有諸有。」寂靜論師解彼義云:「即以觀察真義分別,發修習力。展轉引生無分別智,唯以念住等世間道,引生菩提分等出世間道,故以分別而斷分別,及以三有而盡三有。《教授穗論》亦如是說。由修分別生無分別,《迦葉問品佛》以兩木相鑽出火還燒彼樹為喻,顯說此義。」又《教授穗論》云:「若以慧眼决定觀察發正智光,一切諸法都無所見。故真實瑜伽師,一切威儀安住定者,雖見一切諸法都無所見,如是方名無見,非如睡眠閉目全不作意。唯離疑惑名於色等拔除執着,非如拔刺。」此說要以觀慧觀察,諸戲論法全無所得,乃可安立為無所得,非故作意全不分別即修真實。除心過失,非如拔刺,要以能對治品遣除增益與疑惑也。此與蓮花戒師《修次第論》所說無別。故密乘所化與顯乘所化,繫縛生死之因非有差殊,其主要繫縛之我執,要以逆品無我乃能遣除。正理王云:「未破除此境,非能斷此執,隨逐德與失,貪瞋等斷者,由不見彼境,非以諸外相。」提婆菩薩亦云:「若見境無我,當斷三有種。」 ᅟᅟ==[A3] 已【CB】,巳【補編】== 若謂《結合經》云:「不應修習空,不應修非空,行者不離空,永不離非空,若執空非空,當生多分別。」及《菩提心釋》云:「無生與空性,所說我皆空,下根所修者,非能修彼義。」云何此說全不應執空不空耶?答曰:前文是破世俗都無之斷空見,與勝義不空之常見,非說無自性空亦不可取。以彼上文「法界平等性,當取如芭蕉。」說無堅實或無自性亦可取故。其《釋》亦云:「如芭蕉者,謂由無明增益無勝義自性故,通達彼無堅實,非世俗無,何者,以法界與無自性中平等性之色等,彼等體性非異事故。然亦非一,於世俗中各別異故。是故不具斷常體性,故俱破修空與不空。」既但破世俗無與勝義有之斷常為所修,則修勝義無性之空與名言中有色等之不空,俱非所破。如《教授穗論》云:「既說唯勝義無自性,即世俗有色等自性,故說斷除空與不空,不應道理。」經說執不空當生多分別者,謂執常斷而起之邪分別,非說一切分別。若不爾者,唯依「不應修空」之文,則彼經與餘經所說當修空者極多,皆成相違。龍猛菩薩等說高深圓滿次第,尚須以二靜慮多修分別收放而入光明,亦成相違。以如汝說,則一切分別修,皆是現證光明之障礙故。 其第二文,義如《出世讚》云:「為除諸分別,說甘露空法,若復執著空,佛說最可呵。」是說於空無我不可執實,非說並無自性而不可執。若無自性不可執者,則應破除諸法無性。若破無性則成有性,如《[A4]迴諍》云:「若遣無自性,即成有自性。」 ᅟᅟ==[A4] 迴【CB】,迥【補編】== 總之,若謂於勝義中破執無性,彼非所許,破之何益。若謂於名言中心不可執無性無我,故不應執彼者,則應全無通達真實義者,謗解脫及一切種智。如是邪執,是由未解何為中觀因之所破,故說一切分別皆是實執。破彼邪宗,餘已廣說。故具慧者,於金剛乘亦當以聞思慧如《中觀論》求無我見,獲得無謬見已,當修了解無自性之定智,以定解智與增益執,是能所治。若不執於無我,由於無我心未趣入,則於我執全無損故。《不動明王經》中依此密意故云:「菩提心堅固,說得咒悉地,餘則修咒軌,所作皆無果。由略想諸法,一切皆無性,定得菩提心,非唯餘能得。」此如《教授穗論》所引。 (癸三)增進二次第之方便 諸行謂由了知欲塵體性,善巧方便受用諸欲。持咒之初業者雖亦有此,然今是說增進二次第之勝行,謂有戲論及無戲論,最無戲論三行。此三種行,有於生起次第堅固後而行者,如「明炬」云:「最勝修行與凡常住,修習有戲論等三行之瑜伽師。」諸先覺說初次第時所修,為修諸共悉地,若修勝悉地者,當於圓滿次第時修。此復有三,謂有得心遠離後修,與得幻身後修,及得有學雙運後修也。有戲論者,謂於勝處與二十明以結手印及歌舞等加行,晝夜勤行而得大印。《攝行論》說因陀羅薄底王,即依此行而證大印。無戲論者,謂依五明或依一明,以修欲塵為道,而得大印悉地。最無戲論,謂與心間智印等至,而能圓滿大印果位。此三係由智慧、資具、年齡而分。經六月等常恆無間受用諸行,先能成就自在功德,次即成就大印悉地。《攝行論》云:「如是下中上別,隨順年齡有三種行,學習半月或一月或六月,即能出生將得大印悉地之相。相謂細色、輕觸、周遍、正得、光明、堅固、自在、如意。」若欲現世修大成就,定當修此三行之一,令道增長。如《攝行論》應當廣知。 (癸四)彼等為三士道之理 如是無上瑜伽部一切道,若順所化修果次第,攝為三類,上者現世成佛,中者中有成佛,下者轉生成佛。其先修習共道,次受清淨灌頂,守護三昧耶戒,三根皆同。其不同者,初是能學二種次第及行。於此若得幻身,現身决定成佛。如《五次第論》云:「自加持次第,若未獲得者,經續及儀軌,徒勞空無益。若得自加持,一切佛本性,則能於現生,成佛定無疑。」第二謂已滿足生起次第,圓滿次第得心遠離,然於現生未修三行之一。於臨終時,先發是願,願能現證死有光明真勝義諦,於死有後當起幻身。如是死時,順死漸次而修入光明之次第,即能現起死有光明。由此力故,於餘凡人成中有時,即成幻身,《攝行論》云:「若修行者雖證聖諦,然由宿習串習之力,務農營商承事等事,種種散亂,於三種行俱未修行,及餘行者因缺資具,不能圓滿經說儀軌故未修行。此等於命終時為更受後有耶?為即得成金剛持耶?」答云:「若已證得圓滿次第一切皆修,則於現世而般涅槃,無可疑惑。若知真實但由資緣不具,未能如經所說而修諸行,然能離一切見而命終者即勝義諦,次受生者即世俗諦。謂證真已若入光明棄捨凡蘊,當發堅固願心,以自加持次第而起。若能如是作意而住,則餘生中亦定不捨彼作意,故能證得一切種智。」此說若得幻身,則於此身定能成佛。《寶性論》云:「聖者永拔除,死老及病苦,業煩惱力生,此無故彼無。」此說大乘聖人永斷業力之死。《菩薩地》說入地已後不乏資財。故此所說未得幻身而證光明,未斷業力之死,由資具匱乏故如是行者,是未得幻身之異生。此於死後得幻身者,是最初得,若現證此中之光明,必須先得幻身,故於死時證光明者,亦非現證。此是死後不起中有而成幻身,成就唯從風心所起金剛薩埵行相之身,非成凡常中有身已再依彼身而修幻身。得幻身已次於彼身修所餘道,即於彼身而得成佛。《口授論》說即生成佛道次第云:「自加持次第,是故瑜伽師,當於多劫中,正勤講說此。」後云:「自心入法界,明喜如虛空,次成有神通,五齡童身時,樂圓滿無比,次往他生時,現諸變化身,皆悉能善證。」此與《攝行論》同。說成中有樂圓滿無比者,謂成報身。此是道位三身,以《五次第論》說幻身為報身故。即於初次第時,《釋論》亦說入光明為法身,最初依怙為報身故,故非究竟之三身也。《口授論》中雖說頗嚩如是成就,然說頗嚩能否是成就實有二類。能成就者謂「五齡童身時」是於成中有時能起幻身,非是成中有已次修幻身。故如《攝行論》中所說智德,須於現身證得。成彼身已再修餘道,亦如上說。 若不能得如是三身,則說生為持明之主,漸修大印悉地。《口授論》云:「若未成三身,則成持明主,漸次修大印。說以此三相,而成彼悉地。」此說現生中有轉生三種成佛。其中有成佛者,即如上述由離方便,到中有時,以有善巧方便教授,成就金剛薩埵行相天身,即於彼身成佛。如是現生成佛以及中有成佛,唯由修未修行之力,果有遠近,其道相同。其轉生成佛者,有灌頂已唯護三昧耶與戒律,未多修道,有雖修道唯修生起次第以下,或有得心遠離以下圓滿次第。以此為例,餘部諸道亦應准知。頗嚩非是現生成佛之道,以《口授論》說是中有成佛轉生成佛之共道故。 龍猛、智足二派論中,說修中有為報身相,除前述之道外,未說餘道。成報身後修行餘道,雖未明說,意謂於前現生成佛之時,已說得幻身後,現証光明,依彼教授即能了知。 又為於死有時能知死有光明與彼和合,至中有位能自了知中有而修中有教授,臨受生時能於男女交會滅除貪瞋生勝玅處。故於現在當發决定空見,修習道位光明,及緣生起次第天身明了堅固,修幻教授,解脫道者修猛利火,貪愛道者依止業印不離樂空之心,彌拉師說此是麻跋大師心要教授。 為欲將來認識死光明故,現在修習與死漸次最相隨順睡眠光明,是善方便。此謂漸收明相至最微細,頓入睡眠,現起無念重無分別,即是近得。以此亦應比知明增二相。次於[A5]已過無念重無分別未起夢境之間,現如無雲之虛空時,正是睡眠光明。《攝行論》云:「次經多生展轉修習,學無我法,了知清淨加行,當與本性境相合雜,以此漸次緣勝義諦。其漸次者謂令蘊等入微細界,細界入心,心入於思,思入無明,以是加行而入睡眠。心思入無明之剎那,即成忘念。後無忘念智性,即是光明。又解脫時得風自性,便有餘夢相起,乃至識未散動當於爾時觀睡光明。此即名為各別自證離身語相真勝義諦內證菩提。」若未能知睡眠光明界限,則或有以無念重無分別為睡光明,或以夢位引生無分別定為睡光明。 ᅟᅟ==[A5] 已【CB】,巳【補編】== 此雖是於究竟生起次第,三遠離等圓滿次第[A6]已有力者,修習最無戲論時說。然於未到彼位之前,亦可與彼隨順而修。睡眠光明根本,乃至風未動時而有,風散動後即入夢相。故欲任持彼時,先當發願任持不失勿令入夢,即於爾時攝持其心。此即「乃至」等義。又於爾時當憶正見所抉擇義而修,非但修習如無雲之虛空而已。次若不能安住彼定須起定時,莫令入於凡常夢相應,勤現起金剛薩埵之身,以生起次第時空後多起天身,圓滿次第亦如是故。漸收現境如無雲虛空者,隨順死有,故從彼起定時極似中有。若於死有修習法身,中有定須修報身故。 ᅟᅟ==[A6] 已【CB】,巳【補編】== 此任持睡眠光明之教授,不依餘緣,但能持夢,即能修習。此光明與起夢身法,是合修死光明與合修中有之教授心藏,故師長應詳為解說。 (辛四)現證所修之果 修二次第以及諸行之果有三,最上成佛,中品獲得八大悉地,下品成就息災、增益、愛敬、降伏四種事業。《明炬論》云:「亦當說所為,謂息災等法,如是八悉地,成佛為最上。」此說生起次第最堅固後修前二悉地者,謂能如實成就彼等。若非如實,則初修業咒師修之,亦能成就眾多相似悉地。又有觀想、念誦、葯物、護摩多種修法,故當順自能力與所為而修也。 若於一曼陀羅已經專精念誦修習,若息病魔,若增壽慧,若欲攝受不信正法者等,若於非極粗猛難降伏者作治罰等,但於彼天瑜伽略為變改,皆可修作。不須別求延壽增慧等諸教授。 修上成就地建立者,《金剛藏莊[A7]嚴經》說十二地,謂普光明,甘露光明,虛空光明,金剛光明,寶光明,持蓮花業光明,無譬喻離比喻慧光明,一切智,各別自證地。《現說尊長經》云:「極喜等十上,無喻與具智,金剛地十三。」說十三地,立十三地,《教授穗》有二說:「於十一地,加勝解行地共十二,加初修業地共十三,或加勝進道性無比喻地及加佛地無間道體具智地共十三。」後說但於十地中分,即十地與勝進道無間道為三,解釋《現說尊長》意趣。寂靜論師說於共許十一地上加異生地,是《歡喜金剛經》十二地之義。《金剛藏莊嚴經》所說十二地同。「釋續金剛鬘經」如前所引說十四地,亦但共許之極喜等十地與異生地,開合不同,非說較波羅密多乘所說十一普光明地,更有超勝之地。 ᅟᅟ==[A7] 嚴【CB】,巖【補編】== 經彼諸地成佛之理,波羅密多乘有於色界天身成佛、欲界人身成佛二說。諸聲聞部不許前說,於後說中許最後有未成佛時仍是異生,如《俱舍》云:「父母病法師,最後身菩薩,設非證聖者,施果亦無量。」《大遊戲經》〈苦行品〉亦云:「假使大地碎百分,寶山須彌成大海,日月星辰皆墜地,雖是異生我無死。」大乘經中亦有宣說菩薩最後身時,仍是異生與十地菩薩者,依此等經故於印度亦有多說。然解密意堪為量者,多說彼是示現,非如實義,《寶性論》云:「大悲知世間,普觀一切世,不動於法身,以種種化事,示現而受生,及從覩史沒。」說生覩史天等,亦是已成佛之事業。《分別熾然論引經》云:「諸佛等正覺,於色究竟宮,斷障成佛已,化現此成佛。」是故菩薩成佛之身,於波羅蜜多乘,唯應許色究竟天身,如《入中論釋》云:「由得第十發心,自知能得佛法,復於佛地精進修行,發勤精進欲得之無上智,諸佛世尊唯於色究竟天中得。」《本地分》說過淨居天,別有大自在天。是說超聖聲聞能生之色究竟,別有第二色究竟天。 佛薄伽梵唯一剎那證得一切種智,《入中論》云:「如器有異空無別,諸法雖別性無差,是故正知同一味,妙智剎那証所知。」此謂永拔一切二取習氣,智與一切法真實性,一味無別,安住法身永無動轉。爾時由住報身而證,如《入中論釋》云:「諸佛如來,安住色身現證法界,此身具足百福莊嚴,成就種種不思議法。彼即菩薩受用法因轉依而成。」此與《分別熾然論》說龍猛菩薩意許相同。《分別熾然論》說:「金剛軍說彼身為異熟身,無著說彼為受用身,為力等法所依止故,亦是法身,於瞻部洲示現化身成大菩提。」論師多說此義。 無上瑜伽即生成佛之身說是人身,如《無垢光釋》云:「言於此身給佛果者,謂能於此人生而給佛果,非於天等五趣之生。是為教王。」《金剛藏釋》亦云:「言於此生給佛果者,謂由數數生人乃成,非是天及阿修羅等。」「建立次第」亦說是南瞻部洲之人身。然如上說,中等補特伽羅成佛之身容有例外,以彼先於人身有修道之力故,故以咒道即生或於中有成佛,要如是身。然成咒中所說之佛則非定爾,咒中亦說色究竟身成正覺故。成佛之理,謂修道後,身成色身,心恒安住法身成就雙運,如前廣說。《不共密教》及《無垢光》亦說,我等大師久已成佛,今於此間示現成佛。餘咒說者亦多。故說大師化現成佛非新成者,顯密相共,因陀羅薄底王雖於此大師教法中得大菩提,然無一教法中有二大師之過,以彼實際雖已成佛,然於有情不共顯示成佛事故。猶如此土大師眷屬有彌勒等。《攝行論》云:「此中行者謂世俗諦,行謂勝義,所行謂無二智,徧知彼因果無二者,此即名修。」《一切秘密經》云:「果以因印證,因亦由果證,餘經俱胝刼,終不得悉地。」此說若無世俗幻身,勝義光明無二雙運圓滿次第,縱經百俱胝刼,亦不能得悉地。《集密後續》如上所引,若無六支圓滿次第,不得上品成就。諸餘無邊經論,亦說若無圓滿次第要旨,唯以生起次第不得上品悉地。故若唯修下三部道,不能現身成佛,以彼等中不共咒道較之生起次第無過上故。若爾彼諸續中云何多說即生成佛?彼諸續中雖作是說,然彼所說非定具足一生成佛之道。若不爾者,則諸堪為定量經論,凡說依此能成佛者,則於彼中當說一切成佛之道。如是應知或明一分生起圓滿次第,亦說由此現生即能成佛,然唯修彼非能一生成佛。故若所化不欲久經無數大刼而成佛者,當入無上瑜伽之門。 總之,咒中共有三種成就建立,說新成佛之身,有色界天欲界人身之二,及久已成佛,今於欲界人身示現成佛之一。至成佛時,如語自在稱說,雖有唯身、唯智、二俱寂等多種主張。然共許為有相好莊嚴之色身,復非粗色而是智身,與此智身體性無別,有如所有盡所有智,於彼身智獲得自在即是成佛。此為智者,略示果位觀察之門,可觀察處雖有多種,恐煩且止。 如是先修共道淨相續已,承事師長。迨知能修清淨甚深灌頂,乃受灌頂律儀及三昧耶。次於所受三種律儀如法謹護次以四座瑜伽修初次第,成熟能生圓滿次第勝智善根。殊勝圓滿次第漸次生已,再修雙運智身。如是了知一切經續要旨,皆是一人成佛順緣,自能住持能仁圓滿聖教,亦能令他增長。 嗢[A8]柁南曰: ᅟᅟ==[A8] 柁【CB】,陀【補編】== 久遠親近善知識  少學經教勿自滿  精細分別經教義  於所聞義勤修習 能熟灌頂解脫道  於所修果皆不愚  以金剛乘道進修  善巧彼者名咒師 回向頌: 普顯密義日今出  高深廣大觀慧空  善說千光照十方  開敷無邊聖教蓮 善根明慧六足眾  喜笑音聲遍十方  採取花蜜設歡會  學金剛乘獲悉地 四部續寶之所成  具足灌頂四層級  二次威光觀無厭  四身果德頂莊嚴 含種種界聖教水  由慧進風所皷動  於此雪山金剛際  凝成佛教海中飾 此由多聞破愚闇  如理修證調自身  增上淨意為聖教  眾多正法親友等 及大福力生貴族  殊勝善行護眾生  荷宏法擔無疲厭  住持密咒所勸請 常時祈禱增上尊  隨從恩師善巧言  於持明咒聖教海  審諦觀察而造此 然由慧修念力微  我今所有諸過失  對佛菩薩至誠悔  願罪因果咸清淨 勤造大密道次第  所集廣大二資糧  廻向能滿眾生願  速得雙運金剛持 一切生中悉地本  承事大乘善知識  如法傳四淨灌頂  願成甚深道法器 爾時師長勇識眾  請為見證而善受  應守食依三昧耶  所有制限皆不違 二次及行續部義  願以無盡清淨理  盡斷無知邪解疑  精勤修行為心要 如是學習廣大行  願有力者恒相助  令諸災難名亦無  順緣如意皆圓滿 深信唯有佛聖教  乃是眾生善樂本  縱失身命不棄捨  以大志力持正法 今此善顯秘密義  願於大乘無邊行  能助教典成教授  令聖教藏常光顯 猶如霞雲繞金山  上繫帝青為頂髻  紫金色身殊玅頂  靛青五髻最端嚴 玅音於我一切生  歡喜攝受施大恩  於最難測正法海  智慧無碍皆能入 此依善閑教理隨聞正行荷負聖教戒律精嚴,勝依譯師多次勸請,又有眾多先求了知金剛乘道修心要者,懇請廣造四部密法修道要旨,又有迦舉行派帕摩主巴紹尊位者𠻨哦大師後裔,咒師福稱於法法師獲不壞信志宏密乘,數數勸請廣釋密乘。以此今造《大金剛持道次第開顯一切密要論》。 釋迦苾芻持金剛者東宗喀人善慧名稱吉祥,曾由解行圓融義成寶恩師處於金剛乘最初成熟,次依具擇法眼童慧大師等諸知識甘露言教,及於密乘無邊教義審諦觀察。於雪山聚阿得貢賈山中慈氏洲造。雅德福祥賢書。 以此功德惟願聖教遍宏十方。 密宗道次第廣論卷二十二終 民國二十八年正月二十七日  譯在縉雲山編譯處並承印順法師詳為潤色 #---------------------------------------------------------------------- #【經文資訊】大藏經補編 第 10 冊 No. 68 密宗道次第廣論 #【版本記錄】發行日期:2023-12,最後更新:2023-06-14 #【編輯說明】本資料庫由 財團法人佛教電子佛典基金會(CBETA)依「大藏經補編」所編輯 #【原始資料】CBETA 人工輸入(版本一),CBETA 人工輸入(版本二),無名氏大德提供 #【其他事項】本資料庫可自由免費流通,詳細內容請參閱【財團法人佛教電子佛典基金會資料庫版權宣告】 #----------------------------------------------------------------------